撮影二日目の早朝。波の音と潮風の香りで目を覚ました。コテージを出て一人、静かな海辺に向かう。

「今日はいよいよクライマックスか」
 砂浜に腰を下ろし、揺らめく波を見つめながら呟く。カナの最も重要なシーンの撮影日。彼のあのセリフを、俺のカメラに収めるのだ。

「マリ先輩、こちらですよ!」
 振り向くと、映画サークルの後輩たちがすでに機材を準備していたので、慌てて駆け寄った。
「ごめん、今行く!」

 緊張と期待で呼吸が浅くなる。昨夜はほとんど眠れなかった。上映会で俺の映画とユナの映画、どちらがコンテストに選ばれるのか。カナのためにも絶対に良い作品に仕上げ、みんなに認められたい。

「カナはどこ?」
「着替え中だよ」リョウが小屋の方を指差す。
「緊張してんの?顔真っ赤だぞ」
 慌てて頬に手を当てる。熱い。
「うるさい。監督なんだから当然だろ」

 機材をチェックしていると、不穏な空気が漂ってきた。視線を上げると、ユナが見知らぬ男性を連れて近づいてくる。

「マリ先輩、紹介します。演劇サークルの高山くんです。今日のシーン、彼に演じてもらうのはどうですか?奏多君より演技も上手いですよ」

 ユナの言葉に、堪忍袋の緒が切れた。まだ諦めていなかったのだ。しつこすぎる。

「勝手なことするな。主役はカナだ」
「でも、マリ先輩の作品は演技力が必要ですし、プロっぽい高山くんじゃないと、上映会で恥をかきますよ?」

 ユナの言葉には反応しない、絶対負けない、もう引かないと決めたのだから。

「黙って見ていろ」

 静かに告げ、8ミリカメラを手に取る。このシーンは深い感情を伝えたいので、三脚は使わずに、手持ちで撮影する。全盛期のウォン・カーウァイ風の演出だ。

「リョウ、カナを呼んでくれ」
 リョウは笑みを浮かべながら小屋へ走った。

 数分後、一人の姿が現れ、俺は息を呑む。

 ライトブルーのドレスを纏ったカナが、朝日に照らされて輝いている。その姿は昨日よりも洗練され、研ぎ澄まされていた。そよ風にドレスの裾をなびかせ、素足で白い砂浜に柔らかな足跡を残しながら近づいてくる。朝日が生地を透かし、カナのシルエットが波と溶け合う。

 波に消される前の砂上の足跡—それは彼の存在が儚くも美しいことを物語っていた。昨日も撮影したが、今日が実質本番だ。セリフを収めるため、カナも俳優としての表情を完璧に作り上げている。
 8ミリカメラを握る手に汗が滲む。これを撮らずして何を撮るというのか。

「カナ...」

 思わず声が漏れる。オゾンの『サマードレス』へのオマージュだが、もはや独自の世界が展開していた。まったく違う角度から『サマードレス』を解釈し、自由に表現する。
 カナが目の前で足を止めると、周囲の空気が凍りつく。彼の瞳が俺だけを見つめ、唇が動いた。

「マリが撮りたいのは俺だ」

 その一言でユナの表情が硬直した。高山と名乗る男も困惑した様子で立ち尽くしている。カナの代わりにこの役ができるなど、本人も思っていないだろう。

「はい、みんなスタンバイして。準備はいいか?」

 カメラを構え直す。緊張で手が震えるが、今は迷いを見せるわけにはいかない。照明スタッフがレフ板の位置を調整し、音声係、デジタルビデオカメラもセット完了。

「あそこから歩いてくれ。波打ち際から砂浜を横切るように」
 カナは無言で頷き、指定した場所へ移動し、瞳を閉じて集中している。

「シーン七。第一カット!レディ...アクション!」

 カナが瞳を開き、歩き始める。ドレスの裾が風にたなびき、彼の全身が物語を紡ぎだす。
 
 突然、海からの風が強まり、三脚に固定したカメラが揺れ始める。リョウが機材に飛びついて支える。ここは長回しだから途中で止められない。

「大丈夫、撮り続けろ!」
 リョウの声にうなずき、カナを捉え続ける。風は強くなる一方だが、カナは歩みを止めない。むしろ風がドレスをより美しく舞わせている。自然が味方についたようだ。

「このまま行け!」
 カナはまるで風と一体化したように優雅に砂浜を進む。背後では、メンバーたちが必死に機材を守っている。
 少し離れた場所で、ユナが腕を組んで見つめているのが視界の端に入った。「絶対に負けない」と再び心の中で誓う。

 ファインダー越しのカナは、これまで見たどんな俳優よりも美しい。幽玄の美の化身そのものだった。彼の一挙手一投足がカメラを通して魂に刻まれていく。

「ここで振り返って」
 カナがゆっくり振り返る。彼の表情をクローズアップしていく。その瞳が俺を捉えた瞬間、カナの言葉が自然と溢れ出た。

「Do you love me?」

 カナが振り返った瞬間から言い終わるまで、俺は息をすることさえ忘れていた。時が止まったような静寂の中、心臓だけが脈動を続けている。

 カナは完璧に指導通りの演技で、説明できない複雑な表情を見せ、感情豊かな芝居を披露してくれた。
 この後「No, thank you」と書かれたテロップを映してシーンは完成する。

「カット!」
 周囲から拍手が沸き起こる。リョウが俺の肩を叩いた。
「マリ、すげえ!最高傑作だろこれ!」
 メンバーたちも興奮した表情で集まってくる。

「マリ先輩、素晴らしいです!」
「これ、コンテストで賞取れるんじゃない?」
「奏多の演技に引き込まれた!」

 ファインダーから目を離し、カナを見る。彼は少し照れた表情で佇んでいた。視線を感じて振り返ると、ユナがこちらを見ている。彼女は唇を噛みしめ、高山の腕を引いて去っていく。

「...悔しい」
 かすかに聞こえた言葉だった。彼女の背中が小さくなる中、一度だけこちらを振り返る。目に宿るのは涙か、それとも悔しさか。一瞬だけ同情を覚えたが、すぐにカナの方へ視線を戻す。

 彼に歩み寄る。白い肌に映えるライトブルーのドレスを着たカナの姿は、一生忘れられないだろう。

「カナ、最高だったよ。ありがとう」

 言葉にならない想いが込み上げた。カナの表情が柔らかくなる。

「マリ...」
 彼が近づき、俺の頬を両手で包み、頬に流れる涙を指で優しく拭う。ドレスの裾が俺の脚に触れる。

「"Do you love me?" 上手く出来てた?」
 カナの問いに頷く。
「うん。凄く良かった。気持ちが伝わってきた」

 カナの瞳が揺らめく。何かを言おうとした時、リョウが声をかけてきた。
「おーい!次のシーンの準備するぞ!」このタイミングで...。苦笑しながらカナに耳打ちする。
「また後で話そう。今日の夜にでも」

 カナは小さく頷く。その表情には、何かが始まるという予感に満ちていた。

 ◇

 その日の撮影は順調に進む。カナのドレス姿は想像以上に美しく映像に収まり、スタッフも達成感にあふれていた。
 ユナ達のその後は、撮影現場には戻る事は無く、長かった彼女の嫌がらせがようやく終わりを告げたようだ。

「お疲れ、終わりだ」

 最後のカットを撮り終えても、俺は8ミリカメラが切れるまでカナの姿を追い続けた。少しでも多く彼の姿を収めたくて。そして、カラカラと最後のフィルムの巻き終わる音を確認した。
 
 撤収が終わる頃、夕陽が海面を赤く染め始める。

「マリ」
 背後からのカナの声に振り返ると、彼はもう普段着に戻っていた。少し寂しい気持ちになる。

「どうした?もう休憩してていいよ」
「さっきの...あのセリフのこと」カナの目が真剣だ。
「あれは本当に...」

 続きを聞きたかったが、またしてもリョウが割り込んできた。
「おーい!打ち上げするぞ!機材片付けたら海辺でバーベキューだ!」

「また後でな。今夜、必ず話そう」
 カナに小声で告げると、彼は少し不満そうな顔をして頷く。

 打ち上げのバーベキューは賑やかだった。皆で今日の撮影を褒め合い、コンテストでの受賞を夢見る。でも、俺の意識はずっとカナに向いていた。彼は少し離れた場所で、一人海を見つめている。

「なあマリ」リョウが肩に手を置く。
「お前とカナ、何かあったのか?」
「え?何が?」
「隠すなよ。あの"Do you love me?"って何?あの意味深なセリフ。現実と映画が並行してんじゃないのか?」

 リョウの鋭い指摘に動揺する。
「...俺の気持ちが映像に映り込んでいたのかも」
「お前らしいな。恋愛体質の監督みたいでちょっとオモロい」
 リョウはいつものふざけた調子でからかう。しかし、真面目なトーンに変わる。

「でも、今日のカナは特別だったぜ。お前の映画の中のカナは、いつもと違っていた」
 リョウの言葉に何も返せず、ただ頷く。彼は遠くにいるカナの方を見て、にやりと笑った。
「がんばれよ」

 夜も更け、メンバーたちが次々とコテージに戻っていく。最後に残ったのは俺とカナとリョウだけだった。

「俺、先に戻るわ」リョウがわざとらしく伸びをしながら言う。
「二人でゆっくり話せよ」リョウは意味ありげな笑みを浮かべると、砂浜から立ち去った。

 静寂に包まれた浜辺。波の音だけが響く中、カナが俺の隣に座る。

「今日は...ありがとう」海を見つめながら言う。
「なんで?」
「あのドレスを着てくれて。ユナが連れてきた奴じゃなくて、お前が出演してくれて」

 カナはしばらく沈黙していた。そして、ぽつりと漏らす。

「マリが撮りたいのは俺しかいないのに、他の人に代わるなんてあり得ないだろ」その言葉に胸が高鳴る。

「本当に...そう思ってる?」振り向くと、カナの瞳が月明かりに照らされてキラキラと輝いていた。

「"Do you love me?"って何で俺に言わせたの?」

「『サマードレス』にも使われてるからかな...。意味合いは違うけど」

 心臓の鼓動が早まる。カナが近づくにつれ、呼吸が苦しくなっていく。触れたら何かが壊れてしまうのではないかという恐れと、この瞬間が夢なら、目覚めたくないという願いが同時に押し寄せた。

「どういう意味合い?」

 カナの指先が砂浜に置いた俺の手に触れる。その接触点から温かさが広がっていく。徐々に二人の距離が縮まり、膝が触れ合う位まで近づいていた。

「本当は、『愛してる?』って聞いて『うるさい』って返すんだけど、『No, thank you...』『いらない』って感じに変えてみたんだ」

「ふーん。愛してる?って俺に聞いて欲しいってこと?」

 そう言って、カナは真っ直ぐな熱い視線を向けてきた。俺の心はその熱に溶かされ、本音がこぼれ落ちた。

「俺が、カナに聞いてみたい言葉かも」

「ふーん。俺は、"No, thank you"じゃないけど」

 カナの指が俺の手の甲から腕へとゆっくり這い上がり、そっと身体を引き寄せる。月光を浴びた彼の肌は磁器のように白く、琥珀色の瞳は神秘的な輝きを放っていた。俺は彼の顔の輪郭を指でなぞりたいという衝動に駆られる。

 そして――彼の唇が俺の唇に重なった。

 その瞬間、時は止まり異次元へ誘われる。波の音だけが鼓膜を震わせ、世界には俺とカナしか存在していないかのような夢幻的な時間。彼の唇は驚くほど柔らかく、かすかに塩味を帯びていた。海の香りだ。

「これが答えだ」

 キスの後、カナが囁いた。その声が波音に溶け込む。月明かりに照らされた彼は、現世のものとは思えない美しさだった。温かい手のひらが俺の首筋に触れ、ゆっくりと髪に差し入れられる。その感触に全身が震えた。

「理解できた?」
 カナの瞳が俺を見つめる。

「ああ……カナの気持ち、わかったよ。俺の気持ちもわかった?」
 今度は俺がカナの顔を覗き込む。

「うん……好きって言えるようになった?」

 カナの声が少し震えている。俺は心臓の鼓動を抑えながら、勇気を出して本当の気持ちを初めて語る。

「待たせたけど……ずっと好きだったんだ」

 告白の言葉を紡ぐと、カナの表情が満ち足りた微笑みに変わっていく。彼の笑顔は砂浜に降り注ぐ月明かりよりも明るい。

「窓から覗いてたもんね」
「ああ。毎日見てた。本当変態だな俺」
 カナは柔らかく笑った。その笑い声は海風に乗って心地よく響く。

「俺もマリのこと、変態って言えない...裸の写真いっぱい撮ったし」俺も笑みをこぼす。

「あの写真撮影の時から俺のこと好きだったの?」

「うん。撮ってる途中から確信に変わった。俺、興味ある人しか、あんな写真撮りたいって思わないから」

 二人は数分間見つめ合った後、砂浜に横たわって空を仰ぐ。夏の夜空は無数の星で彩られている。星空を見ているカナの横顔を観察すると、いつも以上に魅力的だと思った。

「星、綺麗だな」

 カナの言葉に頷く。だが、俺の視線は星空ではなく彼に釘付けだった。すると突然、カナが上体を起こし、俺の上に覆いかぶさるように位置を変えた。

「見つめすぎだろ。いつもだけど」

 俺はバレてたかと思い笑ってしまう。しかし、カナは真剣な表情で続けた。

「でも、今日一番綺麗だったのはマリだよ」

 カナの言葉に鼓動が加速する。彼の手が俺の頬を撫で、髪を耳に掛ける。その指先が耳たぶを撫でると、鳥肌が立った。

「カナ...」

 言葉を失う。彼が俺の上にかがみ込み、首筋に唇を寄せる。暖かい吐息が肌を撫で、全身に小さな電流が走った。カナの手が俺の胸元に触れる。

「いい?」

 その問いかけに頷くことしかできない。カナの指先が胸元を優しく辿り、首筋に続く唇の感触に言葉を失う。

 やがてカナが俺の背中に両手を回し、静かに抱き寄せた。その温もりに幸福感が全身を包み込む。肌と肌が触れ合う感覚は、これまで味わったことのない特別なものだった。カナの心臓の鼓動が俺の胸に伝わってくる。

 そして再び唇を重ね、互いを求め合う。波の音を伴奏に、二人の心が通じ合うように気持ちを確かめ合っていく。言葉以上に多くのことを、その夜の海辺で分かち合った。

 カナの手が俺の背中を滑り、腰に回っていく。その感触に呼吸が乱れる。星空の下、波の音に包まれながら、二人は初めての愛を確かめ合った。

 ◇

 月が西に傾き始めた頃、二人は砂浜から立ち上がった。服装の乱れを直しながら、互いの身体についた砂を払い合う。そして視線を交わす。言葉なしでも通じ合えるようになっていた。

「冷えてきたな」
 カナが俺にピッタリと、寄り添う。二人でコテージへ戻る道すがら、勇気を出して切り出した。

「上映会が終わったらさ...」
 言葉の続きを探していると、カナがさっと手を取ってきた。彼の指が俺の指と絡み合う。その感触だけで満たされる。

「うん、一緒に何かしよう。映画撮影が終わってもこのままでいたい」
 カナの手が温かい。指が絡み合う。この繋がりが永遠に続くことを願った。

「ああ、もちろんだ」
 夜道を二人で歩きながら、星空を見上げる。満天の星が未来を照らしているような気がした。静寂の中、砂を踏みしめる音だけが響く。

「でもさ、マリ」カナが立ち止まって見つめてきた。彼の眼差しに魅了される。
「今度はドレスなしでいいよね?あれ、めちゃくちゃ恥ずかしいんだぞ」

 思わず笑い出した。緊張が一気に解ける。カナも笑い、その笑顔は星明かりの下でキラキラと輝く。

「ドレスも似合ってたけど、普段のお前で充分だ」

 コテージのライトが見えてきた。明日から編集作業が本格的に始まり、上映会に間に合わせる。これからが本番だ。カナの手を強く握る。

「でも、またマリの裸の写真は撮りたいかな」
「変態だな」二人は笑い合う。
 カナが俺の唇に優しくキスをする。

「好きだよ」
「俺も好きだ」

 二人の指が強く絡まり、夏の終わりに交わしたその言葉が、確かに未来へと繋がっていく。

 俺は幸せを感じていた。砂浜に残る二人の足跡は、やがて波に消されるだろう。でも、映像に残るカナの姿と、今夜の記憶は永遠に消えることはない。
 
 夏の始まりから育ち始めた恋は、夏の終わりに、ついに両思いとなり幕を閉じた。今年の夏は一生忘れられないだろう。指を絡ませたまま歩く二人の影が、月明かりに長く伸びていく。