あの日の春に、嘘をついた

放課後の教室は、少しずつ音を失っていた。
窓の外から差し込む光が、机の上をなぞるように滑っていた。
その中に、ただひとつ動かない影があった。
窓際の席に座る白雪透。
黒髪が光を受けて淡く透ける。
彼女の横顔を、僕はただ見つめていた。

彼女の目線は教室の奥に向けられていて、誰とも交わることはない。
でも、そこに「誰かがいた」という気配を残していた。
誰も彼女に話しかけない。
それは決して避けているわけじゃない。
むしろ、どう話しかけていいのかわからないのだと思う。

 

言葉を交わさないまま、時間だけがゆっくりと進んでいく。
その沈黙が苦しいと思ったことはなかった。
彼女がノートのページをめくるたびに、紙の音だけが空気を震わせる。
そのたびに、僕の心にもどこかが触れられたような気がしていた。

昨日。
彼女が残していったノート。
そこに綴られていた言葉が、まだ胸の中でくすぶっている。

 

「名前は、呼ばれるためにあるものだから。」

 

その意味を、僕はまだうまく理解できていなかった。
だけど、その言葉が僕のなかの何かを確かに揺らした。
誰にも言えなかった痛み。
ずっと蓋をしてきた記憶。
そのすべてが、少しずつ音を立てて軋み始めていた。

その日から、教室の色が少しずつ変わって見えるようになった。
誰かの話し声も、遠くから聞こえる風の音も、窓の外の光の角度も、
すべてが、昨日までとはどこか違って感じられた。
ほんの少しだけ、やわらかくなったように思えた。

朝、教室に入ったときには、彼女はすでに席についていた。
変わらない姿勢。
変わらない沈黙。
でも、その背中には、昨日までにはなかった空気が宿っていた。
僕はそっと、自分の席に座る。
視線を向けようとすると、彼女がゆっくりとノートを開いた。

昨日、彼女が残していったノート。
あの言葉の続きを、今日も書いてくれる気がした。
その期待は、すぐに答えとなって現れた。

透は、ページをめくって、昨日の続きのような言葉を静かに書き加えていた。
その動きは決して急がず、まるで一文字一文字に意味を込めているようだった。

やがて彼女は、ノートを閉じた。
そして、立ち上がる。
授業が始まる前だったが、先生の姿はまだなかった。
透は、何も言わずに僕の机の上にそのノートを置いた。
それだけしてから、何事もなかったように自分の席に戻っていった。

僕は、自分の机の上に置かれたノートをそっと開いた。

 

✿───────✿

わたしの声は、
風と一緒に消えてしまうから、
文字にして残しておきたいと思った。

言葉は、届かなければ意味がないって、誰かが言ってた。
でも、わたしは、意味がなくても
誰かの心に触れることができたら、
それで十分だと思う。

あなたの中に、
わたしの言葉は、少しでも残っていますか。

✿───────✿

僕はそのノートの文字を、指でなぞるように読んだ。
音を出さずに、ただ目で追うだけだったのに、
その言葉は確かに、心の奥に触れていた。

透の声を、僕はまだ一度しか聞いたことがなかった。
転校初日、自己紹介のときに聞いた、たった一度の「白雪透です。よろしくお願いします」。
その声は、風に乗ったように儚くて、でも強くて、
耳の奥に残るというより、胸の中で響いていた。

彼女の「声」を、もう一度聞きたかった。
だけど、言葉じゃなくても、たしかに彼女は話していた。
このノートを通して、彼女の気持ちはちゃんと届いていた。

僕はノートの最後の空白に、ゆっくりとペンを走らせた。
文字を書くのが、こんなにも緊張するなんて思わなかった。
でも、だからこそ、伝えたいことはちゃんと残したかった。

 

✿───────✿

透へ

あなたの言葉は、ちゃんと届いています。
僕の中には、ずっと消えなかった想いがあります。
それが何なのか、まだ言葉にできないけれど、
たしかに、心が動いた。

だから、もう少しだけ話を聞かせてください。

氷空

✿───────✿

 

書き終えたとき、心臓が少しだけ早く鼓動を打っていた。
自分でも気づかないほど、長く息を止めていたらしい。
深く息を吸って、ゆっくりとノートを閉じる。
ページの温度が、手のひらに残っていた。

その日の放課後、僕はノートをそっと彼女の席に置いた。
教室にはもうほとんど誰も残っていなかった。
窓の外には夕日が差していて、教室の壁を淡い橙色に染めていた。
その光のなかで、ノートの表紙がほのかに輝いて見えた。
まるで、それが何か特別なものに変わったかのようだった。

 

翌朝、教室に入ると、透はもう席についていた。
彼女は僕の方を見なかった。
でも、机の上には、またあのノートが置かれていた。
僕の席に。
昨日と同じように、何も言わず、何も見せず。
けれどその沈黙が、言葉以上に意味を持っていた。

 

僕はノートを開いた。
そこには、新しい言葉が記されていた。

 

✿───────✿

氷空くんへ

ありがとう。
誰かがわたしの言葉を読んでくれていることが、
こんなにもあたたかいことだって、初めて知った。

あなたが心を動かしたって言ってくれたこと、
その言葉だけで、わたしは今日もちゃんとここにいられる。

わたしがここにいることを、
誰かに証明してもらえるって、こんなにも強くなれることなんだね。

だから、もう少しだけ、ここにいてもいいですか。

白雪透

✿───────✿

 

その言葉を読んだとき、胸の奥に何かが広がった気がした。
それは、久しく忘れていたあたたかさだった。
心の底に積もっていた雪が、ほんの少しだけ解けていくような感覚。

その日の授業中、僕はほとんど黒板を見ていなかった。
教科書のページは開いたまま、内容は頭に入ってこなかった。
ノートの中に書かれていた透の言葉が、何度も何度も脳内を反芻していた。

「もう少しだけ、ここにいてもいいですか。」

その一文が、ずっと胸の中で揺れていた。
どうしてそんな言葉を書くのか。
どうしてそんなふうに、自分の存在を誰かに許されようとするのか。
透はなぜ、そんなにも透明なままで生きようとしているのか。

答えは、どこにもなかった。
でも、僕は確かに知っていた。
僕自身も、そうだったからだ。

 

“存在していてもいいのかどうか”――
それを、春の終わりに僕は自分自身に問いかけた。
問いかけて、答えが出ないまま、今に至る。
その問いを、透もまた自分に向けている気がしてならなかった。

 

放課後、透は帰り支度をしていた。
僕は勇気を振り絞って、ほんの少しだけ歩み寄った。

「……白雪さん。」

声に出して呼ぶのは、はじめてだった。
その名前は、想像していたよりも呼びにくくなかった。
むしろ、口に出した瞬間、言葉としてぴたりと収まるような不思議な感覚があった。

透は驚いたようにこちらを見た。
でも、次の瞬間には、ほんの少しだけ微笑んで、ゆっくりと頷いた。

言葉はなかった。
けれど、確かに“何か”が交わされた。

それからの日々、僕と透は言葉のない会話を重ねていった。
声は交わさないけれど、ノートを通じて、視線を通じて、
ほんの少しずつ、心の距離が近づいていくのを感じていた。

透は、教室の中でほとんど誰とも言葉を交わさなかった。
それは彼女が誰かを避けているというより、
“言葉を交わす必要がない”とでも思っているような静けさだった。

でも、ノートの中の透は違った。
そこには、彼女の声が確かにあった。
文字になった分だけ、その思考や想いは鮮明で、まっすぐで、
僕の心に入り込んできた。

ある日、透のノートにはこんな言葉があった。

✿───────✿

わたしは、小さいころから「消えてしまいたい」って思うことがよくありました。

誰かに求められないなら、存在しないほうが楽だって、
思い込んでいたのかもしれません。

でも、今は違う。
少しだけでも、わたしを思い出してくれる人がいるなら、
わたしはここにいたいと思える。

あなたが、わたしの名前を呼んでくれた日から。

✿───────✿

その言葉を読んだあと、僕は机に突っ伏した。
こみ上げるものを押さえられなかった。
声に出すことはなかったけれど、涙が一筋だけ頬を伝った。
その涙は、僕自身のためのものでもあった。

なぜなら、
“僕もまた、そうだった”からだ。

僕は透のノートに、こう書いた。

✿───────✿

透へ

君の言葉を読んで、心が強く揺れました。
僕もずっと、自分の存在を疑ってきました。

誰にも必要とされないと思った。
名前を呼ばれても、それが僕自身を示している気がしなかった。
ただ、音として流れていくだけだった。

でも君が、僕の名前をノートに書いてくれた日から、
少しずつ変わってきた気がします。

僕も、ここにいていいのかもしれないって。

だから、ありがとう。

氷空

✿───────✿

 

言葉を交わすのが怖かった。
人と向き合うのが怖かった。
傷つけることも、傷つけられることも、
何より、自分の中の“本音”を見つめることが怖かった。

でも今、透の存在がその恐怖を少しずつ溶かしてくれている。
まるで氷がゆっくりと水になるように、
固まっていた感情が、あたたかさに変わっていく。

その変化が心地よかった。
けれど、どこかで不安も感じていた。

この静かな時間が、永遠に続くわけじゃないという予感。
透という存在が、まるで夢のように儚く思える瞬間があった。
触れようとすると、指の隙間からこぼれてしまいそうで。
それでも、僕は触れたいと思った。
彼女が残してくれるすべてを、ちゃんと受け止めたかった。

その日、透がいつもより少し遅れて教室に入ってきた。
誰も気に留めなかったが、僕だけはすぐに気づいた。
いつもなら始業の五分前には席についているはずの彼女が、
チャイムの直前に、足早に教室に入ってきた。
その表情はいつも通りだった。
だけど、僕には分かった。

彼女のまなざしが、ほんの少しだけ“揺れていた”。

 

休み時間。
透は珍しくノートを開いていなかった。
代わりに、机の上に手を乗せて、じっと窓の外を見ていた。
ページをめくる指先も動かさず、ただ沈黙の中にいた。

何かが、変わろうとしている。
そう感じたのは、直感ではなく、空気の重みのようなものだった。

午後になって、彼女はノートを開いた。
そして、たったひとことだけ、そこに書いていた。

✿───────✿

もしも、わたしがいなくなっても、
あなたの中に、わたしはいますか。

✿───────✿

その言葉を見たとき、息が止まりそうになった。
胸の奥に、冷たい風が通り抜けていく感覚。
彼女が何を意味して書いたのか、正確にはわからない。
でも、それは“予感”だった。
何かが終わりに近づいている、そんな気配を纏っていた。

 

僕は、ページの裏に言葉を綴った。
迷わずに。
すぐに、書けた。

✿───────✿

透がいなくなったら、僕はきっと、また春に戻る。
時間が止まった、あの場所に。

でも、今の僕にはもう、戻りたくない。
君がいる今のこの季節に、僕はいたいんだ。

だから、いなくならないで。
ただ、それだけが願いです。

✿───────✿

その日、透がいつもより少し遅れて教室に入ってきた。
誰も気に留めなかったが、僕だけはすぐに気づいた。
いつもなら始業の五分前には席についているはずの彼女が、
チャイムの直前に、足早に教室に入ってきた。
その表情はいつも通りだった。
だけど、僕には分かった。

彼女のまなざしが、ほんの少しだけ“揺れていた”。

 

休み時間。
透は珍しくノートを開いていなかった。
代わりに、机の上に手を乗せて、じっと窓の外を見ていた。
ページをめくる指先も動かさず、ただ沈黙の中にいた。

何かが、変わろうとしている。
そう感じたのは、直感ではなく、空気の重みのようなものだった。

午後になって、彼女はノートを開いた。
そして、たったひとことだけ、そこに書いていた。

✿───────✿

もしも、わたしがいなくなっても、
あなたの中に、わたしはいますか。

✿───────✿

その言葉を見たとき、息が止まりそうになった。
胸の奥に、冷たい風が通り抜けていく感覚。
彼女が何を意味して書いたのか、正確にはわからない。
でも、それは“予感”だった。
何かが終わりに近づいている、そんな気配を纏っていた。

 

僕は、ページの裏に言葉を綴った。
迷わずに。
すぐに、書けた。

✿───────✿

透がいなくなったら、僕はきっと、また春に戻る。
時間が止まった、あの場所に。

でも、今の僕にはもう、戻りたくない。
君がいる今のこの季節に、僕はいたいんだ。

だから、いなくならないで。
ただ、それだけが願いです。

✿───────✿

その晩、僕は眠れなかった。
電気を消した部屋の天井をずっと見つめていた。
何も映らない白い天井。
だけど、そこには透の姿が残像のように浮かんでいた。

白いシャツ。
風に揺れる髪。
窓の外を見つめる横顔。
ノートに記されたやわらかな文字。
そして、僕の名前をノートに書いたときの、あの丁寧な筆跡。

全部が鮮明で、全部が夢みたいだった。

 

携帯の画面を何度も見た。
メッセージの履歴も、写真も、連絡先すらない。
透がそこにいた証は、何ひとつスマホの中には残っていなかった。

なのに、僕の中には、ありすぎるくらいに残っていた。

記憶って、こんなに重かったんだな、と思った。
どこにも触れられないのに、胸の奥でちゃんと形を持っている。
透の手紙の言葉が、繰り返し繰り返し、頭の中でこだまする。

「……生きていてよかったって、初めて思えた時間でした。」

その一文だけで、心が締めつけられた。
僕はただ、彼女の言葉に寄り添いたかっただけだ。
助けたかったなんて思わない。
救いたいなんて、大それたことじゃない。
ただ、彼女の隣にいたかった。
声にならないまま、その気持ちが大きくなっていた。

 

眠れないまま夜が明けて、
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の中に淡く広がった。
夏の始まりの朝だった。

翌日も、透は学校に来なかった。
先生は何の説明もなく、出席簿に印をつけて次の話題に移った。
クラスメイトたちも、特に気にする様子はなかった。
「また欠席?」
「具合悪いのかな」
その程度の会話が一瞬交わされて、すぐに話題はアイスの新作や週末の予定に移っていった。

誰も彼女のことを、本気で心配しているようには見えなかった。

それが、悔しかった。
寂しかった。
そして、自分自身に腹が立った。

自分だって、最初はそうだった。
誰かがいなくなっても、自分には関係のない話だと思っていた。
教室で目立たず、気配の薄い人間には、誰も注目しない。
だけど、透は違った。
あんなにも静かで、あんなにも優しくて、
なのに、どうしてこんなに簡単に“いなかったこと”にされるんだろう。

 

昼休み。
僕は誰とも話さずに、屋上に向かった。
鍵は開いていた。
風が強くて、空が広かった。
校舎の向こうに街があって、遠くに海の気配も感じられた。

透が、もしここにいたら。
そう思って目を閉じた。

その瞬間、
まぶたの裏に彼女の笑顔が浮かんだ。
ほんの一度しか見たことのない、あの微笑。
言葉もなく、視線だけを交わしたあの日の、あの瞬間。

 

僕はポケットから小さな紙を取り出した。
昨日、自分の机の奥から見つけた、小さなメモ。

✿───────✿

氷空くんへ
あなたに出会えてよかった。
ほんとうに、ありがとう。

✿───────✿

それはきっと、最後のメッセージだった。
けれど、僕はまだ、終わりにしたくなかった。

僕はポケットの中で、その小さなメモを何度も握りしめた。
紙が少しずつ折れて、しわになっていく。
でも、その感触が唯一、透とつながっていられる証のように思えた。

空を見上げた。
雲はゆっくり流れていた。
風は強くて、でもあたたかかった。
その風に吹かれて、まるで何かが呼び起こされるように、
僕の中に、ひとつの記憶が蘇った。

 

──春の終わり。
あの日、僕はある言葉を誰にも言えなかった。

「生きていてごめんなさい。」

それが、本心だった。
誰にも必要とされていないと感じていた。
何をやっても空回りで、誰にも届かない。
消えてしまいたいとは言えなかった。
けれど、“いないほうがよかったのかもしれない”という思いは、確かにあった。

そんな自分が、他人の存在を認めるなんて、おかしいのかもしれない。
でも、透に出会って、初めて気づいた。
誰かが“いてくれてよかった”と思うことが、
こんなにも大きな救いになるんだと。

 

透がくれた言葉は、
そのまま僕自身をも肯定してくれるような気がしていた。

──生きていて、よかった。

まだそうは思えないけど、
少なくとも、そう願いたいと、今は思える。

 

風がひときわ強くなり、僕の手から紙が舞い上がった。
慌てて追いかけようとして、でも、途中で止まった。
それは、空に向かってふわりと舞い上がり、
まるで“帰る場所”を知っているように、空へ吸い込まれていった。

 

ありがとう、と
僕は心の中で呟いた。

放課後の教室に戻ると、透の席には封筒がひとつ、そっと置かれていた。
机の中でも、椅子の上でもない。
誰に気づかれないように、まるで僕にだけ見つけてほしいと願うように。
それは、透から僕への、たったひとつの“残された手紙”だった。

封を切る手が震えていた。
だけど、それでも開かずにはいられなかった。

 

✿───────✿

氷空くんへ

わたしは、もういなくなるかもしれません。
でも、いなくなることが、悲しいとは思っていません。

あなたと出会えたことが、
わたしにとって奇跡みたいだったから。

誰かが自分の名前を呼んでくれる。
誰かの記憶の中に、自分がいる。

それだけで、
わたしは、生きていてよかったって思えました。

だから、お願いです。

あなたは、あなた自身を大切にしてね。
あなたの名前が、わたしの中にずっと残っているように。

──白雪透

✿───────✿

 

読み終わったあと、僕はその場から動けなかった。
涙が出るわけでもなく、声を上げて泣くわけでもなく。
ただ、胸の中が、しんと静まり返ったまま、何も言えなかった。

“ありがとう”のひと言さえ、心の奥に引っかかったまま出てこなかった。

だって、
僕はまだ、透がいなくなったことを認めたくなかったから。

数日後。
透の転校が正式に発表された。
担任の先生がホームルームでさらりと言っただけだった。

「体調の関係で、遠方に引っ越すことになったそうだよ。急な話だったから、みんなびっくりしたと思うけど」

その言葉にざわめいたのは、最初の数秒だけだった。
その後はすぐに、日常が戻った。
別の話題に移るクラスメイトたち。
「誰だっけ?」と小声で囁く声も聞こえた。

彼女がこの教室にいたことさえ、
なかったことにされていくのが怖かった。

 

僕は、ノートを取り出して、その最後のページに文字を綴った。

✿───────✿

透へ

君がいたこと。
君がここに残してくれた言葉。
全部、ちゃんと覚えてる。

誰も気づかなくても、僕だけは知ってる。

君がいてくれた日々が、
僕を少しだけ強くしてくれた。

いつかどこかでまた、名前を呼べたらいい。
もう一度、君の声を聞けたらいい。

その日まで、僕は君を忘れない。

──氷空

✿───────✿

 

ノートを閉じたとき、風が吹いた。
窓の外には夏の雲が浮かんでいた。
その白さが、透の名前のようにどこまでも広がっていくように思えた。

 夏休みに入った。
透のいない教室は、そのまま静かに閉ざされた。
誰もがそれぞれの予定に向かって走り出す中、
僕はひとり、あの日々の余韻に取り残されたままだった。

蝉の声がうるさくて、空はどこまでも青くて。
こんなにも世界が鮮やかなのに、
僕の中ではまだ、透の「声のない言葉」が鳴り響いていた。

 

誰にも言えないまま、僕はノートを持って海へ向かった。
透と話してみたいと思った場所のひとつ。
いつか彼女がぽつりと書いた「海が好き」という言葉を頼りに。

電車に揺られて駅から歩いて、
ようやく辿り着いたその浜辺は、誰もいない静かな場所だった。
波音だけが僕に話しかけてくるようだった。

 

リュックから、ノートとペンを取り出す。
波打ち際に座って、ページを開いた。
風でページがめくれるたびに、
透がめくっていた教室の風景がよみがえる。

僕は、そこに言葉を残した。

✿───────✿

透へ

今、君がいたら何を言っただろう。
風が気持ちいいね、とか、
この海、透に似てるね、とか、
きっと、そんなありふれた言葉だと思う。

でも、きっとそれだけでよかった。
それだけで、君とつながっていられる気がした。

──氷空

✿───────✿

 

そのページを閉じたあと、
僕はノートを胸に抱いたまま、
波の音に身を委ねた。

言葉にできないまま、
でも確かにある“想い”が、
静かに胸の中で脈を打っていた。

帰りの電車の中、窓の外を流れていく風景をぼんやりと見つめていた。
透がこの景色を見たら、何て言うだろう。
そんなことばかりを考えていた。

カーブを曲がるたびに揺れる車内。
駅に止まるたびに変わっていく乗客の顔ぶれ。
どこにでもある光景のはずなのに、どこか遠い世界のように感じた。

僕は、鞄の中のノートをそっと撫でた。
中に残っている言葉たちが、まだ熱を持っているような気がした。

 

家に着く頃には、もう夜になっていた。
部屋の明かりをつけず、カーテンの隙間から入る街灯の光だけで、机に向かった。
そして、ノートの最後のページにまたひとつ、文字を刻んだ。

✿───────✿

透へ

君がいなくなって、
僕は初めて、自分の声を探している。

誰かの声を聞くことはできても、
自分の声は、自分じゃわからないままだった。

でも、君が僕の名前を呼んでくれたとき、
はじめて、自分の輪郭が見えた気がした。

だから、ありがとう。

君がくれたものを、
今度は僕が誰かに渡していけたらと思う。

──氷空

✿───────✿

 

ペンを置いたとき、少しだけ心が軽くなっていた。
透が今、どこにいてもいい。
きっと、もう会えなくてもいい。

それでも、君がいたことを、
僕は忘れない。

夏休みが終わる直前、僕は学校に忍び込んだ。
忍び込んだ、というと語弊があるかもしれない。
でも、誰もいない教室に、自分の足で戻るというのは、少しだけ勇気が要った。

鍵は開いていた。
たぶん、部活動の誰かがまだ残っていたんだと思う。
けれど、その教室の扉を開けたとき、
空気の温度が違って感じた。

そこは、もう誰のものでもない空間だった。
透が座っていたあの席も、きれいに片づけられていた。
ノートも、封筒も、書きかけの文字も、
何ひとつ残っていなかった。

それなのに、
そこにはまだ、“透”がいた。

教室に差し込む西日の中に、
椅子の背もたれにかかる風の音に、
机に残された細かな傷跡に、
彼女の気配は確かに、滲むように残っていた。

 

僕は、自分の席に座り、ノートを開いた。
もう、ページはほとんど残っていない。
それでも、最後の余白に、静かに筆を走らせる。

✿───────✿

透へ

今日、君のいた場所に来たよ。
もう誰もいない、誰も気づかない教室。

でも、僕にはちゃんとわかった。
君はここにいた。
確かにここに、存在していた。

だから僕は、もう「いなかったこと」にはさせない。
君がいたこと、残した言葉、
全部、僕の中にあるから。

ありがとう。
何度でも言うよ。
何度でも、思い出すよ。

──氷空

✿───────✿

 

その瞬間、風が吹いた。
どこから入ったのかわからないけれど、
ふと、教室のカーテンが揺れた。
その揺れ方が、あまりにも優しくて、
まるで、誰かの指先が頬に触れたようだった。

その夜、夢を見た。

透がいた。
教室ではなく、知らない場所だった。
でも、その空間には不思議な安心感があった。
彼女は白いワンピースを着て、草の上に座っていた。
風が吹くたびに、髪がふわりと揺れる。
その姿は、現実よりも透明で、光に溶けかけていた。

僕は、何も言えなかった。
言葉にしようとしても、声が出なかった。
それでも、透は気づいたように微笑んで、
ゆっくりとこちらを見つめた。

 

「……氷空くん。」

名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
その声は、現実のどこよりも優しかった。
まるで、許されているような感覚。
抱えていたすべてを肯定してくれるような響き。

「大丈夫だよ。」

彼女は、そう言った気がした。
でも、その言葉は風に紛れて、
はっきりとは聞こえなかった。

僕は手を伸ばした。
だけど、その手が届く前に、
透の姿は、風と一緒に崩れるように消えていった。

目が覚めたとき、枕が少し濡れていた。
夢の中で泣いたことなんて、今までなかった。
それでも、今はそれでよかったと思えた。

 

透がいなくなっても、僕の中に透はいる。
それは、悲しみではなく、願いでもなく、
ただ、静かな確信だった。

それから数日後。
僕は、透との最後のやり取りを繰り返し読み返していた。
あのノートの中に残された文字たち。
一つひとつが、まるで彼女の息遣いそのもののように思えた。

言葉とは、誰かの記憶を繋ぐためのもの。
透はそれを知っていた。
だからこそ、自分の声を文字にして残したのだと思う。

言葉を残すということは、
誰かに思いを託すということだ。
沈黙の中で交わした無数の手紙が、
僕にそう教えてくれた。

 

そして、僕はようやく、
自分の過去に向き合う決意をした。

春の終わり、
僕は親友を失った。
突然だった。
誰も理由を知らなかった。
でも、僕だけは、薄々気づいていた。
彼が限界だったこと。
僕が、何も言葉をかけられなかったこと。

あの日以来、
「誰かの名前を呼ぶこと」が怖くなった。
言葉が届かないことが怖かった。
何も救えなかった自分が、
誰かのそばにいることすら許されないような気がしていた。

だけど――
透は、僕の名前を呼んでくれた。
“知ってる”という目で、僕を見てくれた。

 

だから、僕は。
今度こそ、目を逸らさずに言える。

君が、いてくれてよかった。
僕は、そう心から思っている。

ある日、僕は透からもらったノートをコピーして、
その一部を日記帳に貼りつけた。
誰かに見せるためじゃない。
ただ、自分の中に残しておくためだった。

言葉は消えていく。
どんなに強く想っても、記憶は少しずつ薄れていく。
だから、残しておきたかった。
彼女の声を。
彼女の想いを。
そして、それを受け取った自分の気持ちを。

 

それからの僕は、少しずつ言葉を話せるようになっていった。
クラスメイトとも、先生とも。
以前のようにうまくはいかないけれど、
それでも、「話そう」とする気持ちを持てるようになった。

心を閉ざしていた時間は長かった。
だけど、透との時間は、それよりも濃くて深かった。
彼女の存在が、沈黙に光を差してくれた。

 

八月の終わり、
僕は一通の手紙を出した。

宛名は書かれていない。
住所も、投函先も、どこにも記さなかった。
だけど、その手紙には、確かに彼女への言葉が綴られていた。

✿───────✿

透へ

君に会えてよかった。
この夏は、たぶん一生忘れられない。

君がいなくなっても、
君が残してくれた言葉が、
僕の中にちゃんと生きている。

もう大丈夫、なんて簡単に言えないけど、
君が最後に言ってくれた「ありがとう」が、
僕の心を何度も支えてくれている。

次に会えるそのとき、
僕はきっと、君の名前を迷わず呼べる気がする。

好きだよ。

──氷空

✿───────✿

 

手紙を閉じたとき、
部屋の中にいたはずの静けさが、
どこかやさしく変わったような気がした。

夏休みが明けた始業式の日、
透がいなくなってから、はじめて制服に袖を通した。
鏡の前でネクタイを整える手が、少しだけ震えていた。

心のどこかで、
「もう一度、彼女が現れるんじゃないか」
そんな期待を、完全に捨てきれていなかったのかもしれない。

でも、教室の扉を開けた瞬間、
やっぱりそこには、透の姿はなかった。

彼女の席には新しい生徒が座っていて、
何事もなかったように、また新しい日常が始まっていた。

それが現実だった。
何があっても、世界は動き続ける。
人がいなくなっても、日付は進む。
音楽が流れて、誰かが笑って、空がいつものように青いまま。

それでも、僕は彼女のいた時間を忘れない。

 

昼休み、僕は屋上に向かった。
静かな風が吹いていた。
透がいたら、きっと「気持ちいいね」と笑ってくれたと思う。

ポケットから、例のノートの最終ページを取り出す。
ページの隅には、彼女が最後に描いた、ひとつの“丸”。

何の意味があったのか、わからない。
でも、僕はそれを“句点”だと思っている。
ひとつの物語の終わりを告げる、優しいしるし。
だからこそ、僕もそこに、もうひとつの“丸”を描いた。

そして、そっと目を閉じて――心の中で言った。

 

「また、会おう。」