透と別れてから、三年が経った。
高校最後の年。
僕は、あの頃と同じ制服を着て、
少しだけ背が伸びて、声が低くなった。
名前を呼ぶときの声色も、
誰かと目を合わせるときの心持ちも、
ほんの少しだけ変わった気がする。
でも――
僕の中の“透”だけは、今でも色褪せていない。
ノートは今でも机の奥にある。
読み返すことはもう減ったけれど、
あのとき交わした言葉たちは、いつでも胸の奥にあった。
ある日、学校帰り。
僕はふと、立ち寄った古本屋で、一冊の本に目を奪われた。
表紙には、手描きのような優しいイラスト。
タイトルには、見覚えのある文字列。
『名前の意味を探す日』
その帯に、こう書かれていた。
「君の声が、誰かの未来を変える」
その瞬間、背筋が凍った。
ページをめくると、そこには、あの頃と同じような文体が並んでいた。
目の奥が熱くなった。
息を呑む。
著者名にはこう書かれていた。
── 白雪すい
“白雪すい”
その名前を見た瞬間、
手が震えて、本を落としそうになった。
透の本名だった。
……いや、少なくとも、
彼女が最後に“そう名乗っていた”名前。
でも、まさか。
だって彼女は……
思わずレジに本を持って走った。
お金を払いながら、胸の奥がざわざわしていた。
現実なのか、夢なのか、判別がつかなかった。
家に帰るとすぐにページを開いた。
目に飛び込んできたのは、まぎれもなく、
透の“声”だった。
あのとき、ノートに綴っていたのと同じ、
誰かの孤独にそっと寄り添う、あたたかな言葉たち。
誰にも見せなかったはずの彼女の言葉が、
今、こうして世界に届けられていた。
信じられなかった。
けれど、たしかに、そこに透は“生きていた”。
あとがきのページ。
そこには、短いメッセージが載っていた。
わたしは、名前を呼んでもらうことで、
はじめて“わたし”になれました。
だから、誰かの名前を呼ぶたびに、
あなたにも“あなた”が戻ってきますように。
その文章の最後に――
小さな、手書きのサイン。
そこには、こうあった。
「また、君に会えますように。」
僕は、どうしてもその手がかりを追いたくなった。
本の奥付に記載された出版社。
著者の経歴欄には「現在は公開していない」とだけあった。
だけど、編集協力の名前が、小さくひとつだけ載っていた。
“水原 柚子(みずはら ゆず)”
聞いたことのない名前だったけれど、
直感的に、そこに“透”のことを知る人がいるような気がした。
ダメもとで、僕はメールを送った。
件名は、「白雪すいさんのご著書について」
文章は何度も書き直した。
送信ボタンを押したあとは、
スマホを握りしめたまま、息を潜めて、ただ祈った。
そしてその夜。
返事が来た。
はじめまして。水原と申します。
白雪すいさんのことを、どうしてご存じなのか、よければ教えていただけますか?
じつは彼女、執筆活動は今も続けておりますが、ある理由で公の場には出ておりません。
ですが――
もし、あなたが“氷空くん”なら。
会わせたい人がいます。
その一文を読んだ瞬間、
頭の中が真っ白になった。
心臓が痛いくらいに跳ねた。
文字を読み返す手が、かすかに震えていた。
「……ほんとうに、透……?」
水原さんから、すぐに追って送られてきたのは、
とある“展示イベント”の情報だった。
──場所:海沿いの古い美術館
──日付:今週の土曜
──展示タイトル:『透明な声たち』
僕は、すぐに行くと返信した。
透に、また会えるのなら――
たとえ、それが幻でもかまわなかった。
その土曜日。
僕は、約束された“場所”へと向かっていた。
海沿いの美術館。
潮風が吹いていて、空はどこまでも青かった。
まるであの夏の日のように、
まるで彼女のいた教室の光のように。
展示のタイトルは、『透明な声たち』
透の“声”が、作品として誰かに届いている。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
受付を通ると、スタッフの女性が僕に小さなパンフレットを手渡した。
そして、そっと微笑みながら、こう言った。
「白雪さん、奥の部屋にいらっしゃいます。……あなたが、氷空くんですよね?」
驚いた僕に、彼女は静かにうなずいた。
「ずっと、来てくれるのを待っていましたよ。」
その一言だけで、
足が一瞬、止まった。
でも、もう迷わなかった。
僕はまっすぐ、透がいる部屋へ向かった。
廊下の奥の、白い扉。
ノックの音が小さく響く。
「どうぞ」
その声――
その瞬間、
すべての時間が巻き戻るような感覚に包まれた。
扉を開けると、
そこには、透がいた。
透が、ほんとうに――生きていた。
長い髪。
少し大人びた横顔。
だけど、目の奥の“透明な光”は、何も変わっていなかった。
僕は、声にならない声で、彼女の名前を呼んだ。
「……透」
彼女は微笑んで、そっと答えた。
「……うん。ちゃんと、届いたよ」
部屋の中は静かだった。
透は窓際の椅子に座っていて、僕が入ると、そっと立ち上がった。
「久しぶり、だね」
その声は、あの頃と変わらなかった。
でもどこか、芯のある強さをまとっていた。
僕は何も言えなかった。
ただ、目の前の“本当に透がいる”という現実を、
必死で飲み込もうとしていた。
「……本当に、生きてたんだね」
ようやく絞り出した言葉に、透はふわりと笑った。
「うん、生きてた。
……でも、きっと“戻ってきた”って言った方が、近いかもしれない」
あのあと、透は本当に一度、生死の境を彷徨ったらしい。
救われたのは偶然だった。
けれど、意識を取り戻したとき、
彼女はこう思ったという。
「もう一度、氷空くんに会いたい。
ちゃんと、名前を呼ばれたいって」
その想いだけを支えに、透は回復し、
姿を変えて、物語を書くようになった。
──“白雪すい”という名で。
「……ごめんね、何も言わずにいなくなって」
「いいよ」僕は、言葉をさえぎるように返した。
「会えただけで、もう全部、いいよ」
その言葉を受けて、透は少し涙ぐんで、
小さく息を吸った。
そして、彼女は僕に一歩、近づいて言った。
「じゃあ、氷空くん。今度は……あなたから、呼んで?」
僕は深く息を吸って、彼女の瞳をまっすぐ見つめた。
「透」
その名前は、
たしかに届いた。
彼女の目が、ふわりと揺れて、
そして、ゆっくり閉じられた。
「……うん。やっと、ほんとうに、生きてよかったって思えたよ」
僕らは、向かい合って立ったまま、しばらく言葉を交わせなかった。
でも、心は確かに通じていた。
静かな空気が、あたたかかった。
「……ねえ、氷空くん」
透がそっと口を開いた。
その声は、とても静かで、でもどこまでも真っ直ぐだった。
「もう、前みたいに、すぐいなくなったりしない?」
僕はすぐに首を横に振った。
「僕も、同じこと聞こうとしてた」
ふたりで、ふっと笑った。
その笑いは、今までで一番やさしいものだった。
そして僕は、
胸の奥にずっと閉じ込めていた言葉を、ゆっくりと口にした。
「好きだ」
透の瞳が揺れた。
だけど、その奥には涙じゃなくて、光があった。
「……うん。わたしも」
その言葉だけで、
世界の温度が少し上がった気がした。
ふたりの時間は、もう止まっていなかった。
過去でもない、夢でもない、“今”にちゃんと存在していた。
窓の外には、柔らかな午後の光。
風がカーテンを揺らし、
透の髪をふわりと撫でていった。
彼女が、笑った。
「ねえ、氷空くん。これからも、わたしの名前……たくさん呼んでくれる?」
僕は、何も迷わず、強くうなずいた。
「何度でも、呼ぶよ」
名前を呼ぶことは、
その人を、世界に迎え入れるということ。
そして、僕は今日、
ふたたび透を迎えた。
今度こそ、永遠に。
✿───────✿
氷空くんへ
これは、もしもまたあなたに会えたときに、
渡そうと思っていた、最後の手紙です。
この手紙には、未来のことを書きます。
あなたに名前を呼ばれた日から、
わたしの世界は、少しだけ、あたたかくなりました。
姿が見えなくなっても、
あなたの声だけは、ずっとわたしの中に残っていました。
その声が、わたしの心臓を動かしてくれて、
その声が、わたしに夢を見させてくれて、
その声が、わたしを、もう一度、生きる場所へと導いてくれました。
だから、次はわたしが、
あなたの“帰る場所”でいたい。
疲れたときは、わたしの名前を思い出してね。
泣きたくなったら、そっと心の中で、わたしを呼んでね。
わたしの名前は、「透」。
すきとおるように、
見えない声になって、
それでもあなたに届くように。
この世界のどこかで、
いつだって、あなたの味方でいます。
好きだよ、氷空くん。
今までも、これからも。
──白雪透
✿───────✿
空が晴れた午後、
ふたりは手をつないで、街の雑踏を歩いていく。
名前を呼び、
呼ばれながら。
いま、ようやく、“世界”は、ふたりに優しくなった。
高校最後の年。
僕は、あの頃と同じ制服を着て、
少しだけ背が伸びて、声が低くなった。
名前を呼ぶときの声色も、
誰かと目を合わせるときの心持ちも、
ほんの少しだけ変わった気がする。
でも――
僕の中の“透”だけは、今でも色褪せていない。
ノートは今でも机の奥にある。
読み返すことはもう減ったけれど、
あのとき交わした言葉たちは、いつでも胸の奥にあった。
ある日、学校帰り。
僕はふと、立ち寄った古本屋で、一冊の本に目を奪われた。
表紙には、手描きのような優しいイラスト。
タイトルには、見覚えのある文字列。
『名前の意味を探す日』
その帯に、こう書かれていた。
「君の声が、誰かの未来を変える」
その瞬間、背筋が凍った。
ページをめくると、そこには、あの頃と同じような文体が並んでいた。
目の奥が熱くなった。
息を呑む。
著者名にはこう書かれていた。
── 白雪すい
“白雪すい”
その名前を見た瞬間、
手が震えて、本を落としそうになった。
透の本名だった。
……いや、少なくとも、
彼女が最後に“そう名乗っていた”名前。
でも、まさか。
だって彼女は……
思わずレジに本を持って走った。
お金を払いながら、胸の奥がざわざわしていた。
現実なのか、夢なのか、判別がつかなかった。
家に帰るとすぐにページを開いた。
目に飛び込んできたのは、まぎれもなく、
透の“声”だった。
あのとき、ノートに綴っていたのと同じ、
誰かの孤独にそっと寄り添う、あたたかな言葉たち。
誰にも見せなかったはずの彼女の言葉が、
今、こうして世界に届けられていた。
信じられなかった。
けれど、たしかに、そこに透は“生きていた”。
あとがきのページ。
そこには、短いメッセージが載っていた。
わたしは、名前を呼んでもらうことで、
はじめて“わたし”になれました。
だから、誰かの名前を呼ぶたびに、
あなたにも“あなた”が戻ってきますように。
その文章の最後に――
小さな、手書きのサイン。
そこには、こうあった。
「また、君に会えますように。」
僕は、どうしてもその手がかりを追いたくなった。
本の奥付に記載された出版社。
著者の経歴欄には「現在は公開していない」とだけあった。
だけど、編集協力の名前が、小さくひとつだけ載っていた。
“水原 柚子(みずはら ゆず)”
聞いたことのない名前だったけれど、
直感的に、そこに“透”のことを知る人がいるような気がした。
ダメもとで、僕はメールを送った。
件名は、「白雪すいさんのご著書について」
文章は何度も書き直した。
送信ボタンを押したあとは、
スマホを握りしめたまま、息を潜めて、ただ祈った。
そしてその夜。
返事が来た。
はじめまして。水原と申します。
白雪すいさんのことを、どうしてご存じなのか、よければ教えていただけますか?
じつは彼女、執筆活動は今も続けておりますが、ある理由で公の場には出ておりません。
ですが――
もし、あなたが“氷空くん”なら。
会わせたい人がいます。
その一文を読んだ瞬間、
頭の中が真っ白になった。
心臓が痛いくらいに跳ねた。
文字を読み返す手が、かすかに震えていた。
「……ほんとうに、透……?」
水原さんから、すぐに追って送られてきたのは、
とある“展示イベント”の情報だった。
──場所:海沿いの古い美術館
──日付:今週の土曜
──展示タイトル:『透明な声たち』
僕は、すぐに行くと返信した。
透に、また会えるのなら――
たとえ、それが幻でもかまわなかった。
その土曜日。
僕は、約束された“場所”へと向かっていた。
海沿いの美術館。
潮風が吹いていて、空はどこまでも青かった。
まるであの夏の日のように、
まるで彼女のいた教室の光のように。
展示のタイトルは、『透明な声たち』
透の“声”が、作品として誰かに届いている。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
受付を通ると、スタッフの女性が僕に小さなパンフレットを手渡した。
そして、そっと微笑みながら、こう言った。
「白雪さん、奥の部屋にいらっしゃいます。……あなたが、氷空くんですよね?」
驚いた僕に、彼女は静かにうなずいた。
「ずっと、来てくれるのを待っていましたよ。」
その一言だけで、
足が一瞬、止まった。
でも、もう迷わなかった。
僕はまっすぐ、透がいる部屋へ向かった。
廊下の奥の、白い扉。
ノックの音が小さく響く。
「どうぞ」
その声――
その瞬間、
すべての時間が巻き戻るような感覚に包まれた。
扉を開けると、
そこには、透がいた。
透が、ほんとうに――生きていた。
長い髪。
少し大人びた横顔。
だけど、目の奥の“透明な光”は、何も変わっていなかった。
僕は、声にならない声で、彼女の名前を呼んだ。
「……透」
彼女は微笑んで、そっと答えた。
「……うん。ちゃんと、届いたよ」
部屋の中は静かだった。
透は窓際の椅子に座っていて、僕が入ると、そっと立ち上がった。
「久しぶり、だね」
その声は、あの頃と変わらなかった。
でもどこか、芯のある強さをまとっていた。
僕は何も言えなかった。
ただ、目の前の“本当に透がいる”という現実を、
必死で飲み込もうとしていた。
「……本当に、生きてたんだね」
ようやく絞り出した言葉に、透はふわりと笑った。
「うん、生きてた。
……でも、きっと“戻ってきた”って言った方が、近いかもしれない」
あのあと、透は本当に一度、生死の境を彷徨ったらしい。
救われたのは偶然だった。
けれど、意識を取り戻したとき、
彼女はこう思ったという。
「もう一度、氷空くんに会いたい。
ちゃんと、名前を呼ばれたいって」
その想いだけを支えに、透は回復し、
姿を変えて、物語を書くようになった。
──“白雪すい”という名で。
「……ごめんね、何も言わずにいなくなって」
「いいよ」僕は、言葉をさえぎるように返した。
「会えただけで、もう全部、いいよ」
その言葉を受けて、透は少し涙ぐんで、
小さく息を吸った。
そして、彼女は僕に一歩、近づいて言った。
「じゃあ、氷空くん。今度は……あなたから、呼んで?」
僕は深く息を吸って、彼女の瞳をまっすぐ見つめた。
「透」
その名前は、
たしかに届いた。
彼女の目が、ふわりと揺れて、
そして、ゆっくり閉じられた。
「……うん。やっと、ほんとうに、生きてよかったって思えたよ」
僕らは、向かい合って立ったまま、しばらく言葉を交わせなかった。
でも、心は確かに通じていた。
静かな空気が、あたたかかった。
「……ねえ、氷空くん」
透がそっと口を開いた。
その声は、とても静かで、でもどこまでも真っ直ぐだった。
「もう、前みたいに、すぐいなくなったりしない?」
僕はすぐに首を横に振った。
「僕も、同じこと聞こうとしてた」
ふたりで、ふっと笑った。
その笑いは、今までで一番やさしいものだった。
そして僕は、
胸の奥にずっと閉じ込めていた言葉を、ゆっくりと口にした。
「好きだ」
透の瞳が揺れた。
だけど、その奥には涙じゃなくて、光があった。
「……うん。わたしも」
その言葉だけで、
世界の温度が少し上がった気がした。
ふたりの時間は、もう止まっていなかった。
過去でもない、夢でもない、“今”にちゃんと存在していた。
窓の外には、柔らかな午後の光。
風がカーテンを揺らし、
透の髪をふわりと撫でていった。
彼女が、笑った。
「ねえ、氷空くん。これからも、わたしの名前……たくさん呼んでくれる?」
僕は、何も迷わず、強くうなずいた。
「何度でも、呼ぶよ」
名前を呼ぶことは、
その人を、世界に迎え入れるということ。
そして、僕は今日、
ふたたび透を迎えた。
今度こそ、永遠に。
✿───────✿
氷空くんへ
これは、もしもまたあなたに会えたときに、
渡そうと思っていた、最後の手紙です。
この手紙には、未来のことを書きます。
あなたに名前を呼ばれた日から、
わたしの世界は、少しだけ、あたたかくなりました。
姿が見えなくなっても、
あなたの声だけは、ずっとわたしの中に残っていました。
その声が、わたしの心臓を動かしてくれて、
その声が、わたしに夢を見させてくれて、
その声が、わたしを、もう一度、生きる場所へと導いてくれました。
だから、次はわたしが、
あなたの“帰る場所”でいたい。
疲れたときは、わたしの名前を思い出してね。
泣きたくなったら、そっと心の中で、わたしを呼んでね。
わたしの名前は、「透」。
すきとおるように、
見えない声になって、
それでもあなたに届くように。
この世界のどこかで、
いつだって、あなたの味方でいます。
好きだよ、氷空くん。
今までも、これからも。
──白雪透
✿───────✿
空が晴れた午後、
ふたりは手をつないで、街の雑踏を歩いていく。
名前を呼び、
呼ばれながら。
いま、ようやく、“世界”は、ふたりに優しくなった。


