「っ!」
「香月さま!」
落下と地面への激突を予感してぎゅっと身を縮めたが、その衝撃は来なかった。玄侑の腕が、香月の体を抱いていた。
「ご挨拶だな、紅炎(こうえん)。蒼天(そうてん)は紅炎の調教を止(や)めたのか」
玄侑の声は、少し硬いようだった。それに対し、罵声が飛ぶ。
「お前のようなまがまがしいものが神の山に近づくことを、蒼天も丹早さまもお許しになるわけなかろう! 私がお二人の代弁をしたまでだ!」
声の主は、幼かった。緋色の着物を着た、夜斗と同じくらいの年頃の少女だ。しかし背中に抱えるほどの大太刀を持ち、肩をいからせ、猫が毛を逆立てるように大きな目を吊り上げている。おそらくこの少女が紅炎と呼ばれた娘だ。
そしてもう一人、蒼天と呼ばれた少女は紅炎の行動に我関せず、といった様子でこちらを見ている。こちらは天青(てんせい)色の着物を着ており、十四~五くらいに見え、感情をむき出しにする紅炎と比べて、蒼天は落ち着いた性格のように思えた。
「丹早に会いに来た。取り次いでくれないか」
「断る!」
「何用ですか、玄侑殿」
やはり怒った猫のような紅炎は噛みつくように叫ぶが、蒼天が静かな声で玄侑に問うた。
「人世を元に戻すため。そう伝えてくれないか」
玄侑の声音には、傲慢さも卑屈さもない。しかしいつもの玄侑の声とも違い、香月のことを伝えるために、確固たる意思の色が載っていた。
こんなに相手に訴えようとする玄侑の声音を、香月は聞いたことがない。あまり感情を揺らさない玄侑が、自分の存在を必要として相手に訴えてくれるその音色は、香月の胸に深く刺さった。
(私は、これほどまでに玄侑さまに必要とされているのだわ……)
人世を妖魔から救い、五家を解体する。
玄侑の目的に、香月も大いなる同意を覚えている。人世に妖魔が居なければ、五家は穏やかな日々を送れるだろう。父母も桔梗も、自由を謳歌できる。それは家族や人々にとって良いことだ。香月は玄侑に降ろしてもらうよう頼むと、正面から紅炎と蒼天を見た。
「私は、玄侑さまのお力になるために、ここに居ります。人世に溢れる妖魔から人々を救うために、私は神世に参りました。どうか、お取次ぎ願えませんか」
「断る!」
「あなたに何が出来るというのです。所詮人の身で」
紅炎はとりつく島がないが、蒼天は話が通じそうだ。香月は玄侑を見、右手を玄侑の左手の下にかざす。玄侑が意図を察すると、印が熱くなり、玄侑の右手から輝く炎が沸き上がった。
「……っ!」
蒼天が目を瞠る。玄侑がぐっと香月の手を握った。そのあたたかさに感嘆を覚えながらも、香月は蒼天の目をまっすぐ見て言った。
「玄侑さまのお役目を、お助けできます。そのことが、人世の混乱を治めるのだと、信じております」
香月の言葉に、隣に居た玄侑が目をやや見開いた。一方香月の毅然とした態度に、紅炎は眉を吊り上げたが、蒼天は違った。良いでしょう、と言って後ろを振り向く。
「あ」
蒼天が振り向き、深く一礼した。紅炎も同じである。彼女たちが頭を下げた先には、朱金の長い髪をたなびかせた女神が居た。目は細く、玄侑を見つめている。小さく赤い唇を朱華色の袖で隠しながら、よくぞまあ、と嘆息を零した。
「穢れた身で、ぬけぬけと神山に近づくものだ。しかし、己が罪を償おうとする心がけに免じて、それを許しても良い」
罪? 何のことだろう。香月の疑問を知らず、玄侑は女神――丹早――に向き直った。
「彼女の力を得て、必ず人世を元に戻す。その為には界を定めておかねばならない。原石を取らせてくれないか」
「ほほ。傷付いて拾うが良い。しかしお前の血で神山を穢すことは許さぬ。本来なら立ち入りを許さぬところを、その趣意によって特別に許可してやる」
言うだけ言って踵を返し消えようとする丹早に、たまらず香月は言葉を発した。
「畏れながら、お伺い申し上げます。人世の乱れは始祖神さまも望まれないことではないと存じます。何故、丹早さまは玄侑さまにお力をお貸しにならないのですか?」
消えゆこうとしている丹早が振り向き、香月を見た。その視線は、恐ろしいほど冷たい。
「人の身で、よくぞそのような口を利くな、娘。お前たちは自業自得で妖魔に侵されているのを知らぬのか。何も知らぬくせに、我に講釈を垂れるとは、よほどの阿呆か」
言葉の端々に、人間を厭っている気配が見えた。鷹宵といい、人間は神さまに好かれてはいないようだった。存在の違い故と思っていたが、そうではなく、神さまたちが人間を嫌う理由があるようだ。
「確かに私は、何も知りません。ですから、教えてください。丹早さまが、玄侑さまを厭う理由を。人間を厭う理由を」
香月の言葉に、丹早は香月を睥睨した。周りの空気が冷えていくような感覚を覚える。
「穢れたものに語る口なぞない」
丹早の応答は、冷たかった。香月の手を握っていた玄侑の手に力が籠る。
瞬間、玄侑の周りに黒いもやが立ち上った。
「香月を侮辱するな。香月は何も悪くない」
玄侑の言葉に、丹早は冷たく言い放った。
「その気。そのような気配を纏いながら神世に居ることを許されているだけ、ありがたく思え。本来なら、妖世に堕とすところを」
そう言って、丹早は消えた。紅炎と蒼天も続くように消える。紅炎の、丹早さまのご厚情に感謝しろ! という叫びを残して。
遺された香月は隣の玄侑を仰ぎ見る。玄侑は香月を見ずに、行こう、とだけ言った。手は、握られたままだった。
*
その後、鷹宵の翼で神山を流れる川のほとりにやって来た。上空から見たときに比べて、川面にはうっすらともやが掛かっているが、川縁には真っ白な石が、川の水に濡れてきらきらと輝いている。近くでどうどうと激しく水の落ちる音がしてるから、ここからこの水が一気に神の山を下っていくのだろうと推測した。玄侑はおもむろに懐から革の手袋を取り出し、嵌めた。
「始祖神由来の力をまとった神聖なものだ。俺が素手で触れるわけにはいかない」
玄侑の言葉に、どうしても香月はその理由を問いたくなる。しかし黙々と石を拾い集める彼は、香月に問われるのを拒んでいるようだった。
(わたしは、まだ何も知らない……。知っているのは、玄侑さまが私を必要としてくれると言うことだけ……)
香月はまだ玄侑とほんの短い時間しか共有していない。それを一足飛びに、あれもこれも教えろという方が無理だ。
(玄侑さまが語ってくださるまで、待とう……)
そう思い、香月も川辺にしゃがみ込んで石を拾おうと手を伸ばした。すると香月の手が触れた途端、石は黒変し、もろくも崩れてぼろぼろになった。玄侑がそれを見て、これを使え、と背に背負っていた籠と自らの手巾を取り出した。
「神の山は穢れを嫌う。君が悪いわけではないが、そもそも神世に人はいるはずのないものだからな」
玄侑の言葉に、確かにそうなのだろうと納得する。手巾と籠を借りて、改めて石を拾い始めた。
「神力を含んだ、白く輝く石の方がいい。本当だったら、この川に浸かって拾い集めたいところだが、俺には無理だからな」
玄侑が抑揚のない声で言う。もとより感情を出さない人だが、今はより一層そう感じた。香月はすっくと立ち上がり、手巾を手にしたままおもむろに川面に向かって歩き出すと、草履を脱ぎ、着物が濡れるのも構わずにその水の中にざぶざぶと浸かった。
「お、おい!」
「……っ!」
ビリビリと、皮膚を刺す痛みが走る。香月に触れた水が黒く濁るその水が、水の流れによって薄れ、川の水の流れに乗って下流に消えていく。ざぶりと一歩踏み出せば、またそこに黒い水が香月の皮膚と反応するように浮かび上がり、さあと流れに乗って下っていく。刺すような痛みは変わらずあるが、水の中に入ると、もやの影響が薄らぎ、水底に真珠のように輝く石がたくさん転がっているのが分かった。
「水の底には輝く石がたくさんあります。拾えるだけ拾って、そちらに戻りますので、少々お待ちいただけますか」
そう言って手巾を水の中の石にかぶせて、ひとつひとつ拾い上げると、背負った籠に入れていった。籠は少しずつ重くなっていくが、香月はへこたれなかった。
もやの漂う中、水の底を見つめながら、香月は夢中になって石を拾い上げていく。ひとつひとつ、玄侑が求めるものを手に取っていくにつれ、背に背負う籠の重さに充実を感じていた。
「おい、あまり遠くに行くな。俺から見えなくなる」
声に振り向くと、川面のもやで、すでに玄侑の姿が分からなくなっている。まずい、と思い、体をひねろうとした時、足が川底の丸い石を踏み謝り、体の均衡を失った。
背負った籠はすでに重く、香月の体をやすやすと下に引っ張る。籠を背負った背中が腰より下に落ちたとき、足の先は体の中で一番天に近かった。
「……っ!」
「香月さま!」
落下と地面への激突を予感してぎゅっと身を縮めたが、その衝撃は来なかった。玄侑の腕が、香月の体を抱いていた。
「ご挨拶だな、紅炎(こうえん)。蒼天(そうてん)は紅炎の調教を止(や)めたのか」
玄侑の声は、少し硬いようだった。それに対し、罵声が飛ぶ。
「お前のようなまがまがしいものが神の山に近づくことを、蒼天も丹早さまもお許しになるわけなかろう! 私がお二人の代弁をしたまでだ!」
声の主は、幼かった。緋色の着物を着た、夜斗と同じくらいの年頃の少女だ。しかし背中に抱えるほどの大太刀を持ち、肩をいからせ、猫が毛を逆立てるように大きな目を吊り上げている。おそらくこの少女が紅炎と呼ばれた娘だ。
そしてもう一人、蒼天と呼ばれた少女は紅炎の行動に我関せず、といった様子でこちらを見ている。こちらは天青(てんせい)色の着物を着ており、十四~五くらいに見え、感情をむき出しにする紅炎と比べて、蒼天は落ち着いた性格のように思えた。
「丹早に会いに来た。取り次いでくれないか」
「断る!」
「何用ですか、玄侑殿」
やはり怒った猫のような紅炎は噛みつくように叫ぶが、蒼天が静かな声で玄侑に問うた。
「人世を元に戻すため。そう伝えてくれないか」
玄侑の声音には、傲慢さも卑屈さもない。しかしいつもの玄侑の声とも違い、香月のことを伝えるために、確固たる意思の色が載っていた。
こんなに相手に訴えようとする玄侑の声音を、香月は聞いたことがない。あまり感情を揺らさない玄侑が、自分の存在を必要として相手に訴えてくれるその音色は、香月の胸に深く刺さった。
(私は、これほどまでに玄侑さまに必要とされているのだわ……)
人世を妖魔から救い、五家を解体する。
玄侑の目的に、香月も大いなる同意を覚えている。人世に妖魔が居なければ、五家は穏やかな日々を送れるだろう。父母も桔梗も、自由を謳歌できる。それは家族や人々にとって良いことだ。香月は玄侑に降ろしてもらうよう頼むと、正面から紅炎と蒼天を見た。
「私は、玄侑さまのお力になるために、ここに居ります。人世に溢れる妖魔から人々を救うために、私は神世に参りました。どうか、お取次ぎ願えませんか」
「断る!」
「あなたに何が出来るというのです。所詮人の身で」
紅炎はとりつく島がないが、蒼天は話が通じそうだ。香月は玄侑を見、右手を玄侑の左手の下にかざす。玄侑が意図を察すると、印が熱くなり、玄侑の右手から輝く炎が沸き上がった。
「……っ!」
蒼天が目を瞠る。玄侑がぐっと香月の手を握った。そのあたたかさに感嘆を覚えながらも、香月は蒼天の目をまっすぐ見て言った。
「玄侑さまのお役目を、お助けできます。そのことが、人世の混乱を治めるのだと、信じております」
香月の言葉に、隣に居た玄侑が目をやや見開いた。一方香月の毅然とした態度に、紅炎は眉を吊り上げたが、蒼天は違った。良いでしょう、と言って後ろを振り向く。
「あ」
蒼天が振り向き、深く一礼した。紅炎も同じである。彼女たちが頭を下げた先には、朱金の長い髪をたなびかせた女神が居た。目は細く、玄侑を見つめている。小さく赤い唇を朱華色の袖で隠しながら、よくぞまあ、と嘆息を零した。
「穢れた身で、ぬけぬけと神山に近づくものだ。しかし、己が罪を償おうとする心がけに免じて、それを許しても良い」
罪? 何のことだろう。香月の疑問を知らず、玄侑は女神――丹早――に向き直った。
「彼女の力を得て、必ず人世を元に戻す。その為には界を定めておかねばならない。原石を取らせてくれないか」
「ほほ。傷付いて拾うが良い。しかしお前の血で神山を穢すことは許さぬ。本来なら立ち入りを許さぬところを、その趣意によって特別に許可してやる」
言うだけ言って踵を返し消えようとする丹早に、たまらず香月は言葉を発した。
「畏れながら、お伺い申し上げます。人世の乱れは始祖神さまも望まれないことではないと存じます。何故、丹早さまは玄侑さまにお力をお貸しにならないのですか?」
消えゆこうとしている丹早が振り向き、香月を見た。その視線は、恐ろしいほど冷たい。
「人の身で、よくぞそのような口を利くな、娘。お前たちは自業自得で妖魔に侵されているのを知らぬのか。何も知らぬくせに、我に講釈を垂れるとは、よほどの阿呆か」
言葉の端々に、人間を厭っている気配が見えた。鷹宵といい、人間は神さまに好かれてはいないようだった。存在の違い故と思っていたが、そうではなく、神さまたちが人間を嫌う理由があるようだ。
「確かに私は、何も知りません。ですから、教えてください。丹早さまが、玄侑さまを厭う理由を。人間を厭う理由を」
香月の言葉に、丹早は香月を睥睨した。周りの空気が冷えていくような感覚を覚える。
「穢れたものに語る口なぞない」
丹早の応答は、冷たかった。香月の手を握っていた玄侑の手に力が籠る。
瞬間、玄侑の周りに黒いもやが立ち上った。
「香月を侮辱するな。香月は何も悪くない」
玄侑の言葉に、丹早は冷たく言い放った。
「その気。そのような気配を纏いながら神世に居ることを許されているだけ、ありがたく思え。本来なら、妖世に堕とすところを」
そう言って、丹早は消えた。紅炎と蒼天も続くように消える。紅炎の、丹早さまのご厚情に感謝しろ! という叫びを残して。
遺された香月は隣の玄侑を仰ぎ見る。玄侑は香月を見ずに、行こう、とだけ言った。手は、握られたままだった。
*
その後、鷹宵の翼で神山を流れる川のほとりにやって来た。上空から見たときに比べて、川面にはうっすらともやが掛かっているが、川縁には真っ白な石が、川の水に濡れてきらきらと輝いている。近くでどうどうと激しく水の落ちる音がしてるから、ここからこの水が一気に神の山を下っていくのだろうと推測した。玄侑はおもむろに懐から革の手袋を取り出し、嵌めた。
「始祖神由来の力をまとった神聖なものだ。俺が素手で触れるわけにはいかない」
玄侑の言葉に、どうしても香月はその理由を問いたくなる。しかし黙々と石を拾い集める彼は、香月に問われるのを拒んでいるようだった。
(わたしは、まだ何も知らない……。知っているのは、玄侑さまが私を必要としてくれると言うことだけ……)
香月はまだ玄侑とほんの短い時間しか共有していない。それを一足飛びに、あれもこれも教えろという方が無理だ。
(玄侑さまが語ってくださるまで、待とう……)
そう思い、香月も川辺にしゃがみ込んで石を拾おうと手を伸ばした。すると香月の手が触れた途端、石は黒変し、もろくも崩れてぼろぼろになった。玄侑がそれを見て、これを使え、と背に背負っていた籠と自らの手巾を取り出した。
「神の山は穢れを嫌う。君が悪いわけではないが、そもそも神世に人はいるはずのないものだからな」
玄侑の言葉に、確かにそうなのだろうと納得する。手巾と籠を借りて、改めて石を拾い始めた。
「神力を含んだ、白く輝く石の方がいい。本当だったら、この川に浸かって拾い集めたいところだが、俺には無理だからな」
玄侑が抑揚のない声で言う。もとより感情を出さない人だが、今はより一層そう感じた。香月はすっくと立ち上がり、手巾を手にしたままおもむろに川面に向かって歩き出すと、草履を脱ぎ、着物が濡れるのも構わずにその水の中にざぶざぶと浸かった。
「お、おい!」
「……っ!」
ビリビリと、皮膚を刺す痛みが走る。香月に触れた水が黒く濁るその水が、水の流れによって薄れ、川の水の流れに乗って下流に消えていく。ざぶりと一歩踏み出せば、またそこに黒い水が香月の皮膚と反応するように浮かび上がり、さあと流れに乗って下っていく。刺すような痛みは変わらずあるが、水の中に入ると、もやの影響が薄らぎ、水底に真珠のように輝く石がたくさん転がっているのが分かった。
「水の底には輝く石がたくさんあります。拾えるだけ拾って、そちらに戻りますので、少々お待ちいただけますか」
そう言って手巾を水の中の石にかぶせて、ひとつひとつ拾い上げると、背負った籠に入れていった。籠は少しずつ重くなっていくが、香月はへこたれなかった。
もやの漂う中、水の底を見つめながら、香月は夢中になって石を拾い上げていく。ひとつひとつ、玄侑が求めるものを手に取っていくにつれ、背に背負う籠の重さに充実を感じていた。
「おい、あまり遠くに行くな。俺から見えなくなる」
声に振り向くと、川面のもやで、すでに玄侑の姿が分からなくなっている。まずい、と思い、体をひねろうとした時、足が川底の丸い石を踏み謝り、体の均衡を失った。
背負った籠はすでに重く、香月の体をやすやすと下に引っ張る。籠を背負った背中が腰より下に落ちたとき、足の先は体の中で一番天に近かった。
「……っ!」



