「笑ったら腹が減ったな」
呉服屋を出て、玄侑が言う。結局彼は香月の制止も聞かず、大量の注文をして店を出てきた。香月が神世に居るのは、玄侑に力を貸している間だけなので、晴れて玄侑が五家を解体したら、あの大量の着物類は夜斗が使うことになるのだろうな、と考えると、彼女にも悪い選択ではないかと諦め、店を出てきた。
そういうわけで、上機嫌に見える玄侑と街を散策していたら、腹が減ったと玄侑がいうので、彼の誘いで甘味屋に入った。玄侑は磯辺餅を、香月は勧められてあんみつを頼んだ。甘いものなど、初めてだ。
店が満員だったので、縁台に運んできてもらう。焦げ茶色の椀に、寒天と求肥、赤エンドウ豆、それになんと言っても中央にこんもり盛られた餡がつやつやと美しい。加えて掛けられた蜜の甘い香り。初めて鼻孔に香った匂いなのに、いともたやすく香月の食欲を刺激する。
「食べてみるといい」
またも勧められてさじを取る。餡と寒天を掬い取り、口に運ぶと、つるりとした食感ととても濃い甘さがじわりと舌に乗った。
「……!」
なんて、舌に、鼻孔に、喉の奥に染みていく味なんだろう。香月は初めての体験に目を見開き、そしてぱちぱちと瞬かせた。
「ふ……。旨い、という顔をしている」
玄侑が磯辺餅を食みながら言った。香月はこの味をなんと形容したら良いか分からず、こくこくと頷く。じんわりと口内に広がった甘みを堪能した後、ひと言発する。
「お米を噛みしめるよりも、濃厚な甘みです……!」
器のあんみつと玄侑を交互に見る香月に、そうか、と玄侑は続ける。
「そういえば、君は屋敷でも間食はしなかったな。俺のを作ってばかりだったか」
それは当たり前である。夜斗にしても同じことを言うだろう。
「玄侑さまはお力を使われるのですから、当然です。私は特に必要もありませんでしたので……」
「しかし、皆を振り回してばかりだ。向こうでもこのような時間が持てると良いのだが」
街ゆく人々を眺めて未来を夢見る玄侑に、しかし香月は頷けない。その光景に自分がいることを、想像できなかったからである。
際の守りは、これで固められた。玄侑が香月の力を欲した理由はそれであり、香月はこれで、用済みになる。あとは玄侑が五家を解体するだけなのだ。
しかし心は満たされていた。こんなに必要とされ、その為に努力し、応えられたと思ったことはなかったからだ。
玄侑の元で積み上げたものは、確かに香月の心を強くした。誰かに欲されると言うことは、こういうことなのだと、おぼろげながらに理解する。
「…………」
「……、…………」
しばし、沈黙が二人の間に落ちる。その周りで、昼間の人々は、夜に妖魔におびえる街だとは思えないほど楽しそうだ。帝都の中心部は五家の中でも特に隆盛な桐谷の手がける区画だが、往来の人たちが、語らい、笑い合い、時に仲睦まじく歩いて行くのを、まぶしい光景として目に焼き付ける。この平穏は、玄侑の配する際の鈴鐘のおかげなのだと改めて思うと、彼の手伝いを出来ている今の自分の行いに、少し胸を張ることが出来た。
「……よい表情をしている」
ふと、隣の玄侑がぽつりと言った。彼の方を見ると、玄侑は穏やかに香月を見つめてきていた。常なる彼の視線とは違うやさしさを感じて、香月の心臓がどきりと鳴った。
「げ、……玄侑さまのお手伝いが、出来たからです。街の人たちの笑い声が、際の鈴鐘によって守られているのを知りましたので……」
「しかし、君がいなければ、新しいものに変えられなかった。君の存在が大きいと思う。ありがとう」
そう言って玄侑は、膝の上にのせていた香月の手を握った。
あり、がとう。
そんな言葉を、香月は一度だって掛けられたことがなかった。蓮平で常にお荷物だった人生が、玄侑のたったひと言でがらりと変わる。
(どうしよう……。泣いてしまいそうなくらい、うれしいわ……)
どうして玄侑は香月に幸せをくれるのだろう。力を貸すことなど、最初の契約に則ったものであるのに、彼は香月の欲しいものを、次から次へと与えてくれる。
暴力を振るわれない環境。力になってほしいという期待。心配してくれる配慮。手を添えてくれるやさしさ。皮膚から伝えてくれるぬくもり。
また泣くと玄侑が驚くと思ってぎゅっと目をつぶって堪えると、彼の手に力がこもった。そして戸惑いを含む声が、香月に問う。
「違ったらすまないが、……今も君は、……うれしいのか……?」
ああ。気持ちを違えることなく分かってもらえる、その喜び。
なんて幸せなんだろうと、その幸運を噛みしめる。
小さくうなずけば、握っていた手に力がこもり、その力に鼓動が走り出す。
どく、どく、どく。
走る動悸は体中に熱を巡らせ、耳といい頬といい、熱く赤くなったのが分かった。その熱を恥ずかしく思い、身じろぎをすると、縁台に置いていた巾着袋がぽとりと地面に落ちた。それを駆け寄ってきた子犬がくわえて持って行ってしまう。
「あ」
食べ物を扱う店だし、縁台には他の客も供された品を並べて食べていることから、子犬はもしかして食べ物だと思って持って行ってしまったのだろう。香月が身につけているものは全て神世に与えられていたものなので、いずれ人世に帰るときには、玄侑に返さなくてはならない。だから、たかが巾着、などとは思えず、香月は立ち上がった。
「玄侑さま、申し訳ありません。巾着を取り戻しに、あの犬を追いかけます」
「いや、気にするな。また新しいものを求めればいい」
そうは言ってくれるが、やはり申し訳ないため、行きます、ともう一度告げ、香月は子犬が走って行った方角へ走った。残された玄侑の元には食べかけのあんみつが残される。走って行った香月の方を見やり、やれやれ、と苦笑いを浮かべてため息を吐(つ)いた。隣の縁台を片付けに、店のものが来る。
「済まないが、これを片付けてくれないか。連れが犬を追いかけて言ってしまったのでな」
そう彼女に声を掛けて、玄侑もまた立ち上がる。こんな風に穏やかな気持ちになることが人世の安定につながるなら、やはり自分には香月が必要だ。玄侑は彼女を追いかけて香月が消えた路地に入り、さらに左右に伸びる路地裏に気を配りながら道を奥へと行く。追いかけながらも、どこか子供の遊戯であるかくれんぼのようなわくわく感があり、早く香月を見つけて、そしてまた手を握りたい、と思ってしまう。
「香月。巾着はもう良いだろう? 戻ってこい」
呼びかけながら進んでいくと、道の奥に子犬がくわえて持ち去った巾着と、彼女が髪につけていたかんざしが落ちていた。地面には草履が引きずられたような跡。さっと緊張感が走る。
「香月! 何処だ!」
叫べども、返事はなく。玄侑は二度、三度、香月を探して叫んだ。
呉服屋を出て、玄侑が言う。結局彼は香月の制止も聞かず、大量の注文をして店を出てきた。香月が神世に居るのは、玄侑に力を貸している間だけなので、晴れて玄侑が五家を解体したら、あの大量の着物類は夜斗が使うことになるのだろうな、と考えると、彼女にも悪い選択ではないかと諦め、店を出てきた。
そういうわけで、上機嫌に見える玄侑と街を散策していたら、腹が減ったと玄侑がいうので、彼の誘いで甘味屋に入った。玄侑は磯辺餅を、香月は勧められてあんみつを頼んだ。甘いものなど、初めてだ。
店が満員だったので、縁台に運んできてもらう。焦げ茶色の椀に、寒天と求肥、赤エンドウ豆、それになんと言っても中央にこんもり盛られた餡がつやつやと美しい。加えて掛けられた蜜の甘い香り。初めて鼻孔に香った匂いなのに、いともたやすく香月の食欲を刺激する。
「食べてみるといい」
またも勧められてさじを取る。餡と寒天を掬い取り、口に運ぶと、つるりとした食感ととても濃い甘さがじわりと舌に乗った。
「……!」
なんて、舌に、鼻孔に、喉の奥に染みていく味なんだろう。香月は初めての体験に目を見開き、そしてぱちぱちと瞬かせた。
「ふ……。旨い、という顔をしている」
玄侑が磯辺餅を食みながら言った。香月はこの味をなんと形容したら良いか分からず、こくこくと頷く。じんわりと口内に広がった甘みを堪能した後、ひと言発する。
「お米を噛みしめるよりも、濃厚な甘みです……!」
器のあんみつと玄侑を交互に見る香月に、そうか、と玄侑は続ける。
「そういえば、君は屋敷でも間食はしなかったな。俺のを作ってばかりだったか」
それは当たり前である。夜斗にしても同じことを言うだろう。
「玄侑さまはお力を使われるのですから、当然です。私は特に必要もありませんでしたので……」
「しかし、皆を振り回してばかりだ。向こうでもこのような時間が持てると良いのだが」
街ゆく人々を眺めて未来を夢見る玄侑に、しかし香月は頷けない。その光景に自分がいることを、想像できなかったからである。
際の守りは、これで固められた。玄侑が香月の力を欲した理由はそれであり、香月はこれで、用済みになる。あとは玄侑が五家を解体するだけなのだ。
しかし心は満たされていた。こんなに必要とされ、その為に努力し、応えられたと思ったことはなかったからだ。
玄侑の元で積み上げたものは、確かに香月の心を強くした。誰かに欲されると言うことは、こういうことなのだと、おぼろげながらに理解する。
「…………」
「……、…………」
しばし、沈黙が二人の間に落ちる。その周りで、昼間の人々は、夜に妖魔におびえる街だとは思えないほど楽しそうだ。帝都の中心部は五家の中でも特に隆盛な桐谷の手がける区画だが、往来の人たちが、語らい、笑い合い、時に仲睦まじく歩いて行くのを、まぶしい光景として目に焼き付ける。この平穏は、玄侑の配する際の鈴鐘のおかげなのだと改めて思うと、彼の手伝いを出来ている今の自分の行いに、少し胸を張ることが出来た。
「……よい表情をしている」
ふと、隣の玄侑がぽつりと言った。彼の方を見ると、玄侑は穏やかに香月を見つめてきていた。常なる彼の視線とは違うやさしさを感じて、香月の心臓がどきりと鳴った。
「げ、……玄侑さまのお手伝いが、出来たからです。街の人たちの笑い声が、際の鈴鐘によって守られているのを知りましたので……」
「しかし、君がいなければ、新しいものに変えられなかった。君の存在が大きいと思う。ありがとう」
そう言って玄侑は、膝の上にのせていた香月の手を握った。
あり、がとう。
そんな言葉を、香月は一度だって掛けられたことがなかった。蓮平で常にお荷物だった人生が、玄侑のたったひと言でがらりと変わる。
(どうしよう……。泣いてしまいそうなくらい、うれしいわ……)
どうして玄侑は香月に幸せをくれるのだろう。力を貸すことなど、最初の契約に則ったものであるのに、彼は香月の欲しいものを、次から次へと与えてくれる。
暴力を振るわれない環境。力になってほしいという期待。心配してくれる配慮。手を添えてくれるやさしさ。皮膚から伝えてくれるぬくもり。
また泣くと玄侑が驚くと思ってぎゅっと目をつぶって堪えると、彼の手に力がこもった。そして戸惑いを含む声が、香月に問う。
「違ったらすまないが、……今も君は、……うれしいのか……?」
ああ。気持ちを違えることなく分かってもらえる、その喜び。
なんて幸せなんだろうと、その幸運を噛みしめる。
小さくうなずけば、握っていた手に力がこもり、その力に鼓動が走り出す。
どく、どく、どく。
走る動悸は体中に熱を巡らせ、耳といい頬といい、熱く赤くなったのが分かった。その熱を恥ずかしく思い、身じろぎをすると、縁台に置いていた巾着袋がぽとりと地面に落ちた。それを駆け寄ってきた子犬がくわえて持って行ってしまう。
「あ」
食べ物を扱う店だし、縁台には他の客も供された品を並べて食べていることから、子犬はもしかして食べ物だと思って持って行ってしまったのだろう。香月が身につけているものは全て神世に与えられていたものなので、いずれ人世に帰るときには、玄侑に返さなくてはならない。だから、たかが巾着、などとは思えず、香月は立ち上がった。
「玄侑さま、申し訳ありません。巾着を取り戻しに、あの犬を追いかけます」
「いや、気にするな。また新しいものを求めればいい」
そうは言ってくれるが、やはり申し訳ないため、行きます、ともう一度告げ、香月は子犬が走って行った方角へ走った。残された玄侑の元には食べかけのあんみつが残される。走って行った香月の方を見やり、やれやれ、と苦笑いを浮かべてため息を吐(つ)いた。隣の縁台を片付けに、店のものが来る。
「済まないが、これを片付けてくれないか。連れが犬を追いかけて言ってしまったのでな」
そう彼女に声を掛けて、玄侑もまた立ち上がる。こんな風に穏やかな気持ちになることが人世の安定につながるなら、やはり自分には香月が必要だ。玄侑は彼女を追いかけて香月が消えた路地に入り、さらに左右に伸びる路地裏に気を配りながら道を奥へと行く。追いかけながらも、どこか子供の遊戯であるかくれんぼのようなわくわく感があり、早く香月を見つけて、そしてまた手を握りたい、と思ってしまう。
「香月。巾着はもう良いだろう? 戻ってこい」
呼びかけながら進んでいくと、道の奥に子犬がくわえて持ち去った巾着と、彼女が髪につけていたかんざしが落ちていた。地面には草履が引きずられたような跡。さっと緊張感が走る。
「香月! 何処だ!」
叫べども、返事はなく。玄侑は二度、三度、香月を探して叫んだ。



