「ただいまー……」

 

 玄関を開けた瞬間、
 ふわっと香ったのは、いつもの柔軟剤の匂いじゃなかった。

 

 リビングに入ると、
 ソファの上で足を組んでスマホをいじっている男の人がいて——

 

 「よ。おかえり」

 

 「……奏くん?」

 

 そこにいたのは、御影 奏。
 兄の凪の同級生。高校三年生。
 そして最近、**“目を合わせるのがちょっとこわい”**って思ってしまうくらい、
 雰囲気が変わった人。

 

 「また、勝手にあがりこんで……」
 「凪に頼まれてさ、プリント届けにきたの。ついでにゆっくりしてただけ」
 「……そうですか」
 「てか、ねねもおかえり」

 

 そう言って微笑むだけで、
 なんかもう、目が離せなかった。
 長い指先。ゆるく組んだ足。整った横顔。

 

 ただそこにいるだけなのに、ずるいくらい綺麗。

 

 「その制服、似合うようになったな」
 「……え、なに急に」
 「いや、ふと思っただけ。
  前は“兄貴の妹”って感じだったけど——今は、“ちゃんと女の子”だなって」

 

 心臓が、びっくりするくらい跳ねた。

 

 「か、からかわないでください」
 「からかってないよ。わりとガチ」

 

 奏くんの目が、まっすぐで。
 でもその中にある“余裕”みたいなものが、くせになる。

 

 「今日、なにかあった?」
 「えっ……」
 「顔、赤い。……あー、なるほど。誰かに“ときめかされた”?」

 

 ……うそでしょ。
 なんでそんな図星なの。

 

 「わかりやすいな、ねねって」

 

 ふっと笑ったその声が、
 いつもよりちょっとだけ近く感じた。

 

 

 「……でもさ」
 「……うん?」
 「そんなふうに顔、赤くするの。俺の前だけでよくない?」

 

 

 息が、止まりそうだった。

 

 「俺、独占欲強いタイプなんだよね」

 

 

 ——ずるい。
 そういう言い方、ほんとに、ずるいよ。

 

 「ねねって、ちゃんと守りたくなる顔してるからさ。
  他のやつが調子乗る前に、俺がぜんぶ奪っとこうかなって」

 

 耳まで、じわじわ熱くなるのが分かった。

 

 「……今、かわいい顔してる」
 「み、見ないでください……っ」
 「いや、見る。……ていうか、もっと近くで見たい」

 

 

 ぽん、とソファの隣を叩く奏くん。

 

 ただの合図のはずなのに、
 今日だけは、何かを試されてる気がして。

 

 「……隣、来る?」

 

 目の奥の光が、まっすぐで。
 その声が、低くてやさしくて、でも少し怖いくらいに綺麗で——

 

 

 どきどき、じゃなかった。
 ぎゅって、胸をつかまれる感覚だった。

 

 この人は、たぶん。
 本気になったら、止まらない。

 

 私が一歩でも踏み込んだら、
 ぜんぶ持っていかれる。

 

 なのに、気づけば足は、
 ゆっくりと、彼の隣へと動いていた。

 

 

 私は、なにも言えないまま、
 奏くんの隣に座っていた。

 

 たぶん数十センチ。
 それだけの距離なのに、
 心の距離がぐん、と近づいた気がして。

 

 なにを話したらいいかわからなかったけど、
 沈黙は、ぜんぜん怖くなかった。
 奏くんは、ソファにもたれたまま、目を閉じていた。

 

 

 「……ねねさ、」

 

 

 不意に名前を呼ばれて、びくっと身体が揺れた。

 

 「誰に、ドキドキさせられてきたの?」

 

 「え……」

 

 「今日の君、ちょっと……無防備すぎ」

 

 

 さっきまで閉じてた目が、気づけば私を見ていて。
 目が合った瞬間、
 ぜんぶの時間が止まった気がした。

 

 

 「正直……俺、あんま余裕ない」

 

 

 その声は、ほんの少しだけ、苦しそうで。

 

 「ねねの全部、他のやつに見せないで」
 「笑った顔も、照れた顔も……俺だけが見たい」

 

 

 ——もう、だめ。
 そんなこと言われたら、わたし……

 

 「奏くん……今の、冗談じゃないですよね?」

 

 

 そっとたずねた私の声に、
 奏くんはただ、黙って、うなずいた。

 

 

 「じゃあ……もうちょっとだけ、こうしててもいいですか?」
 「……うん。もちろん」

 

 

 その返事だけで、また心がきゅってなった。

 

 時計の針の音だけが静かに響く中、
 私たちは何も言わずに、ただ並んで座ってた。

 

 

 でも、その沈黙さえ心地よくて。
 まるで、世界からふたりだけ切り取られたみたいで。

 

 “兄の友達”だったはずの奏くんが、
 今だけは——
 誰よりも近い、“特別な誰か”に見えた。

 

 

 胸の奥にじわりと広がるこの感情に、
 もう、気づかないふりなんてできなかった。