あの日の春に、嘘をついた

透がいなくなってからの日々は、
まるで冬が春のふりをして過ぎていくようだった。

空は青く、空気は温かいはずなのに、
心の奥では、ずっと冷たい雨が降っていた。

 

教室には新しい風が吹き始めていた。
夏休みが明け、体育祭や文化祭の準備が始まり、
みんなが何かに夢中になるふりをしていた。
いや、もしかしたら、それは本当に“日常”なのかもしれない。

でも、僕の中にはまだ、透の声が残っていた。
耳ではなく、胸のどこかに。
記憶ではなく、呼吸に混ざるような形で。

 

彼女のことを話す人は、もう誰もいなかった。
あの「転校生」は、もともと存在しなかったみたいに扱われていた。

だけど、僕の中では違った。
彼女は確かにここにいて、
僕と過ごしたあの時間は、決して幻なんかじゃなかった。

 

ある日、何となく足が向いた図書室で、
僕は一冊の古いノートを見つけた。

表紙には名前もラベルもなく、
ただの、何の変哲もない白いノート。

でも、開いた瞬間、僕の手が止まった。

 

そこには、
透の文字が、確かに並んでいた。

でも、どの文字も丁寧で、まっすぐだった。

僕はページをめくる手を止められなかった。

そこには、日付のない言葉たちが並んでいた。
思い出の断片。
たぶん、誰にも見せるつもりのなかった独白。

だけど、僕は知っていた。
このノートは、
僕に見つけてもらうことを、最初から願っていたんだと。

✿───────✿

わたしは、
何度も夢を見た。

名前を呼ばれる夢。
遠くで誰かが、わたしを呼ぶ声。

でも、目を覚ますと、いつもひとりだった。

その声が、誰なのかずっとわからなかった。

ある日、わたしは気づいた。
その声は、
未来のどこかにいる“あなた”の声だった。

だから、わたしは、
探しに来たんだ。

✿───────✿

そのページを読み終えたとき、
胸の奥で何かがはっきりと音を立てて崩れた。

それは、孤独だった。
それは、祈りだった。
そしてたぶん――“約束”だった。

ページをめくるたびに、透の“本当の声”が聞こえてくるようだった。
あの教室で交わしたノートのやりとりよりも、
ずっと素直で、ずっと切実な言葉たち。

僕の知らない彼女。
けれど、たしかに“僕だけが知っていい”彼女の姿が、そこにあった。

 

✿───────✿

ひとりで病室にいる時間、
わたしは何度も思った。

「どうして、ここにいるんだろう」
「なんで、生きてるんだろう」

点滴の音、白い天井、曇った窓。
何ひとつ、わたしを必要としていない気がして。

でもね、ある日夢を見たの。
わたしの名前を呼んでくれる、やさしい声。

目が覚めたあと、
心臓が少しだけ、あたたかかった。

だから、わたしは思ったんだ。

もう一度、
“あの声に出会いに行こう”って。

✿───────✿

 

僕は、ページの端を握りしめた。
透は、あの日突然現れたんじゃなかった。
彼女は、僕に会うために、
ずっと前から“来ようとしてくれていた”んだ。

それがどれだけの想いを背負っての決断だったのか。
想像するだけで、胸が詰まった。

ページを進めるたびに、
透という存在が、僕の中で“過去”から“今”へと近づいてくる感覚があった。

彼女が、どんなに静かに生きようとしていたのか。
どんなふうに、誰にも見つからないように気持ちを綴っていたのか。
すべてが、このノートに記されていた。

そして、次のページに――僕の名前があった。

✿───────✿

氷空くんへ

まだ、あなたのことを知らなかったころ。
でも、どこかで“あなたの存在”を感じていたころ。

わたしの中にあったのは、ただひとつの願い。

誰かのために、
名前を呼ぶために、
ここにいたいって、思えたらいいのにって。

あなたの声を、夢の中で聞いたとき。
それだけで、わたしは少しだけ、救われたの。

あなたは、覚えていないかもしれない。
でも、
あなたがわたしの名前を呼んだあの日。

わたしは、
初めて“自分”を受け入れられた気がしたんだよ。

✿───────✿

 

呼吸が浅くなるのを感じた。
手のひらが汗ばんでいる。
あの自己紹介の日、
彼女が教室の後ろで立ち上がった瞬間のことを思い出した。

あれは、ただの始まりなんかじゃなかった。
透にとっては、生きるための最後の一歩だった。

その夜、僕はノートを胸に抱えたまま、眠れずにいた。
文字のひとつひとつが、
まるで透の声を記録した“時間のしずく”のように感じられて、
目を閉じるのが惜しかった。

 

カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、
ページの上に揺れている。

僕は、ノートの続きを読んだ。

 

✿───────✿

わたしは、ここに来てよかった。

“誰かに出会うため”に生きていいんだって、
あなたと過ごして、初めてそう思えた。

わたしは、弱くて、
小さくて、
透明で、
誰の視界にも映らない存在だったけど。

それでも、あなたの目には、
ちゃんと“わたし”がいたって、思えたから。

 

“ありがとう”の言葉だけじゃ、
足りないくらい。

それでも、
ありがとう。

──白雪透

✿───────✿

 

僕は、ノートを胸に押し当てた。
自分の鼓動が、透に届くように。

このノートは、彼女の「命の続き」だった。
誰にも気づかれずに、
そっと遺された最後の手紙だった。

けれど、僕は気づいた。
透は、“未来のどこかに生きている”。
そう信じさせてくれるほど、
彼女の言葉は、今でも確かだった。

翌日、僕はノートを持って、再びあの屋上へ向かった。
透と一緒に風を感じた、あの場所。
名前を呼ぶことの意味を教えてくれた、あの空。

季節は秋に近づいていて、風が少し冷たかった。
だけど、それが心地よくて、胸の奥を静かに満たしていった。

 

僕はゆっくりとノートを開き、空に向かって読んだ。

声には出さなかったけど、
一文字一文字、確かに透へ届けるように目で追った。

そして、最後の空白ページに、こう書いた。

✿───────✿

透へ

君が遺してくれた言葉を、
僕はこれからもずっと胸に抱いて生きていくよ。

君が透明になっても、
君の存在は、僕の中でずっと確かに揺れてる。

もしもまた、どこかで会えたなら――
そのときは、もう一度だけ、君の名前を呼ばせて。

「透」

その響きが、世界でいちばん綺麗だと思えたから。

──氷空

✿───────✿

 

風がページをふわりとめくった。
それはまるで、“応えてくれた”ようだった。

透は、もういない。
でも、僕は“透とともに生きること”を選んだ。

そして、このノートに書かれた言葉たちを、
これから先、誰かが読んでくれる日が来るかもしれない。

そのときには、こう伝えようと思う。

「この物語は、名前から始まった」と。

その日の夜、僕は夢を見た。

 

光に満ちた真っ白な世界。
景色も音もない、ただ風だけが静かに流れる空間。

その真ん中に、透がいた。
制服でもなく、私服でもなく、
どこにも属さない、どこか特別な服をまとって。

 

彼女は微笑んでいた。
以前より少し髪が伸びていて、
頬の線も柔らかくて、
どこか“安心した人の顔”をしていた。

 

「……来てくれたんだね」

そう言った声は、
夢の中とは思えないほど鮮明だった。

「やっと、名前を呼んでもらえたから」

 

僕は言葉に詰まって、
それでも胸の奥から搾り出すように、声を発した。

 

「透……」

 

たった一言だったのに、
彼女はその場に立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙をこぼした。

そして、目元をぬぐいながら、笑って言った。

 

「もう、それだけでいいんだよ」

「それだけで、わたしは生きてた意味があったって思えるから」

 

目が覚めたとき、
涙が枕に落ちていた。

でも、不思議とあたたかかった。
あの夢は、ただの夢じゃなかった気がした。

 

透は、やっぱり今でもどこかにいる。
きっと僕の言葉に、今も応えてくれている。

それから数日後、
僕はもう一度、透と初めて言葉を交わした“教室”へ足を運んだ。

誰もいない放課後の時間。
あの頃のように、窓の外は夕日に染まり始めていた。

透が座っていた最後列の窓側の席。
誰が座るわけでもなく、今もぽっかりと空いている。

僕はその席の椅子をゆっくりと引いて、自分が座った。

 

机の上には、名前も何も彫られていなかった。
ただ、角の部分が少し削れていて、
ノートのページを繰り返しめくっていたあの仕草が思い出された。

気づけば、僕は口の中で言葉をつぶやいていた。

 

「……ねえ、透。今、どこにいるの?」

 

答えは返ってこない。
もちろんそうだとわかっていた。
それでも、そう問いかけずにはいられなかった。

だけど次の瞬間、
僕の目の前の机の天板に、うっすらとした“跡”を見つけた。

爪でなぞるように書かれた、薄く削れた線。
その輪郭はあまりにかすかだったけれど――
そこには、確かにこう書いてあった。

 

「またね」

 

目の奥が熱くなった。
今すぐ泣きそうだった。
でも、泣くのは違うと思った。

これは、“さよなら”じゃない。
これは、“また会える”って約束だったから。

その日以来、僕はあることを確かめたくて、
放課後になるたびに図書室へ通うようになった。

透が残したノート、
そして詩集に挟まれた付箋、
さらに黒板の隅に書かれた小さな文字。

彼女は、自分の存在が“消えてしまわないように”
誰にも気づかれないやり方で、いくつもの痕跡を残していた。

そしてある日――
図書室のカウンターで、司書の先生に思い切って聞いてみた。

 

「この学校に、前に白雪透って名前の生徒……来てましたか?」

 

先生は、ほんの一瞬だけ驚いたように眉を動かした。
けれど、すぐに優しく微笑んで、こう言った。

「……ああ、その名前、覚えてるよ。すごく静かな子だったけどね。いつも、本を借りに来てた」

「でも……」

と、先生は声を落とす。

「……その子、転校じゃなくて――亡くなったって聞いたわ」

 

世界の音が止まった。
時間だけが、遠くで微かにきしんだ。

 

「でも不思議ね。あの子、亡くなった日より、もっとあとになってからも、
 この図書室の棚の中に、その子の字が挟まれてたの。……誰にも言わなかったけどね」

 

僕は、返事ができなかった。

でもそのとき、確信に変わった。

透は、
きっと“言葉の中”に、今も生きている。

帰り道、夕焼けの街を歩きながら、
僕はずっと「亡くなった」という言葉を頭の中で繰り返していた。

透が、もうこの世界にはいないという現実。
だけど、どうしてもその事実を、
"終わり"として受け入れることができなかった。

だって、彼女はこんなにも僕の中に生きている。
僕の言葉の中に、ノートの中に、夢の中に。

消えてしまった人が、
こんなにも強く残ることなんて、あるのだろうか。

 

ふと、足元に小さな白い花が咲いているのが見えた。
舗道のひび割れの隙間から、まるでそこに咲くべくして生まれたように。

透っぽいな、と思った。

目立たず、騒がず、
だけど確かに美しく、
誰かの目に触れなくても、その存在だけで意味を持つ花。

僕は、スマホを取り出してその花を撮った。
透と繋がる記憶を、これ以上なくしたくなかった。

 

その夜、久しぶりにノートを開いて、文字を書いた。

✿───────✿

透へ

君がこの世界からいなくなった日が、
たとえカレンダーに記されていたとしても、

僕の中では、君はまだちゃんと“生きてる”。

だって、今もこうして、君に話しかけられるから。

君の存在が、僕の言葉になっているから。

だから今日も、君に伝えるよ。

「ありがとう。君が残してくれた、全部に。」

──氷空

✿───────✿

それからの僕は、日常を過ごしながら、
毎日のどこかに“透の気配”を探すようになった。

風の音。
窓から差し込む光。
階段をのぼるときの空気の重さ。
そして――名前を呼ぶ瞬間。

 

そんなある日。
教室の窓際の席に、新しい転校生がやってきた。

女の子。
透に似ているわけじゃなかった。
雰囲気も、話し方も、まるで違った。
けれど、その子が最初に発した「よろしくお願いします」という声が、
ほんのわずかに、透の声と重なった気がした。

僕は不意に、胸の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。

でも、すぐに思った。
それでいいんだ。

誰かが透の代わりになる必要はない。
ただ、世界はこうして続いていく。
そして、僕もまた、その中に歩き出していく。

 

放課後。
僕はノートの最後の空白に、そっと文字を綴った。

✿───────✿

透へ

今日、また新しい誰かと出会いました。
君とは違う、でもやさしい声の人でした。

君が教えてくれたから、
僕は誰かの名前を大切に呼べるようになったよ。

ありがとう。

これからの僕は、君が残した時間を抱いて、
ちゃんと前を向いていこうと思います。

でも、また夢で会えたら、
そのときは――もう一度、君の名前を呼ばせて。

──氷空

✿───────✿

秋の気配が深まる頃、
僕はある決意を胸に、透が最後に暮らしていたという町を訪れた。

地図にもあまり名前の載っていない小さな町。
駅は一両編成の電車しか止まらず、改札の隣には木造のベンチがひとつ。

空気が澄んでいて、風の匂いがやさしかった。
なんとなく、透がこの空気を選んだ理由がわかった気がした。

 

駅から歩いて十五分ほど。
彼女が通っていたという病院の前に立つ。
もちろん中に入るつもりはなかった。
ただ、その建物を目にすることで、何かを受け取りたかった。

 

病院の前に、小さな教会があった。
その教会の前庭には、ノートのページに描かれていたのと同じ花が咲いていた。

白くて、風に揺れていて、
まるで透がそこに立っているようだった。

 

僕はポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。
それは、透からの最後のノートに書かれていた“切り取られたページ”。
あのとき、糊の跡だけが残っていた、最後の一枚。

あれから何度も探して、ようやく、図書室の奥の本の間から見つけ出した。

そのページには、こう記されていた。

 

✿───────✿

“またどこかで、名前を呼んでもらえる未来があるなら
その未来を、信じていいでしょうか。”

✿───────✿

 

その言葉を、そっと教会の花のそばに置いた。
そして、僕は答えを返すように、声には出さず、心の中で祈った。

「あるよ。何度でも、呼ぶよ。ずっと。」

その日、帰りの電車の窓から見た空は、
どこまでも澄んでいて、雲ひとつなかった。

夕日がオレンジに染まりはじめていて、
その光の中に、透の影を感じた。

ふと、目を閉じる。

すると、あの夢の中の風景が、まるでそこにあるかのように広がった。

 

彼女が微笑んで立っていたあの草原。
名前を呼んでくれた、あの声。
僕に向けた「大丈夫だよ」という、やさしいまなざし。

本当は、もう二度と見ることはできないはずの景色。
でも、僕の中ではずっと、そこにある。

 

電車が揺れて、窓に映った自分の顔が、少し大人びて見えた。

透と出会ってから、
きっと僕の時間も、少しずつ変わったんだと思う。

後ろを向いていた僕が、前を向けるようになった。
声を出せなかった僕が、人と向き合えるようになった。

そして何より――

「名前を呼ぶことの意味」を、知った。

 

誰かを呼ぶということは、
その人の存在を、この世界に確かに認めるということ。
透が、僕にそう教えてくれた。

 

電車が駅に近づくアナウンスを告げたとき、
僕は、胸の中でそっと名前を呼んだ。

「……透。」

声には出さなかったけれど、
その響きは、風に乗って、空の向こうまで届いた気がした。

数日後、僕は一通の封筒を受け取った。
宛名はなかった。
けれど、筆跡を見た瞬間、心臓が跳ねた。

透の字だった。
まちがいなく、あのノートに書かれていたあの文字。

封を開ける手が震えた。
中には、一枚の便箋と、小さなポストカードが入っていた。

便箋には、こう書かれていた。

✿───────✿

“この手紙が届いているなら、
わたしはきっと、もうここにはいないのだと思います。

だけど、それでも伝えたかった。

ありがとう、氷空くん。
あなたがいたから、
わたしはわたしとして生きることができました。

最後に、ひとつだけ、お願いがあります。

もしあなたが、いつか誰かのことを
本気で好きになる日が来たら、

その人の名前を、
どうか、迷わず呼んであげてください。

わたしが、あなたに呼ばれて、
生きることができたように。”

✿───────✿

 

ポストカードの裏には、
一面に広がる空と、草原の写真。

夢で見た景色とまったく同じだった。

まるで透は、本当にそこにいて、
この空間を、いつか僕と一緒に歩きたかったのかもしれない。

僕は、便箋を抱きしめた。
涙は出なかった。
ただ、胸が熱かった。

それは、彼女が最後にくれた“未来へのメッセージ”だった。

その晩、僕は透に向けて、最後の手紙を書くことにした。
今まで何度も綴ってきたけれど、
これはきっと、本当の意味で“終わり”を迎えるための手紙だった。

 

机の上に便箋を広げ、
ゆっくりと、深呼吸して、
心の中に浮かんできた言葉を、一文字ずつ、丁寧に並べていく。

✿───────✿

透へ

君がいなくなってからの毎日は、
まるで世界の色が少しだけ薄くなったような日々でした。

でも、君が残してくれた言葉や想いは、
今でもちゃんと僕の中で生き続けているよ。

あのとき、君がくれた優しさも、
名前を呼んでくれたぬくもりも、
全部、僕の中に残ってる。

だからね、もう怖くない。

この世界で、ちゃんと自分の足で歩いていける。
君が教えてくれたんだ。
“生きていてもいい”ってことを。

──生きていちゃダメな人間なんていない。
──ほかの誰がなんて言おうが、僕は君を求めている。

その気持ちは、
ずっと変わらないまま、ここにあるよ。

ありがとう、透。
そして、好きだよ。

──氷空

✿───────✿

 

ペンを置いた瞬間、
まるで心の奥に閉じ込めていた何かが、
音もなくほどけていくのがわかった。

この気持ちは、もう言葉にならない。
けれど、きっと、透に届く。
届いてほしい。
このすべてが、彼女と出会った奇跡への答えだから。