りん……、りん……。
誰かがやさしい音を奏でている。
風に漂う涼やかな音色は、辺りの空気を澄み渡らせるようで、とても清浄で濁りなく、高く細く、断続的に鳴り響いている。
香月が音を辿って視線を向けると、ぬばたまの豊かなる頭髪を腰のあたりまで伸ばした、後姿の美しい女性が立っていた。彼女は鈴の柄の入った黒い着物を羽織っており、手には柄の突いた小さな銀色の鐘を持って、それを振って音を出している。確かにそれは、鈴の音だった。
高貴な……、神々しい気配を纏いながら、彼女は鐘を振る。鐘を振ると、小さなりん、という音と共に辺りがふわりと淡い光に発光し、そして光が静かに消えていく。光っては消え、を繰り返し、彼女は無心に鈴の音がする鐘を振っていた。

「なにを、なさっておられるのですか?」

香月は自分に気付くこともせず、一心に鈴を振り続ける女性に声を掛けた。声に香月を振り返った女性は、陰を宿した瞳でやさし気な笑みを浮かべ、落ち着きのある声で応えた。

「こうして、際を定めているのです」
「際を……?」

香月がおうむ返しに問えば、彼女は深く頷いた。

「際が不安定だと、界が揺らぎます。際は、守られなければならないのです」

女性の言葉に、香月は玄侑の言葉を思い出した。

「際とは、妖世と人世の境のことですね……? では、あなたさまも玄侑さまと一緒に、境界を管理されておられるのですか?」

玄侑、と彼の名を出すと、女性は目を寂し気に伏せた。

「あの子には、悪いことをしました。私が至らなかったばっかりに……」
「玄侑さまをご存じでいらっしゃいますか?」

香月は問うが、女性は答えず言葉を続けた。

「しかし、あなたを得たあの子は、正しく廻るかもしれない。あの子をよろしく頼みます」

おそらく自分とは違う存在である女性が、ただの人間である香月に頭を下げた。驚いて声を発そうとした時に、辺りは急に暗闇に覆われたように何も見えなくなっていく。

「ああ、際が揺らぐ……」

暗闇の向こうで女性が辛そうに呟く。その闇から何かが語りかけてくるような音がして、ぞわり、と身の内が震えた。

(なにか、居る……)

それは妖のものを感知したときのような感覚だった。本能的な恐怖に身を縮めると、己を呼ぶ玄侑の声が聞こえた。

「玄侑さま……!」

助けを求めた叫び声が耳を通して直に聞こえ、香月ははっと目を覚ました。ぱちぱちと目を瞬かせれば、見つめる先には木目の美しい格天井があり、ここが神世で与えられた香月の部屋であることに気付いた。

(夢……)

与えられた部屋で寝具に横になって目覚めたのだから、確かに夢なのだろう。しかし、会ったこともない人を、夢で見たりするものなのだろうか。女性の放っていた神々しさは間違いなく香月がその場で感じた感触があるし、美しい鈴の音(ね)は目覚めた今も、耳の奥に残っている。

(どなただったのかしら……)

それに暗闇に感じた、禍々しい気配に当てられた感触も残っている。玄侑の声が聞こえたと思ったのは、気のせいだったのだろうか……。
しばし夢に意識を向けていると、襖の向こうから控えめな夜斗の声がした。

「香月さま。夜斗はこれから朝食を作りますが、ご一緒されますか?」

昨日、玄侑に今後も食事を作って欲しいと言われたので、夜斗には一緒に作ることを頼んでいる。おそらく、寝こけていた香月を起こしに来てくれたのだろう。慌てて寝巻を着替え、部屋を出る。

「ご体調がすぐれなければ、ご無理をする必要はございませんよ? 玄侑さまがご希望されたとはいえ、香月さまが体調を崩されてしまっては、玄侑さまのお仕事も上手くいかなくなります。それに実は、玄侑さまが香月さまを心配されていたので、夜斗としてはご無理をしていただきたくないのですが……」

顔を合わせた夜斗は心配そうに言ってくれたが、体調が悪いわけでもないし、玄侑から請け負った仕事はきちんとこなしたいと思っているので、彼女の心配をやわらかく否定した。

「いえ、先ほど見た夢のことを考えていたのです。よく休ませて頂きましたし、美味しい食事もいただきました。ですので体調はとてもいいです。玄侑さまにもご心配をおかけしてしまっているのですね……。申し訳ないです……」
「いえ、玄侑さまは香月さまに良くない干渉があったと言っておられたのですが……」

良くない干渉……。香月は自分に意識を向けた。夢の最後に玄侑の声が聞こえたような気がしたおかげで、香月はあの夢から覚めることが出来た。もしかして本当に妖のものから助けてくれたのかもしれない。そう思うとほっと出来、緊張がやわらいだ。
夜斗はじっと香月の顔を見て、それから不健康な気配を感じなかったのか、にこっと笑った。

「大丈夫そうですね。では、台所へ参りましょう」

夜斗と共に広縁を歩きながら屋敷を奥へ進んでいくと、ふと庭の空気を震わせる音が聞こえた。……微かなそれは、夢で聞いた鈴の音(ね)に聞こえた。

(……そういえば、神世に来た時にも、この音が聞こえたわ……)

ふとそう思いだし、音について夜斗に訊ねる。

「夜斗さん。この鈴の音(ね)は何処から聞こえるものなのですか?」
「鈴の音……。香月さまにはこの鈴鐘(すずがね)の音が聞こえるのですか?」

夜斗の言葉に疑問を持つ。

「……、もしかして、聞こえてはいけないものなのでしょうか……」

心配になった香月を、しかし夜斗は顔の前で両手を振って否定した。

「そうか、香月さまには玄侑さまの印がありますものね。聞こえても不思議はなかったです」
「どういうことでしょうか」

夜斗は台所を目指しながら、香月に説明してくれる。

「この音は玄侑さまが界の際で鳴らしていらっしゃる鈴鐘の音なのです。昨日、玄侑さまがお話をされた、神世、人世、それに妖世の境界を守っているのが、この鈴鐘の音なのです」

確かに昨日玄侑は、人世、神世、妖世には際があり、そこを守る道具を自分が造るのだと言った。そして夢の女性も境界を定めていると言っていた。
だが、香月の疑問は半分が夢の話で、夜斗の話は玄侑が行っている現実の仕事の話だ。夢のことを、現実を話す夜斗に持ち出すのもはばかられて、香月はそうなのですか、とだけ応えた。夜斗はにこにこと話を続ける。

「玄侑さまは凄いですねえ。人間でいらっしゃる香月さまに、神さまの音が聞こえる作用を引き起こせるなんて、ただの眷属の夜斗には想像もつかない力の使い方です」
「人間に神さまと同じ力を持たせることは、そんなに凄いことなのですね」

桔梗たち家族は、玄侑の力を戴いて破妖を行っていた。蓮平に居た頃はそれが当たり前だと思っていたが、どうやらそうできるのは特別なことであるらしい。夜斗は香月の疑問に振り返る。

「それはそうですよ。だって人間は弱いですから。力を持てば簡単に命を削られます。ですから、玄侑さまはそれを憂いておられるのです」

夜斗の説明で、玄侑が五家に力を与えることを止めようとしている理由がおぼろげに分かった。香月に向けた先日の言葉もそうだが、玄侑は無表情でそっけない振りをしつつ、本当は人を思い遣るやさしい神さまなのだろう。
香月の胸に、ほわりとあたたかい何かが灯った。あるいはあたたかい茶を入れた湯呑みを持った時のようなぬくもりを覚えたと言ってもいい。玄侑と出会い、固く閉ざされた夜闇の中に、少しずつ光とぬくもりが届いてくる。香月が礼を言っても、無表情で踵を返す玄侑は、自身が香月に行ってくれている言動の意味を、分かってくれているだろうか。

(でも、鷹宵さんは、人間を『人間ども』とおっしゃった……。玄侑さまに近しい方がそうおっしゃるのなら、きっと玄侑さまも、そう思われているのよね……)

だから香月のことを、人世を治めるために契約した相手、とだけ見ているのだろう。そう言う感情を、否定することも出来ない。だって香月は、黒神の力を否定した人間と存在を同じくしている。

(……でも、玄侑さまが炎を放って劣化した神力を消すところを、人世の誰が視たのかしら……。桔梗たちの破妖具だって、妖魔を斬る時にも光を放たないし、街の人は玄侑さまが妖魔を消す力を蓮平に与えてくださると思っているはずから、玄侑さまが神力を消すことを知らないのだし……)

しかし、香月が知らないだけで、人世の誰かが知っているのだ。玄侑が人世に満たされた神力を消す責を負っていることを。
玄侑はその誤解を受けた時に、彼らに自分の役割について説明しなかったのだろうか。人間とて、ありがたい神力がいつまでもその質を保てず循環が必要であると知れば、玄侑を嫌うことなどないと思うのだが……。
そわり、と、胸の底がざわめいた。

(私は、まだ知らされていないことがあるのだわ……)

しかしそれは仕方のないことだった。玄侑も、玄侑を主とする鷹宵や夜斗も、人間に良い思いを抱いていない。人間で居る以上、自分が彼らに信頼されない限り、その秘密は明かされることはないのだ。
そのうえで、希(こいねが)う。
いつか、玄侑と人との間に、あたたかいきずなが生まれれば良い、と。