春が嫌いだ。独特の曖昧さや柔らかな空気に含まれる少しの切なさに、心がザワザワして落ち着かない。訳もなく不安で泣き出しそうになる。
そんな気持ちになるのは春のせいだと、俺はこの先も言い続けるのだと思う。
「さーくちゃんっ」
大学生になって三度目の月曜日。八時四十分から始まる一限にキャンパスに入りエレベーターを待っていると、そんな陽気な声とともに背中をつつかれた。振り向くと、高校からの友人である加藤梓紗がそこにいて、「おはー」と適当な挨拶をした。
「おーアズ。おはよ」
「今日の服おニューじゃん」
「やば。なんでわかんの」
「見たことないやつだから。いいね、おろしたての服」
アズが俺が着ている服を指差しながら口角をあげる。「言われると恥ずいんだけど」と言って彼女の指を払い、俺たちは一緒にエレベーターに乗った。
「何階だっけ?」
「ご」
「ふいぃ」
キャンパス内にある教室にはそれぞれ、330教室とか、S501教室とか、第3演習室とか、暗号みたいな名称がついてある。数字やアルファベットにはきちんと意味があって、慣れていけばわかるようになるんだろうけど、入学して一ヶ月も経たない俺たち一年生には違和感のある音だ。
唯一すぐに覚えられたのは、謎のオブジェが入り口に置かれている建物の五階にある「大教室」と呼ばれる場所。名前も単純で覚えやすい。全部の講義を大教室でやってくれ、と思うくらいには、俺は大教室以外の教室を知らない。
「その服さー、一段と〝ニシ先輩〟って感じだね」
一度途切れた話とは思えないくらい自然に、アズが再び話を持ち出す。
「どうせ選んでもらったやつでしょ」
「どうせって」
「さくちゃんの服って全部ニシ先輩と選んだかもらったかのどっちかじゃんか」
「え」
「わかってますからぁ。さくちゃんにしてはオシャレすぎだもん」
「急に言い過ぎじゃんびっくりしたぁ今」
「顔面でなんとかなってるだけで別にあなたセンスないからね」
「ギリ褒めてる?」
「いやギリ褒めてないね」
「褒めてねーんかよ」
ギリってところがポイントね、と加えてアズが笑う。
しかしながら彼女の言う通り、今日に限らず、大学生になってから俺が着ている服は全て春休みに新調したものだ。
高校までは当然のように制服があって、休日も圧倒的インドア派の俺はスウェットなどのラフな格好しかしていなかった。けれど、そういうわけにもいかないのが大学生である。
とくに服にこだわりがあるわけではなかったものの、同級生に第一印象でダサいと思われたくもなかったので、ひとつ年上の幼馴染と一緒に買いに行ったのだった。自分の意思で買ったものはない。「咲良にこういうの着てほしい」「こういうのは?」「これとか俺はめちゃくちゃ好きなんだけど」と、俺が相槌を打つ暇もないくらいの勢いで、その幼馴染の男が全部選んでくれた。
「ニシ先輩ってやっぱさくちゃんのこと自分の趣味で染めたいんかな?」
「や、フツーに俺に意思なさすぎるだけだと思う。ハルチカ自身は服好きだし」
「でもさー、にしては過保護っていうかさー……はあ、そんなん聞くほう野暮って話ですかそうですか」
「俺なんも言ってない」
「ひとりごとですう」
わざとらしく口を尖らせてアズが言う。そうこうしているうちにエレベーターは五階に到着し、ここまで階段で上がってきた同級生たちを横目で見ながら教室に入る。
エレベーターはひとつしかないからタイミングを逃すと階段で上るほうが早かったりもするけれど、「できる楽は全部したい」というアズの強い意志により、まだ一度も階段を使ったことはない。
「マキちゃんとフジいそー?」
「や、いないっぽい。後ろのほうテキトーに座ろ」
教室後方の空いている席に座る。大学の講義なんてモニターもマイクもあってどこにいてもさほど支障なく受けられるのに、進んで前方中央の席に座る人は一体どういう気持ちなんだろうと思う。
入学から一ヶ月弱が経った現在、俺の大学生活はアズを含め、四人で行動することが多い。
マキとフジ。ふたりは大学生になってからできたゼミ仲間だ。アズとマキが仲良くなって、俺とフジが知り合った。アズと俺が高校からの付き合いということもあり、繋がりを辿っていったらなりゆきで一緒にいるようになった。
まだ心を許せるほどの関係値はないけれど、ふたりが良い奴であることだけはなんとなく実感しているところだ。
入学するまでは交友関係ちゃんと築けるだろうかと不安に思っていたけれど、そんな心配必要なかったと言えるくらいには、俺は恵まれている気がする。
「あ、ニシ先輩」
ふと、アズがそうこぼした。その声につられて顔をあげると、ちょうど教室に入ってきた金髪が視界に映った。
きらきらと輝く髪、平均身長は優に超えているであろう身長、目を惹くような洒落た着こなし。一重で少し鋭い目つきさえもが、彼の魅力のひとつなのだろう。
その男は教室の端……多分教授の死角になるであろう位置に座ると、教科書を開くこともなく突っ伏した。清々しいほどに、出席カードだけ書きに来たような感じだ。
「先週いなかったよね? これ必修だけど一年生の時落としたんかな?」
「確かに」
「てかやっぱ金髪似合うなあ。高校の時の黒髪もよかったけどさ、あたし金のほうが好きかも」
「ウケる」
「ちょっとさくちゃん。適当に相槌打つのやめてよ」
「バレた」
「あーあ。やっぱりさくちゃんが羨ましい、あの人と幼馴染なんてさ」
頬杖をついたアズの視線は金髪を追うように動いている。高校時代から何度も言われ続けてきたその言葉に、俺はいつも通り「そうでもないよ」と短く返した。
そうでもないのだ、本当に。
地元が同じなだけ。親同士の仲が良くて、子供同士の年齢もひとつしか違わなくて、小さい時から一緒にいる時間が多かっただけ。たまたまその幼馴染が、成長してとんでもないイケメンになってしまっただけだ。
羨ましがられるようなことはない。むしろ、俺はアズのことが羨ましい。
「……どうせ、それ以上にはなれねーし」
俺が普通の男だったら。そうしたら、こんな気持ちにはならずにすんだのに。
「うんー?」
「なんも。フジ今着いたってさ。マキと一緒だって」
「オッケー」
アズとの会話は、必要以上に気を使う必要がないから楽だ。
フジからのLINEに既読をつけたタイミングで、フジとは別の人物からLINEの通知が届いた。
《バイトまでさくらんち借りる》
送られてきたメッセージはそれだけだった。借りるって、いや俺まだ許可してないですが。頭の中に浮かんだ正論とは別に、俺は《わかった》と返事をし、スマホを閉じる。
それからほどなくしてマキとフジがやってきて、睡魔と戦ったりスマホをいじったり、ときどき真面目に教授の話を聞いたらしながら一限を受けた。
視界の端で捉えた金髪は、九〇分間机に突っ伏したまま起きることはなかった。



