約束の日の朝、軽い胃痛で早めに目覚める。窓から差し込む朝日が眩しく、空は抜けるような青さで猛暑を予感させる。

 リュックには畳んだライトブルーのサマードレスが収まっている。鏡の前で最終チェックすると、顔色が優れない。昨夜はほとんど眠れず、今日カナの前で脱ぐという考えだけで頭がぐるぐると回転する。

 外に出ると強い日差しが肌を刺し、半袖シャツでも汗が滲む。工学寮前の木々が風に揺れ、日に日に大きくなっていく蝉の鳴き声が耳に響く。

「マリ、マジで行くの?」

 リョウは俺を心配して、不安そうな表情を浮かべている。俺は昨日、ようやく彼に脱ぐことを伝えたのだ。最初は冗談だと思ったらしく、真顔で「本気か?」と何度も確認してきた。

「行くよ。約束したから」

 リョウは頭を掻きながら、ため息をこぼす。彼の表情には「止めても無駄だ」という諦めが刻まれている。

「お前、本当にカナのことが好きなんだな。何でもするじゃん」

 その言葉に足が止まる。好き?そんな風に考えたことはない。単に自分の映画に出てもらいたいだけだ...。たぶん。

「好きって...映画に出てほしいだけだよ」

 言い訳めいた言葉が口から零れる。リョウは鼻で笑う。彼の目は俺の嘘を見抜いていた。

「自分に嘘つくなよ」

 その言葉が胸を抉る。俺はカナのことをどう思っているんだろう?単なる役者として見ているのか、それとも……。喉の奥が乾く。

「行ってくる」

 それ以上の会話を避けるように、部屋を出る。朝の空気が肌に心地よい。でも、それも束の間だろう。これから待っているのは、もっと熱く、息苦しい時間だ。

 バス停に向かいながら、カナとの出会いを思い返す。最初は斜め前の住人。美しい姿を窓から眺め、興味を抱いた。工学寮でたまに会話をするだけの関係から、主演俳優として声をかけるまでに発展。

 彼の写真を撮る姿、そして彼の作品の視点にまで惹かれていった。繊細でありながら大胆な感性。彼の存在そのものが俺の映画に必要不可欠だと確信していた。

 約束の場所は、カナの写真サークルが時々利用している海辺の小さなスタジオ。バスに揺られること40分、窓外の景色が徐々に変化し、都会の喧騒から遠ざかる。

 木々が増え、空がより広大になる。カーブを曲がると突然、青い海が視界いっぱいに広がった。潮の香りが窓から漏れ、塩気を含んだ風が頬を撫でる。

 どんな風に脱げばいいのだろう。全部見せるのか...。考えただけで頬が熱くなる。俺は部活や体育の授業以外で誰かの前で裸になった経験がない。一人のために脱ぐなんて初めてだ。

 バスを降りると潮風が髪を揺らす。海岸沿いの道を歩き、砂を靴で踏むとジャリジャリと音がする。遠くからカモメの鳴き声が届き、波の音が耳に心地よい。しかし、そんな穏やかな風景とは裏腹に、俺の心は嵐のように荒れる。

 スタジオは海岸から少し離れた高台に位置する。小さな木造の建物で、大きな窓からは一面の海という絶景。俺は扉の前で深呼吸した。「大丈夫、約束だから」と自分に言い聞かせる。

 微かに震える手でドアノブを回す。ドアを開けると、すでにカナが機材をセッティングしている。彼は窓際に立ち、外の光を露出計で確認している。自然光に照らされた横顔が、絵画のように美しい。カナは振り返り、俺に気づく。

「来たんだ」

 カナの声には少し驚きの色が混じっている。もしかして、俺が来ないと思っていたのか。彼の瞳には安堵の色が浮かんでいるようにも見える。

「約束したから」

 俺はリュックを下ろし、中からライトブルーのドレスを取り出す。丁寧に広げながら、畳んだ跡がついていないか確認する。生地は思ったより薄く、柔らかい感触だ。

「カナ、持ってきたよ」
「ありがとう」

 彼はドレスを受け取り、光に透かして眺めた。窓からの日差しがドレスを通り抜け、青い光が壁に映る。まるで水中にいるような幻想的な光景だった。

「きれいな色だね。思ったより良い」

 カナの目が輝く。彼がこんなに嬉しそうな表情をするのを見たのは初めてかもしれない。普段は物静かで、感情をあまり表に出さないタイプだから。

「映画で着るから確認したかったのか?」

 俺の質問に、カナは微かに笑みを浮かべた。彼の笑顔には何か秘密めいたものが潜んでいる。

「そうとも言える」

 彼はドレスを椅子に掛け、カメラを手に取った。黒い大きなプロ仕様のカメラ。レンズが俺を覗き込んでいるようで、思わず視線を逸らす。

「じゃあ、始めようか」

 その言葉に、胃がひっくり返りそうになる。ここからが本番。脱ぐんだ。カナの前で。

「どう...脱げばいいの?」

 声が震えていた。カナは優しく微笑む。

「自然に。緊張しないで」

 言うのは簡単だが初めての俺には難しい。カナはレンズを俺に向け、俺は凍りついたように立ちすくんだ。足がコンクリートに埋まったかのように動けない。

「マリ、リラックスして。服を一枚ずつ、ゆっくり脱いでみて」

 カナの声は落ち着いていた。これが仕事なんだと言わんばかりの冷静さ。それが逆に緊張を高める。

 深呼吸。まず上着から。Tシャツの裾をつかむ手が小刻みに震えた。ゆっくりと持ち上げ、頭から脱ぐ。その瞬間、カナのシャッター音が鳴る。カシャッという音が異様に大きく響いた。

「そう、いいよ。自然に」

 カナの指示に従って動く。でも、自然って何だろう。こんな状況で自然な動きなんてあるのだろうか。

 上半身裸になると、急に恥ずかしさが増した。スタジオ内の空気が肌に触れ、鳥肌が立つ。俺は筋肉は適度についているし、そこそこ体型には自信はあるけど、カナに見られるのは別問題。彼の視線が肌を這うような感覚がして、息が詰まる。

「マリ、こっちを向いて」

 カメラを向けられ、また視線を外す。窓の外の海を見ると、青い水平線が遥か彼方に伸びていた。

「恥ずかしい...」

 思わず漏れた言葉。カナは少し間を置いてから答える。

「大丈夫、綺麗に撮るから」

 カナの言葉に少し心が落ち着いた。彼が俺を見るのは芸術としてだ。そう思えば……少しは恥ずかしさも和らぐかもしれない。彼の真剣な眼差しには、小動物を捕える捕食者のような強さがあった。

 ゆっくりとズボンに手をかける。ボタンを外し、ジッパーを下ろす音がスタジオに響く。脱ぐ前に、もう一度カナを見た。彼は真剣な表情でカメラを構えている。その集中した姿に、少し安心感を覚える。

 ズボンを脱ぎ、下着姿になる。窓から入り込む風が冷たく感じた。新鮮な空気が全身を包む。シャッター音が連続して鳴る。様々な角度からの撮影が続く。カナの息遣いすら聞こえるような気がした。

「あと少し」

 カナの声が微かに震えていた。彼も緊張しているのか?それとも興奮?考えるだけで頬が熱くなる。

 残るは下着だけ。本当に全部脱ぐのか?でも、約束は約束……こんな状況になるとは思わなかったけど、俺が言い出したことだ。

 俺は目を閉じ、下着に手をかけた。心臓の鼓動が耳に響く。息を止めて、ゆっくりと下げようとしたその瞬間。

「待って」

 カナの声が静かに響いた。俺は目を開け、彼を見る。カナの頬は少し紅潮していた。

「もういいよ」
「え?」

 俺は困惑する。全部脱がなくていいの?約束と違うじゃないか。

 カナは少し赤い顔を見せ、窓際に歩み寄る。

「これで十分」

 彼の声は小さかった。スタジオの中に、波の音だけが満ちた。

「次は...これ」

 彼がライトブルーのドレスを手に取る。陽の光が生地を通り抜け、彼の手に青い影を落とす。

「これ、着てみて」
「え?俺が?」

 俺は完全に混乱した。俺がドレス?女装?そんなことは聞いていない。

 カナは少し困った表情を浮かべた。言葉を選ぶように、間を置いてから話し始める。

「そう。マリがこれを着た姿を撮りたい」
「でも、映画ではカナが着るんじゃ...」
「俺に着せようとしてるんだから、マリも着れるよね?」

 理屈になっていないが、反論する気力もなかった。そもそも、ここまで来て断るのも不自然だろう。俺は恐る恐るドレスを受け取った。

「着方……わからないよ」照れ隠しに笑う。カナも少し緊張を解くように微笑む。
「手伝うよ」

 カナが近づき、ドレスを着せてくれた。頭からかぶらせ、腕を通し、背中のファスナーを上げる。彼の指先が俺の肌に触れるたび、落雷に打たれたかのような衝撃が走る。温かな指が背中を滑る感触に、ビクッと反応してしまう。

「少しキツイかも。ファスナー途中までにしとくね」

 カナはドレスの肩紐をずらし、調整しながら、構図を決めていく。肌に触れる指の感触が羽根のように優しい。その感触により、身震いが止まらなくなる。彼の顔が近い。相変わらず長い睫毛が白い肌に影を落としている。

「女性用だから、肩幅がきついね」

 彼の吐息が首筋に当たって、くすぐったい感覚が広がる。何でもない顔をして必死に平静を装う。
 ようやくドレスを着終えると、カナは少し離れて俺を見つめた。彼の眼差しに何かが宿る。驚き?感動?

「マリ……綺麗だよ」

 その言葉に、胸がきゅんと締め付けられた。カナが俺を「綺麗」だと思ってくれている。それだけで、恥ずかしさよりも嬉しさが勝った。

「変じゃない?」

 俺は自分の姿を確かめようと、スタジオの壁に掛かった小さな鏡に近づく。そこに映る自分は、確かに奇妙だった。男の筋肉質な体にドレス。でも、不思議と違和感がない。ライトブルーの色合いが、日焼けした肌の色と意外と調和している。

「全然。似合ってる。俺より似合うんじゃない?」

 さすがにそれはないと思ったが、カナの真剣な表情を見ると何も言えなかった。カナは再びカメラを構え始める。「動かないで」「こっちを向いて」「もっと自然に」と指示が続く。

 窓から差し込む夏の光が、ドレスの青をより鮮やかにした。俺は初めこそ恥ずかしかったが、次第にカナの指示に従うことに快感を覚え始めた。

「腕を上げて」
「こう?」
「そう、いいね。光が綺麗に当たってる」

 カナの声には熱がこもっていた。彼の作品への情熱が伝わってくる。俺はそんな彼の姿に見惚れていた。カメラを持つ洗練された手つき、真剣な眼差し、時折漏れる満足げな表情。全てが魅力的に映る。

「窓際に立って」

 俺は言われるままに窓に近づく。潮風が窓から入り込み、ドレスを優しく揺らす。

「完璧」

 カナの声が僅かに震えていた。彼の瞳が輝いている。俺だけを見つめる熱い視線。俺はその視線の先にいることが、なぜか誇らしく感じられた。

 撮影開始から一時間後。最初の緊張は徐々に消え、俺は次第にカナの世界に引き込まれていった。彼の指示に従い、時に自分から動き、様々なポーズを取る。

「マリ、もっと自由に動いて」
「こう?」

 俺はドレスが舞うように回転してみた。生地が風を捉え、ふわりと広がる感覚が心地よい。

「最高だよ」

 カナの声には純粋な喜びが溢れていた。彼の笑顔が、この瞬間を特別なものに変えていく。

「次はここに寝て」

 床に敷かれた白いブランケットの上に仰向けに寝転ぶ。するとカナが俺の上にまたがりカメラを構えた。これは、映画で見た記憶がある。アントニオーニの『欲望』の写真撮影のシーン。これはギリギリアウトかもしれない。

「カナ、ちょっとこれは恥ずかしい...」
「いいから。少し動いて表情見せて」

 もう無理だった。カナに支配される俺という感じ。まるで逃げられない籠の中の小鳥だった。集中しているカナのシャッター音は止まらない。漏れる吐息...。

「自由に動いて」という指示に答えようと試みるが、俺の羞恥心は限界を超えていった。近すぎる距離に意識が遠のく……そして、官能の渦に飲み込まれていった。

 ◇
 
 撮影が終わり、俺は自分の服に着替えた。心臓はまだ早く脈打っている。これまで経験したことのない感情が全身に満ち溢れていた。

「どうだった?」

 カナがカメラの画面を確認しながら尋ねた。彼は撮った写真を眺め、時折満足げに頷く。

「恥ずかしかった...でも、少し楽しかったかも」

 素直な気持ちを伝える。カナは顔を上げ、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。

「そう」

 彼は穏やかに微笑む。その笑顔に、俺の心は静かに揺れていた。

「カナって...カメラ持つと人格変わるんだな...いつもと違ってちょっと驚いた」

「そうかな?集中するとこんな感じかも...?ちょっと無理させた?ごめん...」

 支配的で、本当に捕食者みたいだった……とは言わないでおこう。

「これで、映画に出てくれるよね?」

 そうか、全ては映画のため。撮影の余韻に浸っていた、ふわふわと宙に浮いていた俺の気持ちが、現実に引き戻される。

「約束は守るよ」

 俺は少し冷静さを取り戻し、カナは満足そうに写真を眺め続けた。

 撮影後、俺たちは海を見下ろすカフェで休憩した。窓際の席からは、青い海と白い砂浜が一望できる。アイスコーヒーを飲みながら、カナは時折撮った写真を俺に見せて意見を聞く。彼の真剣な横顔は、撮影時と同様に惹きつけられるものがあった。

「マリ」
「ん?」

 カナが突然顔を上げ、俺と視線を交わす。彼の瞳には何か言葉にできないものが宿っているように見えた。

「今日、ありがとう。勇気あるよね」
「俺もカナを撮りたいから...」

 俺の言葉に、彼は少し頬を染めて視線を落とす。

「そこまでして映画に出て欲しいって言われたの……初めてだよ」

「俺の映画、最高にしたいんだ。だからカナじゃないとダメなんだよ」

 その言葉に嘘はない。カナの繊細な表情と存在感は他の誰にも真似できない天性のものだ。俺の映画の主役はカナ以外に考えられないほどに...でも、それだけなのか?本当にそれだけの理由で、今日のようなことをしたのだろうか。

 胸の奥で疼く感情が、その理由づけを嘘だと囁いていた。

「そんなに期待されると、プレッシャーだな」

 海を見つめながら、カナはポツリと呟いた。彼の横顔が切なくも美しい。そして、突然彼は俺の手に触れた。テーブルの上で、彼の指がそっと俺の指に重なった。

「でも、頑張るから」

 その接触に俺の鼓動は高まる。カナの手は柔らかく僅かに冷たい。コーヒーの冷たさか、それとも彼自身の緊張か。

 俺たちはそのまま、数秒間沈黙を共有する。言葉よりも、この静かな瞬間が何かを語っているような気がした。

 帰りのバスでは、互いに疲れていたのか、会話は少なかった。窓の外の景色を眺めながら、今日の出来事を思い浮かべる。脱いだこと、ドレスを着たこと、カナの「綺麗だよ」という言葉。全てが現実離れした不思議な体験だった。

 でも、時折カナと目が合うと、笑い合うその笑顔に、何か共犯関係のような親密さを感じる。二人だけの秘密の関係。確実に何かが変わった。単なる映画監督と役者の絆を超えた関係に変化していると感じた。

 ◇

 部屋に戻ると、リョウに迎えられた。彼は俺の顔を見るなり、笑い出した。

「どうだった?」
「脱いだよ...やばかった」
「マジか!全部?」

 リョウの目が丸くなる。彼は俺がそこまでするとは思っていなかったようだ。

「ほぼ...」

 正確には下着までだったけど、詳細は省略した。リョウは笑い声を上げる。

「マリ、勇者だな。で、写真は?」
「これから編集するらしい。それと、カナは映画に出てくれるって」

 それが今日の目的だったはず。でも、なぜか達成感よりも、別の感情の方が大きかった。何か違う扉が開いたような気がする。
 リョウは俺の肩を叩いた。彼の目には「やるじゃん」という尊敬の色が浮かんでいる。

「良かったじゃん。願いが叶って」

 俺はベッドに倒れ込んだ。今日は色々あったな...ドレスを着たことや、撮影の内容はリョウには言えない。なぜだろう?秘密にしておきたい気持ちがある。カナとの特別な瞬間。それを誰かに話すことで、その魔法が解けてしまうような気がしたのだ。

 カナとの時間。俺の裸をカメラに収める彼の真剣な表情。ドレスの感触。全てが新鮮で心に刻まれた。
 
 そして、彼の言葉。「マリ……綺麗だよ」

 その言葉を思い出すだけで、頬が熱くなるのを感じる。これは、一体なんなんだろう?俺はカナのことを、どう思っているんだろう?単なる役者として、映画の仲間として見ているのか、それとも……。

 心の奥で、答えは見つかっていた。でも、まだ認めたくない……認めるのがただただ怖かった。

 俺は天井を見つめながら、今日の光景を何度も思い返す。八月からの撮影で、カナと一緒に過ごす時間が増える。そのことを考えるだけで、胸の高鳴りが止まらない。