少女が夜の街をひた走る。黒い異形のものに追われながら。

「お父さま! お姉さまの方に行ったわ!」

袂を翻し、行燈袴の少女が月夜に輝く剣を持って、街中を走る。少女は斜め後ろを走る父親にそう叫んだ。

「よし、香月ごと追い詰めろ! 一匹たりとも逃(のが)すんじゃない!」
「はい!」
「今宵は神渡りの日。邪魔の欠片ひとつも残すことは許されない! 朝子、香月をもっと傷つけるんだ! 妖魔が散り散りになっては困る!」

柄を握り直す父親の後ろを走る女が手に持つ鞭を揮えば、鞭はしなやかに伸び、その長さをぐんと長くして先に走る娘の腕に傷を付けた。傷からは赤黒い血が滲み、うっすらとその周りが黒い靄でおおわれる。夫と娘が彼女を追うのに続きながら、母親は憎々し気に唸る。

「私の腹から生まれたというのに、血に黒が混じるなんて、何て忌々しいこと! おかげで私は他の四家の夫人から見下されている! あの娘は私の人生の汚点だわ!」

母親も鞭を握り直し、娘が走って行った方角へと足を進めていく。向かう先には、武具を持たない娘が黒き異形のもの――妖魔たち――に追いかけられている。

今宵は二十年に一度の特別な満月の日。普段より妖気の濃い街なかは、それを知る住人の人影もない。道に響く草履の駆ける音は、どんどん狭い場所へと向かっていく。十字路で直角に進路を変え、また誰も居ない通りを走ろうとした、その瞬間。

「きゃあ! よ、妖魔……!」

娘――香月――の背後に妖魔を見た女性が、そのまがまがしい様子に腰を抜かす。何故、こんなに妖気の濃い日の夜に、家から出ているのか。しかし、そんなことを質している余裕はなかった。妖魔が、香月の頭上を越え、女性に襲い掛かろうとした。

「危ない!」

咄嗟に香月は出来る限りの跳躍をし、女性と妖魔の間に割り入った。ザシュ、と着物の背中が割け、皮膚の焼ける痛みが香月の髄を走る。

「う……っ」

ジュウウ、と皮膚が焦げる音がする。香月の背中を切った妖魔が瞬間、その形を崩すと、背中の傷を辿り、滲んだ自分の血を妖魔たちに向かって投げる。妖魔たちが我先にとそれに群がる間に、ジクジクと痛む背中にしかし構わず、香月は女性の腕の下に自らの体を差し入れ、へたり込んだ女性を立たせる。

「家の中に入ってください。夜気の満ちるところに居てはいけません」
「あ……、ありがとう……」

ホッとした様子の女性が、しかし香月に体を支えられたが故に、彼女の背の傷を見た。傷からは小さな黒もやが立ち、黒く焼けただれた痕のようになっている。その傷を見た女性が、慄然とする。

「ひ……っ、黒い血……!」

女性の言葉通り、香月の背中の傷には黒い血がにじんでいた。黒の色は、妖魔の色。女性が香月を見る目が、恐怖に変わる。

「蓮平(はすだいら)の忌み子……!」

この街で知らないものは一人としていない、破妖五家の一員であって、その身に妖魔の血を持つもの。忌まわしき呪われた娘。それが香月に向けられる、忌避の視線だった。

香月の黒い血に更に腰を抜かした女性が、地を這うようにして自分の家に戻っていく。さんざん慣れたその様子に、今夜もまた心を閉じる。

(でも、だから役に立っていられるもの……。妖(よう)の血を欲して、妖魔が私に群がれば、お父さまたちは妖魔を狩りやすい……)

女性が香月におののいた様子を見ていた母親がわめき叫ぶ。

「ああ、恐ろしい! 黒の血だなんて、私は妖魔を産んだというの!?」

母親が金切り声で叫ぶ間にも、えぐれて痛む背中の傷の血のにおいに妖魔が間(ま)を詰めてくる。香月を追い詰めた妖魔たちの目はギラギラと獰猛に光っていて、口から除く鋭い牙は今まさに香月を喰らわんとしている。黒の血に引き寄せられている妖魔を見て、鬼の形相で香月を射抜く母親に、妹――桔梗――が口許をほころばせた。

「あら、お母さま。であれば、やつらと一緒に始末してしまえばいいのでは? 私も逃げるしか能のないお姉さまに、ほとほと呆れていたの」

それを聞いた父親が、ふと気づいたような表情になる。

「そうか、今日は神渡りの日。であれば、桔梗が神さまの神力を得て、二十年前の私のように一閃で妖魔を一掃できる力を持てば、もう餌のあいつは要らないな……」
「そうなのです、お父さま。私のこの剣で割いた空気がやつらの首と言わず胴と言わず、全てを切り刻んでしまえば、……いいえ、神さまの御加護を頂けば、妖気すらも滅することが出来ましょう。そうなれば、街は常に守られ、お姉さまの居る意味は微塵もなくなります」

にこりと純粋な笑みを浮かべて、桔梗は言う。父親は頷いた。

「では、お前が斬りなさい、桔梗。私たちの刃では、あいつの妖気に負けてしまう」
「はい、お父さま」

桔梗は優雅に剣を構えると、美しい顔(かんばせ)に秀麗な笑みを浮かべた。

「お姉さま! 今代の神渡りの為に、その汚らわしい体ごと、この刃の露となって消えてくださいな!」

言うや否や、ブーツの足を一歩前に出し弾みをつけて跳躍すると、ためらいもなく構えた剣を香月に群がる妖魔たちに振り下ろした。

『ギィギャアアアアアア!』

金属が軋むような叫び声をあげて、妖魔たちが桔梗の妖刀に黒い霞となって消える。霞が消えたその場には、今度こそ背をぱっくりと桔梗の刀に斬られた香月が横たわっていた。妖魔の爪に斬られたよりも深い傷に、黒と赤の血が混じってその場に滲んでいる。

「あら、お姉さま。人間の血も、お持ちだったのね。でも黒の血を持つ娘なんて、蓮平には要らないの。お姉さまがおびき寄せて下さったおかげで、今夜の妖魔は一掃できました。最期のお役目、ありがとう」

ひゅっと血のりを祓うと刀を鞘に納め、桔梗は既に帰路につこうとしていた両親をゆっくりと追った。

「刀が毀(こぼ)れて、肉も切れませんでした」
「仕方ない。今夜のお渡りで神力を籠めてもらおう。我々の刀も随分古びた。……二十年分、いやそれ以上に新しくしてもらわねば。お前は蓮平随一の破妖刀の遣い手。黒神さまが力を籠めて下さるその剣(つるぎ)で、浩次朗さまとともに蓮平を盛り立ててくれ」

桐谷子爵の次男・浩次朗との婚約がまとまっている桔梗は、今夜の神渡りで是非とも強大な力を神さまから得たい考えだった。そう言う意味では、姉が餌として逃げ惑うだけでなく、街の人を庇い背中に傷を受けたことは、今日この夜に街にうごめく妖魔を一気に引き付けるのに有効に働いた。

「存分に働いてくださったこと、感謝でもしなければいけませんわね。蓮平の後は、任せて下されば良いわ」

ほくそ笑む桔梗たちが去った辺りは静かな闇に包まれ、天の満月が輝きを増した。



きらきらと、光の粒が零れる。
月明かりが、金の粒子をまき散らす。
金の灯りが夜空を伸びて地上まで帯を作り、香月をやさしく包み込む。
サク、と道を踏みしめる草履の音がすると、濃い闇は淡く消え去り、その場に光が溢れた。
地面を踏みしめた草履の主は、道に横たわる香月に気付き、彼女の傍に寄る。

「むごいことを……。この傷は妖魔のものではないな。一体、誰にやられたというのだ」

柳眉をひそめ、香月の背中の傷を見るその人物は、ふと背に浮く色に目を留める。

「この者は……」