「どうだ、香月」
老舗ののれんが掛かる呉服屋に足を踏み入れ、店のものに反物をずらりと並べさせると、香月にそう聞いた。香月は何と言ったらいいか分からない、という顔をした。
「どう、と言われましても、蓮平では選ぶ立場にはありませんでしたし、玄侑さまのお屋敷ではこのような良いものを着させて頂いております……。私には不釣り合いですし、必要もございません。新しくお求めにならずとも……」
「だが、夜斗と違って、君はその色に縛られる必要はないんだ。それに、君が華やいでくれると、俺の視界が賑やかになって良い。加えて言うなら、白と赤は良い色だ」
白は白陽、赤は丹早の色だ。二人とも神聖な神力を扱う役割であるし、白は清らかさを、赤は魔除けをそれぞれ意味する。香月にあつらえるのに、最もふさわしい色だと思い、並べられた反物の中から、白地の裾が赤く染めぼかしてある立派な牡丹柄を選び、指さした。
「この柄は、嫌いか」
「美しいとは思いますが、私にはとても……」
躊躇する香月に、若い店主が後押しをする。
「お嬢さん、こんなに恋人思いの旦那はそんじょそこらには居ないですよ。恋人にこうまで言わせたら、女は買ってもらうのが、男を立てる、っていうもんですよ」
店主の勢いに押された香月が、では……、と頬を染めて頷いてくれたので、欲が出てしまった。
「では、店主。これに合わせて帯と羽織もあつらえてくれ。ああ、いや。いっそこの棚、全部をあつらえてくれないか」
「っ!? 玄侑さま!? お話が違います!」
「良いではないか。別に屋敷に収めるところがないわけではないし、夜斗の目の保養にもなろう」
「で、ですが……」
尚も躊躇う香月に、させてくれ、と玄侑は懇願した。
「帝都に来るのは初めてではないが、君といると違う街のようで、体の中を血が駆け巡っている。放出の仕方が分からないから、付き合ってくれ」
戸惑い気味に玄侑を見つめてくる香月に、体調が悪いわけではないぞ、と念を押した。
「その逆だな。とても、気分が良い」
言って、そうか、自分は気分が良いのだ、と気づいた。それを認めた時、体の中がほわっとあたたかくなった。
気分が良い。それは今まで感じることの出来なかった感覚だった。
あの時以来、自分は常に罪の意識にさいなまれてきた。自分がもっとしっかりしていれば、人世はもっと穏やかだったはずだ。それに、残る自分の半身のことを思うと、玄侑の心は常に暗く閉ざされた。
そんな自分を、香月は信じてくれた。信じて、力になってくれた。励ましてくれた。彼女の言動が、玄侑に一歩踏み出す出す力をくれた。それは鷹宵の言うように、確かに眷属の彼らでは出来なかったことなのだ。
ふ、と息が零れる。香月が、目をぱちりとさせた。そして両の手で、口許を覆った。
「……玄侑さま、……私、玄侑さまが微笑まれたのを、初めて拝見しました……」
笑った? 自分が?
そう考えるよりも、目の前で香月の瞳に水が盛り上がって来たのを見て、驚いた。盛り上がったそれは、ぽろりと落ちて、しずくとなる。
「な……、……な、……くほどの、ことか……?」
以前よりも強く、香月の涙に驚いて問うと、香月はこくこくと頷いた。これには心の臓に、刃が刺さったような痛みを覚えた。
「そんなに……、……嫌だったのか……?」
確かに笑みなど似合わぬ顔だろうが、香月から嫌だと言われたと思ったら、なおのこと辛く思えた。しかし香月は、それにはふるふると首を横に振った。
「違います……。笑ってくださって、嬉しいのです……」
「うれ……しい……?」
「はい……。最初にお会いした時に、笑って下さったら、きっと月の光のように、やさしく微笑まれるのだろうと思っていたのです……」
そう言って、香月も涙をこぼしながら、にこりと微笑む。香月の笑みは、それこそ神世の月の明かりのように、眩しかった。目を細めると、おかしいですよね、私、と、香月は微笑みながら言った。
「でも、本当に、嬉しいのです。お着物を買っていただくよりも何よりも、私には玄侑さまが笑った下さったことが、一番の帝都での土産です」
もう一度、ほわりと身の内があたたかくなる。体の中で、じわりと神力が増したような気がした。遠い昔のことを、思い出す。
『いつか、愛する人に出会えるよう、祈っています』
それは高い鈴の音に掻き消える、先代の言葉だった。
愛する。
それは耳に蘇れども、掴むことの難しい言葉だった。でも、今なら分かるような気がする。
きっと、香月に向ける心の揺れのようなものが、それであるに違いないのだ。それは鷹宵たちに向けるものと、大差ないようで、一方、大きく違うような気がした。
鼓動……、そう、心の臓が、走るのだ。香月が微笑み、涙すると、心臓が走って、体の内があたたかくなり、そうして力が増す気がした。
じわり、じわりと、満ちていく。
身の内の熱が、神力が、少しずつ増していく。
責務だけ負ってきた時間に、光が差す。永遠にたゆたっていたい、幸福なまどろみの時間。玄侑さま、と香月が呼びかける。応じるよりも先に、体が動く。
「……っ!」
「……、…………」
抱きしめると、腕の中に捉えた香月は息を詰まらせたが、しかし腕を突き放したりしなかった。じっと腕の中に収まり、心細げに自分を呼ぶ。
離したくない。
ここが何処であろうと、構わなかった。しかし、心配そうな香月の不安は取り除かなければならない。衝動で行動したことを反省しつつ、彼女にも謝罪した。
「……すまない。少し、高ぶってしまった」
「お具合が悪いわけではないのですね……?」
自分のことより相手のことを気遣う方が先なのが、香月らしい。やはり息を漏らすように笑うと、やっと香月はほっとしたようだった。
「お食事に込める力が足りなかったでしょうか。夕食はとびきり頑張ります」
「そうだな。うまい食事を期待している」
得がたい感情を手に入れて、玄侑の心は満ち足りていた。二人を生暖かく見守っていた店の主を振り返る。
「店主。俺は大変気分がいい。店の品は全て買おう。のちのち取りに来させるから、準備しておいてほしい」
「は……、はいっ! 毎度あり!」
「げ、玄侑さま! 限度が過ぎます!」
満面笑みの店の主と香月の慌てる顔が面白くて、玄侑はまた笑った。
楽しい、面白い、気分がいい。これがいつまでも続けばいいと思う、その希望に我ながら驚きはするが、不思議とおかしいことではないと、頭の何処かが言っていた。
香月と何時までも楽しく笑っていたい。五家を解体したら、自由の身になる香月にそう言ってみよう。
未来を見た。願望を得た。それはなんとこの先を明るく照らしてくれることだろうか。玄侑は笑みを止められなかった。
しかし光は影を生む。むくり、と、何かが首をもたげた。
老舗ののれんが掛かる呉服屋に足を踏み入れ、店のものに反物をずらりと並べさせると、香月にそう聞いた。香月は何と言ったらいいか分からない、という顔をした。
「どう、と言われましても、蓮平では選ぶ立場にはありませんでしたし、玄侑さまのお屋敷ではこのような良いものを着させて頂いております……。私には不釣り合いですし、必要もございません。新しくお求めにならずとも……」
「だが、夜斗と違って、君はその色に縛られる必要はないんだ。それに、君が華やいでくれると、俺の視界が賑やかになって良い。加えて言うなら、白と赤は良い色だ」
白は白陽、赤は丹早の色だ。二人とも神聖な神力を扱う役割であるし、白は清らかさを、赤は魔除けをそれぞれ意味する。香月にあつらえるのに、最もふさわしい色だと思い、並べられた反物の中から、白地の裾が赤く染めぼかしてある立派な牡丹柄を選び、指さした。
「この柄は、嫌いか」
「美しいとは思いますが、私にはとても……」
躊躇する香月に、若い店主が後押しをする。
「お嬢さん、こんなに恋人思いの旦那はそんじょそこらには居ないですよ。恋人にこうまで言わせたら、女は買ってもらうのが、男を立てる、っていうもんですよ」
店主の勢いに押された香月が、では……、と頬を染めて頷いてくれたので、欲が出てしまった。
「では、店主。これに合わせて帯と羽織もあつらえてくれ。ああ、いや。いっそこの棚、全部をあつらえてくれないか」
「っ!? 玄侑さま!? お話が違います!」
「良いではないか。別に屋敷に収めるところがないわけではないし、夜斗の目の保養にもなろう」
「で、ですが……」
尚も躊躇う香月に、させてくれ、と玄侑は懇願した。
「帝都に来るのは初めてではないが、君といると違う街のようで、体の中を血が駆け巡っている。放出の仕方が分からないから、付き合ってくれ」
戸惑い気味に玄侑を見つめてくる香月に、体調が悪いわけではないぞ、と念を押した。
「その逆だな。とても、気分が良い」
言って、そうか、自分は気分が良いのだ、と気づいた。それを認めた時、体の中がほわっとあたたかくなった。
気分が良い。それは今まで感じることの出来なかった感覚だった。
あの時以来、自分は常に罪の意識にさいなまれてきた。自分がもっとしっかりしていれば、人世はもっと穏やかだったはずだ。それに、残る自分の半身のことを思うと、玄侑の心は常に暗く閉ざされた。
そんな自分を、香月は信じてくれた。信じて、力になってくれた。励ましてくれた。彼女の言動が、玄侑に一歩踏み出す出す力をくれた。それは鷹宵の言うように、確かに眷属の彼らでは出来なかったことなのだ。
ふ、と息が零れる。香月が、目をぱちりとさせた。そして両の手で、口許を覆った。
「……玄侑さま、……私、玄侑さまが微笑まれたのを、初めて拝見しました……」
笑った? 自分が?
そう考えるよりも、目の前で香月の瞳に水が盛り上がって来たのを見て、驚いた。盛り上がったそれは、ぽろりと落ちて、しずくとなる。
「な……、……な、……くほどの、ことか……?」
以前よりも強く、香月の涙に驚いて問うと、香月はこくこくと頷いた。これには心の臓に、刃が刺さったような痛みを覚えた。
「そんなに……、……嫌だったのか……?」
確かに笑みなど似合わぬ顔だろうが、香月から嫌だと言われたと思ったら、なおのこと辛く思えた。しかし香月は、それにはふるふると首を横に振った。
「違います……。笑ってくださって、嬉しいのです……」
「うれ……しい……?」
「はい……。最初にお会いした時に、笑って下さったら、きっと月の光のように、やさしく微笑まれるのだろうと思っていたのです……」
そう言って、香月も涙をこぼしながら、にこりと微笑む。香月の笑みは、それこそ神世の月の明かりのように、眩しかった。目を細めると、おかしいですよね、私、と、香月は微笑みながら言った。
「でも、本当に、嬉しいのです。お着物を買っていただくよりも何よりも、私には玄侑さまが笑った下さったことが、一番の帝都での土産です」
もう一度、ほわりと身の内があたたかくなる。体の中で、じわりと神力が増したような気がした。遠い昔のことを、思い出す。
『いつか、愛する人に出会えるよう、祈っています』
それは高い鈴の音に掻き消える、先代の言葉だった。
愛する。
それは耳に蘇れども、掴むことの難しい言葉だった。でも、今なら分かるような気がする。
きっと、香月に向ける心の揺れのようなものが、それであるに違いないのだ。それは鷹宵たちに向けるものと、大差ないようで、一方、大きく違うような気がした。
鼓動……、そう、心の臓が、走るのだ。香月が微笑み、涙すると、心臓が走って、体の内があたたかくなり、そうして力が増す気がした。
じわり、じわりと、満ちていく。
身の内の熱が、神力が、少しずつ増していく。
責務だけ負ってきた時間に、光が差す。永遠にたゆたっていたい、幸福なまどろみの時間。玄侑さま、と香月が呼びかける。応じるよりも先に、体が動く。
「……っ!」
「……、…………」
抱きしめると、腕の中に捉えた香月は息を詰まらせたが、しかし腕を突き放したりしなかった。じっと腕の中に収まり、心細げに自分を呼ぶ。
離したくない。
ここが何処であろうと、構わなかった。しかし、心配そうな香月の不安は取り除かなければならない。衝動で行動したことを反省しつつ、彼女にも謝罪した。
「……すまない。少し、高ぶってしまった」
「お具合が悪いわけではないのですね……?」
自分のことより相手のことを気遣う方が先なのが、香月らしい。やはり息を漏らすように笑うと、やっと香月はほっとしたようだった。
「お食事に込める力が足りなかったでしょうか。夕食はとびきり頑張ります」
「そうだな。うまい食事を期待している」
得がたい感情を手に入れて、玄侑の心は満ち足りていた。二人を生暖かく見守っていた店の主を振り返る。
「店主。俺は大変気分がいい。店の品は全て買おう。のちのち取りに来させるから、準備しておいてほしい」
「は……、はいっ! 毎度あり!」
「げ、玄侑さま! 限度が過ぎます!」
満面笑みの店の主と香月の慌てる顔が面白くて、玄侑はまた笑った。
楽しい、面白い、気分がいい。これがいつまでも続けばいいと思う、その希望に我ながら驚きはするが、不思議とおかしいことではないと、頭の何処かが言っていた。
香月と何時までも楽しく笑っていたい。五家を解体したら、自由の身になる香月にそう言ってみよう。
未来を見た。願望を得た。それはなんとこの先を明るく照らしてくれることだろうか。玄侑は笑みを止められなかった。
しかし光は影を生む。むくり、と、何かが首をもたげた。



