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今日の講義は四限までだった。月曜日は一限から四限まで詰まっているから、夕方には帰ることができるといってもなかなかハードだ。
そろそろバイトも始めたいところだけど、一人暮らしに慣れてからじゃないと体がついていかない気がして、そこまでまだ動けずにいる。
家に帰ると、俺のベッドでぐうすか寝ていたであろう男がちょうど目を覚ました。寝返りを打ち、ゴシゴシ目をこすっているものの、体を起こす気配はない。
俺はバッグを床に投げ捨て、ベッドを背もたれに座った。10畳1Kのこの部屋に住み始めて二週間。実家に比べたら窮屈だけど、俺は別に嫌いじゃない狭さだ。
「んぁ、おかえり」
「おかえりって俺の家じゃん」
「近いからしょうがねー」
しょうがないってなんだ、理由になってなくないか? 確かにまあ、大学入学とともに暮らし始めた俺のアパートは大学までは徒歩三分、最寄駅までも七分という好立地だけれども。
田舎の出身なので、大学は一人暮らしを余儀なくされた。地元から通えるところに大学がないから、友達も先輩もそれが当たり前で、受験が終わると進学組は一斉に引越しに取り掛かっていた。
「ハルチカの家も遠くないだろ」
「駅は近いけど。大学まで十分は遠いよ」
「まあそれは……そうか」
「そーそ。だから優しくしてよさくちゃん」
そう言って男はベッドに寝そべったままおもむろに手を伸ばし、俺の頭をぽんぽんと撫でた。同じ男でも、俺よりひとまわりも大きいその手には、形容し難い安心感がある。
「ちゃん付けやめろ」
「『アズ』には呼ばせてんのに?」
「アズは……なんかあんまり揶揄ってる感じしないから」
「俺も揶揄ってないんですけど」
「嘘すぎる」
頭に乗せられた手を掴んで払い、上半身だけ後ろに向ける。目が合うと、男はふっと小さく笑った。金色の髪は今日もきらきらしている。
「ほんとーにかわいいと思ってるだけなのに」
この金髪、西 春近という男。
こいつは本当に悪だと思う。顔がいいからって、俺が年下だからって、──幼馴染だからって、そういうことをさらりと言ってしまうのはずるい。
俺にとっては、最悪の敵だ。
「いーってそういうの」
「本気なのにー」
「全部が嘘くさい、ハルチカの言うことは」
「散々ですやん」
ハルチカがくすくすと小さく肩を揺らして笑う。そういうひとつひとつの仕草でさえ人の心を掴んでいることを、どのくらい自覚しているんだろうか。
「でも咲良のこと可愛いって思ってるのはホント」
「……へー」
人をたぶらかすことなんて、ハルチカにとっては呼吸と同じくらい簡単にできることなのだ。男も女も関係ない。息をするように相手を褒めて、可愛がって、好かれて、ハルチカにとっていらなくなったら突き放す。
幼馴染だから、人より少し特別扱いしてもらえているだけだ。
「バイトだりー」
「何時から?」
「ごじ」
「ごじか」
「復唱すんなよ」
「今の絶対ひらがなだったなって」
「意味わかんねー」
今の時刻は十六時。十七時からバイト、ということは、十六時半まではここにいるということでもある。あと三〇分は、ハルチカの目には俺以外は映らない。
そういう些細な優越感だけを糧にこの先も生きてしまうのかと思うと、くだらなくて死にたくなってしまうのだ。
「半になったら起こして。それまでもっかい寝る」
「アラームかけろって」
「アラームの音キライ。咲良がいーからお願いしてんじゃん?」
ハルチカは昔も今もハルチカのままだ。
だから俺も間違えたりなんかしない。
今更好きって伝えるくらいなら──多分、死んだほうがマシだ。



