*
カーン、カーン、と槌(つち)が固いものを叩く音がする。高く遠くにこだまするそれは、小屋で玄侑が界を定める鈴鐘を作っている音だった。香月の力を使って際の守りが補強するのだと言って、彼は時間があれば小屋で作業をしている。火に材料をくべて、溶かし、固めて成形をするのだそうだ。今までは補修もかなわなかったらしいが、香月が居ることで守りの力を宿すことが出来ると言って、ああして熱心に鈴鐘を作っている。玄侑の属性である夜には人世の神気を滅しに行っているのに、昼間、こんなに根を詰めて大丈夫だろうか。
香月と夜斗は、そんな玄侑に差し入れを持って来た。器の上に山の形に積み上げられたそれは、醤油で香ばしく焼いた餅だった。
「玄侑さま。休憩になさいませんか」
ひょこりと小屋の引き戸を開けると、玄侑が炉に向かって槌で鋼の塊を打っているところだった。着物の裾をまくり、袂をたすきでくくって汗びっしょりになっているところなんて、全然偉い神さまに見えない。
呼びかけに玄侑が振り向いた。そして香月の顔をじっと見て、良さそうだな、とひと言言った。
「なにが……、でしょうか……」
「君に奴の干渉を感じた。引きずられていないのなら、それでいい」
その言葉に、夜斗の言葉の意味を知る。やはりあの夢から玄侑が香月を守ってくれたのだ。香月が心を緩ませると、玄侑は槌を傍らに置き、炉の前を離れた。すると黒々と燃えていた火は消え、室内の温度が若干下がる。黒い炎は玄侑由来の炎だと聞いたので、以前玄侑が香月の力を示してくれた時のように香月が力を添えることが出来れば、なにか玄侑の役に立たないだろうかと提案したことがある。しかし玄侑はそれを断った。熱された鋼が高温になることが理由だった。
「女の肌はやわいだろう。熱でやけどをしたらどうする」
玄侑は夜斗にもそう言っているそうで、だから香月だけが特別であるわけではないが、蓮平では妖魔の牙や爪に身を差し出すことが当たり前だったので、肌が傷付くことがそんなに良くないことだということを、香月は玄侑の言葉で初めて知った。
その言葉をもらった時の、心臓がそわり、とした感覚を、今でも覚えている。こころを絹肌で撫でられたような、そんな心地だった。
(不思議……。玄侑さまの言葉は、音はそっけないのに、お言葉にこもる熱があたたかいんだわ……)
玄侑と言葉を交わすごとに、香月にはそう思えてきていた。
今も、作業中に顔を出した香月と夜斗に気付き、手拭いで顔にしたたる汗を拭うと、おもむろに腕をこちらに伸ばして、盆の上の餅を無造作な手つきで取った。
「ん、醤油と……、なんだ? 香りがするぞ?」
「はい。今日は紫蘇をまぶしてみました。さっぱりと召し上がって頂けるかと」
そうか、というように頷くと、玄侑はそのまま何も言わずに餅をぱくぱく食べていく。人世で香月が何かをしようものなら疑いと拒絶が帰って来るのが常だったので、そうか、の短い言葉であっても、嗅いだことない香りの食べ物を忌避することもなく、(夜斗を信頼しているからかもしれないが)無言で食べてもらえるのは、香月に言いようのない幸福感を運んでくる。
(玄侑さまは私に、契約だけではなく、信頼をくださっている……)
餅を食む玄侑をじっと見つめ、そう思う。そう感じると、もっと玄侑の為に働きたいと思う気持ちが香月の中に芽生えてくる。同じ『役割』なのに、蓮平に居た時と全く異なる感情に、香月は心を震わせ、燃え盛った。
(もっと、玄侑さまに喜んで頂きたい……。私に出来ることで、なにか……)
玄侑はそうしてあっという間に、山と積まれた餅を食べきってしまう。力仕事であるし、黒の炎を用いているということは神力を使っていることだと思うので、鷹宵の話を思えば玄侑が力の足しになるものを貪り食うことは、至極当たり前のことだった。
『玄侑さま、香月さまのお手製だと、食欲がまるで違いますから』
そう笑いながら以前夜斗が言った言葉に嘘はないと思うが、それは現在それだけ玄侑の力が枯渇していることを意味する。
しかしその事実とは別に、そういう玄侑の何気ない行動に、香月がどれだけ救われているか、おそらく玄侑は知らない。
(でも、お知りにならなくても良いわ……)
玄侑と香月の間には、力を貸すことと、守ってもらうことの契約だけが成り立っており、それ以外のことは保証されていない。つまり、今、香月が恩義に感じる玄侑の言動は彼の素であり、それを表立って感謝することで彼の言動が変わってしまったら寂しいし、辛いだろうと、思うのだ。
(玄侑さまには、このままでいていただきたい……)
密やかに玄侑の言動に感謝し、心を満たす。もしかすると神とはそもそも、そう言うものなのかもしれない。嫌っているはずの人間を守るために、玄侑は行動している。神に人間と同じ感情というものがあるのか知らないが、内と外が正反対のことをすれば、人なら簡単にもろい部分が出る。それを平気にこなすのだから、やはり神という存在は凄いな、と香月は思った。
(それに比べて、私は……)
蓮平で生かされていたのは、妖魔をおびき寄せる餌となったから。しかし家族……、特に愛されたかった母から蛇蝎のごとく憎まれていたことは、香月の心に影を落としていた。
牢にも聞こえていた桔梗と母の楽しそうな会話。同じ血を分けた姉妹でありながら、どうして自分は、と幼い頃に思っていた。やさしい言葉をかけて欲しかった母に話しかけて貰えない現実に、自害しようとしたこともあった。しかし、それを止めたのもまた、母だった。
『ねえ、香月。あなたを何故、ここに閉じ込めなければならないのか、考えてみて。あなたは妖魔に好まれ過ぎる。この結界の中であなたを匿うのは、あなたの為なのよ』
やさしく、慈しみに満ちた母に、香月は自分も桔梗のように愛されているのではないかと錯覚した。自分の体の所為で桔梗のように接してもらえないだけで、母の心は香月にも寄り添ってくれているのだと、このとき信じた。
あの時の、心に広がった幸福感は今でも忘れない。母の言葉は、からからに干からびた大地に一滴のしずくがしみこむがごとく、香月の心を満たした。だから父が香月を牢から引きずり出し、妖魔の前に放り出した時の母の目に、絶望した。
違ったのだと。母もまた、父や桔梗と同じく自分を利用する人であったのだと。あの時の母の言葉は、釣り餌となる香月を生かしておくための甘言だったのだ。
(お母さまは、私のことなんて、愛してなかった)
過去を思い出して、自虐の笑みが口の端に上がる。
判断を誤った過去があるから、香月はやさしく掛けられる言葉を信じない。玄侑と契約出来たのは、それ以外を全く求めない闇色の黒い瞳を見たからだった。そう言う意味で、玄侑の、香月になんら過剰な期待をさせない態度は、香月が彼を信じるに値するものだった。
(玄侑さまはお強いし、おやさしい……。私の機嫌を取る必要がないから素っ気なくいらっしゃるし、でもそれだから嘘じゃないと信じることが出来る……。お人柄を信じられるって、こんなに幸せなのね……)
蓮平に居た頃は、香月を良いように使うために、様々な言動が投げつけられた。母しかり、街の人しかりである。そう思うと今のなんと幸せなことかと、噛みしめてしまうのだ。
ふと気づくと、皿の上から餅を食べ終わった玄侑が、じっと香月のことを見ていた。ぼんやりとはいえ、香月も玄侑を見てものを思っていたので、ぱちりと視線が合ってしまい、狼狽えた。
「あ……っ、すみません。別に不敬なことを考えていたわけでは……っ」
「? なんのことだ? 俺は封入の練習をしてみるかと言っただけだが」
カーン、カーン、と槌(つち)が固いものを叩く音がする。高く遠くにこだまするそれは、小屋で玄侑が界を定める鈴鐘を作っている音だった。香月の力を使って際の守りが補強するのだと言って、彼は時間があれば小屋で作業をしている。火に材料をくべて、溶かし、固めて成形をするのだそうだ。今までは補修もかなわなかったらしいが、香月が居ることで守りの力を宿すことが出来ると言って、ああして熱心に鈴鐘を作っている。玄侑の属性である夜には人世の神気を滅しに行っているのに、昼間、こんなに根を詰めて大丈夫だろうか。
香月と夜斗は、そんな玄侑に差し入れを持って来た。器の上に山の形に積み上げられたそれは、醤油で香ばしく焼いた餅だった。
「玄侑さま。休憩になさいませんか」
ひょこりと小屋の引き戸を開けると、玄侑が炉に向かって槌で鋼の塊を打っているところだった。着物の裾をまくり、袂をたすきでくくって汗びっしょりになっているところなんて、全然偉い神さまに見えない。
呼びかけに玄侑が振り向いた。そして香月の顔をじっと見て、良さそうだな、とひと言言った。
「なにが……、でしょうか……」
「君に奴の干渉を感じた。引きずられていないのなら、それでいい」
その言葉に、夜斗の言葉の意味を知る。やはりあの夢から玄侑が香月を守ってくれたのだ。香月が心を緩ませると、玄侑は槌を傍らに置き、炉の前を離れた。すると黒々と燃えていた火は消え、室内の温度が若干下がる。黒い炎は玄侑由来の炎だと聞いたので、以前玄侑が香月の力を示してくれた時のように香月が力を添えることが出来れば、なにか玄侑の役に立たないだろうかと提案したことがある。しかし玄侑はそれを断った。熱された鋼が高温になることが理由だった。
「女の肌はやわいだろう。熱でやけどをしたらどうする」
玄侑は夜斗にもそう言っているそうで、だから香月だけが特別であるわけではないが、蓮平では妖魔の牙や爪に身を差し出すことが当たり前だったので、肌が傷付くことがそんなに良くないことだということを、香月は玄侑の言葉で初めて知った。
その言葉をもらった時の、心臓がそわり、とした感覚を、今でも覚えている。こころを絹肌で撫でられたような、そんな心地だった。
(不思議……。玄侑さまの言葉は、音はそっけないのに、お言葉にこもる熱があたたかいんだわ……)
玄侑と言葉を交わすごとに、香月にはそう思えてきていた。
今も、作業中に顔を出した香月と夜斗に気付き、手拭いで顔にしたたる汗を拭うと、おもむろに腕をこちらに伸ばして、盆の上の餅を無造作な手つきで取った。
「ん、醤油と……、なんだ? 香りがするぞ?」
「はい。今日は紫蘇をまぶしてみました。さっぱりと召し上がって頂けるかと」
そうか、というように頷くと、玄侑はそのまま何も言わずに餅をぱくぱく食べていく。人世で香月が何かをしようものなら疑いと拒絶が帰って来るのが常だったので、そうか、の短い言葉であっても、嗅いだことない香りの食べ物を忌避することもなく、(夜斗を信頼しているからかもしれないが)無言で食べてもらえるのは、香月に言いようのない幸福感を運んでくる。
(玄侑さまは私に、契約だけではなく、信頼をくださっている……)
餅を食む玄侑をじっと見つめ、そう思う。そう感じると、もっと玄侑の為に働きたいと思う気持ちが香月の中に芽生えてくる。同じ『役割』なのに、蓮平に居た時と全く異なる感情に、香月は心を震わせ、燃え盛った。
(もっと、玄侑さまに喜んで頂きたい……。私に出来ることで、なにか……)
玄侑はそうしてあっという間に、山と積まれた餅を食べきってしまう。力仕事であるし、黒の炎を用いているということは神力を使っていることだと思うので、鷹宵の話を思えば玄侑が力の足しになるものを貪り食うことは、至極当たり前のことだった。
『玄侑さま、香月さまのお手製だと、食欲がまるで違いますから』
そう笑いながら以前夜斗が言った言葉に嘘はないと思うが、それは現在それだけ玄侑の力が枯渇していることを意味する。
しかしその事実とは別に、そういう玄侑の何気ない行動に、香月がどれだけ救われているか、おそらく玄侑は知らない。
(でも、お知りにならなくても良いわ……)
玄侑と香月の間には、力を貸すことと、守ってもらうことの契約だけが成り立っており、それ以外のことは保証されていない。つまり、今、香月が恩義に感じる玄侑の言動は彼の素であり、それを表立って感謝することで彼の言動が変わってしまったら寂しいし、辛いだろうと、思うのだ。
(玄侑さまには、このままでいていただきたい……)
密やかに玄侑の言動に感謝し、心を満たす。もしかすると神とはそもそも、そう言うものなのかもしれない。嫌っているはずの人間を守るために、玄侑は行動している。神に人間と同じ感情というものがあるのか知らないが、内と外が正反対のことをすれば、人なら簡単にもろい部分が出る。それを平気にこなすのだから、やはり神という存在は凄いな、と香月は思った。
(それに比べて、私は……)
蓮平で生かされていたのは、妖魔をおびき寄せる餌となったから。しかし家族……、特に愛されたかった母から蛇蝎のごとく憎まれていたことは、香月の心に影を落としていた。
牢にも聞こえていた桔梗と母の楽しそうな会話。同じ血を分けた姉妹でありながら、どうして自分は、と幼い頃に思っていた。やさしい言葉をかけて欲しかった母に話しかけて貰えない現実に、自害しようとしたこともあった。しかし、それを止めたのもまた、母だった。
『ねえ、香月。あなたを何故、ここに閉じ込めなければならないのか、考えてみて。あなたは妖魔に好まれ過ぎる。この結界の中であなたを匿うのは、あなたの為なのよ』
やさしく、慈しみに満ちた母に、香月は自分も桔梗のように愛されているのではないかと錯覚した。自分の体の所為で桔梗のように接してもらえないだけで、母の心は香月にも寄り添ってくれているのだと、このとき信じた。
あの時の、心に広がった幸福感は今でも忘れない。母の言葉は、からからに干からびた大地に一滴のしずくがしみこむがごとく、香月の心を満たした。だから父が香月を牢から引きずり出し、妖魔の前に放り出した時の母の目に、絶望した。
違ったのだと。母もまた、父や桔梗と同じく自分を利用する人であったのだと。あの時の母の言葉は、釣り餌となる香月を生かしておくための甘言だったのだ。
(お母さまは、私のことなんて、愛してなかった)
過去を思い出して、自虐の笑みが口の端に上がる。
判断を誤った過去があるから、香月はやさしく掛けられる言葉を信じない。玄侑と契約出来たのは、それ以外を全く求めない闇色の黒い瞳を見たからだった。そう言う意味で、玄侑の、香月になんら過剰な期待をさせない態度は、香月が彼を信じるに値するものだった。
(玄侑さまはお強いし、おやさしい……。私の機嫌を取る必要がないから素っ気なくいらっしゃるし、でもそれだから嘘じゃないと信じることが出来る……。お人柄を信じられるって、こんなに幸せなのね……)
蓮平に居た頃は、香月を良いように使うために、様々な言動が投げつけられた。母しかり、街の人しかりである。そう思うと今のなんと幸せなことかと、噛みしめてしまうのだ。
ふと気づくと、皿の上から餅を食べ終わった玄侑が、じっと香月のことを見ていた。ぼんやりとはいえ、香月も玄侑を見てものを思っていたので、ぱちりと視線が合ってしまい、狼狽えた。
「あ……っ、すみません。別に不敬なことを考えていたわけでは……っ」
「? なんのことだ? 俺は封入の練習をしてみるかと言っただけだが」



