そのまま背を向けて図書室を出て行った横田に何も言えないまま、抜け殻のように図書委員の仕事を終えて学校を出ると、いつもの取り巻き達が校門でたむろしていてはっと我に返った。
 そうだ、終わるまで待ってると言っていた。本当に待ってるとは思わなかったけど。
 向かってくる俺を見て、「お、渋谷おつ〜」と一人が手を振り、全員の視線が俺に集まる。
 ——いつから居たんだ?
 合流しても特に変わった所はない。もしずっとここに居たのなら、こいつらは横田に会ってるはず。
 何か、言われてる?

「……なぁ。横田、ここ通ったよな?」
「? よこた?」

 俺の問いに、まるで初めて聞いた単語のような反応を見せ、皆が互いに顔を見合わせた。そのうち一人が、「え、同じクラスの?」と口にしたことで皆が、「あぁ!」と納得した声を出す。

「わかんね。見てない」
「意識の外過ぎて……」
「つーか渋谷からその名前でんの謎すぎてウケる。なんかあったん?」

 その反応に、あ、そうかと思う。そもそも今までの俺のように皆も横田のことを存在として意識していないのだから、横田が動くか俺が余計なことを言うかしなければ何もことは起こらないのだ。

「……いや? 別に」
「えー! 気になる!」
「横田なんかしたの? 私調べよっか?」

 失敗した。名前を言っただけでこれだ。

「別に。図書室に忘れ物してたから机に入れといたって伝えようとしただけ」
「わ、イケメンの気遣いでた〜」
「それ横田知ったら優しさに倒れちゃうやつじゃん」
「俺も今度マネしよ」

「おまえじゃ無理だわ」と、ゲラゲラ笑う声で場の雰囲気が変わり、横田の名前はその後一切出ることはなかった。
 ——でも安心は出来ない。だって証拠がこの世に存在しているのだから。

 生きた心地がしなかった。それからはずっと横田の動向を窺っている。話していても横田が動き出すと上の空になってしまって、「渋谷?」と声をかけられることも増え、毎回笑顔で誤魔化して場を和ませてみたりしていた。

「なんか渋谷、最近丸くなったよな」
「ね、笑顔増えた。良いことだよ」

 何も良くねーよ!と、心の中で怒鳴りつけながら「そうか?」と首を傾げたり。まるで奴らの機嫌取りをする毎日だ。もしかしたら知らない所で横田に接触されてるかもしれないと思うと、その時に横田の言葉を跳ね除けられえるくらいの信頼を築いておかなければと躍起になっていた。
 息苦しい。なんで俺がこんなことしなくちゃならないんだ。俺のすることじゃない!
 そうは思いつつも何も変えることは出来ず、自分から横田に接触する訳にもいかず、いつも通りに毎日を生きる奴らの態度にも、横田の無反応にも苛立ちが募った。ずっとずっと俺はこんなにも縛られているのに。


 そしてようやく一週間が経ち、図書委員の当番が回ってくると、その図書室に奴は居た。

「もうやめてくれ」

 今回も二人きりだと確認した途端、俺の口はそう訴えていた。けれど横田は手元の本へと視線を向けたままだ。顔を上げもしない。
 苛立つ。苛立って仕方ないけど、頼むしかない。

「限界なんだ、ずっと人の顔色窺って毎日張り詰めてる。おまえにも、あいつらにも」
「…………」
「いつバラされるのかって生きた心地がしない。何か目的があるのか? 何でも言うこと聞くから、だからもう許してくれよ」
「……はぁ」

 溜め息を吐くとパタンと本を閉じ、横田がじろりといつもの無表情でこちらを見た。

「許すも何も、君のお願いを叶えてるだけでしょうが」

 その刺々しく、責めるような強さを持った視線にぎくりと身がすくんだが、それじゃいけないと心を奮い立たせる。
 負ける訳にはいかない。

「違う! こんなの望んでない!」
「でも刺激的な毎日でしょ? つまらなくて価値のない馬鹿な人間も、もう君の周りには居ないしね。みんな君が神経を尖らせて大事に扱わなきゃならない対象になった」
「おかげさまでな! すっかり全員、何を言い出すか気が気じゃない。いつどこで誰に殺されるかもわからない! 周りの人間の気持ちを考え続けるのってキツいことなんだよ、この辛さがおまえにわかるか? わかる訳ないか、こんな所でずっと一人で、他人の気持ちなんてわかろうともしないおまえにはな!」
「……何だって?」

 横田が、無表情の仮面を崩した。ダメージをくらっているのだとすぐにわかった。こいつはボッチの自分に対して何とも思っていない訳ではなかったのだ。だったらここが攻め時だ。

「経験がないんだろ? 人との関わり方も、人からの見られ方も、おまえは全部排除して見ない振りしたまま逃げながら生きてる。そんな奴に人間社会を生きるこの辛さは一生わかんないんだろうな! そりゃあつまらなくて素晴らしい人生だろうよ! わかってるか? おまえが生きてるおまえの人生、よく本に出てくるひとりぼっちの化け物みたいなもんなんだよ」

 ダンッ!

 机が大きな音を立てる。横田が両手を思い切り叩きつけたのだ。
 見開いた目がぐつぐつと煮えた怒りに赤く染まっているように見えた。それが向けられていることを自覚すると——途端、胸に、粟立つような感覚。

「……人の心がわからない化け物だって?」

 その細い声には芯が通っていた。横田の声だ。横田の声は見た目によらず綺麗だった。それが今、怒りに満ちて低い所から絞り出すように外へ出てくる。

「気持ちがわからない私が化け物だっていうならさ、じゃあ、気持ちがわかれば化け物じゃないってこと? だったら気持ちがわかってて傷つけてる、傷つけあって仲良しこよししてる、そっちはどうなの? どう考えてもそっちの方が害悪な化け物でしょうが」

 まるで爆発寸前のような張り詰め方をした声色だった。感情は横田の中で音もなく爆発しているのかもしれない。そしてその大きな感情そのままの質量をもった言葉は、俺の心の真ん中に突き刺さった。それは初めて知った価値観と、初めて受け取った感情だった。

「おまえらみたいな人間が私をひとりぼっちの化け物にしてんだよ。おまえらの気持ちに向き合ってたら私はもうこの世に居ないわ。今だって似たようなもんじゃない。私は見下されて、クラスに居るのに存在しない扱いされてる」
「なんだ、わかってんじゃん。わかってんなら現状変えられるだろ? わかってて見ない振りすんのは努力の放棄だよ」
「なんで私がそっちに合わせる努力をする必要があるの? 見た目ばっかり気にしてマウントとりあわないと存在できないあんた達なんて猿みたいなものなのに。私は私を蔑ろにするような人と一緒になって他人を否定する仲間になんてなりたくない」
「でもおまえは今俺に同じようなことをやろうとしてるよな? 俺の殺し方っておまえが今言った人を否定することの最終形態なんじゃねぇの? 自分は良くても人は駄目ってか? おまえは何様?」

 ヒートアップしていた感情が、言葉になって口を出てくる度に胸の奥の熱さと共に抜けていくようで、爆発するような熱を発散すると、次は理性の中で反論する言葉を探しながら口を動かしていた。
 次はなんて言ってやろう。今この場に居るのは俺とこいつの二人だけだ。なんだって言って良い。どうせ証拠となる何かが増えた所で、俺がこいつに見せられないものなんてこれ以上ないのだから。
 にやりと口角があがろうとするのを抑えながら、もっと来い、もっと言わせろと心が躍動する。すると横田は一つ、溜息をついた。

「君、性格だけじゃなくて頭も悪いんだね。さっきも言ったけどこれは君が望んだことでしょう。もう忘れたの?」

 それはまるで仕切り直そうとでもするような対応だった。

「あのさ、よく考えてからものを言いなよ。たった一週間も耐えられなくて、喚き散らして情けない奴だな。良いんだよ? お望み通り今すぐ殺してあげようか。どうせ待ってんでしょ、校門で」
「! やめろ!」
「じゃあもう少し冷静になって考えようか。今、どちらの立場が上かってことを……あ、そっか」
「?」
「余命、決めてなかったね。だからいけなかったのか、そっかそっか。それは悪いことをしたな」

 そう言うと、いきなり今までのやり取りがなかったかのように怒りを手放して、「うーん」と考え込む横田の態度に呆気に取られた。けれどそのうちに急に投げ出されたような、置いてけぼりにされたような気分になって不満が募る。
 こっちはまだ納得いってないぞと。勝手に切り替えやがってと。……なぜだろう。怒らせて怒鳴りあうような事態よりずっと良いはずなのに。それで言いつけられたら困るはずなのに。

「うん、決めた。二週間」
「……二週間?」
「君の余命。二週間後、君を殺してあげる」

 そして横田は俺を見る。その力を漲らせた、決意を露わにした瞳で。

「ひとりぼっちの化け物からの全力のプレゼントだよ。精々残りの人生を君らしく楽しんでよ」

 そう言い残して一人、横田は図書室を出て行った。取り残された俺は告げられた言葉の意味を咀嚼すると、その実感に身体が小さく震えた。

 ——あと二週間。

 二種間後に、俺は死ぬ。殺される。
 あの、ひとりぼっちの化け物に。