蒸し暑い夜、俺はカナの部屋で映画談義に熱中していた。
「マリ、この映画どう思う?」カナが問いかけてくる。
エアコンをつけても湿った空気が肌にまとわりつく。冷えたビールを分け合いながら、フランソワ・オゾンの作品について語り合った。
「ゴダールは難解だけど、この映像の切り取り方が革新的だよな。オゾンの手法をクラピッシュのような軽快なラブストーリーに応用すれば...」
映画の話になると止まらなくなる俺に、カナは楽しそうに耳を傾け、時折質問を投げかけてくれる。彼の真摯な眼差しに心躍る。
演技指導のため毎日のようにカナの部屋に通うようになって一週間、俺達の距離は確実に縮まっていた。
「マリ、聞いてる?」カナの声で我に返る。
「あ、ごめん。考え事してた」
「何か変なことでも考えてた?」
「違うよ。大したことじゃない」
俺は視線をそらした。先日の撮影を思い出すと、顔が熱くなる。
工学部の学生が映画にハマるなんて、周りからすれば不思議かもしれない。リョウなどは「オタクかよ」と冷やかしてくるが、カナと映画を語り合う時間は特別で、かけがえのない瞬間だった。二人とも芸大志望だったが、親の希望で工学部に入ったという共通点にも最近気づいた。
「オゾンって変わった映画多いよね」とカナが言う。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」
カナはそう言って、一瞬間を置いてから続けた。
「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」
突然の質問に、言葉が詰まる。ビールのせいか、部屋の温度のせいか、顔が熱くなる。
「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
軽く答えたつもりだったが、カナの緊張した表情がふっと緩んだ。
「そっか...」
時計を見ると、もう夜中の0時を回っている。明日も1限から講義があるのに、カナとの時間はあっという間に過ぎてしまう。帰らなくてはいけないのに、この空間から離れたくない気持ちが強くなる。
「ねぇ、もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」カナの提案に頷こうとした瞬間、大きな欠伸が漏れる。
「あ、ごめん...少し眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」
俺は体を起こして、目を擦った。眠りに落ちれば、この時間が終わってしまう。そんな思いで、必死に眠気と闘う。しかし、映画のオープニングが終わった頃には瞼が重くなり、意識が遠のく。
「マリ、大丈夫?寝る?」
カナの言葉が遠くに聞こえる。気がつけば、瞼が閉じそうになっていた。昼間から脚本を書いていて、疲れが出たのかもしれない。カナの部屋の心地よい雰囲気と、彼のベッドの柔らかさが、俺を睡魔へと誘う。
「ごめん...少しだけ...」
そのまま、俺は寝落ちしてしまう。少なくとも、カナにはそう見えただろう。
実際は半分眠っていたのかもしれない。意識はあるのに体は動かず、目は閉じたまま。そんな中途半端な状態で、不思議な出来事が起こる。
映画のエンドロールが流れる静かな部屋で、微かに髪に触れられる感覚。
「油断しすぎだよ、マリ...」
カナの囁きが聞こえる。そして、彼の指先が俺の頬を撫で、唇をなぞる。
「抑えきれないかも」と小さく呟く声。でも、その言葉は届かなかったかのように、カナはそのまま続けた。
「可愛いな...」その言葉と共に、唇に何かが触れる感覚。
柔らかくて温かい何か。指にしてはしっとりとしていて、微かに息づかいまで感じられる……これは、もしかして……。
思い切って薄目を開けると、カナの顔が目の前にあった。これは……キス?
頭が真っ白になる。どう反応すべきか分からず、俺は再び瞼を閉じて息を殺した。
暫くすると、カナの温もりが離れていく。彼はどこか別の場所、おそらく机の方へ移動したようだ。カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
俺の心臓は爆発しそうなほど早く脈打つ。今のは夢?現実?カナが俺にキスした?男同士なのに?そして「可愛い」って……。ずっと眠ったふりをするわけにもいかず、少し時間を置いてから、大げさに伸びをしながら目を覚ます演技をした。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
カナはパソコンに向かって何かを打っていた。振り返ると、何でもなかったかのような表情で俺を見る。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
30分も?その間、彼は俺を観察していたのだろうか。
「なんか……変なことした?寝言とか」
わざとらしく尋ねてみる。カナは一瞬目を見開いた気がしたが、すぐに平静を装った。
「特に何も。静かに寝てたよ」
カナは視線をパソコンに戻す。その横顔には動揺の色は見えない。あれは夢だったのか。いや、確かに感じた。唇の感触、温もり、囁き声……全てリアルだった。
「そっか...」俺は自然を装いながらも、どうしても気になって仕方がない。このまま帰るべきか、それとも...。
「カナ、今何してるの?」
「ん?ちょっと写真の編集」
カナはパソコンの画面を俺の方へ向ける。先日撮影した俺の写真だった。モノクロに加工され、光と影のコントラストが際立っている。ドレスを着た俺の姿が、まるで別人のように美しく映っている。
「...すごい。アートだな」
素直に感心する。カナの技術は確かだ。彼の目に映る世界は、いつも少し違う色を持っている。
「ドレス似合ってたよ、マリ」
カナは真剣な表情で言った。目が合い、俺は慌てて視線をそらす。心臓が早鐘を打つ。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に……美しかった」
カナの声が低くなる。部屋の空気が変化した気がした。時計のカチカチという音だけが響く静寂。
「マリ、聞きたいことがあるんだ」
カナが椅子から立ち上がり、俺の方に向き直った。その表情は真剣で、わずかに緊張しているようにも見える。
「なに?」
「さっき……本当に寝てた?」
一瞬、息が止まる。カナは知っている?気づいていた?頭の中が真っ白になる。
「え?……うん、寝てたよ」
嘘をついた。なぜだろう。本当のことを言えば良かったのに。「何でキスしたの?」と本当は聞きたい。でも、その言葉は喉の奥で詰まってしまった。
カナはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そっか...なら良かった」
その言葉に、少しだけ失望を感じる。良かった?どういう意味だ?気づかれなくて安心したということか?
「...なんで?」
思わず問いかける。カナは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
そう言いながら、彼は再びパソコンに向き直った。会話は終わり。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった気がする。
「そろそろ帰るわ。もう遅いし」
「ああ、そうだね。また明日」
カナは振り返らずに言った。その背中が、どことなく寂しげに見える。
「おやすみ」
部屋を出る時、最後にもう一度カナを見た。彼はまだパソコンに向かっていたが、画面には何も映っていなかった。ただ黒い画面を見つめているだけ。
廊下に出て、自分の部屋へ向かいながら、考え込んだ。このまま知らないふりをするべきか。それとも、明日カナに話すべきか。あのキスは何だったのか。彼の気持ちはどうなのか。そして、自分の気持ちは……。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今日起きたことを思い返す。カナのキス……何かが本当に始まったと確信した。
スマホを取り出して、リョウにメッセージを送信。
『起きてる?ちょっと話したいことがある』すぐに返信が来る。
『まだ起きてる。どうした?』
『今から行くよ』
俺は深呼吸して、ベッドから起き上がった。頭が混乱している。これからどうすれば良いのか、分からない。ただ一つ確かなのは、カナが俺にキスしたということ。そして、それが嫌ではなかったということ。
◇
深夜のリョウの部屋。
「マリ、何だよこんな時間に」
リョウは眠そうな顔で、部屋のドアを開けた。俺は何も言わずに中に入り、ベッドに座り込む。
「リョウ、カナが変なんだ」
「はぁ?何それ。お前こそ変だろ、こんな時間に」
リョウは俺の向かいの椅子に座り、寝ぐせがついた髪を掻き上げながら小さく欠伸をする。
「いや、マジで。俺が寝てたら...キスしてきたんだ」
「はぁ?」リョウの目が一瞬で大きく開いた。「カナが?」
「うん」
「お前、それはないわ。夢だろ。お前の願望の夢か何か」
「寝たふりしてたんだよ」
「なんだそれ。変態かよ」
リョウは呆れた表情を浮かべたが、すぐに真面目な顔になった。
「で、どうするの?」
「え?」
「だから、カナのこと好きなの?」
リョウの質問に、言葉に詰まる。カナのこと、好き?そんなの考えたこともなかった。いや、嘘だ。映画に出演してほしいと思ったのは、最初から彼に惹かれていたのかもしれない。カナの全てを映像に収めたいと思ったのは、単に映画のためじゃない……。でも、それが恋愛感情なのかは……。
「わからないよ...」
「は?何それ。お前カナのために脱いだくせに、今更何悩んでんの?それにキスされて嫌じゃなかったなら、もう答えは出てるだろ」
リョウの言葉に、俺は黙り込んだ。確かに嫌ではなかった。むしろ、もう一度あの感覚を味わいたいと思っている自分がいる。
「好きじゃなかったら嫌な気持ちになるはずだけどな!キスなんて」
リョウはそう言って、ニヤリと笑った。その表情が腹立たしかったけれど、反論できなかった。
「でも、俺たち男同士なんだぞ?」
「そんなの関係ないだろ。好きは好きじゃん」
さっき自分がカナに言った言葉を、今度はリョウから返されて、俺は苦笑いした。
「俺……カナのこと、好きなのかな?」
やっと自分の気持ちを口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。これが、好きってことなんだ...。初めての感情に心が追いつかない。それは映画のためではなく、ただ、彼と一緒にいたい、見ていたいという気持ち。
「やっと気づいたか。鈍いな」
リョウは笑いながら、俺の背中を叩いた。
「で、どうするの?告白するの?」
「いや、まだわからない...からかわれたのかもしれないし」
「え?そんなやつだっけ?まぁめちゃくちゃモテそうではある。何でお前に?とはちょっと思うけど」
「そうだろ?女の子に人気凄いし」
「まぁ悩める乙女、頑張れ!何か進展したら教えろよ。でも次からこんな時間に来るな。マジで殺すぞ」
リョウの冗談に、俺たちは笑い合う。
「うん。悪かった。ありがとう」
リョウは冗談めかして言ったが、今日はまともだった。それに、応援してくれているみたいだ。
部屋を出て、自室に戻る途中、ふと空を見上げた。夏の星空がいつもより輝いて見える。胸の内には、不安と期待が入り混じって混乱していた。
カナへの気持ち、それはいつから芽生えていたのだろう。気づけば、四六時中彼のことばかり考えている。
自室に戻ると、今日の出来事が信じられないという気持ちが溢れ出た。それでも唇の感触は確かで、あれが夢ではなかったことを物語っている。
ベッドに横になり、天井を見つめる。明日は何が待っているのだろう。どんな会話をして、どんな未来が開けるのか。興奮と不安で眠れそうにない。でも、不思議と恐怖は感じていない。むしろ、早く朝になってほしいと願う。
スマホの画面を見ると、カナからメッセージが来ていた。
『おやすみ。明日、食堂で朝食一緒に食べない?』
シンプルな文だけど、今までとは違う意味を持つ。返信を打ちながら、俺は微笑む。
『うん。おやすみ。また明日』
メッセージを送り、俺は目を閉じた。今夜は、きっといい夢が見られそうだ。
翌朝。目覚めと同時に昨夜のことが脳裏に蘇る。カナとのキス。本当に起きたことなのか、それとも夢だったのか。一瞬、現実と夢の境界が曖昧になった。
急いで着替えて、食堂へ向かう。朝食を一緒に食べるという約束が、今日はいつもより俺を浮かれさせていた。しかし、カナとどう接すれば良いのか。何を話せば良いのか。緊張と期待が混ざり合う気持ちで、食堂のドアを開ける。
中に入ると、すぐにカナを見つけた。いつもの席に座って、何かを読んでいる。その姿を見ただけで、胸が苦しくなる。
「おはよう」声をかけると、カナは顔を上げて微笑む。
「おはよう。寝相悪いね」
普段と変わらない会話。でも、その目には昨夜の記憶が確かに残っていた。緊張していた気持ちが少し和らいだ。
「うるさいな」
俺は軽く言い返して、カナの向かいに座った。何気ない日常の会話から始まり、やがて昨夜のことを話し合う時が来るのかな...。訪れる瞬間までに心の準備を整えよう。
カナと向かい合いながら、俺は確信した。昨夜のキスは偶然ではなく、俺たちの間に確かに芽生えた何かの始まりだったのだ。夏はまだ始まったばかりで、俺たちの物語も、これからが本番なのかもしれない。
「マリ、この映画どう思う?」カナが問いかけてくる。
エアコンをつけても湿った空気が肌にまとわりつく。冷えたビールを分け合いながら、フランソワ・オゾンの作品について語り合った。
「ゴダールは難解だけど、この映像の切り取り方が革新的だよな。オゾンの手法をクラピッシュのような軽快なラブストーリーに応用すれば...」
映画の話になると止まらなくなる俺に、カナは楽しそうに耳を傾け、時折質問を投げかけてくれる。彼の真摯な眼差しに心躍る。
演技指導のため毎日のようにカナの部屋に通うようになって一週間、俺達の距離は確実に縮まっていた。
「マリ、聞いてる?」カナの声で我に返る。
「あ、ごめん。考え事してた」
「何か変なことでも考えてた?」
「違うよ。大したことじゃない」
俺は視線をそらした。先日の撮影を思い出すと、顔が熱くなる。
工学部の学生が映画にハマるなんて、周りからすれば不思議かもしれない。リョウなどは「オタクかよ」と冷やかしてくるが、カナと映画を語り合う時間は特別で、かけがえのない瞬間だった。二人とも芸大志望だったが、親の希望で工学部に入ったという共通点にも最近気づいた。
「オゾンって変わった映画多いよね」とカナが言う。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」
カナはそう言って、一瞬間を置いてから続けた。
「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」
突然の質問に、言葉が詰まる。ビールのせいか、部屋の温度のせいか、顔が熱くなる。
「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
軽く答えたつもりだったが、カナの緊張した表情がふっと緩んだ。
「そっか...」
時計を見ると、もう夜中の0時を回っている。明日も1限から講義があるのに、カナとの時間はあっという間に過ぎてしまう。帰らなくてはいけないのに、この空間から離れたくない気持ちが強くなる。
「ねぇ、もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」カナの提案に頷こうとした瞬間、大きな欠伸が漏れる。
「あ、ごめん...少し眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」
俺は体を起こして、目を擦った。眠りに落ちれば、この時間が終わってしまう。そんな思いで、必死に眠気と闘う。しかし、映画のオープニングが終わった頃には瞼が重くなり、意識が遠のく。
「マリ、大丈夫?寝る?」
カナの言葉が遠くに聞こえる。気がつけば、瞼が閉じそうになっていた。昼間から脚本を書いていて、疲れが出たのかもしれない。カナの部屋の心地よい雰囲気と、彼のベッドの柔らかさが、俺を睡魔へと誘う。
「ごめん...少しだけ...」
そのまま、俺は寝落ちしてしまう。少なくとも、カナにはそう見えただろう。
実際は半分眠っていたのかもしれない。意識はあるのに体は動かず、目は閉じたまま。そんな中途半端な状態で、不思議な出来事が起こる。
映画のエンドロールが流れる静かな部屋で、微かに髪に触れられる感覚。
「油断しすぎだよ、マリ...」
カナの囁きが聞こえる。そして、彼の指先が俺の頬を撫で、唇をなぞる。
「抑えきれないかも」と小さく呟く声。でも、その言葉は届かなかったかのように、カナはそのまま続けた。
「可愛いな...」その言葉と共に、唇に何かが触れる感覚。
柔らかくて温かい何か。指にしてはしっとりとしていて、微かに息づかいまで感じられる……これは、もしかして……。
思い切って薄目を開けると、カナの顔が目の前にあった。これは……キス?
頭が真っ白になる。どう反応すべきか分からず、俺は再び瞼を閉じて息を殺した。
暫くすると、カナの温もりが離れていく。彼はどこか別の場所、おそらく机の方へ移動したようだ。カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。
俺の心臓は爆発しそうなほど早く脈打つ。今のは夢?現実?カナが俺にキスした?男同士なのに?そして「可愛い」って……。ずっと眠ったふりをするわけにもいかず、少し時間を置いてから、大げさに伸びをしながら目を覚ます演技をした。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
カナはパソコンに向かって何かを打っていた。振り返ると、何でもなかったかのような表情で俺を見る。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
30分も?その間、彼は俺を観察していたのだろうか。
「なんか……変なことした?寝言とか」
わざとらしく尋ねてみる。カナは一瞬目を見開いた気がしたが、すぐに平静を装った。
「特に何も。静かに寝てたよ」
カナは視線をパソコンに戻す。その横顔には動揺の色は見えない。あれは夢だったのか。いや、確かに感じた。唇の感触、温もり、囁き声……全てリアルだった。
「そっか...」俺は自然を装いながらも、どうしても気になって仕方がない。このまま帰るべきか、それとも...。
「カナ、今何してるの?」
「ん?ちょっと写真の編集」
カナはパソコンの画面を俺の方へ向ける。先日撮影した俺の写真だった。モノクロに加工され、光と影のコントラストが際立っている。ドレスを着た俺の姿が、まるで別人のように美しく映っている。
「...すごい。アートだな」
素直に感心する。カナの技術は確かだ。彼の目に映る世界は、いつも少し違う色を持っている。
「ドレス似合ってたよ、マリ」
カナは真剣な表情で言った。目が合い、俺は慌てて視線をそらす。心臓が早鐘を打つ。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に……美しかった」
カナの声が低くなる。部屋の空気が変化した気がした。時計のカチカチという音だけが響く静寂。
「マリ、聞きたいことがあるんだ」
カナが椅子から立ち上がり、俺の方に向き直った。その表情は真剣で、わずかに緊張しているようにも見える。
「なに?」
「さっき……本当に寝てた?」
一瞬、息が止まる。カナは知っている?気づいていた?頭の中が真っ白になる。
「え?……うん、寝てたよ」
嘘をついた。なぜだろう。本当のことを言えば良かったのに。「何でキスしたの?」と本当は聞きたい。でも、その言葉は喉の奥で詰まってしまった。
カナはしばらく俺を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「そっか...なら良かった」
その言葉に、少しだけ失望を感じる。良かった?どういう意味だ?気づかれなくて安心したということか?
「...なんで?」
思わず問いかける。カナは少し驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
そう言いながら、彼は再びパソコンに向き直った。会話は終わり。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった気がする。
「そろそろ帰るわ。もう遅いし」
「ああ、そうだね。また明日」
カナは振り返らずに言った。その背中が、どことなく寂しげに見える。
「おやすみ」
部屋を出る時、最後にもう一度カナを見た。彼はまだパソコンに向かっていたが、画面には何も映っていなかった。ただ黒い画面を見つめているだけ。
廊下に出て、自分の部屋へ向かいながら、考え込んだ。このまま知らないふりをするべきか。それとも、明日カナに話すべきか。あのキスは何だったのか。彼の気持ちはどうなのか。そして、自分の気持ちは……。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今日起きたことを思い返す。カナのキス……何かが本当に始まったと確信した。
スマホを取り出して、リョウにメッセージを送信。
『起きてる?ちょっと話したいことがある』すぐに返信が来る。
『まだ起きてる。どうした?』
『今から行くよ』
俺は深呼吸して、ベッドから起き上がった。頭が混乱している。これからどうすれば良いのか、分からない。ただ一つ確かなのは、カナが俺にキスしたということ。そして、それが嫌ではなかったということ。
◇
深夜のリョウの部屋。
「マリ、何だよこんな時間に」
リョウは眠そうな顔で、部屋のドアを開けた。俺は何も言わずに中に入り、ベッドに座り込む。
「リョウ、カナが変なんだ」
「はぁ?何それ。お前こそ変だろ、こんな時間に」
リョウは俺の向かいの椅子に座り、寝ぐせがついた髪を掻き上げながら小さく欠伸をする。
「いや、マジで。俺が寝てたら...キスしてきたんだ」
「はぁ?」リョウの目が一瞬で大きく開いた。「カナが?」
「うん」
「お前、それはないわ。夢だろ。お前の願望の夢か何か」
「寝たふりしてたんだよ」
「なんだそれ。変態かよ」
リョウは呆れた表情を浮かべたが、すぐに真面目な顔になった。
「で、どうするの?」
「え?」
「だから、カナのこと好きなの?」
リョウの質問に、言葉に詰まる。カナのこと、好き?そんなの考えたこともなかった。いや、嘘だ。映画に出演してほしいと思ったのは、最初から彼に惹かれていたのかもしれない。カナの全てを映像に収めたいと思ったのは、単に映画のためじゃない……。でも、それが恋愛感情なのかは……。
「わからないよ...」
「は?何それ。お前カナのために脱いだくせに、今更何悩んでんの?それにキスされて嫌じゃなかったなら、もう答えは出てるだろ」
リョウの言葉に、俺は黙り込んだ。確かに嫌ではなかった。むしろ、もう一度あの感覚を味わいたいと思っている自分がいる。
「好きじゃなかったら嫌な気持ちになるはずだけどな!キスなんて」
リョウはそう言って、ニヤリと笑った。その表情が腹立たしかったけれど、反論できなかった。
「でも、俺たち男同士なんだぞ?」
「そんなの関係ないだろ。好きは好きじゃん」
さっき自分がカナに言った言葉を、今度はリョウから返されて、俺は苦笑いした。
「俺……カナのこと、好きなのかな?」
やっと自分の気持ちを口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。これが、好きってことなんだ...。初めての感情に心が追いつかない。それは映画のためではなく、ただ、彼と一緒にいたい、見ていたいという気持ち。
「やっと気づいたか。鈍いな」
リョウは笑いながら、俺の背中を叩いた。
「で、どうするの?告白するの?」
「いや、まだわからない...からかわれたのかもしれないし」
「え?そんなやつだっけ?まぁめちゃくちゃモテそうではある。何でお前に?とはちょっと思うけど」
「そうだろ?女の子に人気凄いし」
「まぁ悩める乙女、頑張れ!何か進展したら教えろよ。でも次からこんな時間に来るな。マジで殺すぞ」
リョウの冗談に、俺たちは笑い合う。
「うん。悪かった。ありがとう」
リョウは冗談めかして言ったが、今日はまともだった。それに、応援してくれているみたいだ。
部屋を出て、自室に戻る途中、ふと空を見上げた。夏の星空がいつもより輝いて見える。胸の内には、不安と期待が入り混じって混乱していた。
カナへの気持ち、それはいつから芽生えていたのだろう。気づけば、四六時中彼のことばかり考えている。
自室に戻ると、今日の出来事が信じられないという気持ちが溢れ出た。それでも唇の感触は確かで、あれが夢ではなかったことを物語っている。
ベッドに横になり、天井を見つめる。明日は何が待っているのだろう。どんな会話をして、どんな未来が開けるのか。興奮と不安で眠れそうにない。でも、不思議と恐怖は感じていない。むしろ、早く朝になってほしいと願う。
スマホの画面を見ると、カナからメッセージが来ていた。
『おやすみ。明日、食堂で朝食一緒に食べない?』
シンプルな文だけど、今までとは違う意味を持つ。返信を打ちながら、俺は微笑む。
『うん。おやすみ。また明日』
メッセージを送り、俺は目を閉じた。今夜は、きっといい夢が見られそうだ。
翌朝。目覚めと同時に昨夜のことが脳裏に蘇る。カナとのキス。本当に起きたことなのか、それとも夢だったのか。一瞬、現実と夢の境界が曖昧になった。
急いで着替えて、食堂へ向かう。朝食を一緒に食べるという約束が、今日はいつもより俺を浮かれさせていた。しかし、カナとどう接すれば良いのか。何を話せば良いのか。緊張と期待が混ざり合う気持ちで、食堂のドアを開ける。
中に入ると、すぐにカナを見つけた。いつもの席に座って、何かを読んでいる。その姿を見ただけで、胸が苦しくなる。
「おはよう」声をかけると、カナは顔を上げて微笑む。
「おはよう。寝相悪いね」
普段と変わらない会話。でも、その目には昨夜の記憶が確かに残っていた。緊張していた気持ちが少し和らいだ。
「うるさいな」
俺は軽く言い返して、カナの向かいに座った。何気ない日常の会話から始まり、やがて昨夜のことを話し合う時が来るのかな...。訪れる瞬間までに心の準備を整えよう。
カナと向かい合いながら、俺は確信した。昨夜のキスは偶然ではなく、俺たちの間に確かに芽生えた何かの始まりだったのだ。夏はまだ始まったばかりで、俺たちの物語も、これからが本番なのかもしれない。



