「ねぇ、春野さん。今晩お花見いこ?」
少し鼻にかかった声が聞こえてきて振り返れば、そこには同じ大学の川本英奈が立っていた。
「あ……川本さん」
私と川本さんは同じ女子校出身なのだが、ある過去から私は彼女とあまり話したくない。と言うよりも、同じ高校だった人とは話したくない。
「もう、英奈でいいよー」
「でも……川本さんも私のこと苗字だし……」
「じゃあ実果ちゃんって呼ぶから、英奈にして?」
「……分かった」
「やった」
なぜ川本さんがあの事件のことを知っているにも関わらず、大学が同じと知っただけでわざわざ私に声をかけてくるのかいまだにわからない。
だって私はデザイン学科で油絵を専攻しているが、川本さんは英文科だ。
それに高校時代も一度も同じクラスではなかったし、私と同じ美術部でもなかった。確か川本さんは運動系のクラブだったと記憶している。
「で、お花見いい? 実果ちゃん」
甘えるように川本さんが私を覗き込む。
今までもさりげなく誘いを交わしていたが、大学に入学したの上に五回目のお花見のお誘いとなると、何て理由をつけて断ろうかと迷ってしまう。
「えっと……今日バイトかも」
「実果ちゃんたら。もう、バイトは月と木って言ってたじゃん」
「あ、だね。今日金曜だっけ。ええっと、確か友達とイタリアンだったと思う」
「友達って誰? 私も行きたいな、だめ?」
私は川本さんの笑顔を見ながら冷や汗が出て来る。
きっとバレている。
私があえて川本さんを避けていることに。
私は迷ったが、こんなに川本さんが私に執着する理由を純粋に知りたくもなってくる。
「……じゃあ私、イタリアン断るから、お花見いく?」
「ほんと実果ちゃん?! やったぁ」
川本さんの満面の笑みに、私はもしかしたらあのことを気にしていたのは私だけで、川本さんは同じ高校出身の私とただ友達になりたいだけなのかもしれないと思う。
「じゃあ実果ちゃん。二十時に湊川田公園の入り口で。晩御飯は家で食べてきてね」
「ご飯はわかったけど、湊川田公園までいくの?」
私はその公園の名前に眉を顰めそうになる。
「うん、あそこの桜が一番綺麗じゃない?」
「それはそうだけど……」
「じゃあまた夜に〜」
川本さんは私の返事も待たずに、手のひらをヒラヒラさせると廊下を駆け降りていった。
※※
私は直前まで行こうか迷ったが、川本さんの連絡先を知らないため、結局、指定された時間に湊川田公園にきていた。
(今は20時ちょうどか)
スマホで時間を見てから辺りを見渡すが、まだ川本さんは来ていないようだ。
「実果ちゃん、お待たせー」
その声に振り返れば、川本さんが駆けてくる。
「ううん、いまきたとこだから」
「良かった。じゃあ《《奥の公園》》の方いこっか」
「あ……奥までいくの大変だし手前の遊具あるとこでも桜見れるからそっちにしない?」
手前の公園なら広く遊具もあり、花見客も多いが奥の公園は桜の木が一本しかなく、墓地と併設してるため花見の時期ではなくても夜は人気がない。
「えー、奥の桜だったら二人占めできるじゃん」
「でも……」
「ほらほら行こっ」
躊躇う私を気にする素振りもなく川本さんは私の腕を持つと奥の公園へとまっすぐ進んでいく。
(まさかあのこと知らない?)
(同じ高校でそんなことあるのかな……)
私はそんなことを考えながら川本さんのどうでもいい話に相槌を打ちながら、十五分ほど歩き、奥の公園に辿り着く。
公園といっても桜の木が一本と古いベンチがあるだけだ。街灯が何本か立っていて桜の花が夜の闇に白く浮かび上がっている。
ただ美しいとは思わない。
どちらかといえば、その夜に紛れた桜の花が悲鳴をあげて泣いているように見えるのは、やはりあの記憶のせいだろう。
「うわぁ、綺麗だね」
川本さんはスマホで写真を撮りながら無邪気に桜の木の下ではしゃいでいる。
「ね、実果ちゃんも桜、綺麗だと思うでしょ?」
「あ、綺麗というより……少し怖い、かな」
「怖い? どうしてそう思うの?」
川本さんから、ふっと笑顔が消えると真面目な顔で私をじっと見つめた。
「それは……」
私は口籠る。
桜を見れば恐怖にまみれた、忘れたい過去を思い出す。私が人生で唯一、犯した罪だから。
「ここ、人が死んだ場所だもんね」
(──え?)
ゾッとするような冷たい声色で川本さんが発した言葉に私は体が硬直する。
(いま、何て……?)
「実果ちゃんも知ってるよね? ここで咲良が首を吊って死んだこと」
久しぶりに聞いたその名前に、私は無意識に首をぶんぶんと振った。
「私……っ、なにも……知らない!」
そうずっと知らないことにしていた。
ずっとそうすることで自分を守ってきたから。
だって口を開いて真実を話せば、私は誰がどうみても被害者ではなくなってしまうから。
「ほんと嘘つきなんだね」
「か、川本さんこそ……急にどうしてそんなこと言うの?」
川本さんは、くすっと笑う。
「死人に口無しって言うのは嘘なんだよ」
「え?」
川本さんは自分の鞄から園芸用のスコップを取り出すとしゃがみこみ、桜の木の根元をザクザクと掘っていく。
「な、何してるの?!」
「死体が埋まってるかも」
「冗談やめてよっ」
「ほら、よく言うじゃない。桜が薄紅色なのは木の下に埋まってる死体の血を吸ってるからって」
「やめてったら!」
足がガタガタと震えてくる。
川本さんはどこまで知っているんだろう。
川本さんはどうして私が嘘をついたせいで咲良が死んだことを知っているんだろう。
「あ、あった」
少しの間、せわしなくスコップを動かしていた川本さんは、木の根本から古びたお菓子の缶を取り出すとにこりと微笑んだ。
「見て。タイムカプセルだよ」
(タイム……カプセル?)
私はそのお菓子の缶をみて、さらに血の気が引いてくる。
そのお菓子の缶はクマのキャラクターが描かれていて私が高校三年の咲良の誕生日の時にプレゼントしたものだったから。
「実果ちゃんが開けてよ」
川本さんは無理やり私の手に錆びた缶を押しつけた。
「ちょっと……私……嫌だよっ」
咄嗟にそう言ったあと、私は川本さんを見てその鬼気迫る表情に言葉を失う。
川本さんから向けられている視線は、明らかに私に対する軽蔑と強い憎しみがこもったものだった。
「さっさと開けてよ!」
川本さんは動けない私に舌打ちをすると語気を強めた。
「早くっ!」
「……っ」
観念した私は震える手で少し錆びついた缶を開ける。
中から出て来たのは無数のノートの切れ端だった。
切れ端には文字が書いてあり、その筆跡はよく知っている人物のものだった。
「これ……咲良の手紙?」
「読んでみて」
私は缶の中の一番上にあった一枚を指先でそっと拾い上げる。そこには丁寧な筆致で短い文章が書いてある。
──『実果ちゃんはどうしてあんな嘘ついたんだろう。私じゃないのに』
私はその一枚を見ただけで全身の力が抜けそうになる。
嘘をつき咲良を死に追いやる原因を作ったのは、間違いなく私なのだ。
「ほら、次」
「ゆるして……もう読めない」
「あっそ」
川本さんは私から缶を取り上げると、次々と咲良の書いたメモを読み上げていく。
──『私は何もしてない……誰も信じてくれない』
──『実果ちゃんの悪口をSNSに投稿なんてしてないし、実果ちゃんの絵を盗作もしてない』
──『先生と不倫なんかもしてないし……それなのに大学の推薦取り消しなんて酷いよ』
──『念願の全国高校美術展の大賞も取り消された』
──『生きていたくない』
川本さんは淡々と読み上げていく。
私は思わず大きな声を出した。
「もうやめて!」
川本さんは私の声が聞こえていないかのように、こちらを見ることもなく咲良の悲痛な叫びが書かれた最後の一枚を読む。
──『死にたい』
たった四文字。
その四文字が命の重さであり、私の罪の重さだ。
「実果ちゃん、咲良の最期の言葉聞いてどう? まだ何も知らないって嘘つける?」
「……私は……」
私の家は母子家庭で裕福とはいえなかった。
そのせいで塾にも行けなかったが、勉強は問題なかった。ただ私の行きたい大学は油絵で有名な美術デザイン学科のある大学だった。
その大学の美術デザイン学科では高校三年間で一度でも公募で大賞を獲ればら授業料が一年間免除されるのだ。
さらに受験なしでその学科へ推薦入学でき、毎年特待生として授業料の援助もあることを知った。
「本当は……ちゃんと受験して奨学金でいくつもりだったの」
「それで?」
川本さんが私に言葉の続きを促す。
「でも……お母さんが病気で……入院費用が必要になって。受験料や授業料免除とか……公募で大賞とれればなって思った」
「知ってる。高二の時、美術展の公募であなたは特選に選ばれたけど、大賞は咲良だった。だからあなたは高校三年生の最後の秋、公募でどうしても大賞を獲る必要があった。でもその公募であなたはあえなく落選。また大賞を獲ったのは咲良だった」
川本さんが私の両肩をぐっと爪を立てて握った。
「だからって何で?! あなたと咲良は親友だったんでしょ?!」
私は川本さんの手を払いのけると川本さんをじっと見つめた。
「そう。親友だったよ……」
確かに親友だった。
でも大嫌いな親友だった。
咲良にはなんでも話せたし、自慢でもあった。咲良は美人で絵の才能もあって人当たりもよく、スポーツもできた。みんなから好かれていた。
(だから……私はずっと咲良が妬ましかった)
「川本さんは何も知らない」
私がどれほど咲良の存在で自分の無力さ、不甲斐なさを感じたのか。絶望と敗北感を味わったのか。
「何も知らないのも罪だよ」
私が誰かに吐露した初めての本音と言える言葉は掠れていた。
川本さんも他のみんなと呼べる他人達も私がどんな気持ちで、あんなことをしたのかきっと誰も理解することはないだろう。
「咲良は……っ、優しくて誰にでも親切で何より誠実で純粋な子だった。誰かに恨まれるような子じゃなかった」
「そうだね……」
確かに咲良は絵に描いたような優等生で、まるで絵を描く前の真っ白なキャンバスのように心が綺麗で純真無垢な子だった。
だから時折、私は強い憤りを感じた。
だって咲良は私がうまく絵が書けなくても『上手だね』と私を褒めた。
母が病気になったときは『なんでも話を聞くからね』と私に言った。
節約のためになかなか画材が新しく買えない私に『沢山あるから』と自分の私物を分けてくれた。
でもね、咲良。
──私はちっとも嬉しくなかったよ。
だって咲良にとって私は自分よりも劣っている、弱い可哀想な人間だと言われてるみたいだったから。
「自業自得なの。私も咲良もどっちもどっちなの」
「ふざけないで! あんたのせいで咲良は……っ、あんたさえ嘘つかなかったら咲良は……!」
「そうね……だから嘘をついた」
「何言ってるの?」
私は咲良から二度目の大賞を受賞についての事前連絡があったと教えてもらったとき決心した。
咲良の持ってるものを奪うことを誓った。
だから一生で一度の最大の嘘をつくことにした。
そう決めてからの約三週間は、本当に目まぐるしい日々だった。
できるだけリアリティがあって、更に親友だった私だからこそ知ってる情報や知識を総動員して咲良を《《加害者》》に仕立てあげた。
咲良を装ってSNSの裏垢を作り、咲良が私の作品を盗作していることを面白おかしく書いて投稿した。
投稿写真には咲良の誕生日にプレゼントした、クマのキャラクターの缶があえて映りこむように細工をして。
私はちょうど間近に迫っていた咲良の誕生日に渡すプレゼントを買った際、自分も同じものを買っていたのだ。
勿論、そのことは咲良に言っていない。
そして咲良に誕生日プレゼントを渡す際、私は多くの人の目が触れるようにわざと教室の昼休みに渡した。
クマのキャラクターの缶入りお菓子に喜ぶ咲良の姿を、できるだけ多くのクラスメイトに印象づけるために。
更にちょうどその頃、高校である事案が問題になった。それはうちのクラスの誰かが美術部の顧問と付き合っているらしいと通報があったのだ。内心、私はほくそ笑んだ。
校長のところへこっそり訪ねていき、その際の聞き取り調査で放課後、その顧問と抱き合っていたのが咲良だと嘘を吐いた。
そしてそんな中、咲良が二度目の大賞を獲ったと担任から正式にクラスで発表があった際、私はアイディアを盗むなんて酷い、と泣いて叫んでみせた。
そのまま、私はさも過呼吸になったかのように演じ、病院に搬送された。更に翌日から体調不良を理由に学校を欠席した。
徹底的に《《被害者》》を装うために。皆んなと呼ばれる大多数に被害者である自分を印象づけるために。
小さな嘘は火種と同じだ。
ほんの小さな嘘は、噂と憶測であっという間に燃え盛り真実は灰と化す。
「どう? これで満足?」
私の秘密の告白を黙って聞いていた川本さんを見れば、その体は怒りから震えている。
川本さんは私を強く揺さぶった。
「自分が何したかわかってる?! この人殺し!」
(人殺し……)
その言葉に私は少し違和感を感じる。
確かに咲良の死のキッカケは私だが、私の心は咲良のせいで死んだ。
──私だって死んだのだ。
「なんとか言いなさいよ! あんたのせいで咲良は死んだんだよ!」
咲良は死んだ。そんなことわかっている。
私は桜の木をそっと見上げる。咲き誇る桜をやっぱり綺麗だとは思わない。
名は体を表す、なんて言葉があるように桜をみれば私は咲良を思い出すから。
「ちょうど……一年くらいだね」
私は花明かりを見上げながら、白い花弁の仄かな輝きを見つめた。
約一年前──咲良は正式に大賞を取り消され、大学の推薦も撤回され家から出られなくなった。やがてSNSを中心とした誹謗中傷に耐えきれず自ら命を絶った。
私は咲良の代わりに推薦で希望の大学に入り、盗作も認められて特待生になれた。
でも満たされなかった。
きっと咲良の死を聞いた時、私の心も死を迎えたんだと思う。
それ以降、何も感じなくなったから。
「ねぇ、川本さん。だって仕方ないじゃない。無いものはずっと無いの。だから誰かから奪うしかなかった」
自分でも驚くほど冷静に吐いた言葉に温度はない。
咲良が死んだあの日から私はきっと人間じゃなくなった。
息をしてるけどいつも息苦しくて、何を食べても味を感じなくて、夜はまともに眠れなくなった。
元々、才能のない私には思うような魅力的で斬新な絵を描けるわけもなく、母の入院費用を稼ぐ為にパパ活にも手を出した。
「川本さんが本当のこと、知ってくれててなんかホッとした」
「何それ。頭おかしいんじゃない?!」
「ううん。本心だよ。咲良が死んでから、ずっと私も死んでたから」
咲良はただの一度も私の言うことに反論しなかった。ただいつも俯いて口を閉ざしていた。繊細で優しく、内向的で争いを嫌う咲良で本当に良かったと心から安堵した。
それと同時に自分の醜さに反吐が出そうだった。どうすれば良かったのか今だにわからない。
お金が必要だった。
美大に行きたかった。
受賞して大学から援助を受けたかった。
母の入院費用が必要だった。
ただただ、自分のために一生懸命だった。
もう一度人生をやり直せるとしても、やはり私は同じことをするのだろう。
人間は死んでも変わらない、これは私の持論だ。
「最後に……川本さんと咲良はどういう関係か聞いてもいい?」
あの咲良がこうして全てを話している相手がいるなんて思いもよらなかった。
「姉妹みたいなものよ」
「それは親友だったってこと?」
「……」
「そんなに仲がいいなんて知らなかった、学校ではしゃべってるとこ見たことなかったし」
「色々事情があるの」
「そうなんだ」
川本さんと咲良がなぜ親しい友人であるのにそのことを周囲に黙っていたのか、咲良が川本さんに私のことを話したにも関わらず、川本さんが今日まで黙っていたのか何もわからない。
でも咲良が死んでいるいま、そんなことは些細なことであり、どうでもいい。
どんなに悔いても願っても時は戻らない。
過去だけは変えられない。
「はぁあ。明日から……私どうなっちゃうのかな」
月夜に照らされて、ひらりひらりと舞い降りてくる桜の花びらはまるで涙みたいだ。
「さあね。気づいてるみたいだけど、今の私たちの会話はすでにSNSにあげさせてもらったから」
「ありがとう」
「随分と余裕ね。見ものだわ、あんたが誹謗中傷にどれだけ耐えられるのか」
私は欲深く弱い人間だ。
咲良よりもきっと誰よりも。
だからいつだって何度でも間違える。
目先のキラキラ輝く偽物の宝石に目を奪われて、本当に大切な石ころには目もくれず、気づけば全て失っている。
「ねぇ、川本さん。桜の花言葉知ってる?」
「は? どうしたの急に?」
川本さんが訝しげな顔を見ながら私は桜を指差した。
「フランス語で、私を忘れないで」
私の言葉に川本さんが奥歯を噛み締めたのがわかった。
「咲良が……ここで死んだ意味が分かったわ。じゃあね」
そう言うと川本さんは私を残して歩いていく。
一人きりになった私は桜の木の根元に残されたクマのキャラクターが描かれた缶を手にとった。
そしてそっとひと撫でしてから、再び桜を見上げる。
「私を忘れないで、か……」
いつだったかフランス文学にも詳しかった咲良が私に教えてくれた。
「……誰か……私を忘れないでいてくれるかな」
ポツリとつぶやいた私の声は夜風と共に、桜の花びらがふわりと巻き取るようにして空へと攫っていく。
私は念のため用意してきたロープを鞄から取り出した。
今夜、咲良が死んだこの場所で私はこの世界からさよならを告げる。
桜を静かに見上げた私の心からは、桜を忌避する気持ちも恐怖心も消え、今は何故だか桜がとても美しく愛おしいとさえ感じる。
こんな気持ちにさせてくれるのは、今から儚く散る私へ咲良からの弔いなのかもしれない、なんて最期まで身勝手に想像してしまう。
咲良は本当に優しくて善良な人間だったから。
「ねぇ、咲良……私ね、生まれ変わるなら次は人間以外がいいな」
例えば桜の木なんかもいいかもしれない。
そんな馬鹿なことを考えながら、私はふっと自嘲気味に笑った。
「……死んでも忘れない」
そっと瞼を閉じれば、私の頬にあたたかいものが伝った。
※※
──ピピピピッ
どこかで聞き覚えのある目覚ましの音に私は無意識に手を伸ばしていた。
指先に何かがコツンと当たり音を止めると、私は瞼を開けた。
(ここって……)
私は見慣れた天井に驚くと慌てて起き上がった。
(どうして……私、死んだはずじゃ……)
そして私はハンガーラックに掛けられている制服を見て目を見開いた。
「なんで制服……捨てたはずなのに」
さらにはベッド横に置いてあるスマホは私が使っていたスマホの一つ前のものだ。
(機種変したのに)
指紋認証でロックを外し、私は声を上げた。
「えっ……二〇二三年、四月?!」
どくどくと身体の中の血流の音が聞こえてくる中、スマホにLINEメッセージが入る。
「……うそ……っ」
──『実果ちゃんおはよ。昨日は桜綺麗だったね』
送り主は咲良だった。
そして添付されたのは月明かりに照らされた美しい夜桜だ。
(これは夢……それとも……)
私は最期の瞬間、強く願った。
もしも死んで咲良に会えたなら謝りたいと。愚かな自分を赦してくれなんて言わない。ただ自分勝手に捻くれて、欲望と嫉妬に狂った私を軽蔑して欲しいと。
いまこの瞬間が夢の中なのか死後の妄想なのかはわからない。
私は制服に着替えると自宅を飛び出した。
そしてひたすらに学校を目指して駆けていく。
咲良にもう一度会うために──。
少し鼻にかかった声が聞こえてきて振り返れば、そこには同じ大学の川本英奈が立っていた。
「あ……川本さん」
私と川本さんは同じ女子校出身なのだが、ある過去から私は彼女とあまり話したくない。と言うよりも、同じ高校だった人とは話したくない。
「もう、英奈でいいよー」
「でも……川本さんも私のこと苗字だし……」
「じゃあ実果ちゃんって呼ぶから、英奈にして?」
「……分かった」
「やった」
なぜ川本さんがあの事件のことを知っているにも関わらず、大学が同じと知っただけでわざわざ私に声をかけてくるのかいまだにわからない。
だって私はデザイン学科で油絵を専攻しているが、川本さんは英文科だ。
それに高校時代も一度も同じクラスではなかったし、私と同じ美術部でもなかった。確か川本さんは運動系のクラブだったと記憶している。
「で、お花見いい? 実果ちゃん」
甘えるように川本さんが私を覗き込む。
今までもさりげなく誘いを交わしていたが、大学に入学したの上に五回目のお花見のお誘いとなると、何て理由をつけて断ろうかと迷ってしまう。
「えっと……今日バイトかも」
「実果ちゃんたら。もう、バイトは月と木って言ってたじゃん」
「あ、だね。今日金曜だっけ。ええっと、確か友達とイタリアンだったと思う」
「友達って誰? 私も行きたいな、だめ?」
私は川本さんの笑顔を見ながら冷や汗が出て来る。
きっとバレている。
私があえて川本さんを避けていることに。
私は迷ったが、こんなに川本さんが私に執着する理由を純粋に知りたくもなってくる。
「……じゃあ私、イタリアン断るから、お花見いく?」
「ほんと実果ちゃん?! やったぁ」
川本さんの満面の笑みに、私はもしかしたらあのことを気にしていたのは私だけで、川本さんは同じ高校出身の私とただ友達になりたいだけなのかもしれないと思う。
「じゃあ実果ちゃん。二十時に湊川田公園の入り口で。晩御飯は家で食べてきてね」
「ご飯はわかったけど、湊川田公園までいくの?」
私はその公園の名前に眉を顰めそうになる。
「うん、あそこの桜が一番綺麗じゃない?」
「それはそうだけど……」
「じゃあまた夜に〜」
川本さんは私の返事も待たずに、手のひらをヒラヒラさせると廊下を駆け降りていった。
※※
私は直前まで行こうか迷ったが、川本さんの連絡先を知らないため、結局、指定された時間に湊川田公園にきていた。
(今は20時ちょうどか)
スマホで時間を見てから辺りを見渡すが、まだ川本さんは来ていないようだ。
「実果ちゃん、お待たせー」
その声に振り返れば、川本さんが駆けてくる。
「ううん、いまきたとこだから」
「良かった。じゃあ《《奥の公園》》の方いこっか」
「あ……奥までいくの大変だし手前の遊具あるとこでも桜見れるからそっちにしない?」
手前の公園なら広く遊具もあり、花見客も多いが奥の公園は桜の木が一本しかなく、墓地と併設してるため花見の時期ではなくても夜は人気がない。
「えー、奥の桜だったら二人占めできるじゃん」
「でも……」
「ほらほら行こっ」
躊躇う私を気にする素振りもなく川本さんは私の腕を持つと奥の公園へとまっすぐ進んでいく。
(まさかあのこと知らない?)
(同じ高校でそんなことあるのかな……)
私はそんなことを考えながら川本さんのどうでもいい話に相槌を打ちながら、十五分ほど歩き、奥の公園に辿り着く。
公園といっても桜の木が一本と古いベンチがあるだけだ。街灯が何本か立っていて桜の花が夜の闇に白く浮かび上がっている。
ただ美しいとは思わない。
どちらかといえば、その夜に紛れた桜の花が悲鳴をあげて泣いているように見えるのは、やはりあの記憶のせいだろう。
「うわぁ、綺麗だね」
川本さんはスマホで写真を撮りながら無邪気に桜の木の下ではしゃいでいる。
「ね、実果ちゃんも桜、綺麗だと思うでしょ?」
「あ、綺麗というより……少し怖い、かな」
「怖い? どうしてそう思うの?」
川本さんから、ふっと笑顔が消えると真面目な顔で私をじっと見つめた。
「それは……」
私は口籠る。
桜を見れば恐怖にまみれた、忘れたい過去を思い出す。私が人生で唯一、犯した罪だから。
「ここ、人が死んだ場所だもんね」
(──え?)
ゾッとするような冷たい声色で川本さんが発した言葉に私は体が硬直する。
(いま、何て……?)
「実果ちゃんも知ってるよね? ここで咲良が首を吊って死んだこと」
久しぶりに聞いたその名前に、私は無意識に首をぶんぶんと振った。
「私……っ、なにも……知らない!」
そうずっと知らないことにしていた。
ずっとそうすることで自分を守ってきたから。
だって口を開いて真実を話せば、私は誰がどうみても被害者ではなくなってしまうから。
「ほんと嘘つきなんだね」
「か、川本さんこそ……急にどうしてそんなこと言うの?」
川本さんは、くすっと笑う。
「死人に口無しって言うのは嘘なんだよ」
「え?」
川本さんは自分の鞄から園芸用のスコップを取り出すとしゃがみこみ、桜の木の根元をザクザクと掘っていく。
「な、何してるの?!」
「死体が埋まってるかも」
「冗談やめてよっ」
「ほら、よく言うじゃない。桜が薄紅色なのは木の下に埋まってる死体の血を吸ってるからって」
「やめてったら!」
足がガタガタと震えてくる。
川本さんはどこまで知っているんだろう。
川本さんはどうして私が嘘をついたせいで咲良が死んだことを知っているんだろう。
「あ、あった」
少しの間、せわしなくスコップを動かしていた川本さんは、木の根本から古びたお菓子の缶を取り出すとにこりと微笑んだ。
「見て。タイムカプセルだよ」
(タイム……カプセル?)
私はそのお菓子の缶をみて、さらに血の気が引いてくる。
そのお菓子の缶はクマのキャラクターが描かれていて私が高校三年の咲良の誕生日の時にプレゼントしたものだったから。
「実果ちゃんが開けてよ」
川本さんは無理やり私の手に錆びた缶を押しつけた。
「ちょっと……私……嫌だよっ」
咄嗟にそう言ったあと、私は川本さんを見てその鬼気迫る表情に言葉を失う。
川本さんから向けられている視線は、明らかに私に対する軽蔑と強い憎しみがこもったものだった。
「さっさと開けてよ!」
川本さんは動けない私に舌打ちをすると語気を強めた。
「早くっ!」
「……っ」
観念した私は震える手で少し錆びついた缶を開ける。
中から出て来たのは無数のノートの切れ端だった。
切れ端には文字が書いてあり、その筆跡はよく知っている人物のものだった。
「これ……咲良の手紙?」
「読んでみて」
私は缶の中の一番上にあった一枚を指先でそっと拾い上げる。そこには丁寧な筆致で短い文章が書いてある。
──『実果ちゃんはどうしてあんな嘘ついたんだろう。私じゃないのに』
私はその一枚を見ただけで全身の力が抜けそうになる。
嘘をつき咲良を死に追いやる原因を作ったのは、間違いなく私なのだ。
「ほら、次」
「ゆるして……もう読めない」
「あっそ」
川本さんは私から缶を取り上げると、次々と咲良の書いたメモを読み上げていく。
──『私は何もしてない……誰も信じてくれない』
──『実果ちゃんの悪口をSNSに投稿なんてしてないし、実果ちゃんの絵を盗作もしてない』
──『先生と不倫なんかもしてないし……それなのに大学の推薦取り消しなんて酷いよ』
──『念願の全国高校美術展の大賞も取り消された』
──『生きていたくない』
川本さんは淡々と読み上げていく。
私は思わず大きな声を出した。
「もうやめて!」
川本さんは私の声が聞こえていないかのように、こちらを見ることもなく咲良の悲痛な叫びが書かれた最後の一枚を読む。
──『死にたい』
たった四文字。
その四文字が命の重さであり、私の罪の重さだ。
「実果ちゃん、咲良の最期の言葉聞いてどう? まだ何も知らないって嘘つける?」
「……私は……」
私の家は母子家庭で裕福とはいえなかった。
そのせいで塾にも行けなかったが、勉強は問題なかった。ただ私の行きたい大学は油絵で有名な美術デザイン学科のある大学だった。
その大学の美術デザイン学科では高校三年間で一度でも公募で大賞を獲ればら授業料が一年間免除されるのだ。
さらに受験なしでその学科へ推薦入学でき、毎年特待生として授業料の援助もあることを知った。
「本当は……ちゃんと受験して奨学金でいくつもりだったの」
「それで?」
川本さんが私に言葉の続きを促す。
「でも……お母さんが病気で……入院費用が必要になって。受験料や授業料免除とか……公募で大賞とれればなって思った」
「知ってる。高二の時、美術展の公募であなたは特選に選ばれたけど、大賞は咲良だった。だからあなたは高校三年生の最後の秋、公募でどうしても大賞を獲る必要があった。でもその公募であなたはあえなく落選。また大賞を獲ったのは咲良だった」
川本さんが私の両肩をぐっと爪を立てて握った。
「だからって何で?! あなたと咲良は親友だったんでしょ?!」
私は川本さんの手を払いのけると川本さんをじっと見つめた。
「そう。親友だったよ……」
確かに親友だった。
でも大嫌いな親友だった。
咲良にはなんでも話せたし、自慢でもあった。咲良は美人で絵の才能もあって人当たりもよく、スポーツもできた。みんなから好かれていた。
(だから……私はずっと咲良が妬ましかった)
「川本さんは何も知らない」
私がどれほど咲良の存在で自分の無力さ、不甲斐なさを感じたのか。絶望と敗北感を味わったのか。
「何も知らないのも罪だよ」
私が誰かに吐露した初めての本音と言える言葉は掠れていた。
川本さんも他のみんなと呼べる他人達も私がどんな気持ちで、あんなことをしたのかきっと誰も理解することはないだろう。
「咲良は……っ、優しくて誰にでも親切で何より誠実で純粋な子だった。誰かに恨まれるような子じゃなかった」
「そうだね……」
確かに咲良は絵に描いたような優等生で、まるで絵を描く前の真っ白なキャンバスのように心が綺麗で純真無垢な子だった。
だから時折、私は強い憤りを感じた。
だって咲良は私がうまく絵が書けなくても『上手だね』と私を褒めた。
母が病気になったときは『なんでも話を聞くからね』と私に言った。
節約のためになかなか画材が新しく買えない私に『沢山あるから』と自分の私物を分けてくれた。
でもね、咲良。
──私はちっとも嬉しくなかったよ。
だって咲良にとって私は自分よりも劣っている、弱い可哀想な人間だと言われてるみたいだったから。
「自業自得なの。私も咲良もどっちもどっちなの」
「ふざけないで! あんたのせいで咲良は……っ、あんたさえ嘘つかなかったら咲良は……!」
「そうね……だから嘘をついた」
「何言ってるの?」
私は咲良から二度目の大賞を受賞についての事前連絡があったと教えてもらったとき決心した。
咲良の持ってるものを奪うことを誓った。
だから一生で一度の最大の嘘をつくことにした。
そう決めてからの約三週間は、本当に目まぐるしい日々だった。
できるだけリアリティがあって、更に親友だった私だからこそ知ってる情報や知識を総動員して咲良を《《加害者》》に仕立てあげた。
咲良を装ってSNSの裏垢を作り、咲良が私の作品を盗作していることを面白おかしく書いて投稿した。
投稿写真には咲良の誕生日にプレゼントした、クマのキャラクターの缶があえて映りこむように細工をして。
私はちょうど間近に迫っていた咲良の誕生日に渡すプレゼントを買った際、自分も同じものを買っていたのだ。
勿論、そのことは咲良に言っていない。
そして咲良に誕生日プレゼントを渡す際、私は多くの人の目が触れるようにわざと教室の昼休みに渡した。
クマのキャラクターの缶入りお菓子に喜ぶ咲良の姿を、できるだけ多くのクラスメイトに印象づけるために。
更にちょうどその頃、高校である事案が問題になった。それはうちのクラスの誰かが美術部の顧問と付き合っているらしいと通報があったのだ。内心、私はほくそ笑んだ。
校長のところへこっそり訪ねていき、その際の聞き取り調査で放課後、その顧問と抱き合っていたのが咲良だと嘘を吐いた。
そしてそんな中、咲良が二度目の大賞を獲ったと担任から正式にクラスで発表があった際、私はアイディアを盗むなんて酷い、と泣いて叫んでみせた。
そのまま、私はさも過呼吸になったかのように演じ、病院に搬送された。更に翌日から体調不良を理由に学校を欠席した。
徹底的に《《被害者》》を装うために。皆んなと呼ばれる大多数に被害者である自分を印象づけるために。
小さな嘘は火種と同じだ。
ほんの小さな嘘は、噂と憶測であっという間に燃え盛り真実は灰と化す。
「どう? これで満足?」
私の秘密の告白を黙って聞いていた川本さんを見れば、その体は怒りから震えている。
川本さんは私を強く揺さぶった。
「自分が何したかわかってる?! この人殺し!」
(人殺し……)
その言葉に私は少し違和感を感じる。
確かに咲良の死のキッカケは私だが、私の心は咲良のせいで死んだ。
──私だって死んだのだ。
「なんとか言いなさいよ! あんたのせいで咲良は死んだんだよ!」
咲良は死んだ。そんなことわかっている。
私は桜の木をそっと見上げる。咲き誇る桜をやっぱり綺麗だとは思わない。
名は体を表す、なんて言葉があるように桜をみれば私は咲良を思い出すから。
「ちょうど……一年くらいだね」
私は花明かりを見上げながら、白い花弁の仄かな輝きを見つめた。
約一年前──咲良は正式に大賞を取り消され、大学の推薦も撤回され家から出られなくなった。やがてSNSを中心とした誹謗中傷に耐えきれず自ら命を絶った。
私は咲良の代わりに推薦で希望の大学に入り、盗作も認められて特待生になれた。
でも満たされなかった。
きっと咲良の死を聞いた時、私の心も死を迎えたんだと思う。
それ以降、何も感じなくなったから。
「ねぇ、川本さん。だって仕方ないじゃない。無いものはずっと無いの。だから誰かから奪うしかなかった」
自分でも驚くほど冷静に吐いた言葉に温度はない。
咲良が死んだあの日から私はきっと人間じゃなくなった。
息をしてるけどいつも息苦しくて、何を食べても味を感じなくて、夜はまともに眠れなくなった。
元々、才能のない私には思うような魅力的で斬新な絵を描けるわけもなく、母の入院費用を稼ぐ為にパパ活にも手を出した。
「川本さんが本当のこと、知ってくれててなんかホッとした」
「何それ。頭おかしいんじゃない?!」
「ううん。本心だよ。咲良が死んでから、ずっと私も死んでたから」
咲良はただの一度も私の言うことに反論しなかった。ただいつも俯いて口を閉ざしていた。繊細で優しく、内向的で争いを嫌う咲良で本当に良かったと心から安堵した。
それと同時に自分の醜さに反吐が出そうだった。どうすれば良かったのか今だにわからない。
お金が必要だった。
美大に行きたかった。
受賞して大学から援助を受けたかった。
母の入院費用が必要だった。
ただただ、自分のために一生懸命だった。
もう一度人生をやり直せるとしても、やはり私は同じことをするのだろう。
人間は死んでも変わらない、これは私の持論だ。
「最後に……川本さんと咲良はどういう関係か聞いてもいい?」
あの咲良がこうして全てを話している相手がいるなんて思いもよらなかった。
「姉妹みたいなものよ」
「それは親友だったってこと?」
「……」
「そんなに仲がいいなんて知らなかった、学校ではしゃべってるとこ見たことなかったし」
「色々事情があるの」
「そうなんだ」
川本さんと咲良がなぜ親しい友人であるのにそのことを周囲に黙っていたのか、咲良が川本さんに私のことを話したにも関わらず、川本さんが今日まで黙っていたのか何もわからない。
でも咲良が死んでいるいま、そんなことは些細なことであり、どうでもいい。
どんなに悔いても願っても時は戻らない。
過去だけは変えられない。
「はぁあ。明日から……私どうなっちゃうのかな」
月夜に照らされて、ひらりひらりと舞い降りてくる桜の花びらはまるで涙みたいだ。
「さあね。気づいてるみたいだけど、今の私たちの会話はすでにSNSにあげさせてもらったから」
「ありがとう」
「随分と余裕ね。見ものだわ、あんたが誹謗中傷にどれだけ耐えられるのか」
私は欲深く弱い人間だ。
咲良よりもきっと誰よりも。
だからいつだって何度でも間違える。
目先のキラキラ輝く偽物の宝石に目を奪われて、本当に大切な石ころには目もくれず、気づけば全て失っている。
「ねぇ、川本さん。桜の花言葉知ってる?」
「は? どうしたの急に?」
川本さんが訝しげな顔を見ながら私は桜を指差した。
「フランス語で、私を忘れないで」
私の言葉に川本さんが奥歯を噛み締めたのがわかった。
「咲良が……ここで死んだ意味が分かったわ。じゃあね」
そう言うと川本さんは私を残して歩いていく。
一人きりになった私は桜の木の根元に残されたクマのキャラクターが描かれた缶を手にとった。
そしてそっとひと撫でしてから、再び桜を見上げる。
「私を忘れないで、か……」
いつだったかフランス文学にも詳しかった咲良が私に教えてくれた。
「……誰か……私を忘れないでいてくれるかな」
ポツリとつぶやいた私の声は夜風と共に、桜の花びらがふわりと巻き取るようにして空へと攫っていく。
私は念のため用意してきたロープを鞄から取り出した。
今夜、咲良が死んだこの場所で私はこの世界からさよならを告げる。
桜を静かに見上げた私の心からは、桜を忌避する気持ちも恐怖心も消え、今は何故だか桜がとても美しく愛おしいとさえ感じる。
こんな気持ちにさせてくれるのは、今から儚く散る私へ咲良からの弔いなのかもしれない、なんて最期まで身勝手に想像してしまう。
咲良は本当に優しくて善良な人間だったから。
「ねぇ、咲良……私ね、生まれ変わるなら次は人間以外がいいな」
例えば桜の木なんかもいいかもしれない。
そんな馬鹿なことを考えながら、私はふっと自嘲気味に笑った。
「……死んでも忘れない」
そっと瞼を閉じれば、私の頬にあたたかいものが伝った。
※※
──ピピピピッ
どこかで聞き覚えのある目覚ましの音に私は無意識に手を伸ばしていた。
指先に何かがコツンと当たり音を止めると、私は瞼を開けた。
(ここって……)
私は見慣れた天井に驚くと慌てて起き上がった。
(どうして……私、死んだはずじゃ……)
そして私はハンガーラックに掛けられている制服を見て目を見開いた。
「なんで制服……捨てたはずなのに」
さらにはベッド横に置いてあるスマホは私が使っていたスマホの一つ前のものだ。
(機種変したのに)
指紋認証でロックを外し、私は声を上げた。
「えっ……二〇二三年、四月?!」
どくどくと身体の中の血流の音が聞こえてくる中、スマホにLINEメッセージが入る。
「……うそ……っ」
──『実果ちゃんおはよ。昨日は桜綺麗だったね』
送り主は咲良だった。
そして添付されたのは月明かりに照らされた美しい夜桜だ。
(これは夢……それとも……)
私は最期の瞬間、強く願った。
もしも死んで咲良に会えたなら謝りたいと。愚かな自分を赦してくれなんて言わない。ただ自分勝手に捻くれて、欲望と嫉妬に狂った私を軽蔑して欲しいと。
いまこの瞬間が夢の中なのか死後の妄想なのかはわからない。
私は制服に着替えると自宅を飛び出した。
そしてひたすらに学校を目指して駆けていく。
咲良にもう一度会うために──。



