それは、透が転校してくる三日前の夢だった。
まだ彼女に会う前、
まだ名前も知らないころ、
僕はある夢を見ていた。
夕暮れの教室。
窓の外には光る雲。
誰もいないはずの後ろの席に、ひとりの女の子が座っていた。
顔はよく見えなかった。
でも、雰囲気だけははっきり覚えている。
白くて、儚くて、少し悲しそうで、
それでいて、なぜかあたたかかった。
夢の中で僕は、その子にこう聞いていた。
「君、誰?」
すると彼女は、窓の外を見たまま、こう答えた。
「誰でもないよ。だから、名前をつけて。」
そのときの僕は、困ってしまって、言葉が出てこなかった。
でも、夢が醒める寸前、
僕の中で“ひとつの名前”が強く浮かび上がっていた。
透。
そのときは意味もわからず、
ただなんとなく“そう呼びたい”と思っただけだった。
だけど。
本当に彼女が現れて、その名前を名乗ったとき――
あの夢が、“ただの夢”じゃなかった気がした。
運命なんて信じたことはなかった。
でも、透との出会いには、それに似たものを感じた。
出会うべくして出会った。
そんな確信があった。
夢の記憶を思い出してから、
僕はもう一度ノートを最初から読み返した。
ページをめくるたびに、
透の息遣いが蘇る気がした。
「名前は呼ばれるためにある」
「いなくなっても、誰かの記憶に残れたら、それでいい」
「わたしのこと、思い出してくれる?」
どの言葉も、どこか予感に満ちていた。
まるで、透自身が“消えること”を前提に存在していたような。
それは、とても悲しいけれど、
同時に、強い覚悟のようにも感じられた。
でも僕は、
透が本当にいなくなったとは、やっぱり思えなかった。
人の存在って、
こんなに簡単に終わるものじゃない。
声も、仕草も、言葉も、残された記憶の中で生き続ける。
誰かが覚えている限り、
その人はずっと“どこかにいる”。
僕は今日も、ノートに言葉を綴っている。
もう透は返事を書いてはくれない。
それでも書き続ける。
それが、僕なりの答えだと思うから。
✿───────✿
透へ
夢で君に出会ったあのとき、
僕はきっと、君の名前を探していたんだと思う。
あれが夢じゃなかったなら、
君も、僕を探していたんじゃないかな。
また、どこかで。
君に名前を呼ばれたそのときみたいに。
今度は僕が、君を見つける番だから。
──氷空
✿───────✿
九月のある日、校舎裏の庭で、風に吹かれながら立ち尽くしていた。
透と初めて視線が合った日の空に、少しだけ似ていた。
そのとき、僕の視界に、地面に落ちているものが映った。
花の押し葉だった。
桜の花びらを丁寧に挟んだような、薄い紙片。
そして、その裏には手書きの文字があった。
✿───────✿
もしまた生まれ変われるなら、
こんどは、最初から君のそばにいたい。
春から、夏を超えて、
秋の終わりに、また出会えたらいいね。
──✿
✿───────✿
名前は書かれていなかった。
でも、その文字は透の字だった。
もう何度も目にしてきた、まっすぐで、少しだけ細くて、
それでも柔らかくて、強い、彼女の字だった。
これはきっと、置き土産だった。
言葉にする代わりに、そっと残した想い。
そして、「また会いたい」という、ささやかな祈り。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
でも、それは悲しみじゃなかった。
やっと、手が届いたような、
ずっと探していた欠片を見つけたような、
そんな温かさだった。
僕は花の押し葉をそっと拾って、ノートに挟んだ。
ページが少しだけ厚くなる感覚があった。
まるで、“存在”が一枚分、重なったように。
その夜、僕はひとりでノートを開き、何も書かずにページをめくっていた。
透が残した言葉たちは、すでに僕の中に刻まれていたけれど、
指先で紙の感触をなぞるたび、彼女の気配がそこにあるような気がして、やめられなかった。
ふと、あるページの余白に、小さな汚れのような点がついているのに気づいた。
よく見てみると、それは――小さく、滲んだ涙の跡だった。
たぶん、彼女が書いていたときに落とした涙。
ページに吸い込まれて、わずかに染みを残している。
その跡を見つけたとき、
僕は不思議と、静かに泣けた。
僕はまた、ノートの端に小さな詩のような言葉を残した。
✿───────✿
君が流した涙のしずくが
僕のページを濡らしても
そのしみは
悲しみじゃないって思える
だってそこには、
たしかに君がいたから
✿───────✿
それだけで、十分だった。
返事なんていらなかった。
今でも、あの日の教室の光と、
透の横顔をはっきり思い出せる。
それが、僕にとっての「証」だった。
数日後、僕は図書室にいた。
誰もいない午後の静かな空間。
透が転校してくる前、僕がひとりで過ごしていた場所だった。
棚の間をゆっくり歩きながら、ふと手が止まった。
一冊の古い詩集が目に入ったのだ。
タイトルに「透明」という言葉が含まれていたから、自然と惹かれたのかもしれない。
ページをめくると、中に挟まれた小さな付箋が目に入った。
手書きの文字。
それは、どう見ても透の筆跡だった。
✿───────✿
「心がすきとおるとき、人は言葉じゃなくて、目で会話できる。」
──この詩が、好きだった。
✿───────✿
僕は、その付箋を指先でそっとなぞった。
彼女がここにいたこと、
それが、こんなふうに思いがけない形で証明されることがあるなんて思わなかった。
彼女の痕跡は、やっぱりいろんなところに残っていた。
風の匂いにも、空の色にも、ページの隙間にも。
それを見つけるたび、
僕の中に生まれていた“喪失感”が、少しずつ癒されていくようだった。
「また、探しに来るから。」
小さくつぶやいた。
誰もいない空間で、
ただ、透に届くように。
それからというもの、僕は「透のいた痕跡」を探すことが日課になった。
彼女が使っていた席、
彼女が通っていた廊下、
彼女がよく見つめていた校庭の木々、
そして、彼女が最後に残していったノート。
それは、過去を引きずる行為じゃなかった。
むしろ、今を生きるための行動だった。
透が教えてくれたように、
“名前を残すこと”は、“存在を信じること”だった。
ある日の放課後、
ふと教室の黒板の端に、薄く小さな文字を見つけた。
消えかけていて、普通なら誰も気づかないくらいの小さな痕跡。
でも、その字だけは僕には見逃せなかった。
「……また、ここに来ていいかな?」
思わず、胸が熱くなった。
透がいた最後の頃、彼女は毎日ひとりで何かを書いていた。
それがノート以外にもあったなんて――
僕は、見逃していた。
その言葉が、まるで時を超えて届いた手紙のように思えた。
僕は小さくうなずきながら、黒板のすみっこにこう書き加えた。
「いつでも。待ってる。」
誰が見るわけでもない。
けれどそれでよかった。
この言葉は、彼女の残した問いかけへの返事。
そう思えたから。
始業式から数週間が過ぎたころ、
クラスに新しい転入生がやってきた。
女子で、どこか透と同じ雰囲気を纏っていた。
それだけで、僕の胸はざわついた。
でも、違った。
名前も、声も、空気も、全部違っていた。
似ているのは、姿勢と静けさだけ。
透は、唯一無二だった。
彼女の代わりは、どこにもいなかった。
放課後、僕は再び屋上に向かった。
風が心地よく、空は高くて、雲は流れていた。
手には例のノート。
表紙の角が少し折れていて、それがまた愛おしく思えた。
もう書くページはほとんどなかった。
でも最後の余白に、
僕は、ゆっくりと、はっきりと、こう書いた。
✿───────✿
透へ
君がくれた時間を、僕は生きていくよ。
名前を呼び合うことで始まった日々が、
こんなにも大きな意味を持つなんて思わなかった。
もう一度、君の名前を呼びたい。
でも、今はそれを胸の中で呼ぶことにする。
いつか、また会えたとき、
今度は僕から、まっすぐに言うよ。
好きだ。
──氷空
✿───────✿
その言葉を書き終えたとき、
空から小さな風が降りてきて、ノートのページがひとりでに閉じた。
まるで、透が「ありがとう」と言ってくれたように思えた。
まだ彼女に会う前、
まだ名前も知らないころ、
僕はある夢を見ていた。
夕暮れの教室。
窓の外には光る雲。
誰もいないはずの後ろの席に、ひとりの女の子が座っていた。
顔はよく見えなかった。
でも、雰囲気だけははっきり覚えている。
白くて、儚くて、少し悲しそうで、
それでいて、なぜかあたたかかった。
夢の中で僕は、その子にこう聞いていた。
「君、誰?」
すると彼女は、窓の外を見たまま、こう答えた。
「誰でもないよ。だから、名前をつけて。」
そのときの僕は、困ってしまって、言葉が出てこなかった。
でも、夢が醒める寸前、
僕の中で“ひとつの名前”が強く浮かび上がっていた。
透。
そのときは意味もわからず、
ただなんとなく“そう呼びたい”と思っただけだった。
だけど。
本当に彼女が現れて、その名前を名乗ったとき――
あの夢が、“ただの夢”じゃなかった気がした。
運命なんて信じたことはなかった。
でも、透との出会いには、それに似たものを感じた。
出会うべくして出会った。
そんな確信があった。
夢の記憶を思い出してから、
僕はもう一度ノートを最初から読み返した。
ページをめくるたびに、
透の息遣いが蘇る気がした。
「名前は呼ばれるためにある」
「いなくなっても、誰かの記憶に残れたら、それでいい」
「わたしのこと、思い出してくれる?」
どの言葉も、どこか予感に満ちていた。
まるで、透自身が“消えること”を前提に存在していたような。
それは、とても悲しいけれど、
同時に、強い覚悟のようにも感じられた。
でも僕は、
透が本当にいなくなったとは、やっぱり思えなかった。
人の存在って、
こんなに簡単に終わるものじゃない。
声も、仕草も、言葉も、残された記憶の中で生き続ける。
誰かが覚えている限り、
その人はずっと“どこかにいる”。
僕は今日も、ノートに言葉を綴っている。
もう透は返事を書いてはくれない。
それでも書き続ける。
それが、僕なりの答えだと思うから。
✿───────✿
透へ
夢で君に出会ったあのとき、
僕はきっと、君の名前を探していたんだと思う。
あれが夢じゃなかったなら、
君も、僕を探していたんじゃないかな。
また、どこかで。
君に名前を呼ばれたそのときみたいに。
今度は僕が、君を見つける番だから。
──氷空
✿───────✿
九月のある日、校舎裏の庭で、風に吹かれながら立ち尽くしていた。
透と初めて視線が合った日の空に、少しだけ似ていた。
そのとき、僕の視界に、地面に落ちているものが映った。
花の押し葉だった。
桜の花びらを丁寧に挟んだような、薄い紙片。
そして、その裏には手書きの文字があった。
✿───────✿
もしまた生まれ変われるなら、
こんどは、最初から君のそばにいたい。
春から、夏を超えて、
秋の終わりに、また出会えたらいいね。
──✿
✿───────✿
名前は書かれていなかった。
でも、その文字は透の字だった。
もう何度も目にしてきた、まっすぐで、少しだけ細くて、
それでも柔らかくて、強い、彼女の字だった。
これはきっと、置き土産だった。
言葉にする代わりに、そっと残した想い。
そして、「また会いたい」という、ささやかな祈り。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
でも、それは悲しみじゃなかった。
やっと、手が届いたような、
ずっと探していた欠片を見つけたような、
そんな温かさだった。
僕は花の押し葉をそっと拾って、ノートに挟んだ。
ページが少しだけ厚くなる感覚があった。
まるで、“存在”が一枚分、重なったように。
その夜、僕はひとりでノートを開き、何も書かずにページをめくっていた。
透が残した言葉たちは、すでに僕の中に刻まれていたけれど、
指先で紙の感触をなぞるたび、彼女の気配がそこにあるような気がして、やめられなかった。
ふと、あるページの余白に、小さな汚れのような点がついているのに気づいた。
よく見てみると、それは――小さく、滲んだ涙の跡だった。
たぶん、彼女が書いていたときに落とした涙。
ページに吸い込まれて、わずかに染みを残している。
その跡を見つけたとき、
僕は不思議と、静かに泣けた。
僕はまた、ノートの端に小さな詩のような言葉を残した。
✿───────✿
君が流した涙のしずくが
僕のページを濡らしても
そのしみは
悲しみじゃないって思える
だってそこには、
たしかに君がいたから
✿───────✿
それだけで、十分だった。
返事なんていらなかった。
今でも、あの日の教室の光と、
透の横顔をはっきり思い出せる。
それが、僕にとっての「証」だった。
数日後、僕は図書室にいた。
誰もいない午後の静かな空間。
透が転校してくる前、僕がひとりで過ごしていた場所だった。
棚の間をゆっくり歩きながら、ふと手が止まった。
一冊の古い詩集が目に入ったのだ。
タイトルに「透明」という言葉が含まれていたから、自然と惹かれたのかもしれない。
ページをめくると、中に挟まれた小さな付箋が目に入った。
手書きの文字。
それは、どう見ても透の筆跡だった。
✿───────✿
「心がすきとおるとき、人は言葉じゃなくて、目で会話できる。」
──この詩が、好きだった。
✿───────✿
僕は、その付箋を指先でそっとなぞった。
彼女がここにいたこと、
それが、こんなふうに思いがけない形で証明されることがあるなんて思わなかった。
彼女の痕跡は、やっぱりいろんなところに残っていた。
風の匂いにも、空の色にも、ページの隙間にも。
それを見つけるたび、
僕の中に生まれていた“喪失感”が、少しずつ癒されていくようだった。
「また、探しに来るから。」
小さくつぶやいた。
誰もいない空間で、
ただ、透に届くように。
それからというもの、僕は「透のいた痕跡」を探すことが日課になった。
彼女が使っていた席、
彼女が通っていた廊下、
彼女がよく見つめていた校庭の木々、
そして、彼女が最後に残していったノート。
それは、過去を引きずる行為じゃなかった。
むしろ、今を生きるための行動だった。
透が教えてくれたように、
“名前を残すこと”は、“存在を信じること”だった。
ある日の放課後、
ふと教室の黒板の端に、薄く小さな文字を見つけた。
消えかけていて、普通なら誰も気づかないくらいの小さな痕跡。
でも、その字だけは僕には見逃せなかった。
「……また、ここに来ていいかな?」
思わず、胸が熱くなった。
透がいた最後の頃、彼女は毎日ひとりで何かを書いていた。
それがノート以外にもあったなんて――
僕は、見逃していた。
その言葉が、まるで時を超えて届いた手紙のように思えた。
僕は小さくうなずきながら、黒板のすみっこにこう書き加えた。
「いつでも。待ってる。」
誰が見るわけでもない。
けれどそれでよかった。
この言葉は、彼女の残した問いかけへの返事。
そう思えたから。
始業式から数週間が過ぎたころ、
クラスに新しい転入生がやってきた。
女子で、どこか透と同じ雰囲気を纏っていた。
それだけで、僕の胸はざわついた。
でも、違った。
名前も、声も、空気も、全部違っていた。
似ているのは、姿勢と静けさだけ。
透は、唯一無二だった。
彼女の代わりは、どこにもいなかった。
放課後、僕は再び屋上に向かった。
風が心地よく、空は高くて、雲は流れていた。
手には例のノート。
表紙の角が少し折れていて、それがまた愛おしく思えた。
もう書くページはほとんどなかった。
でも最後の余白に、
僕は、ゆっくりと、はっきりと、こう書いた。
✿───────✿
透へ
君がくれた時間を、僕は生きていくよ。
名前を呼び合うことで始まった日々が、
こんなにも大きな意味を持つなんて思わなかった。
もう一度、君の名前を呼びたい。
でも、今はそれを胸の中で呼ぶことにする。
いつか、また会えたとき、
今度は僕から、まっすぐに言うよ。
好きだ。
──氷空
✿───────✿
その言葉を書き終えたとき、
空から小さな風が降りてきて、ノートのページがひとりでに閉じた。
まるで、透が「ありがとう」と言ってくれたように思えた。


