小さな画面の中で、女の子が人形のように踊る。
ぱっちりとした二重、長いまつ毛、さらさらストレートのロングヘア。真珠のように輝く肌と、果物みたいな唇。
わたしは、嶋山美都里のショート動画を見る。
バズったアイドルの楽曲に合わせたダンスは、多少のぎこちなさがあり、うまいとはいえないが、逆にそれが美都里の可愛さを引き立てている。
画面をスワイプする。
次の動画も、ダンス動画のようだ。今度は胸から上のアップで手振りがメインのダンスだ。歌詞にあわせてぷくっとふくれたり、小さな口を開けて笑いかけたり、表情豊かな美都里は、曲のサビの終わりに手を振る。わたしに手を振っているようで、わたしはつい、画面に向かって小さく手を振り返す。
教室の中、朝のホームルームを待つ時間、わたしは美都里がSNSに投稿した動画を観ている。
嶋山美都里は、同じクラスの生徒だ。高校の入学式の日、校門で記念撮影をする美都里を初めて見たとき、その可愛らしさに目を奪われた。同じクラスで彼女を見つけたときは、高校三年間の運をすべて使い果たしたかと思った。
それから二ヶ月。わたしは、嶋山美都里を密かな推しとして、遠くから見ている。
教壇の周りから華やかな笑い声が上がる。美都里を含めた、可愛い女子たちのグループだ。
わたしは、化粧もしたことがないし、髪もセミロングというより肩についたおかっぱのようで、しかも少し天然パーマがあるから、いつも一つにくくっている。コンタクトにしたほうが良いんじゃない? とママに勧められるけれど、なんとなく怖くて、黒縁の眼鏡をかけている。
どう間違っても、クラスの一軍の女子たちの輪には入れない。
しかし、それで良い。アイドルと同じだ。推しは遠くから観ていられれば良いのだ。推しが楽しそうにしていることが、わたしの幸せだ。
「あ、颯斗! おはよう!」
美都里が教室の入り口に駆け寄る。背の高い男子があくびをしながら入ってきた。
「おはよう、美都里。朝から元気だな」
「颯斗もシャキっとしてよ」
美都里は、教室の中だということも構わず、弓井颯斗の腰に抱きついた。
「ちょっとー、美都里! 教室なんだからやめてよね」
一軍の女の子たちから非難の声が上がる。
「良いじゃん! 彼氏なんだから!」
美都里はブーイングをものともせず、颯斗に向かい合ってネクタイを直す。
「ネクタイ曲がってたよ」
「おー、サンキュ」
颯斗は美都里の肩をぽんぽんと叩いて、自席に向かう。わたしの目線は、美都里から颯斗に移った。
颯斗は、一言で言えば、イケメンだ。少し童顔でタレ目。長めの髪が似合う中性的な魅力があるが、背は高く、体もがっしりしている。サッカー部の期待のルーキーとして名高く、友達も多い。
颯斗は、わたしの隣に座る。席は、二週間前の席替えで偶然にも隣どうしになった。
「あ、あの、弓井くん。おはよ……」
「おはよう」
わたしにとって、このやり取りが限界だった。頬が熱くなる。颯斗の顔を見ることができない。
ちゃんとわかっている。わたしなんか、颯斗と話すことすら不釣り合いだ。頭では理解していても、つい横目で颯斗の一挙手一投足を追ってしまう。左手の甲に擦り傷を見つける。部活で怪我したのかな。心配だな。
颯斗は、わたしなんていないかのように、男子たちと談笑している。ただそれだけでも、輝いて見えた。
颯斗と初めて話したのは、入学式の日だった。
入学式の前、初めて校舎に入ろうとしたとき、わたしは美都里を目撃したあとでぼーっとしていて、昇降口前の階段で無様にも転んだ。
「おい、大丈夫?」
周りがヒソヒソと笑う中、わたしに手を差し伸べてくれたのが、そのときは名も知らなかった弓井颯斗だった。
かっこいい男の子は、わたしなんて空気のように扱う。良くも悪くも興味を寄せられたことなどない。しかし、颯斗はわたしに手を差し伸べて握り、立ち上がらせてくれた。
「大丈夫? 保健室どこかわかんないけど……探して行く?」
「あ、ううん! 大丈夫! ありがとう」
「そっか。気をつけて」
挙動不審なわたしを置いて、颯斗は颯爽と校舎に入っていった。まるで王子様だった。少女漫画のような展開に思えた。平凡なわたしにも、もしかしたら劇的な恋が生まれるのではないかと期待した。
さらに嬉しかったのは、颯斗とも同じクラスになれたことだ。美都里と颯斗。憧れの二人と一年間、教室をともにするということは、大変な喜びだった。
颯斗はサッカー部に入り、美都里はサッカー部のマネージャーになった。
五月の頭、大型連休の中日に、早くも美都里と颯斗が付き合い出したと聞いた。
そのときの感情をなんと表現したら良いのかわからない。
やはり、王子様には可愛いお姫様がいるのだ。わたしのようなぱっとしない女の子ではなく、お姫様のように光り輝く女の子が。
しかし、一種の満足感はあった。わたしは選ばれなかったが、わたしが憧れる美都里と颯斗が付き合い出したことは、自分の見る目が正しかったと肯定されるようだった。
わたしは、別のSNSを開く。もちろん、美都里のアカウントも颯斗のアカウントもフォローしている。フォローバックはされないけれど。
美都里の最新の投稿は、昨日のもののようだ。顔は写されておらず、繋いだ手の写真がアップされている。片方の細く長い指は美都里だろう。もう片方の、大きくゴツゴツとした手は、きっと颯斗だ。甲にさっき見つけた擦り傷がある。
横目で隣の颯斗を見る。机の上に置かれた手は、男の子らしいいかつさがある。美都里と繋いでいたのは、あの手だ。
あの手が優しく包んでいるのは、わたしの短く子供のようにぷくぷくとした指なんかではない。すらりとした美都里の指。
颯斗の手にふさわしいのは、わたしの手ではない。美都里の手。
わたしは、スマートフォンを鞄にしまい、授業の準備を始める。美都里が女の子たちとはしゃぐ甲高い笑い声と、颯斗が男の子たちと話す低い声が、別々の場所から聞こえるのに、一つの楽曲のように調和して聞こえた。
大型連休はあっという間に過ぎ去った。高校でできた友達と映画を見に行ったり、両親と買い物に行ったりして、それなりに充実していた。
わたしは、学校終わりにSNSの投稿欄を見ながら、帰路につくためグラウンドの横の通路を歩いていく。
友達との時間も、両親との時間も楽しかった。その思い出の写真を眺める。しかし、そこに颯斗はいない。当たり前だ、颯斗は美都里の彼氏なのだから。
颯斗のアカウントを見ると、美都里とテーマパークに出かけた写真がたくさん投稿されていた。キャラクターのかぶりものをした二人が頬を寄せ合って、カメラに向かってピースしている。美都里も颯斗も、とても可愛い。
ため息をついて、スマートフォンを鞄にしまったのと同時だった。
「危ない!」
「え?」
わたしが間抜けな声を発したのと同時に、右側頭部に衝撃があった。思わずわたしはしゃがみ込む。
熱くて痛い。右目を開けられず、左目だけで状況を確認すると、わたしの少し前にサッカーボールが転がっていた。おそらく、これがぶつかったのだ。
「ごめん! 大丈夫?」
わたしに影がかかる。この声は、颯斗だ。サッカー部の練習横を通っていたようだ。気づかなかった。
大丈夫、と返したいのに痛みで返事ができない。
「えー! 颯斗、何やってるの! ねぇ、大丈夫ですか!?」
今度は可愛らしい声がした。
「コントロール効かなくなっちゃったんだよ。立てそう? 大丈夫? 隣の席の倉田さんだよな?」
名前を呼ばれた。覚えていてくれたんだ。感激して、ボールが当たったところを押さえながら、思わず見上げる。左目だけで見る世界には、逆光になった二人の人影が見えた。目が慣れてくると、それは颯斗と美都里だとわかった。
「同じクラスの子だよね?」
「そう、倉田さん。下の名前はわからないけれど」
「倉田さん、本当にごめんね。かなり高く上がっていたボールだったから痛いと思う。立てる? 保健室行こう?」
頭の痛みを忘れるほどの嬉しい申し出だった。美都里は、心底心配そうな声で、わたしの横にしゃがんで、肩に触れる。
「俺が連れて行くよ。俺のやったことだし」
「こういうのは女子どうしで行ったほうが良いよ。ね、倉田さん」
美都里はわたしの顔を覗き込んで、花のように笑った。
わたしは、あまりの可愛らしさに、呆然としながらも、ゆっくりと頷いた。
颯斗は、わたしに何度も謝ってから、サッカー部の練習に戻っていった。わたしも何度も「大丈夫だよ」と言った。颯斗はきっと、あの入学式の出来事なんか、覚えていないが、相変わらず優しかった。
「行こうか。鞄持つよ。本当にごめんね」
わたしはまだボールが当たったところから手が離せない。本気で痛かった。
「ありがとう、嶋山さん」
初めて美都里と言葉を交わした。推しに認知してもらえた。ボールが当たったのは痛かったが、颯斗と美都里と話ができた。まさに怪我の功名。
美都里は、甘い声で驚く。
「わたしの名前、知ってるの?」
「うん。わたし、倉田千暁。よろしくね」
「千暁ちゃんね! わたし、嶋山美都里! よろしく!」
ちょうど今日の太陽のように、光り輝く笑顔に思わず見惚れる。名前を呼んでもらえた。千暁ちゃん……。千暁ちゃん……。
「どうしたの? あ、痛いよね。本当にごめんね、颯斗のノーコンが」
ぷりぷりと怒る様子も可愛い。何をやっても可愛い。こんな気持ち悪い感情、口に出せないけれど。
「少し痛みも落ち着いてきたよ。ごめんね、大袈裟にしちゃって」
「大袈裟なんかじゃないよ! 頭だしね。ちゃんと診てもらおう」
美都里とわたしは手を繋いで、美都里が先導するように歩く。ぷくぷくとしたわたしの子供のような手に、美都里の細く長い指が絡まる。ひんやりとしたそれは、わたしとは別世界の存在であると主張しているようだった。
この手が、手の甲に擦り傷のあるゴツゴツした手だったらな……。
ふと思い浮かんだ感情に、わたしは頭を軽く振る。推しと手を繋げているのに、なんてことを考えているのだ。
「いたっ」
つい、頭を振ってしまったせいで、鋭い痛みが走った。美都里が振り返る。眉を八の字にしている。
「痛いよね……。手で押さえてるけど、ちょっと色変わってきちゃったのが見える。本当にごめん。女の子の顔なのに」
わたしの顔なんて、「女の子の顔」と言ってもらうほどのものでもない。もともとブサイクなのだから。
それでも真摯に謝ってくれる美都里は、本当に良い子だと思う。わたしは、憧れを深くする。
「ううん、運が悪かっただけだよ。弓井くんも嶋山さんも悪くないよ」
「やだっ! 嶋山さんなんて、なんかキョリ遠いじゃん! 美都里って呼んでよ」
とんでもない依頼に、わたしは目を白黒させる。
「え? え? 良いの?」
「何が?」
美都里は、不思議そうに首を傾げる。授業中は下ろしている、ポニーテールにした髪が、さらりと揺れた。
「えっと、じゃあ……美都里ちゃん」
「やった。こんなことがきっかけだけど、同じクラスだし、仲良くしてね。千暁ちゃん!」
このまま死ぬのではないかというほどの幸福感だった。わたしなんかが良いのだろうか、という怯みは見なかったことにして、わたしは傷に響かないように小さく頷いた。口角が上がる。
「うん、よろしくね。美都里ちゃん!」
養護教諭の東野先生が顔を歪める。
「あー、これは腫れるかも。ちょっと青くなってきちゃっているね」
東野先生は看護師の資格も持っている。わたしは、氷嚢で患部を冷やしながら、東野先生を見上げる。
「当たったのが頭だから、少しでも吐き気とか頭痛とかあったら、救急に行って。そうじゃなくても、一度病院で診てもらったほうが良いと思う」
今日はママの仕事がお休みの日だ。この顔で帰ったら、何があったか聞かれるから、病院に連れていってもらおう。
「わかりました。帰ってから、病院に行けるか親と相談してみます」
「症状が出たら、急いでね」
美都里が不安そうな目でわたしを見る。
「本当にごめんね……」
わたしは思わず笑ってしまう。
「美都里ちゃんのせいじゃないよ。弓井くんのせいでもない。運が悪かったんだよ」
「確かに、頭にジャストで当たるなんて、なかなか不運だったわね」
三十代前半くらいの東野先生は、竹を割ったような性格で、話しやすい。美都里が東野先生に訊く。
「ねぇ、先生。痕って残りますか?」
「この青痣は治ると思うけれど……それも含めて病院で相談したほうが良いかもね」
「そう、ですか……」
美都里は、胸に手を置く。
「大丈夫だよ、美都里ちゃん。冷やしたらだいぶ痛みも良くなってきたし、あとは病院で相談するから」
「うん……。そう言ってくれるとちょっと救われる。優しいね、千暁ちゃん」
微笑む姿は、聖女のようだ。聖女なんて、見たこともないけれど。
東野先生が代わりの氷嚢を持ってきてくれた。
「倉田さんはもう少し冷やしてから帰ってね。嶋山さんは、戻って良いよ」
その言葉でわたしはやっと気づく。
「そうだ、美都里ちゃん。部活に戻って。わたしのことなんかでサッカー部を放っておいたらだめだよ」
「『なんか』じゃないから! 大切だから!」
美都里の優しさに涙が出そうになる。きっかけは見た目の可愛さだったが、性格も最高だ。わたしは美都里を推していて、本当に良かった。
あくまで平静を装って答える。
「ありがとう、美都里ちゃん。でも、大丈夫だから。むしろ、ごめんね。大ごとにしちゃって」
「大丈夫? でも、わたし、ここにいても何もできないし……本当にごめんね。部活に戻るけど、お大事にね」
「うん。保健室に連れてきてくれてありがとう」
美都里は何度も振り返りながら保健室を出ていく。最後に小さく手を振って、扉を閉めた。
いつも、わたしはSNSの動画の美都里に向かって手を振っていた。でも、今、美都里は明確にわたしに向かって手を振ってくれた。わたしだけのために。
「仲が良いのね」
東野先生の声に、わたしは満面の笑みで答えた。
「はい!」
怪我は痛かったけれど、最高の日だ。
翌日、登校すると、わたしを見つけた美都里が飛んできた。
「千暁ちゃん! おはよう! 大丈夫だった?」
憧れ続けた笑顔をまっすぐに向けられて、わたしは動揺してきまう。
「え……もしかして、検査の結果、良くなかった……とか?」
その笑顔が曇り、わたしは我に返る。
「あ! えっと、おはよう。ごめんね、驚いちゃって! 検査は問題なしだったよ。青痣もそのうち治るって」
美都里の顔がぱっと明るくなる。ころころ変わる表情は、心の内をそのままに表しているようで、とても可愛い。
「良かった! 心配してたんだ。昨日連絡先聞き忘れちゃったから。メッセージのID教えて!」
美都里がスマートフォンを持って、わたしを見つめる。朝の光を反射した瞳は、宝石のようにきれいだ。
まさか、美都里がわたしに連絡先を聞いてくれるなんて。
「クラスのグループメッセージにいるよ。普通に本名でやっているから、見つかると思う」
「あー! そうだね! そういえばそうだ! なんで思いつかなかったんだろう! あとで見つけてDMするね!」
今度は大きな素振りで頭を抱える。どんな表情もサマになるから、羨ましい。
「ありがとう」
教室のあちこちから、視線を感じる。「嶋山さんって、倉田さんと仲良かったの?」「なんか……似合わない感じ」「そんなこと言っちゃだめだって」
密やかな嘲笑が聞こえてくる。わたしは、下を向いた。きっと顔は真っ赤だろう。
わたしなんかが美都里と仲良くするなんて、身の程知らずなんだ。わかっていたのに、調子に乗った。
情けない。
「ねぇ! わたしに言いたいことあるなら直接言えば? わたしが千暁ちゃんと仲良くしたいだけなんだけど? なんか問題あるの?」
勝ち気な声は、美都里のものだった。顔を上げる。
「ね、千暁ちゃん」
美都里は、ニッと笑った。陰口をたたいていたクラスメイトは、居心地悪そうに、その場から立ち去った。
美都里は、わたしの両手を、そのきれいな両手で包む。
「ねぇ、千暁ちゃん。今日のサッカー部の練習、休みなの。顧問の宮原先生が用事で。昨日のお詫びに、ドリンクおごるよ」
「え! そんな! そもそも、昨日のことは事故で、美都里ちゃんのせいじゃないし」
「じゃ、普通に遊びにいこう! 放課後にね!」
美都里は強引に約束を取り付けると、いつものグループの中に戻っていった。わたしは、一人取り残された。
「んー! おいしい! この新作、飲みたかったんだよね」
有名なチェーン展開のカフェで、わたしと美都里は向かい合っている。推しと一緒にお茶をするなんて、夢かもしれない。試しに手の甲をつねってみる。ちゃんと痛いし、わたしの部屋のベッドからの視界に戻らない。つまり、現実だ。
「何やってるの?」
わたしを大きな瞳が見つめる。カラコンを入れているのだろうか。赤みがかった茶色の瞳は、美都里によく似合う。
「ううん、気にしないで。本当に大丈夫だったのに。いつものグループの子といかなくて良かったの?」
「今日は千暁ちゃんと遊びたかったから」
その言葉に、濁りはないように感じた。美都里がわたしの何を気に入ったのかわからないが、わたしは嬉しい。
「ゆ、弓井くんは?」
思わず声が上擦ってしまった。気づかれなかっただろうか。
「颯斗は、今日、友達とゲーセンだって」
美都里は、つまらなさそうにドリンクを太いストローでかき混ぜる。
──今日は千暁ちゃんと遊びたかったから。
そうは言っていたが、本当は颯斗といたかったのだろう。颯斗と一緒にいないところをいつものグループの子たちに見られたくなくて、わたしを誘ったんだと直感した。
美都里が急に遠く感じた。
しかし、すぐに思い直す。わたしみたいな地味な子と遊んでくれるんだから、感謝しないと。だって、美都里はわたしの推しなのだもの。
わたしは、空気を変えるように、いやにテンション高く話す。
「でも、連休に遊びに行ったんでしょう? SNS、見たよ! 二人とも可愛かった」
美都里がわたしに目線を合わせる。長く伸びたまつ毛がきれいだ。口角がキュッと上がっている。
「そうなの! 颯斗ってば、すごくはしゃいじゃって」
「へぇ、弓井くんってクールっていうか、淡々としているイメージだった」
「そうでしょ? でもね、颯斗、本当に可愛いんだよ! 二人きりだとべったりなの。甘えん坊でね。ハグもキスも大好きで、優しいんだ」
胸が突き刺されたように感じた。
美都里とはしゃぐ颯斗。
美都里に甘える颯斗。
美都里を抱きしめて……キスする颯斗。
どれも、わたしの知らない颯斗の姿。
美都里にだけ見せる、特別な姿。
「き、キス……」
思わず漏れた声に、美都里はいたずらっぽく笑う。
「やだ、千暁ちゃん、耳が真っ赤! キスなんて普通でしょ? わたしたち、もう高校生なんだよ」
わたしは、取り繕うように言う。
「そ、そうだよね。わたし、彼氏ってできたことないから……」
「えー、千暁ちゃん、可愛いのに。メイクしたらきっともっと可愛くなるよ。せっかくうちの学校、うるさくないのにさ。あ、メイクといえば颯斗がこの間、このリップを褒めてくれて……」
美都里は楽しそうに颯斗を語る。わたしは頷いて相槌を打つ。
美都里は可愛い。美都里は優しい。わたしの自慢の推しだ。わたしは今、推しと過ごせてとても幸せだ。
なのに、何故わたしは涙をこらえながら、ストローを噛んでいるのだろう。
唇を重ねる美都里と颯斗の想像が止まらない。颯斗は、うっとりとしたまなざしで、繊細に美都里の髪を撫でて、頬に手を添えて、唇を落とす。見たこともないのに、ありありと目に浮かぶ。
その颯斗の視線の先にいるのは、わたしではなく、美都里。颯斗の腕の中にいるのは、わたしではなく、美都里。
「ねぇ、千暁ちゃん、聞いてる?」
美都里が不満そうに口をとがらせる。わたしは、薄くにじんだ美都里を見ながら目を細める。
「うん、聞いてるよ。そのリップを弓井くん以外の人の前で塗っていると、弓井くんの機嫌がちょっと悪いんだよね」
美都里は、満足そうに頷く。
「うん! 可愛いよね。独占欲なのかな」
「きっとそうだよ。だって、美都里ちゃんはとっても可愛いし、優しいもの」
胸を引き裂かれそうになりながら、わたしは続けて言った。
「弓井くんは、美都里ちゃんのことが大好きなんだよ」
ああ、わたしはちゃんと笑えているだろうか。
推しの幸せがファンの幸せ。だから、美都里が颯斗と恋をして幸せなら、わたしはそれを応援する。
応援しなければならない。
わたしのもとに、王子様は来ないのだから。
キラキラした青春を送る美都里は、わたしと別世界の人間なのだから。
颯斗には、美都里がいるのだから。
颯斗の目に、わたしは映らないのだから……。
雨の日だった。
美都里とお茶をした日から、わたしの心は沈んでいる。美都里のSNSを見ては、ため息をつく。
美都里は何も変わっていない。可愛くて、優しい。いつものグループにいながら、わたしを気にかけて、話しかけてくれる。推しと他愛もない話ができるのは幸福だ。
しかし、頭から美都里と颯斗の妄想が離れない。わたしが一人で自室にいるときも、夜寝る前も、いつも二人のことを考えている。
今、二人はどこかで手を繋いで歩いているのかな。
メッセージのやり取りで「好きだよ」と気持ちを確かめあっているのかな。
二人きりになれる場所で、頬を染めてキスをしているのかな。
考えてもきりがない。この永遠とも思える思考に終止符を打つ方法は、ある。
颯斗を諦めてしまえば良いのだ。どうやっても、颯斗はわたしなんかを好きにはならない。希望なんて、ひとかけらもない。
もう、颯斗を忘れて、美都里のことだけ応援していこう。そう思いながら、昇降口でスニーカーに履き替える。赤い傘を持って広げると、隣に背の高い男子が並んだ。
颯斗だ。
「あ、弓井くん……」
「あれ、倉田さん。帰り?」
「うん。そっか、今日は雨だから部活がないんだね。美都里ちゃんは?」
「そう。体育館での自主練も、ほかの部活との兼ね合いでできなかったから、休み。美都里は友達と寄り道するって。前、ボール当てちゃったところ、だいぶ色薄くなってきて良かった」
颯斗と自然に話せていることに、心が躍る。わたしは、どうすれば良いのだろう。どうすれば、気持ちに区切りがつけられるのだろう。
「じゃ、お疲れ」
颯斗がワイヤレスイヤホンを耳に挿し、スマートフォンを操作すると、大音量の重低音が雨音の中に響いた。
「やべっ! 接続できてなかった!」
慌てる颯斗は、うまく音楽を止められない。
「それ、深海クロロホルム?」
思わずわたしは聞いてしまった。
「え、深クロ、知ってるの?」
まだ鳴り続けているベースとギターの音に、颯斗の声が重なる。
「うん、お兄ちゃんが好きで聞いていたんだけど、わたしもけっこうハマっちゃって。クセになるよね」
深海クロロホルム、略して深クロは、二年ほど前にメジャーデビューをした男性四人組のバンドだ。歌番組にばんばん出演するような有名バンドではないが、ロックフェスなどにはよく出演しているので、音楽好きの間では知られてきたと思う。
「うわ、マジ!? 女子で深クロが好きな人なんて、初めて会った! どの曲が好き?」
「一番はやっぱりメジャーデビュー曲だけど、インディーズ時代の曲も尖ってて良いよね。音楽で信念を伝える! って感じがして」
「わかる! わかる! メジャーデビューも良かったし、めでたいんだけど、ちょっとカドが取れた感じがするよな! てか、インディーズ時代も知ってるの!? すごくない!?」
「好きなだけだから、すごくはないよ。でも、この間の新曲は、インディーズのときに近くてかなり好き」
「めっちゃ同意! なぁ、駅まで一緒に帰らない? こんなに深クロのこと話せる人、初めて!」
颯斗は、興奮して声も手振りも大きくなっている。
──そうなの! 颯斗ってば、すごくはしゃいじゃって。
美都里が見た、テーマパークでの颯斗は、こんなふうだったのだろうか。だとしたら、わたしは、美都里が見た颯斗と同じ颯斗を見ている。
美都里だけじゃない。わたしだって……。
美都里と同じステージに立てたような気すらする。そんなのはもちろん気のせいで、わたしは美都里に憧れるただのファンなのだけれど、こんなときくらい、思い上がりたい。
颯斗との帰り道は、叩きつける雨の中であることを忘れるほどに楽しかった。
深海クロロホルムは、わたしも本当に好きなバンドだったので、話はどんどん弾む。「三曲目、まさかバラード出すと思わなかった」「あの曲はイントロのドラムの音が気持ち良いよね」「隠されたキーボードの音が最高にクール!」
いくらでも話せる。わたしも、深海クロロホルムが好きな人には初めて会った。あまり、男の子と会話することもないし、女子が好きなタイプのバンドではない。
颯斗から、お兄ちゃんが唯一手に入れられなかったインディーズ時代のCDを借りる約束をした。
深海クロロホルムは、音楽サブスクリプションサービスでも楽曲配信をしているが、そのCDにしか入っていない幻のボーナストラックがあることは有名だった。それゆえに、入手困難なCDだったのだけれど、颯斗はそれを持っているという。
「ありがとう! わたしも聴きたかったし、お兄ちゃんもきっと喜ぶよ!」
「やっぱり音楽はいろんな人とシェアしていかないとな! 明日持ってくるよ!」
「楽しみ!」
駅に着いた。名残惜しいが、颯斗とわたしでは乗る路線が違った。ここでお別れだ。
「深クロの話ができて楽しかったよ! 倉田さん、もっと笑えば良いのに」
颯斗の言葉に鼓動が跳ねる。
「え、わたし、そんなに笑ってないかな」
「笑ってない、っていうか、今日の笑顔はいつもと違う気がした!」
それはあなたが隣りにいるからだよ、なんて言えるはずもなく「そう?」とだけ返す。
「じゃあ、明日な!」
「うん、バイバイ」
改札をくぐり抜け、颯斗と別々のほうへと歩いていく。
濡れた床で、思わずスキップしそうだった。楽しかった。はしゃぐ颯斗は、可愛かった。明日の約束もできた。
わたしは、騒ぐ胸を押さえて、うつむきがちに歩く。こんなゆるみきっただらしない顔、通行人にすら見せられない。
翌朝、颯斗はわたしの席の隣りに座り、CDを渡す。
「これだよ」
傷がついて年季が入っているのがわかる。きっとたくさん聴いたのだろう。
「わ、ありがとう! 家に帰ってお兄ちゃんと聴くよ」
「ボーナストラックは三曲目だよ。聴いたら感想教えて! 昨日話した感じ、多分倉田さんが好きなタイプの曲だと思うし」
颯斗は、大型犬が尻尾を振るように嬉しそうに話す。
そこに、美都里が登校してきた。わたしと颯斗の様子を見て、眉をしかめている。
わたしの視線に気づいた颯斗が振り向くと、颯斗は美都里は手招きした。
「美都里!」
美都里は、警戒心を隠さずわたしと颯斗の席に歩み寄る。
「どうしたの。二人、そんなに仲良かったっけ?」
颯斗が笑顔で話す。
「ほら、俺、深海クロロホルムってバンド好きだろ。倉田さんも好きだったみたいでさ、昨日の帰り道に話が盛り上がって、倉田さんが手に入れられなかったインディーズ時代のCDを貸していたんだよ」
「あの、いかつい感じの音楽? 千暁ちゃん、あんなの好きなの?」
好きな音楽を「あんなの」と言われたことは引っかかったが、わたしは笑顔で頷く。
「うん。お兄ちゃんが好きで、そこから入ったんだけど、格好良いと思うよ」
「ふうん……ねぇ」
美都里は棘棘しい雰囲気で言う。
「千暁ちゃん。今日、一緒に帰ろ」
「え、でも……」
「サッカー部どうするんだよ」
颯斗の指摘に、美都里は冷たい視線を向ける。
「昨日の雨でグラウンドまだ使えないじゃん。体育館練習もなしって、さっきメッセージ連絡来たよ」
颯斗がスマートフォンを取り出して「本当だ」と呟いている。
「やった。じゃ、決まり」
美都里は、わたしの両手を取って包み込む。ラベンダー色に塗られた爪が、わたしの甲に強く刺さった。
美都里と、駅前にあるハンバーガーが売りのファストフード店に入る。
美都里はドリンクだけ買ったので、わたしもそれに倣ってドリンクを買う。
ちょうど空き席ができたところに、二人で滑り込む。
ここまで来る間、ほとんど美都里と話さなかった。颯斗と近づきすぎてしまったことが原因だろう。颯斗と話せたことは嬉しいが、美都里を悲しませるのは本意ではない。わたしの中で、この二つの感情は両立する。
美都里はテーブルに頬杖をつく。
「単刀直入に訊くけどさ、颯斗のこと、好きなの?」
美都里の言った「単刀直入」のという言葉のとおり、刀で貫かれたような衝撃だった。
答えなければならない。でも、口がうまく動かない。
目の前にいるのは、わたしの推し、嶋山美都里なのだ。可愛くて、優しくて、わたしの理想の女の子。それに比べて、わたしは垢抜けないブス。
颯斗の彼女である美都里に、「颯斗のことが好き」だなんて、わたしのような女が言うのは滑稽すぎる。
わたしは、ギギギ、と音が鳴りそうに固い動きで、顔を上げる。涙をこらえるので精一杯だ。とんでもなく情けない顔をしているだろう。
「まず……誤解してほしくないんだけど」
「うん」
「わたしは、美都里ちゃんと颯斗くんがうまくいってほしいの」
美都里の目が丸くなる。わたしは続ける。
「美都里ちゃんは可愛いし、颯斗くんも、その、格好良いし、とってもお似合いで、とっても幸せそうだから、二人にはずっとそうしていてほしいの」
美都里は、頷きながら、わたしの話を聞いている。
「昨日、颯斗くんと帰ったのは偶然で、本当に偶然で……。たまたま好きなバンドが同じで盛り上がっただけで、美都里ちゃんを悲しませるつもりはなかったの。本当に、ごめんなさい」
わたしは、座ったまま、深々と頭を下げる。
「……事情はわかったよ」
美都里の言葉から、棘が消えたような気がした。
「ごめん、わたしも嫉妬深いほうだから、つい感情的になっちゃった。颯斗は、わたしにとって、大切な人なの。大好きなの。……千暁ちゃんはそういうのじゃないんだよね?」
美都里からの念押しに、わたしは嘘を舌に乗せる。
「うん。ただの音楽好きどうしの会話だよ」
「そっか。……良かった」
美都里は、やっと微笑んだ。伏し目がちに微笑む姿は、絵になるような美しさだ。
美都里のことが好きだ。美都里と颯斗に仲良くしていてほしいと思う。でも、颯斗に恋している。
矛盾している感情に、体ごと引き裂かれそうになる。
わたしは拳を強く握る。爪が掌に刺さる。心が痛いより、体が痛いほうが、ずっとましだ。
翌日、颯斗にCDを返して一通り感想を言った。颯斗は嬉しそうにしていたが、わたしは当たり障りない返答をして、なるべく颯斗を避けるようにした。
美都里にきらわれたくなかった。
颯斗は不思議そうにしていた。
ある土曜日だった。
わたしは、大きな駅のある街に来ている。大型書店で話題作を探そうと思ったのだ。音楽サブスクサービスに無線イヤホンをつなぎ、人波を歩く。深海クロロホルムの音楽だけを集めたプレイリストだ。
道路を挟んで反対側の道に、見慣れた顔を見つけた。
美都里と颯斗だ。
二人は、クレープの屋台の列に並んでいる。わたしはその場にくぎ付けになったように、動くことができない。
クレープを受け取った二人は、近くに置かれたベンチに座り、写真を撮る。二人で食べさせあって、笑い合う。そして、人前にも関わらず、二人は軽くキスをした。
楽しそうだ。
幸せそうだ。
美都里が幸せなら……わたしも幸せだ。
そうに決まっている。そうなんだ!
わたしは、自分に言い聞かせて踵を返す。駅に向かって走り出す。誰かにぶつかって「すみません!」と叫ぶ。耳では低くドラムとベースが鳴り、ギターが荒れ狂い、ボーカルが叫ぶ。
当たり前の光景なのに、初めてわたしは理解したように思える。美都里と颯斗は、恋人なのだ。
美都里は可愛くて、きれいで、優しくて、わたしの推しだ。なのに、今は、美都里を応援できない。
どうしても考えてしまう。颯斗の隣りにいるのが、わたしではないのかと。
颯斗は、転んだ私に手を貸してくれた。
颯斗と音楽の話をして、楽しかった。
颯斗の生き生きと笑う顔は、可愛かった。
わたしは、息が切れて膝に手を置く。通行人はわたしを気にしながらも、一秒後にはその存在を忘れるだろう。
ふと、横を見ると、マネキンが飾られた、大きなガラスウィンドウがある。
そこに映っていたのは、無様な女の子だった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔に、黒縁の眼鏡はずれている。ロングTシャツとデニムに真っ黒なスポーツブランドのリュックという味気ないコーデと、汚れたスニーカー。一つくくりの髪は、ゴムがゆるんで、落ち武者のようにおくれ毛が垂れている。
わたしは、その場で立ちすくみ、コンクリートの道にしみを作る。
こんな女の子、誰からも愛されるわけがない。
家に帰ると、テレビがつけっぱなしになっていた。
夕方のワイドショーで「推し活ブーム」を題材にした特集をしている。
わたしは、動く気力もなく、手も洗わずにソファに座り込む。ぼんやりとワイドショーの特集を見ていた。
男性アイドルグループを推しているという女子大学生のインタビューが映る。男性レポーターが質問する。
「何故、推しを応援するのでしょうか」
女性は困ったような、照れくさいかのような素振りで耳に髪をかける。
「えー……格好良いからですけどぉ、一番は推しを応援したいんです。推しにもっと活躍してほしい」
「もっと活躍してほしいのは何故ですか?」
「え、あまり考えたこと、なかったなぁ。そうだなぁ。うーん、わたし、何者でもなくて、可愛くもないし何かに秀でているということもなくて、普通というか、凡人なんですけど、推しを推していると、わたしの夢を託せる感じなんですよ」
「夢を託す?」
「わたしは、あんなふうにステージでキラキラすることもできないし、平凡な人生を歩むんだなぁと思っていて。もちろん、それが悪いわけじゃないんですけど、推しを推すことでそのキラキラを分けてもらえるというか……だから、応援しています」
レポーターは、次のインタビューに移っていく。
──推しを推していると、わたしの夢を託せる感じなんですよ。
インタビューを受けた女子大生はそう言っていた。
わたしは、美都里を推して応援する。一般人の美都里に対しては、SNSにいいねしたり、投稿をシェアしたりすることくらいしかできないけれど。
それでも、応援していた。
でも、本当に応援したかったのは、わたし自身なんじゃないだろうか。
わたしは、美都里になりたかった。
その理解は、すとんと腑に落ちた。
わたしは、美都里を推すという言い訳で、自分が変わることから逃げてきた。美都里という素晴らしい推しがいて、わたしの夢も希望も託せるのだから、わたしは変わらなくて良いと思った。
変われないと思った。
本当?
自分に問いかけてみる。わたしは美都里になることはできない。でも、美都里のように素敵な女の子を目指すことはできるのではないだろうか。
美都里だって、完璧ではない。嫉妬深いし、ちょっと短気なところもある。わかっているのに、わたしは理想像を美都里に押しつけて、勝手なイメージを押しつけて、いや、「推し」つけていた。
わたしが変わったら、美都里への憧れは変わる?
そんなこと、答えなんてもう出ていた。
翌日の日曜日、わたしは初めて行くヘアサロンを予約した。その後、日曜日もやっている眼科を調べる。本屋に行く時間はなかったから、電子書籍で中高生向けのファッション雑誌を買って、タブレット端末に穴があくのではないかというほど、読み込む。そして、ありったけのお小遣いを持って、大型のドラッグストアに赴いた。
月曜日、わたしは緊張して教室の扉を開ける。
自席につくと、ざわめきが起きたことに気づいて、つい顔を俯ける。「あれ、倉田さん?」「え? 千暁? 全然雰囲気違うじゃん」「え……可愛くないか?」
席の横に誰かが立った気配がした。上を向くと、美都里が驚いた顔で立っていた。
「ち、千暁ちゃん?」
「……美都里ちゃん。おはよう」
「え、どうしたの?」
「今日、部活ある? 帰り、お茶したいな」
わたしは、美都里の目を見て、ゆっくりと話す。美都里は頷いた。
「一日くらい休んでも大丈夫だよ」
「ありがとう」
美都里は、わたしの横を離れた。入れ替わりで颯斗がやってくる。
「え、倉田さん?」
「弓井くん、ありがとうね」
脈絡なく礼を言われた颯斗はぽかんとしてる。
「わたし、美都里ちゃんと弓井くんのおかげで、変われそう」
わたしは笑う。颯斗は、軽く頭を振ってから言った。
「良くわからないけれど、倉田さんが良いと思った方に行けば良いと思うよ」
「うん」
「また、深クロの話、しような」
「……うん!」
わたしは、初めて颯斗の目を見て笑うことができたかもしれない。
以前にも美都里と来たことがあるカフェで、アイスのカフェラテを頼んだ。目の前には、美都里がいる。
「本当に変わったね」
美都里がしみじみとわたしを見て言った。
わたしは、くせ毛を活かしたショートカットに、直径が大きすぎないサークルレンズを入れている。ファッション雑誌を参考に、眉を整え、軽く化粧をしていた。
「へ、変かな?」
まじまじと見つめられて気恥ずかしくなったわたしは、照れ隠しに笑う。
「そんなわけないじゃん! ショートカット、すごく似合ってる! メイクもしているし……どうしたの?」
わたしは、話すことを整理しようとしたが、うまく言う自信がなかったので、言葉に委せることにした。
「わたし、美都里ちゃんを推していたの」
「推し?」
美都里は首を傾げる。
「うん。憧れ、みたいな」
一呼吸おいて、わたしは続ける。
「わたし、美都里ちゃんになりたかった」
美都里は、真剣に話に聞き入っていた。わたしは、カフェラテを一口飲む。ミルクの甘みとコーヒーの苦みが、口の中で混ざり合う。
「美都里ちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
「何?」
美都里は、柔らかく、丁寧に尋ねた。わたしは、こくりと頷いて言う。
「わたし、入学式の日から、ずっと弓井くんのことが好きだった。嘘をついていて、ごめんね」
美都里は、抹茶ミルクティーをストローでひと混ぜする。
「……知ってた」
「だよね。でも、美都里ちゃんと弓井くんにうまくいってほしかったっていうのも、本心。これだけは信じてほしい」
カフェに流れるジャズミュージックが心をリラックスさせてくれる。
「好きな男子が別の女子と付き合っていて、それを応援するなんて、あり得るの?」
「わたしの場合、あり得たの。だって、美都里ちゃんは、推しだったから。推しには幸せでいてほしい。でもね」
もう一口、カフェラテを飲んでから続ける。
「わたしは、土曜日にデートしている二人を偶然見たの。幸せそうだった。弓井くんの隣にいるのは、美都里ちゃんで、わたしではない。つらかった。でも、そのことで、わたしは、美都里ちゃんにはなれないって、ちゃんと理解できたの」
「見られてたか」
美都里は、ぺろりと舌を出して肩をすくめる。
「お似合いだったよ。それでね、考えたの。わたし、美都里ちゃんに憧れてばかりで、自分のことから目をそらしてきたんだって気づいた。わたしは全然イケてなくて、ださくて、つまらない女の子だった。美都里ちゃんみたいな素敵な女の子になんてなれないから、わたしの理想を美都里ちゃんに託して、わたしはわたしから逃げていたの」
「それで……見た目を変えたの?」
「中身も変えていきたいよ。人に優しくして、たくさん笑ってたくさん泣いて、わたしらしい素敵な女の子になりたい。その一歩目が見た目だったっていうだけ」
わたしぐっと胸を張った。
「わたしは、美都里ちゃんにはなれないから」
美都里は微笑む。
「颯斗のことは?」
「みっともなく泣いて、決意して、髪を切って、わたしの中でちゃんと失恋したよ」
美都里は、目を伏せてつぶやいた。
「そう、か……」
「信じてもらえないかもしれないけど、わたし、新しい自分で新しい恋も友情も見つけたい」
わたしは天井を仰ぐ。
「世の中さ、中高生は青春してる、キラキラしてる、なんて勝手に言うじゃない? でもさそんなに綺麗なことばかりじゃないよね。憧れとか嫉妬とか失恋とか、ほかにもうまくいかないことばかり。わたし、不貞腐れていたんだと思う。わたしに綺麗な『青春』なんて関係ないって。美都里ちゃんを推すことで、自分のことは見ないふりしていた」
「うん、わかる」
「これからもうまくいかないことはあると思うの。それでも、一つ一つ乗り越えていきたい。わたしも、美都里ちゃんみたいに優しくて可愛い女の子になりたいし、新しい恋もしたい」
美都里がわたしの頬を軽くつねった。わたしは驚いて身を引く。
「千暁ちゃん、良い顔してる。可愛くなったっていうのももちろんだけど、なんだろう、吹っ切れたというか、覚悟が決まったというか、強い雰囲気がある」
「そうだね、強くなりたいな。わたしは、弱いから」
美都里は、わたしの頬をはなすと、わたしが心底憧れた笑顔で訊いた。
「わたしを推すのもやめる?」
わたしは、ニッと笑う。
「美都里ちゃんとは友達でいたい。でもね、推すのはやめないよ。美都里ちゃんはずっとわたしの目標」
わたしは宣言した。
「嶋山美都里はわたしの推しです」
カフェラテのストローに、歯型はついていなかった。
〈了〉
ぱっちりとした二重、長いまつ毛、さらさらストレートのロングヘア。真珠のように輝く肌と、果物みたいな唇。
わたしは、嶋山美都里のショート動画を見る。
バズったアイドルの楽曲に合わせたダンスは、多少のぎこちなさがあり、うまいとはいえないが、逆にそれが美都里の可愛さを引き立てている。
画面をスワイプする。
次の動画も、ダンス動画のようだ。今度は胸から上のアップで手振りがメインのダンスだ。歌詞にあわせてぷくっとふくれたり、小さな口を開けて笑いかけたり、表情豊かな美都里は、曲のサビの終わりに手を振る。わたしに手を振っているようで、わたしはつい、画面に向かって小さく手を振り返す。
教室の中、朝のホームルームを待つ時間、わたしは美都里がSNSに投稿した動画を観ている。
嶋山美都里は、同じクラスの生徒だ。高校の入学式の日、校門で記念撮影をする美都里を初めて見たとき、その可愛らしさに目を奪われた。同じクラスで彼女を見つけたときは、高校三年間の運をすべて使い果たしたかと思った。
それから二ヶ月。わたしは、嶋山美都里を密かな推しとして、遠くから見ている。
教壇の周りから華やかな笑い声が上がる。美都里を含めた、可愛い女子たちのグループだ。
わたしは、化粧もしたことがないし、髪もセミロングというより肩についたおかっぱのようで、しかも少し天然パーマがあるから、いつも一つにくくっている。コンタクトにしたほうが良いんじゃない? とママに勧められるけれど、なんとなく怖くて、黒縁の眼鏡をかけている。
どう間違っても、クラスの一軍の女子たちの輪には入れない。
しかし、それで良い。アイドルと同じだ。推しは遠くから観ていられれば良いのだ。推しが楽しそうにしていることが、わたしの幸せだ。
「あ、颯斗! おはよう!」
美都里が教室の入り口に駆け寄る。背の高い男子があくびをしながら入ってきた。
「おはよう、美都里。朝から元気だな」
「颯斗もシャキっとしてよ」
美都里は、教室の中だということも構わず、弓井颯斗の腰に抱きついた。
「ちょっとー、美都里! 教室なんだからやめてよね」
一軍の女の子たちから非難の声が上がる。
「良いじゃん! 彼氏なんだから!」
美都里はブーイングをものともせず、颯斗に向かい合ってネクタイを直す。
「ネクタイ曲がってたよ」
「おー、サンキュ」
颯斗は美都里の肩をぽんぽんと叩いて、自席に向かう。わたしの目線は、美都里から颯斗に移った。
颯斗は、一言で言えば、イケメンだ。少し童顔でタレ目。長めの髪が似合う中性的な魅力があるが、背は高く、体もがっしりしている。サッカー部の期待のルーキーとして名高く、友達も多い。
颯斗は、わたしの隣に座る。席は、二週間前の席替えで偶然にも隣どうしになった。
「あ、あの、弓井くん。おはよ……」
「おはよう」
わたしにとって、このやり取りが限界だった。頬が熱くなる。颯斗の顔を見ることができない。
ちゃんとわかっている。わたしなんか、颯斗と話すことすら不釣り合いだ。頭では理解していても、つい横目で颯斗の一挙手一投足を追ってしまう。左手の甲に擦り傷を見つける。部活で怪我したのかな。心配だな。
颯斗は、わたしなんていないかのように、男子たちと談笑している。ただそれだけでも、輝いて見えた。
颯斗と初めて話したのは、入学式の日だった。
入学式の前、初めて校舎に入ろうとしたとき、わたしは美都里を目撃したあとでぼーっとしていて、昇降口前の階段で無様にも転んだ。
「おい、大丈夫?」
周りがヒソヒソと笑う中、わたしに手を差し伸べてくれたのが、そのときは名も知らなかった弓井颯斗だった。
かっこいい男の子は、わたしなんて空気のように扱う。良くも悪くも興味を寄せられたことなどない。しかし、颯斗はわたしに手を差し伸べて握り、立ち上がらせてくれた。
「大丈夫? 保健室どこかわかんないけど……探して行く?」
「あ、ううん! 大丈夫! ありがとう」
「そっか。気をつけて」
挙動不審なわたしを置いて、颯斗は颯爽と校舎に入っていった。まるで王子様だった。少女漫画のような展開に思えた。平凡なわたしにも、もしかしたら劇的な恋が生まれるのではないかと期待した。
さらに嬉しかったのは、颯斗とも同じクラスになれたことだ。美都里と颯斗。憧れの二人と一年間、教室をともにするということは、大変な喜びだった。
颯斗はサッカー部に入り、美都里はサッカー部のマネージャーになった。
五月の頭、大型連休の中日に、早くも美都里と颯斗が付き合い出したと聞いた。
そのときの感情をなんと表現したら良いのかわからない。
やはり、王子様には可愛いお姫様がいるのだ。わたしのようなぱっとしない女の子ではなく、お姫様のように光り輝く女の子が。
しかし、一種の満足感はあった。わたしは選ばれなかったが、わたしが憧れる美都里と颯斗が付き合い出したことは、自分の見る目が正しかったと肯定されるようだった。
わたしは、別のSNSを開く。もちろん、美都里のアカウントも颯斗のアカウントもフォローしている。フォローバックはされないけれど。
美都里の最新の投稿は、昨日のもののようだ。顔は写されておらず、繋いだ手の写真がアップされている。片方の細く長い指は美都里だろう。もう片方の、大きくゴツゴツとした手は、きっと颯斗だ。甲にさっき見つけた擦り傷がある。
横目で隣の颯斗を見る。机の上に置かれた手は、男の子らしいいかつさがある。美都里と繋いでいたのは、あの手だ。
あの手が優しく包んでいるのは、わたしの短く子供のようにぷくぷくとした指なんかではない。すらりとした美都里の指。
颯斗の手にふさわしいのは、わたしの手ではない。美都里の手。
わたしは、スマートフォンを鞄にしまい、授業の準備を始める。美都里が女の子たちとはしゃぐ甲高い笑い声と、颯斗が男の子たちと話す低い声が、別々の場所から聞こえるのに、一つの楽曲のように調和して聞こえた。
大型連休はあっという間に過ぎ去った。高校でできた友達と映画を見に行ったり、両親と買い物に行ったりして、それなりに充実していた。
わたしは、学校終わりにSNSの投稿欄を見ながら、帰路につくためグラウンドの横の通路を歩いていく。
友達との時間も、両親との時間も楽しかった。その思い出の写真を眺める。しかし、そこに颯斗はいない。当たり前だ、颯斗は美都里の彼氏なのだから。
颯斗のアカウントを見ると、美都里とテーマパークに出かけた写真がたくさん投稿されていた。キャラクターのかぶりものをした二人が頬を寄せ合って、カメラに向かってピースしている。美都里も颯斗も、とても可愛い。
ため息をついて、スマートフォンを鞄にしまったのと同時だった。
「危ない!」
「え?」
わたしが間抜けな声を発したのと同時に、右側頭部に衝撃があった。思わずわたしはしゃがみ込む。
熱くて痛い。右目を開けられず、左目だけで状況を確認すると、わたしの少し前にサッカーボールが転がっていた。おそらく、これがぶつかったのだ。
「ごめん! 大丈夫?」
わたしに影がかかる。この声は、颯斗だ。サッカー部の練習横を通っていたようだ。気づかなかった。
大丈夫、と返したいのに痛みで返事ができない。
「えー! 颯斗、何やってるの! ねぇ、大丈夫ですか!?」
今度は可愛らしい声がした。
「コントロール効かなくなっちゃったんだよ。立てそう? 大丈夫? 隣の席の倉田さんだよな?」
名前を呼ばれた。覚えていてくれたんだ。感激して、ボールが当たったところを押さえながら、思わず見上げる。左目だけで見る世界には、逆光になった二人の人影が見えた。目が慣れてくると、それは颯斗と美都里だとわかった。
「同じクラスの子だよね?」
「そう、倉田さん。下の名前はわからないけれど」
「倉田さん、本当にごめんね。かなり高く上がっていたボールだったから痛いと思う。立てる? 保健室行こう?」
頭の痛みを忘れるほどの嬉しい申し出だった。美都里は、心底心配そうな声で、わたしの横にしゃがんで、肩に触れる。
「俺が連れて行くよ。俺のやったことだし」
「こういうのは女子どうしで行ったほうが良いよ。ね、倉田さん」
美都里はわたしの顔を覗き込んで、花のように笑った。
わたしは、あまりの可愛らしさに、呆然としながらも、ゆっくりと頷いた。
颯斗は、わたしに何度も謝ってから、サッカー部の練習に戻っていった。わたしも何度も「大丈夫だよ」と言った。颯斗はきっと、あの入学式の出来事なんか、覚えていないが、相変わらず優しかった。
「行こうか。鞄持つよ。本当にごめんね」
わたしはまだボールが当たったところから手が離せない。本気で痛かった。
「ありがとう、嶋山さん」
初めて美都里と言葉を交わした。推しに認知してもらえた。ボールが当たったのは痛かったが、颯斗と美都里と話ができた。まさに怪我の功名。
美都里は、甘い声で驚く。
「わたしの名前、知ってるの?」
「うん。わたし、倉田千暁。よろしくね」
「千暁ちゃんね! わたし、嶋山美都里! よろしく!」
ちょうど今日の太陽のように、光り輝く笑顔に思わず見惚れる。名前を呼んでもらえた。千暁ちゃん……。千暁ちゃん……。
「どうしたの? あ、痛いよね。本当にごめんね、颯斗のノーコンが」
ぷりぷりと怒る様子も可愛い。何をやっても可愛い。こんな気持ち悪い感情、口に出せないけれど。
「少し痛みも落ち着いてきたよ。ごめんね、大袈裟にしちゃって」
「大袈裟なんかじゃないよ! 頭だしね。ちゃんと診てもらおう」
美都里とわたしは手を繋いで、美都里が先導するように歩く。ぷくぷくとしたわたしの子供のような手に、美都里の細く長い指が絡まる。ひんやりとしたそれは、わたしとは別世界の存在であると主張しているようだった。
この手が、手の甲に擦り傷のあるゴツゴツした手だったらな……。
ふと思い浮かんだ感情に、わたしは頭を軽く振る。推しと手を繋げているのに、なんてことを考えているのだ。
「いたっ」
つい、頭を振ってしまったせいで、鋭い痛みが走った。美都里が振り返る。眉を八の字にしている。
「痛いよね……。手で押さえてるけど、ちょっと色変わってきちゃったのが見える。本当にごめん。女の子の顔なのに」
わたしの顔なんて、「女の子の顔」と言ってもらうほどのものでもない。もともとブサイクなのだから。
それでも真摯に謝ってくれる美都里は、本当に良い子だと思う。わたしは、憧れを深くする。
「ううん、運が悪かっただけだよ。弓井くんも嶋山さんも悪くないよ」
「やだっ! 嶋山さんなんて、なんかキョリ遠いじゃん! 美都里って呼んでよ」
とんでもない依頼に、わたしは目を白黒させる。
「え? え? 良いの?」
「何が?」
美都里は、不思議そうに首を傾げる。授業中は下ろしている、ポニーテールにした髪が、さらりと揺れた。
「えっと、じゃあ……美都里ちゃん」
「やった。こんなことがきっかけだけど、同じクラスだし、仲良くしてね。千暁ちゃん!」
このまま死ぬのではないかというほどの幸福感だった。わたしなんかが良いのだろうか、という怯みは見なかったことにして、わたしは傷に響かないように小さく頷いた。口角が上がる。
「うん、よろしくね。美都里ちゃん!」
養護教諭の東野先生が顔を歪める。
「あー、これは腫れるかも。ちょっと青くなってきちゃっているね」
東野先生は看護師の資格も持っている。わたしは、氷嚢で患部を冷やしながら、東野先生を見上げる。
「当たったのが頭だから、少しでも吐き気とか頭痛とかあったら、救急に行って。そうじゃなくても、一度病院で診てもらったほうが良いと思う」
今日はママの仕事がお休みの日だ。この顔で帰ったら、何があったか聞かれるから、病院に連れていってもらおう。
「わかりました。帰ってから、病院に行けるか親と相談してみます」
「症状が出たら、急いでね」
美都里が不安そうな目でわたしを見る。
「本当にごめんね……」
わたしは思わず笑ってしまう。
「美都里ちゃんのせいじゃないよ。弓井くんのせいでもない。運が悪かったんだよ」
「確かに、頭にジャストで当たるなんて、なかなか不運だったわね」
三十代前半くらいの東野先生は、竹を割ったような性格で、話しやすい。美都里が東野先生に訊く。
「ねぇ、先生。痕って残りますか?」
「この青痣は治ると思うけれど……それも含めて病院で相談したほうが良いかもね」
「そう、ですか……」
美都里は、胸に手を置く。
「大丈夫だよ、美都里ちゃん。冷やしたらだいぶ痛みも良くなってきたし、あとは病院で相談するから」
「うん……。そう言ってくれるとちょっと救われる。優しいね、千暁ちゃん」
微笑む姿は、聖女のようだ。聖女なんて、見たこともないけれど。
東野先生が代わりの氷嚢を持ってきてくれた。
「倉田さんはもう少し冷やしてから帰ってね。嶋山さんは、戻って良いよ」
その言葉でわたしはやっと気づく。
「そうだ、美都里ちゃん。部活に戻って。わたしのことなんかでサッカー部を放っておいたらだめだよ」
「『なんか』じゃないから! 大切だから!」
美都里の優しさに涙が出そうになる。きっかけは見た目の可愛さだったが、性格も最高だ。わたしは美都里を推していて、本当に良かった。
あくまで平静を装って答える。
「ありがとう、美都里ちゃん。でも、大丈夫だから。むしろ、ごめんね。大ごとにしちゃって」
「大丈夫? でも、わたし、ここにいても何もできないし……本当にごめんね。部活に戻るけど、お大事にね」
「うん。保健室に連れてきてくれてありがとう」
美都里は何度も振り返りながら保健室を出ていく。最後に小さく手を振って、扉を閉めた。
いつも、わたしはSNSの動画の美都里に向かって手を振っていた。でも、今、美都里は明確にわたしに向かって手を振ってくれた。わたしだけのために。
「仲が良いのね」
東野先生の声に、わたしは満面の笑みで答えた。
「はい!」
怪我は痛かったけれど、最高の日だ。
翌日、登校すると、わたしを見つけた美都里が飛んできた。
「千暁ちゃん! おはよう! 大丈夫だった?」
憧れ続けた笑顔をまっすぐに向けられて、わたしは動揺してきまう。
「え……もしかして、検査の結果、良くなかった……とか?」
その笑顔が曇り、わたしは我に返る。
「あ! えっと、おはよう。ごめんね、驚いちゃって! 検査は問題なしだったよ。青痣もそのうち治るって」
美都里の顔がぱっと明るくなる。ころころ変わる表情は、心の内をそのままに表しているようで、とても可愛い。
「良かった! 心配してたんだ。昨日連絡先聞き忘れちゃったから。メッセージのID教えて!」
美都里がスマートフォンを持って、わたしを見つめる。朝の光を反射した瞳は、宝石のようにきれいだ。
まさか、美都里がわたしに連絡先を聞いてくれるなんて。
「クラスのグループメッセージにいるよ。普通に本名でやっているから、見つかると思う」
「あー! そうだね! そういえばそうだ! なんで思いつかなかったんだろう! あとで見つけてDMするね!」
今度は大きな素振りで頭を抱える。どんな表情もサマになるから、羨ましい。
「ありがとう」
教室のあちこちから、視線を感じる。「嶋山さんって、倉田さんと仲良かったの?」「なんか……似合わない感じ」「そんなこと言っちゃだめだって」
密やかな嘲笑が聞こえてくる。わたしは、下を向いた。きっと顔は真っ赤だろう。
わたしなんかが美都里と仲良くするなんて、身の程知らずなんだ。わかっていたのに、調子に乗った。
情けない。
「ねぇ! わたしに言いたいことあるなら直接言えば? わたしが千暁ちゃんと仲良くしたいだけなんだけど? なんか問題あるの?」
勝ち気な声は、美都里のものだった。顔を上げる。
「ね、千暁ちゃん」
美都里は、ニッと笑った。陰口をたたいていたクラスメイトは、居心地悪そうに、その場から立ち去った。
美都里は、わたしの両手を、そのきれいな両手で包む。
「ねぇ、千暁ちゃん。今日のサッカー部の練習、休みなの。顧問の宮原先生が用事で。昨日のお詫びに、ドリンクおごるよ」
「え! そんな! そもそも、昨日のことは事故で、美都里ちゃんのせいじゃないし」
「じゃ、普通に遊びにいこう! 放課後にね!」
美都里は強引に約束を取り付けると、いつものグループの中に戻っていった。わたしは、一人取り残された。
「んー! おいしい! この新作、飲みたかったんだよね」
有名なチェーン展開のカフェで、わたしと美都里は向かい合っている。推しと一緒にお茶をするなんて、夢かもしれない。試しに手の甲をつねってみる。ちゃんと痛いし、わたしの部屋のベッドからの視界に戻らない。つまり、現実だ。
「何やってるの?」
わたしを大きな瞳が見つめる。カラコンを入れているのだろうか。赤みがかった茶色の瞳は、美都里によく似合う。
「ううん、気にしないで。本当に大丈夫だったのに。いつものグループの子といかなくて良かったの?」
「今日は千暁ちゃんと遊びたかったから」
その言葉に、濁りはないように感じた。美都里がわたしの何を気に入ったのかわからないが、わたしは嬉しい。
「ゆ、弓井くんは?」
思わず声が上擦ってしまった。気づかれなかっただろうか。
「颯斗は、今日、友達とゲーセンだって」
美都里は、つまらなさそうにドリンクを太いストローでかき混ぜる。
──今日は千暁ちゃんと遊びたかったから。
そうは言っていたが、本当は颯斗といたかったのだろう。颯斗と一緒にいないところをいつものグループの子たちに見られたくなくて、わたしを誘ったんだと直感した。
美都里が急に遠く感じた。
しかし、すぐに思い直す。わたしみたいな地味な子と遊んでくれるんだから、感謝しないと。だって、美都里はわたしの推しなのだもの。
わたしは、空気を変えるように、いやにテンション高く話す。
「でも、連休に遊びに行ったんでしょう? SNS、見たよ! 二人とも可愛かった」
美都里がわたしに目線を合わせる。長く伸びたまつ毛がきれいだ。口角がキュッと上がっている。
「そうなの! 颯斗ってば、すごくはしゃいじゃって」
「へぇ、弓井くんってクールっていうか、淡々としているイメージだった」
「そうでしょ? でもね、颯斗、本当に可愛いんだよ! 二人きりだとべったりなの。甘えん坊でね。ハグもキスも大好きで、優しいんだ」
胸が突き刺されたように感じた。
美都里とはしゃぐ颯斗。
美都里に甘える颯斗。
美都里を抱きしめて……キスする颯斗。
どれも、わたしの知らない颯斗の姿。
美都里にだけ見せる、特別な姿。
「き、キス……」
思わず漏れた声に、美都里はいたずらっぽく笑う。
「やだ、千暁ちゃん、耳が真っ赤! キスなんて普通でしょ? わたしたち、もう高校生なんだよ」
わたしは、取り繕うように言う。
「そ、そうだよね。わたし、彼氏ってできたことないから……」
「えー、千暁ちゃん、可愛いのに。メイクしたらきっともっと可愛くなるよ。せっかくうちの学校、うるさくないのにさ。あ、メイクといえば颯斗がこの間、このリップを褒めてくれて……」
美都里は楽しそうに颯斗を語る。わたしは頷いて相槌を打つ。
美都里は可愛い。美都里は優しい。わたしの自慢の推しだ。わたしは今、推しと過ごせてとても幸せだ。
なのに、何故わたしは涙をこらえながら、ストローを噛んでいるのだろう。
唇を重ねる美都里と颯斗の想像が止まらない。颯斗は、うっとりとしたまなざしで、繊細に美都里の髪を撫でて、頬に手を添えて、唇を落とす。見たこともないのに、ありありと目に浮かぶ。
その颯斗の視線の先にいるのは、わたしではなく、美都里。颯斗の腕の中にいるのは、わたしではなく、美都里。
「ねぇ、千暁ちゃん、聞いてる?」
美都里が不満そうに口をとがらせる。わたしは、薄くにじんだ美都里を見ながら目を細める。
「うん、聞いてるよ。そのリップを弓井くん以外の人の前で塗っていると、弓井くんの機嫌がちょっと悪いんだよね」
美都里は、満足そうに頷く。
「うん! 可愛いよね。独占欲なのかな」
「きっとそうだよ。だって、美都里ちゃんはとっても可愛いし、優しいもの」
胸を引き裂かれそうになりながら、わたしは続けて言った。
「弓井くんは、美都里ちゃんのことが大好きなんだよ」
ああ、わたしはちゃんと笑えているだろうか。
推しの幸せがファンの幸せ。だから、美都里が颯斗と恋をして幸せなら、わたしはそれを応援する。
応援しなければならない。
わたしのもとに、王子様は来ないのだから。
キラキラした青春を送る美都里は、わたしと別世界の人間なのだから。
颯斗には、美都里がいるのだから。
颯斗の目に、わたしは映らないのだから……。
雨の日だった。
美都里とお茶をした日から、わたしの心は沈んでいる。美都里のSNSを見ては、ため息をつく。
美都里は何も変わっていない。可愛くて、優しい。いつものグループにいながら、わたしを気にかけて、話しかけてくれる。推しと他愛もない話ができるのは幸福だ。
しかし、頭から美都里と颯斗の妄想が離れない。わたしが一人で自室にいるときも、夜寝る前も、いつも二人のことを考えている。
今、二人はどこかで手を繋いで歩いているのかな。
メッセージのやり取りで「好きだよ」と気持ちを確かめあっているのかな。
二人きりになれる場所で、頬を染めてキスをしているのかな。
考えてもきりがない。この永遠とも思える思考に終止符を打つ方法は、ある。
颯斗を諦めてしまえば良いのだ。どうやっても、颯斗はわたしなんかを好きにはならない。希望なんて、ひとかけらもない。
もう、颯斗を忘れて、美都里のことだけ応援していこう。そう思いながら、昇降口でスニーカーに履き替える。赤い傘を持って広げると、隣に背の高い男子が並んだ。
颯斗だ。
「あ、弓井くん……」
「あれ、倉田さん。帰り?」
「うん。そっか、今日は雨だから部活がないんだね。美都里ちゃんは?」
「そう。体育館での自主練も、ほかの部活との兼ね合いでできなかったから、休み。美都里は友達と寄り道するって。前、ボール当てちゃったところ、だいぶ色薄くなってきて良かった」
颯斗と自然に話せていることに、心が躍る。わたしは、どうすれば良いのだろう。どうすれば、気持ちに区切りがつけられるのだろう。
「じゃ、お疲れ」
颯斗がワイヤレスイヤホンを耳に挿し、スマートフォンを操作すると、大音量の重低音が雨音の中に響いた。
「やべっ! 接続できてなかった!」
慌てる颯斗は、うまく音楽を止められない。
「それ、深海クロロホルム?」
思わずわたしは聞いてしまった。
「え、深クロ、知ってるの?」
まだ鳴り続けているベースとギターの音に、颯斗の声が重なる。
「うん、お兄ちゃんが好きで聞いていたんだけど、わたしもけっこうハマっちゃって。クセになるよね」
深海クロロホルム、略して深クロは、二年ほど前にメジャーデビューをした男性四人組のバンドだ。歌番組にばんばん出演するような有名バンドではないが、ロックフェスなどにはよく出演しているので、音楽好きの間では知られてきたと思う。
「うわ、マジ!? 女子で深クロが好きな人なんて、初めて会った! どの曲が好き?」
「一番はやっぱりメジャーデビュー曲だけど、インディーズ時代の曲も尖ってて良いよね。音楽で信念を伝える! って感じがして」
「わかる! わかる! メジャーデビューも良かったし、めでたいんだけど、ちょっとカドが取れた感じがするよな! てか、インディーズ時代も知ってるの!? すごくない!?」
「好きなだけだから、すごくはないよ。でも、この間の新曲は、インディーズのときに近くてかなり好き」
「めっちゃ同意! なぁ、駅まで一緒に帰らない? こんなに深クロのこと話せる人、初めて!」
颯斗は、興奮して声も手振りも大きくなっている。
──そうなの! 颯斗ってば、すごくはしゃいじゃって。
美都里が見た、テーマパークでの颯斗は、こんなふうだったのだろうか。だとしたら、わたしは、美都里が見た颯斗と同じ颯斗を見ている。
美都里だけじゃない。わたしだって……。
美都里と同じステージに立てたような気すらする。そんなのはもちろん気のせいで、わたしは美都里に憧れるただのファンなのだけれど、こんなときくらい、思い上がりたい。
颯斗との帰り道は、叩きつける雨の中であることを忘れるほどに楽しかった。
深海クロロホルムは、わたしも本当に好きなバンドだったので、話はどんどん弾む。「三曲目、まさかバラード出すと思わなかった」「あの曲はイントロのドラムの音が気持ち良いよね」「隠されたキーボードの音が最高にクール!」
いくらでも話せる。わたしも、深海クロロホルムが好きな人には初めて会った。あまり、男の子と会話することもないし、女子が好きなタイプのバンドではない。
颯斗から、お兄ちゃんが唯一手に入れられなかったインディーズ時代のCDを借りる約束をした。
深海クロロホルムは、音楽サブスクリプションサービスでも楽曲配信をしているが、そのCDにしか入っていない幻のボーナストラックがあることは有名だった。それゆえに、入手困難なCDだったのだけれど、颯斗はそれを持っているという。
「ありがとう! わたしも聴きたかったし、お兄ちゃんもきっと喜ぶよ!」
「やっぱり音楽はいろんな人とシェアしていかないとな! 明日持ってくるよ!」
「楽しみ!」
駅に着いた。名残惜しいが、颯斗とわたしでは乗る路線が違った。ここでお別れだ。
「深クロの話ができて楽しかったよ! 倉田さん、もっと笑えば良いのに」
颯斗の言葉に鼓動が跳ねる。
「え、わたし、そんなに笑ってないかな」
「笑ってない、っていうか、今日の笑顔はいつもと違う気がした!」
それはあなたが隣りにいるからだよ、なんて言えるはずもなく「そう?」とだけ返す。
「じゃあ、明日な!」
「うん、バイバイ」
改札をくぐり抜け、颯斗と別々のほうへと歩いていく。
濡れた床で、思わずスキップしそうだった。楽しかった。はしゃぐ颯斗は、可愛かった。明日の約束もできた。
わたしは、騒ぐ胸を押さえて、うつむきがちに歩く。こんなゆるみきっただらしない顔、通行人にすら見せられない。
翌朝、颯斗はわたしの席の隣りに座り、CDを渡す。
「これだよ」
傷がついて年季が入っているのがわかる。きっとたくさん聴いたのだろう。
「わ、ありがとう! 家に帰ってお兄ちゃんと聴くよ」
「ボーナストラックは三曲目だよ。聴いたら感想教えて! 昨日話した感じ、多分倉田さんが好きなタイプの曲だと思うし」
颯斗は、大型犬が尻尾を振るように嬉しそうに話す。
そこに、美都里が登校してきた。わたしと颯斗の様子を見て、眉をしかめている。
わたしの視線に気づいた颯斗が振り向くと、颯斗は美都里は手招きした。
「美都里!」
美都里は、警戒心を隠さずわたしと颯斗の席に歩み寄る。
「どうしたの。二人、そんなに仲良かったっけ?」
颯斗が笑顔で話す。
「ほら、俺、深海クロロホルムってバンド好きだろ。倉田さんも好きだったみたいでさ、昨日の帰り道に話が盛り上がって、倉田さんが手に入れられなかったインディーズ時代のCDを貸していたんだよ」
「あの、いかつい感じの音楽? 千暁ちゃん、あんなの好きなの?」
好きな音楽を「あんなの」と言われたことは引っかかったが、わたしは笑顔で頷く。
「うん。お兄ちゃんが好きで、そこから入ったんだけど、格好良いと思うよ」
「ふうん……ねぇ」
美都里は棘棘しい雰囲気で言う。
「千暁ちゃん。今日、一緒に帰ろ」
「え、でも……」
「サッカー部どうするんだよ」
颯斗の指摘に、美都里は冷たい視線を向ける。
「昨日の雨でグラウンドまだ使えないじゃん。体育館練習もなしって、さっきメッセージ連絡来たよ」
颯斗がスマートフォンを取り出して「本当だ」と呟いている。
「やった。じゃ、決まり」
美都里は、わたしの両手を取って包み込む。ラベンダー色に塗られた爪が、わたしの甲に強く刺さった。
美都里と、駅前にあるハンバーガーが売りのファストフード店に入る。
美都里はドリンクだけ買ったので、わたしもそれに倣ってドリンクを買う。
ちょうど空き席ができたところに、二人で滑り込む。
ここまで来る間、ほとんど美都里と話さなかった。颯斗と近づきすぎてしまったことが原因だろう。颯斗と話せたことは嬉しいが、美都里を悲しませるのは本意ではない。わたしの中で、この二つの感情は両立する。
美都里はテーブルに頬杖をつく。
「単刀直入に訊くけどさ、颯斗のこと、好きなの?」
美都里の言った「単刀直入」のという言葉のとおり、刀で貫かれたような衝撃だった。
答えなければならない。でも、口がうまく動かない。
目の前にいるのは、わたしの推し、嶋山美都里なのだ。可愛くて、優しくて、わたしの理想の女の子。それに比べて、わたしは垢抜けないブス。
颯斗の彼女である美都里に、「颯斗のことが好き」だなんて、わたしのような女が言うのは滑稽すぎる。
わたしは、ギギギ、と音が鳴りそうに固い動きで、顔を上げる。涙をこらえるので精一杯だ。とんでもなく情けない顔をしているだろう。
「まず……誤解してほしくないんだけど」
「うん」
「わたしは、美都里ちゃんと颯斗くんがうまくいってほしいの」
美都里の目が丸くなる。わたしは続ける。
「美都里ちゃんは可愛いし、颯斗くんも、その、格好良いし、とってもお似合いで、とっても幸せそうだから、二人にはずっとそうしていてほしいの」
美都里は、頷きながら、わたしの話を聞いている。
「昨日、颯斗くんと帰ったのは偶然で、本当に偶然で……。たまたま好きなバンドが同じで盛り上がっただけで、美都里ちゃんを悲しませるつもりはなかったの。本当に、ごめんなさい」
わたしは、座ったまま、深々と頭を下げる。
「……事情はわかったよ」
美都里の言葉から、棘が消えたような気がした。
「ごめん、わたしも嫉妬深いほうだから、つい感情的になっちゃった。颯斗は、わたしにとって、大切な人なの。大好きなの。……千暁ちゃんはそういうのじゃないんだよね?」
美都里からの念押しに、わたしは嘘を舌に乗せる。
「うん。ただの音楽好きどうしの会話だよ」
「そっか。……良かった」
美都里は、やっと微笑んだ。伏し目がちに微笑む姿は、絵になるような美しさだ。
美都里のことが好きだ。美都里と颯斗に仲良くしていてほしいと思う。でも、颯斗に恋している。
矛盾している感情に、体ごと引き裂かれそうになる。
わたしは拳を強く握る。爪が掌に刺さる。心が痛いより、体が痛いほうが、ずっとましだ。
翌日、颯斗にCDを返して一通り感想を言った。颯斗は嬉しそうにしていたが、わたしは当たり障りない返答をして、なるべく颯斗を避けるようにした。
美都里にきらわれたくなかった。
颯斗は不思議そうにしていた。
ある土曜日だった。
わたしは、大きな駅のある街に来ている。大型書店で話題作を探そうと思ったのだ。音楽サブスクサービスに無線イヤホンをつなぎ、人波を歩く。深海クロロホルムの音楽だけを集めたプレイリストだ。
道路を挟んで反対側の道に、見慣れた顔を見つけた。
美都里と颯斗だ。
二人は、クレープの屋台の列に並んでいる。わたしはその場にくぎ付けになったように、動くことができない。
クレープを受け取った二人は、近くに置かれたベンチに座り、写真を撮る。二人で食べさせあって、笑い合う。そして、人前にも関わらず、二人は軽くキスをした。
楽しそうだ。
幸せそうだ。
美都里が幸せなら……わたしも幸せだ。
そうに決まっている。そうなんだ!
わたしは、自分に言い聞かせて踵を返す。駅に向かって走り出す。誰かにぶつかって「すみません!」と叫ぶ。耳では低くドラムとベースが鳴り、ギターが荒れ狂い、ボーカルが叫ぶ。
当たり前の光景なのに、初めてわたしは理解したように思える。美都里と颯斗は、恋人なのだ。
美都里は可愛くて、きれいで、優しくて、わたしの推しだ。なのに、今は、美都里を応援できない。
どうしても考えてしまう。颯斗の隣りにいるのが、わたしではないのかと。
颯斗は、転んだ私に手を貸してくれた。
颯斗と音楽の話をして、楽しかった。
颯斗の生き生きと笑う顔は、可愛かった。
わたしは、息が切れて膝に手を置く。通行人はわたしを気にしながらも、一秒後にはその存在を忘れるだろう。
ふと、横を見ると、マネキンが飾られた、大きなガラスウィンドウがある。
そこに映っていたのは、無様な女の子だった。
涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔に、黒縁の眼鏡はずれている。ロングTシャツとデニムに真っ黒なスポーツブランドのリュックという味気ないコーデと、汚れたスニーカー。一つくくりの髪は、ゴムがゆるんで、落ち武者のようにおくれ毛が垂れている。
わたしは、その場で立ちすくみ、コンクリートの道にしみを作る。
こんな女の子、誰からも愛されるわけがない。
家に帰ると、テレビがつけっぱなしになっていた。
夕方のワイドショーで「推し活ブーム」を題材にした特集をしている。
わたしは、動く気力もなく、手も洗わずにソファに座り込む。ぼんやりとワイドショーの特集を見ていた。
男性アイドルグループを推しているという女子大学生のインタビューが映る。男性レポーターが質問する。
「何故、推しを応援するのでしょうか」
女性は困ったような、照れくさいかのような素振りで耳に髪をかける。
「えー……格好良いからですけどぉ、一番は推しを応援したいんです。推しにもっと活躍してほしい」
「もっと活躍してほしいのは何故ですか?」
「え、あまり考えたこと、なかったなぁ。そうだなぁ。うーん、わたし、何者でもなくて、可愛くもないし何かに秀でているということもなくて、普通というか、凡人なんですけど、推しを推していると、わたしの夢を託せる感じなんですよ」
「夢を託す?」
「わたしは、あんなふうにステージでキラキラすることもできないし、平凡な人生を歩むんだなぁと思っていて。もちろん、それが悪いわけじゃないんですけど、推しを推すことでそのキラキラを分けてもらえるというか……だから、応援しています」
レポーターは、次のインタビューに移っていく。
──推しを推していると、わたしの夢を託せる感じなんですよ。
インタビューを受けた女子大生はそう言っていた。
わたしは、美都里を推して応援する。一般人の美都里に対しては、SNSにいいねしたり、投稿をシェアしたりすることくらいしかできないけれど。
それでも、応援していた。
でも、本当に応援したかったのは、わたし自身なんじゃないだろうか。
わたしは、美都里になりたかった。
その理解は、すとんと腑に落ちた。
わたしは、美都里を推すという言い訳で、自分が変わることから逃げてきた。美都里という素晴らしい推しがいて、わたしの夢も希望も託せるのだから、わたしは変わらなくて良いと思った。
変われないと思った。
本当?
自分に問いかけてみる。わたしは美都里になることはできない。でも、美都里のように素敵な女の子を目指すことはできるのではないだろうか。
美都里だって、完璧ではない。嫉妬深いし、ちょっと短気なところもある。わかっているのに、わたしは理想像を美都里に押しつけて、勝手なイメージを押しつけて、いや、「推し」つけていた。
わたしが変わったら、美都里への憧れは変わる?
そんなこと、答えなんてもう出ていた。
翌日の日曜日、わたしは初めて行くヘアサロンを予約した。その後、日曜日もやっている眼科を調べる。本屋に行く時間はなかったから、電子書籍で中高生向けのファッション雑誌を買って、タブレット端末に穴があくのではないかというほど、読み込む。そして、ありったけのお小遣いを持って、大型のドラッグストアに赴いた。
月曜日、わたしは緊張して教室の扉を開ける。
自席につくと、ざわめきが起きたことに気づいて、つい顔を俯ける。「あれ、倉田さん?」「え? 千暁? 全然雰囲気違うじゃん」「え……可愛くないか?」
席の横に誰かが立った気配がした。上を向くと、美都里が驚いた顔で立っていた。
「ち、千暁ちゃん?」
「……美都里ちゃん。おはよう」
「え、どうしたの?」
「今日、部活ある? 帰り、お茶したいな」
わたしは、美都里の目を見て、ゆっくりと話す。美都里は頷いた。
「一日くらい休んでも大丈夫だよ」
「ありがとう」
美都里は、わたしの横を離れた。入れ替わりで颯斗がやってくる。
「え、倉田さん?」
「弓井くん、ありがとうね」
脈絡なく礼を言われた颯斗はぽかんとしてる。
「わたし、美都里ちゃんと弓井くんのおかげで、変われそう」
わたしは笑う。颯斗は、軽く頭を振ってから言った。
「良くわからないけれど、倉田さんが良いと思った方に行けば良いと思うよ」
「うん」
「また、深クロの話、しような」
「……うん!」
わたしは、初めて颯斗の目を見て笑うことができたかもしれない。
以前にも美都里と来たことがあるカフェで、アイスのカフェラテを頼んだ。目の前には、美都里がいる。
「本当に変わったね」
美都里がしみじみとわたしを見て言った。
わたしは、くせ毛を活かしたショートカットに、直径が大きすぎないサークルレンズを入れている。ファッション雑誌を参考に、眉を整え、軽く化粧をしていた。
「へ、変かな?」
まじまじと見つめられて気恥ずかしくなったわたしは、照れ隠しに笑う。
「そんなわけないじゃん! ショートカット、すごく似合ってる! メイクもしているし……どうしたの?」
わたしは、話すことを整理しようとしたが、うまく言う自信がなかったので、言葉に委せることにした。
「わたし、美都里ちゃんを推していたの」
「推し?」
美都里は首を傾げる。
「うん。憧れ、みたいな」
一呼吸おいて、わたしは続ける。
「わたし、美都里ちゃんになりたかった」
美都里は、真剣に話に聞き入っていた。わたしは、カフェラテを一口飲む。ミルクの甘みとコーヒーの苦みが、口の中で混ざり合う。
「美都里ちゃんに謝らないといけないことがあるんだ」
「何?」
美都里は、柔らかく、丁寧に尋ねた。わたしは、こくりと頷いて言う。
「わたし、入学式の日から、ずっと弓井くんのことが好きだった。嘘をついていて、ごめんね」
美都里は、抹茶ミルクティーをストローでひと混ぜする。
「……知ってた」
「だよね。でも、美都里ちゃんと弓井くんにうまくいってほしかったっていうのも、本心。これだけは信じてほしい」
カフェに流れるジャズミュージックが心をリラックスさせてくれる。
「好きな男子が別の女子と付き合っていて、それを応援するなんて、あり得るの?」
「わたしの場合、あり得たの。だって、美都里ちゃんは、推しだったから。推しには幸せでいてほしい。でもね」
もう一口、カフェラテを飲んでから続ける。
「わたしは、土曜日にデートしている二人を偶然見たの。幸せそうだった。弓井くんの隣にいるのは、美都里ちゃんで、わたしではない。つらかった。でも、そのことで、わたしは、美都里ちゃんにはなれないって、ちゃんと理解できたの」
「見られてたか」
美都里は、ぺろりと舌を出して肩をすくめる。
「お似合いだったよ。それでね、考えたの。わたし、美都里ちゃんに憧れてばかりで、自分のことから目をそらしてきたんだって気づいた。わたしは全然イケてなくて、ださくて、つまらない女の子だった。美都里ちゃんみたいな素敵な女の子になんてなれないから、わたしの理想を美都里ちゃんに託して、わたしはわたしから逃げていたの」
「それで……見た目を変えたの?」
「中身も変えていきたいよ。人に優しくして、たくさん笑ってたくさん泣いて、わたしらしい素敵な女の子になりたい。その一歩目が見た目だったっていうだけ」
わたしぐっと胸を張った。
「わたしは、美都里ちゃんにはなれないから」
美都里は微笑む。
「颯斗のことは?」
「みっともなく泣いて、決意して、髪を切って、わたしの中でちゃんと失恋したよ」
美都里は、目を伏せてつぶやいた。
「そう、か……」
「信じてもらえないかもしれないけど、わたし、新しい自分で新しい恋も友情も見つけたい」
わたしは天井を仰ぐ。
「世の中さ、中高生は青春してる、キラキラしてる、なんて勝手に言うじゃない? でもさそんなに綺麗なことばかりじゃないよね。憧れとか嫉妬とか失恋とか、ほかにもうまくいかないことばかり。わたし、不貞腐れていたんだと思う。わたしに綺麗な『青春』なんて関係ないって。美都里ちゃんを推すことで、自分のことは見ないふりしていた」
「うん、わかる」
「これからもうまくいかないことはあると思うの。それでも、一つ一つ乗り越えていきたい。わたしも、美都里ちゃんみたいに優しくて可愛い女の子になりたいし、新しい恋もしたい」
美都里がわたしの頬を軽くつねった。わたしは驚いて身を引く。
「千暁ちゃん、良い顔してる。可愛くなったっていうのももちろんだけど、なんだろう、吹っ切れたというか、覚悟が決まったというか、強い雰囲気がある」
「そうだね、強くなりたいな。わたしは、弱いから」
美都里は、わたしの頬をはなすと、わたしが心底憧れた笑顔で訊いた。
「わたしを推すのもやめる?」
わたしは、ニッと笑う。
「美都里ちゃんとは友達でいたい。でもね、推すのはやめないよ。美都里ちゃんはずっとわたしの目標」
わたしは宣言した。
「嶋山美都里はわたしの推しです」
カフェラテのストローに、歯型はついていなかった。
〈了〉



