七月の終わり。
蝉の声が窓の外で何重にも折り重なって、校舎全体を包み込んでいた。
教室の天井では古い扇風機が回っていて、風を送るというよりただ音を立てているだけだった。
黒板の隅には、白いチョークで「終業式まであと三日」と書かれている。
その数字の横に、小さな落書きが残っていた。
誰かが描いたハートマークを、別の誰かが半分だけ消したような形。
笑い声が聞こえる。
前の席では、夏休みの予定を話している。
後ろの席では、誰かがスマホで誰かの投稿を見て笑っている。
誰かの世界が、そこにはちゃんと存在していた。
でも、その中に僕の席はなかった。
僕の声も、僕の名前も、その世界には響いていなかった。

 

僕は廊下側のいちばん後ろの席に座っていた。
窓から差し込む光が机の上を照らしている。
鉛筆の影が、机の木目に細く長く落ちていた。
手を伸ばせば掴めそうで、でも掴めたことなんて一度もなかった。

 

周囲の声が、遠く感じた。
まるで厚いガラス越しに聞こえてくるような感覚だった。
名前を呼ばれても、反射のように返事をするだけで、心がついていかなかった。
僕の中では、ずっと春が終わっていなかった。
教室に射し込む夏の光にも、どこか違和感があった。
まるで、自分だけが季節を進めることを許されていないような。
止まってしまったままの、感情の一部。
そこに触れたくなくて、ずっと目をそらしてきた。

 

でも、その日。
教室の空気が、静かに変わった。

 

窓際のいちばん後ろの席に、“誰か”が座っていた。

その席は、ずっと空席だったはずだった。
前の学期で転校した生徒が使っていた席。
先生も誰も、特に言及することなくそこを空いたままにしていた。
まるでその空白が教室の一部として馴染んでしまっていたように。
だから、誰も最初は違和感を覚えなかったのかもしれない。

でも、僕は見てしまった。
誰よりも先に。

 

白いシャツに、黒く長い髪。
肩にかかる髪が光を受けて、かすかに揺れていた。
机の上には教科書も筆箱もスマホもなくて、ただ一冊、薄いノートだけが置かれていた。
風もないのに、そのページがふわりとめくれた。
その動きが、音も立てないのに、やけに耳に残った。
それは、まるで夢の中で起きていることみたいだった。

 

彼女は、前を見ていた。
誰の目も見ず、声も出さず。
でも、その存在は確かに“そこにあった”。

まわりの誰も、まだ気づいていなかった。
だけど僕だけは、その違和感の正体を正確に感じ取っていた。
目を離せなかった。
呼吸の音さえ、うるさく思えるほどに、目が釘付けになっていた。

その子は、何もしていないのに。
ただ座っているだけなのに。
でも、彼女のまわりの空気だけが違って見えた。

まるで、光の粒がそこに集まって形を成しているみたいだった。

先生が教室に入ってきた。
何人かの生徒が椅子の向きを直し、声がすっと小さくなる。
教室全体がゆっくりと“授業モード”に切り替わっていく、その空気の中で。

先生は前に立ち、短く言った。

 

「今日は転校生を紹介します。」

 

一瞬の静寂。
教室の空気が止まる。
みんなの視線が、教卓の横に立つその子に集まった。
でも僕は、視線を動かさなかった。
ずっと、その席を見ていた。

その子が立ち上がる。
椅子の脚が床をかすめる、かすかな音。
彼女の白いシャツが揺れる。
長い髪が、光を受けてすっと動いた。
誰もがその動きに、ほんのわずか目を奪われた。

そして、彼女は口を開いた。

 

「白雪透です。よろしくお願いします。」

 

その声は、風みたいだった。
小さくて、でもしっかりと届く。
高すぎず、低すぎず。
まるで耳元で誰かが名前を呼ぶときのような声。
そのたった一言で、教室の空気が変わった。

名前の響きが、空気に染み込んでいく。
「白雪透」という言葉が、まるで音じゃなくて光のように、僕の胸の奥へ入り込んでくる。
聞き返すこともなく、すっと記憶に刻まれていた。

 

僕はその名前を、心の中で何度も繰り返していた。

白雪透。

なんて静かな名前だろう、と思った。
白という音。雪という響き。透という字面。
どこにも重たいものがなくて、ただ淡くて、でも確かにそこにある感じ。
冬の朝に薄く降る雪の気配みたいな、そんな名前だった。

その名前を聞いた瞬間から、僕の胸の奥に残っていた“何か”が、少しだけ軋んだ。

呼吸を整えようとしても、うまくできなかった。
胸の奥が少しずつ熱くなっていくような感覚。
心臓の鼓動が、ひとつずれて跳ねるような。

白雪透は、自己紹介を終えて静かに座った。
再びノートのページが、ぱらりと一枚めくれた。

教室の空気が少しだけ揺れた気がした。
誰もが「いつも通り」に戻ろうとする中で、僕だけは戻れなかった。

彼女の目が、ふと、僕の方を見た気がした。

 

その視線は鋭くもないし、優しくもない。
ただ、真っ直ぐだった。
何かを探るでもなく、何かを訴えるでもなく。
それでも、その目に見られているだけで、
誰にも触れられたことのなかった自分の奥が、そっとすくい上げられたような感覚があった。

その視線に、言葉を返すことはできなかった。
でも、心の中では確かに反応していた。
何かが、確かに目を覚ましかけていた。

その日の放課後。
教室のざわめきが少しずつ薄れていくなかで、僕は席を立たずに残っていた。
窓の外には、まだ真夏のような光が差していて、校庭では野球部のかけ声が響いていた。
でも僕の頭の中では、ずっとさっきの声が繰り返されていた。

 

白雪透です。よろしくお願いします。

 

その言葉の余韻が、教室の壁や床や空気の粒にまで染み込んでいるように思えた。
言葉というよりも、音の残像。
彼女がどんな声でどんな表情でそれを言ったのか、僕の中ではやけに鮮明に焼きついていた。

誰かの足音が廊下を通り過ぎる。
遠くでチャイムが鳴る。
でも、時間だけが動いていて、心はどこにも進めないままだった。

 

僕は立ち上がり、何気なく窓際のほうへ歩いた。
白雪透が座っていた席。
机の上には、まだあの薄いノートが置かれていた。

忘れ物、だろうか。
でも、彼女がそれを忘れるようには思えなかった。
それは、そこに“置かれた”というより、“残された”ように見えた。

僕は、迷いながらもそのノートにそっと触れた。
表紙には何も書かれていなかった。
ただ、手に触れた瞬間、かすかにあたたかさが残っているような気がした。

僕はそっとノートを開いた。
一ページ目には、何も書かれていなかった。
でも、ページの端にほんの少しだけ折られた跡があった。
指先でゆっくりとページをめくっていく。
その手触りは、どこか遠い記憶のなかにある感触と似ていた。

三ページ目。
そこに、ようやく何かが書かれていた。

✿───────✿

この世界にわたしのことを覚えている人がいなくなっても、
誰かの中にわたしの名前が残っていれば、
それだけでいい。

名前は、呼ばれるためにあるものだから。

✿───────✿

僕はその言葉を、何度も何度も読み返した。
ページの中央にだけ文字があって、あとは余白だらけだった。
なのに、その言葉だけで十分すぎるほどに強かった。
胸の奥に、まだ言葉にならない感情が浮かんできて、
それが喉の奥を静かに満たしていく。

彼女は、これをなぜ僕に見せたのだろうか。
それとも、これは僕に向けたものではなかったのだろうか。
わからなかった。
でも確かに、その言葉は“僕の中に残った”。

その瞬間。
僕はようやく、自分の中の季節が、ほんの少しだけ動いたことに気づいた。

その夜。
僕は自分の部屋で、机の上にそのノートを置いて、ずっと眺めていた。
ページを閉じても、あの言葉が頭の中で繰り返される。

 

「名前は、呼ばれるためにあるものだから。」

 

不思議だった。
たったそれだけの言葉なのに、僕の心の奥の、ずっと閉じていた扉をノックするような力があった。
誰にも言えなかった痛みを、知っているような響きだった。

 

僕は、ずっと名前を呼ばれるのが怖かった。
名前で呼ばれるたびに、過去の記憶が引きずり出されそうで。
春の終わり。
あの出来事が起きたとき、僕は初めて自分の存在を疑った。
あのとき、誰かを救えなかったこと。
自分の弱さと、逃げたことと、見なかったふりをした自分がいたこと。

誰にも言えなかった。
誰かに話したところで、意味なんてないと思っていた。
でも、白雪透という存在が、あのたった一言で、
僕の中の“誰にも見せたくなかった場所”に、そっと手を触れた。

 

僕は初めて、ノートの余白に自分の字でこう書いた。

✿───────✿

名前を呼ぶことで、
誰かを思い出せるなら。
名前を残すことで、
誰かの時間をつなげることができるなら。

わたしは、あなたの名前を、ずっと覚えていたい。

✿───────✿

自分の文字がこんなに震えているなんて知らなかった。
でも、その震えがようやく自分の心の輪郭をなぞってくれるような気がした。

翌日の朝、教室に入ると、彼女はもうそこにいた。
昨日とまったく同じ席、同じ姿勢、同じ白いシャツ、そして、同じように机の上にはノートが一冊だけ。
でも今日は、僕の席の方に、ほんの少しだけ体を傾けていた。

そのたった数センチの傾きが、僕にとっては大きな変化だった。
彼女が僕の存在を“知っている”という事実。
それだけで、胸の奥にじんわりと温かさが広がった。

僕は席につき、昨日とは違って、ゆっくりと視線を彼女に向けた。
透は、ノートのページを開いていた。
昨日とは違うページ。
そこには、また新しい文字が綴られていた。

✿───────✿

記憶ってね、風に似ていると思う。
見えないのに、確かにそこにあって。
触れられないのに、心を動かす。

だから私は、風が吹くたびに思い出すの。
誰かの声、誰かの背中、誰かの名前。

その中に、あなたの名前もある気がした。

✿───────✿

僕は、息を吸うのを忘れていた。
このノートは、まるで会話だった。
声を使わない、言葉だけの、でも確かにつながる会話。

透は、こちらを見なかった。
でも、ページの上にあるその言葉たちは、まっすぐ僕に向かって書かれていた。
その優しさが、ただただ、苦しかった。

その日、授業中にふと窓の外を見たとき、風が吹いた。
教室のカーテンがゆっくり揺れて、透の髪も同じように揺れた。
その光景が、何かの記憶と重なった。

 

「……あれ?」

心の奥で何かが引っかかった。
この光景を、僕はどこかで見たことがある。
もっと前に、もっと違う場所で。
頭の中がざわざわと音を立てる。
けれどそれは、鮮明には思い出せない。

放課後。
彼女の席にノートは置かれていなかった。
その代わり、僕の机の上に一枚の紙が置かれていた。

それは手紙だった。
文字は、透の筆跡だった。

✿───────✿

あなたの名前を最初に聞いたとき、心が少しだけ震えたの。
理由はわからなかった。
でも、それはきっと、私の記憶のどこかにあなたがいたから。

私は本当は、ここにいるべきじゃなかった。
でも、もう一度だけあなたに会いたかった。

あなたが誰かのことを忘れずにいようとする優しさを、
私は、ずっと知ってた。

このノートに書いた言葉たちは、全部、本当の私の気持ちです。

どうか、自分を責めないで。
生きていてくれて、ありがとう。

──白雪 透

✿───────✿

僕は、文字が滲んでいくのを止められなかった。
涙が一滴、手紙の端に落ちた。
そのしみが、まるで“ここにいた証”のように染み込んでいった。

翌日、透は教室にいなかった。
先生が「転校の都合で昨日が最終登校日だった」と簡単に説明した。
誰かが「え、そうだったの?」と呟いて、あとはすぐにいつもの時間が流れていった。

でも、僕だけはわかっていた。
白雪透は、最初から“ここには存在していなかった”のかもしれないということを。
いや、たった数日でも、確かに“ここにいた”。
僕の心の中に、彼女の言葉が、声が、名前が、ちゃんと残っている。

それだけは、何も変わらない。

 

放課後。
僕は校舎裏の風が通り抜ける場所に立っていた。
あの日と同じ空、あの日と同じ時間。
そして、風が吹いた。

僕は、そっと口を開いた。

 

「透。」

 

声が風に乗って、空へと溶けていく。
でも、それでいいと思った。
彼女の残した言葉が、僕の中でちゃんと生きている。
だったら、もう僕は――

 

「……好きだ。」

 

それだけが、どうしても伝えたかった。
誰かに、じゃない。
“彼女自身”に、伝えたかった。

 

名前を呼ぶことで、存在がそこに生まれるのなら。
僕はこれからも、何度でも透の名前を呼ぶ。
心の中で、日々の中で、
出会い直すように、思い出すように。

 

“透に、名前を呼ばれた日”。
それは、僕がようやく“自分の存在”を認められた日だった。
誰かの名前を呼び返せるようになった日だった。

 

そして、これは――僕の、はじまりの物語。