朝九時、駅のホームへ向かう。連日の映画のリハーサルとロケハン。カナの隣を歩くことにも少しずつ慣れてきた気がする。今日の彼は白いTシャツに薄いデニムのハーフパンツ姿だ。
夏のノルマンディーを舞台にしたオゾンの『Summer of 85』の世界観を彷彿とさせる。どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。特別な格好ではないのに、視線が自然と彼に引き寄せられる。
「電車、もうすぐ来るよ」カナが時刻表を指差し、「準備はいい?」と尋ねた。
「うん、バッチリ」カメラバッグを持ち上げて見せる。
「ロケハンだから、軽装備で来たけど」
「俺も持ってきた」カナも自分のバッグを披露した。
「海の写真、撮りたくて」
電車に乗り込み、二人並んで窓際の席に腰掛ける。時折カナの肩が触れるたび、背筋にかすかな震えが走った。窓の外の景色は徐々に都会から離れ、緑豊かな風景へと変化していく。
「リョウ君は来ないの?」カナが唐突に質問してきた。
「なんか急にバイト入ったらしくて。それに、ロケハンだし、二人で十分かなって」
「そっか」カナはわずかに口元を緩めた。
「昨日の海でのリハーサル、楽しかったね。いっぱい動画撮って。二人だけの秘密みたい」
本当に二人きりで出かけるのは2回目だ。構図の勉強やアングル検討という口実をつけて。カナを撮り放題のこの環境は、監督としては最高の機会だった。至福の時間。
「楽しみだな」複雑な思いは飲み込み、シンプルな言葉だけを告げた。
カナはちらりと視線を送り、「うん」と小さく頷き、その横顔は朝日に照らされ、儚くて消えそうだった。
昨日とは異なる、少し遠方の海へは約一時間。車窓の景色を眺めつつ、映画について話し込む。カナは意外にも映画の知識が深く、好きな監督の話題になると目の奥の輝きが増す。
「マリが監督するなら、今後どんな映画が撮りたいの?やっぱりオゾンみたいな芸術映画?」
「俺か?」と考え込む。
「人が変わる瞬間を捉えたいかな。何かをきっかけに、ガラッと変化する刹那を」
「例えば?」
「例えば...」言葉を探る。
「誰かを好きになって、世界の見え方が一変する瞬間とか」
言いながら、はっとした。まるで自分の現状を語っているようで、思わず言葉が詰まる。
「それ、いいね」カナは真剣な表情で同意する。
「じゃあ、今回の映画は?」
「今回は...夏の終わりに、何かを得て、何かを失う物語」照れくさくなる。
「失うの?」カナは驚いた表情を浮かべた。
「ああ、夏そのものを失うんだ。でも、その代わりに何か大切なものを獲得する」
カナは窓の外を見つめ、「なるほどね」と呟く。
海に到着したのは10時半頃。駅から少し歩くと、広大な砂浜が目の前に広がっていた。真夏の太陽に照らされ、海の青さが際立っていた。
「わぁ!すごく美しい海だね」カナの声に高揚感が溢れている。普段クールな彼にしては珍しい反応だ。
「本当に綺麗だな」俺も目の前の景色に圧倒されていた。
二人で砂浜を歩きながら、撮影ポイントを探す。ノートに場所や時間ごとの光の具合をメモしていく。カナは時折カメラを取り出して風景を収めている。
「ここ、いいんじゃない?」カナが岬の先端を指差した。「あそこにドレスを着た人が立つと、すごく映えそう」
「本当だ、いいじゃん。あそこでドレスシーン撮ろうぜ」
二人で岬に向かって歩いていると、突然カナが足を止める。
「あれ、ユナ?」
視線の先には、確かにユナの姿があった。写真サークルのメンバー数人と一緒に。一瞬、身体が固まる感覚に襲われた。
「どうして...」思わず呟く。
「奏多くん!」ユナがこちらに気づいて手を振った。にこやかな表情だが、どこか意地悪な笑みが混じっている。
「偶然ね!私たちも下見に来てたの」
偶然のはずがない。不自然すぎる。どこからか情報を入手したに違いない。
「あの、そこのポイント、私たちが使うから」ユナが岬を指差した。
「私のポートレートと映画のロケ地にするの」と言い切る。
「え?でも俺たちが先に...」カナが困惑した表情で言いかけた。
「大丈夫よ」ユナが甘い声で言う。
「私が青いドレス着るから、マリ先輩のイメージ通りになるわ」
何様のつもりだ。内側から怒りが噴出しそうになる。
「ドレスはカナ以外には着せない」思わず強い口調になった。「俺の映画では」
「えー、でも私の方が似合うと思うな」ユナが意地悪く微笑む。
「それとも、奏多くんを本当に女装させる気なんですか?マリ先輩、変態じゃないですか?」
その言葉に、カナの表情が曇った。俺の拳に力が入る。
「ユナ」カナが冷たい声で言う。
「約束したのはマリとだ。俺が着ると決めたんだ」
「何言ってるの?男の子が女の子の服着るなんて、おかしいでしょ」ユナの声には明らかな悪意が含まれていた。
「おかしくない」反論する。「映画だ。役なんだよ」
ユナは唇を尖らせた。
「奏多くん、本当にそれでいいの?みんなに変な目で見られるよ?」
カナの表情が一瞬揺らいだ。不安?恐れ?読み取れない感情が彼の顔をよぎる。世間からの視線に敏感なカナの弱みを、ユナは正確に突いてくる。
一歩前に出て、「カナの判断だ。俺は彼を信じてる」と告げた。
「奏多くん」ユナが甘えた声で呼びかける。
「私と一緒に素敵な写真集作りましょう?青いドレスも似合うって言ってくれたじゃない」
カナが黙り込んでしまう。迷っているのか?不安が募り、その横顔を見つめる。
「マリ」突然、リョウの声が聞こえた。
「おーい、遅れてゴメン!」振り返ると、リョウが走ってきている。バイトのはずでは?
「リョウ?どうして...」
「バイト、早上がりさせてもらったんだ。お前たちが心配で」リョウが息を切らしながら説明した。
「マリ、頑張れよ」リョウの言葉に、不思議と勇気が湧いてくる。彼はやはり幼馴染だ。普段はふざけてばかりだけど、こういう時、いつも支えになってくれる。
「カナ、どうする?」彼の目をしっかり見つめた。
カナはしばらく沈黙していたが、ふっと顔を上げる。
「マリの映画に出る。約束したから。何度も言ってるよ?」
「え?でも奏多くん!」ユナが少し怯む。
「ごめん、ユナ」カナはきっぱりと告げる。「俺はマリの映画に出るから、諦めて欲しい」
ユナは悔しそうな表情を浮かべる。写真サークルの仲間の「もう行こうよ」という呼びかけに、しぶしぶといった様子で、ユナたちは別の場所へ移動していった。
「ふぅ」リョウが溜息をつく。
「なんか凄い緊張感だったな。三角関係ってこんななんだ」とおちゃらける。
「何言ってんだよ」苦笑しながらリョウの肩を叩く。
「でも来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。お前のラブストーリー、見届けないとな」と俺をからかう。
「ラブって……違うぞ!映画の話だ!」顔を熱くして反論した。
リョウは意味深に微笑み、俺はその視線に居心地の悪さを感じ、目を逸らす。
「あのさ」カナが恥ずかしそうに言った。
「本当にドレス、着るから。マリの映画のために。マリに撮ってほしいんだ、俺自身を」
その言葉に心の奥が熱を帯びる。カナは本気だ。彼は俺の映画のために、殻を破ろうとしている。
「ありがとう。必ず、最高の映画にするから」
精一杯の思いを込めて伝えると、カナは輝く笑顔をこちらに向けた。この夏の海よりも鮮やかだと思った。
三人で海辺を歩きながら、撮影プランを練る。途中、カナは俺たちにもカメラを向けた。波打ち際で笑うリョウと俺。岬に立つシルエット。無言でシャッターを切るカナの姿は美しくて、その姿を俺も撮りたくなった。
夕方近くになり、帰りの電車に乗る頃には、完璧なロケ計画が出来上がっていた。
「じゃあ、来週から本格的に撮影開始だな」リョウが言う。
「うん。楽しみ」カナが頷く。
電車の中、疲れて眠るカナを見つめながら、思いを巡らせる。この映画は、きっと特別なものになるだろう。単に自分の作品というだけではなく、カナとのこの夏の記憶として。
寝顔を見ていると、ふと気づく。もう否定できない。カナへの感情が友情の域を超えていることを。認めたくても、それが怖い。彼を受け入れたら自分はどうなってしまうのか。
リョウが以前「カナはお前のことが好きなんじゃないか」と言ったことを思い出す。そのとき即座に否定したけれど、今は違う。
カナはゲイだと打ち明けてくれた。お互いがストレートなら、もう少し単純だったかもしれない。この複雑な感情をどう扱えばいいのか。信頼を裏切りたくないし、答えを間違えたら取り返しがつかない。その責任感に押しつぶされそうになりつつも、この鼓動の高まりも無視できなかった。
窓の外に沈んでいく夕日を眺めながら、この夏がどう終わるのか、まだ想像もつかなかった。ただ、カナと過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていることだけは確かだ。
夕焼けに染まる海辺の光景が、遠ざかっていく。
◇
あのロケハンから一週間後。いよいよ本格的な撮影が始まった。海辺でのドレスシーンは特に重要で、朝早くから準備を整えていた。
「今日の天気、最高だな」
リョウが機材を並べながら声をかけてくる。
「マリ、どんな感じで撮影する?」
手元の絵コンテを指さす。
「まず岬のシルエットから始めて、それから波打ち際のシーンへ。光の角度が変わるから、時間との勝負だ」
潮風が吹く中、カナがライトブルーのドレスを身にまとい波打ち際を歩く姿は、カメラ越しでも目を奪われるほど優美だった。波が足元を濡らすたびに振り返るカナの表情が、どこか儚くて呼吸が浅くなる。
『ただの映画用のイメージじゃない。カナがこんな近くにいるからだ』と心の中で呟いたところで、リョウに「マリ、顔赤いぞ」と指摘された。「日差しが強くて暑いんだ」と誤魔化す。
午後になるにつれ潮風が強まり、撮影はより難しくなっていく。それでもカナは文句一つ言わず、何度も同じシーンを繰り返してくれる。ドレスの裾が風に舞い、彼の細い肩が夕陽に染まる光景は、まるでファンタジー映画のヒロインのようだった。
「OK!これで完璧!」
最後のカットを終え、満足げに声を上げた。カナは疲れた表情ながらも、緊張感から解放されていた。
「良かった。マリの想像通りになった?」
「想像以上だよ」正直な気持ちを伝えると、カナはホッとした表情を見せた。
撮影を終えて機材を片付けていると、リョウが突然声をひそめた。
「おい、マリ。あそこを見ろよ」
振り返った先、少し離れた砂浜にユナの姿がある。青いワンピース姿で、写真サークルのメンバーと何か話している。
「まだ諦めていないのか」思わず声が漏れる。
「気にするな。衣装まで被せてくるなんて、あいつマジでヤバい」呆れ顔でリョウが俺の肩をポンと叩き、「今日の撮影は最高だったぞ」と励ましの言葉をくれた。
◇
その夜、予約していた海辺のコテージに泊まる。夕食後、カナとリョウには先に部屋へ戻って休んでもらい、明日の撮影プランを一人で考えたくて、俺は浜辺を散策していた。波の音を聞きながらイメージを膨らませていると、背後から声がかかる。
「一人で何してるんですか?マリ先輩」
振り返ると、ユナが立っていた。月明かりに照らされた彼女の表情には、いつもの高慢さがない。どこか寂しげで、初めて素顔を見た気がした。
「ユナ...なぜここに?」
「私も撮影で来てるんです。さっきも会いましたけど」彼女は砂浜に腰を下ろそうとして、「座ってもいいですか?」と俺に許可を求める。
「いいよ」警戒しながらも、隣に座ることを許す。
「奏多くんのこと、本当に大切にしてるんですか?」不意にユナが問いかけてくる。
「当然だよ」躊躇なく答えた。
「カナは俺にとって特別な存在だから」
「そうですか」ユナは遠い目をして海を見つめた。
「私、ずっと前から奏多くんの事が好きなんです。でも、最近の奏多くんの目には、マリ先輩しか映っていないみたいで...」
その言葉に息を呑む。ユナの行動は全て嫉妬からだったのか。
「私の映画、全国大学映像コンテストで一位を取ります」彼女は急に声のトーンを変えた。
「先輩達も私の味方。このままだとマリ先輩の映画は応募も難しいかもしれませんね。各大学から一本しか応募できないらしいし」
「何だって?」思わず声が上ずる。
「奏多くんに伝えておいて下さい。明日、私に会いに来てほしいって」ユナは立ち上がり、砂を払う。
「選ぶのは奏多くん自身ですよね?」そう言い残して、彼女は暗闇の中へ消えていった。
部屋に戻ると、カナとリョウはまだ起きていて編集プランを話し合っていた。ユナとの会話は二人には話せない。特にカナには余計な不安を与えたくなかった。
◇
翌朝、カナが「ちょっと出かけてくる」と言い残して部屋を出て行く。懸念が頭をよぎり、リョウを残して後を追う。
海辺のカフェで、カナとユナが向かい合っている姿を発見して、近づいて話を聞こうとすると、ユナの声が風に乗って聞こえてきた。
「マリ先輩の映画なんかより、私の映画はコンテストで一位取れるよ。私の方が撮影技術が高いし、写真も上手いでしょ?それに、あんなドレス着た映像が残るなんて、みんなの笑いものになるだけだよ」
カナは黙って聞いている。その姿を見るのが辛かった。
「藤崎先輩も言ってたよ。マリ先輩の映画は選考から外されるって。奏多くん、私と一緒に素敵な映画を作りましょう?」
「これで奏多くんは私のもの」と言わんばかりのユナの笑顔。俺は居ても立っても居られなくなり、その場から立ち去った。
部屋に戻ると、リョウが心配そうな顔で俺に話しかける。
「どうした?顔色悪いぞ」
「もうダメかも」膝を抱えて床に座り込む。
「俺の映画、選考から外されるかもしれない。カナもとられるかも...」リョウは真剣な表情で前にしゃがみ込んだ。
「選考外されるって何?それに、カナはお前を選んだんだろ?」
「ユナが言ってたんだ...」
「あいつにまたなんか言われたのか?諦めるなよ。まだ分からないだろ?」リョウがきっぱり言い切る。
「カナの事も信じてやれよ」と言うリョウの言葉に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「ユナなんかに負けたくない。カナと約束したんだ」
「そうだ」リョウが笑顔で俺を諭す。「それがお前だ」
その時、部屋のドアが開き、カナが戻ってきた。予想以上に早い帰還に驚く。
「カナ...」
「ユナに会ってきたよ」カナが静かに言う。
「彼女の誘いを断ってきたんだ」
「本当に?」
「悪いけど、俺はマリの映画に出る。ユナの企画は自分で頑張ってって伝えた」カナは照れくさそうに言う。
「ユナ、かなり怒ってたけどね」
「でも、藤崎先輩が...」
「知ってる」カナが頷く。
「コンテストの選考は、上映会で決められるから、ユナの映画に勝てばいいんだよ。マリには出来るよね?」
「上映会で皆を認めさせればいいってこと?」
「そう。いい映画が出来れば皆に認められるよ。それに審査員長は外部の専門家に依頼するらしいから、本当に実力勝負だ」カナがまっすぐに俺の目を見つめた。
「やるだけやってみよう」
カナが差し出した手を握ると、不思議な安心感が全身を包んだ。温かいその手を強く握り返す。
「よし」リョウが二人の背中を叩く。
「じゃあ、最高の映画を作ろうぜ!」
俺たちは気合を入れ直して撮影に取り組み、この日のスケジュールを計画通りに進めた。
撮影は順調で、デジタル映像の編集作業も今日から同時に行う。8ミリフィルムの編集が始まるまでに終わらせる予定だ。2つの映像を効果的に使い1本の短編映画に仕上げる。
明日はついに映画のクライマックスシーンの撮影。カナの姿を思い浮かべながら、カメラワークのシミュレーションを行う。再び心を引き締め直し、彼が俺を選んでくれたことの意味を、この映画に込めようと決意する。
夏のノルマンディーを舞台にしたオゾンの『Summer of 85』の世界観を彷彿とさせる。どこかノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。特別な格好ではないのに、視線が自然と彼に引き寄せられる。
「電車、もうすぐ来るよ」カナが時刻表を指差し、「準備はいい?」と尋ねた。
「うん、バッチリ」カメラバッグを持ち上げて見せる。
「ロケハンだから、軽装備で来たけど」
「俺も持ってきた」カナも自分のバッグを披露した。
「海の写真、撮りたくて」
電車に乗り込み、二人並んで窓際の席に腰掛ける。時折カナの肩が触れるたび、背筋にかすかな震えが走った。窓の外の景色は徐々に都会から離れ、緑豊かな風景へと変化していく。
「リョウ君は来ないの?」カナが唐突に質問してきた。
「なんか急にバイト入ったらしくて。それに、ロケハンだし、二人で十分かなって」
「そっか」カナはわずかに口元を緩めた。
「昨日の海でのリハーサル、楽しかったね。いっぱい動画撮って。二人だけの秘密みたい」
本当に二人きりで出かけるのは2回目だ。構図の勉強やアングル検討という口実をつけて。カナを撮り放題のこの環境は、監督としては最高の機会だった。至福の時間。
「楽しみだな」複雑な思いは飲み込み、シンプルな言葉だけを告げた。
カナはちらりと視線を送り、「うん」と小さく頷き、その横顔は朝日に照らされ、儚くて消えそうだった。
昨日とは異なる、少し遠方の海へは約一時間。車窓の景色を眺めつつ、映画について話し込む。カナは意外にも映画の知識が深く、好きな監督の話題になると目の奥の輝きが増す。
「マリが監督するなら、今後どんな映画が撮りたいの?やっぱりオゾンみたいな芸術映画?」
「俺か?」と考え込む。
「人が変わる瞬間を捉えたいかな。何かをきっかけに、ガラッと変化する刹那を」
「例えば?」
「例えば...」言葉を探る。
「誰かを好きになって、世界の見え方が一変する瞬間とか」
言いながら、はっとした。まるで自分の現状を語っているようで、思わず言葉が詰まる。
「それ、いいね」カナは真剣な表情で同意する。
「じゃあ、今回の映画は?」
「今回は...夏の終わりに、何かを得て、何かを失う物語」照れくさくなる。
「失うの?」カナは驚いた表情を浮かべた。
「ああ、夏そのものを失うんだ。でも、その代わりに何か大切なものを獲得する」
カナは窓の外を見つめ、「なるほどね」と呟く。
海に到着したのは10時半頃。駅から少し歩くと、広大な砂浜が目の前に広がっていた。真夏の太陽に照らされ、海の青さが際立っていた。
「わぁ!すごく美しい海だね」カナの声に高揚感が溢れている。普段クールな彼にしては珍しい反応だ。
「本当に綺麗だな」俺も目の前の景色に圧倒されていた。
二人で砂浜を歩きながら、撮影ポイントを探す。ノートに場所や時間ごとの光の具合をメモしていく。カナは時折カメラを取り出して風景を収めている。
「ここ、いいんじゃない?」カナが岬の先端を指差した。「あそこにドレスを着た人が立つと、すごく映えそう」
「本当だ、いいじゃん。あそこでドレスシーン撮ろうぜ」
二人で岬に向かって歩いていると、突然カナが足を止める。
「あれ、ユナ?」
視線の先には、確かにユナの姿があった。写真サークルのメンバー数人と一緒に。一瞬、身体が固まる感覚に襲われた。
「どうして...」思わず呟く。
「奏多くん!」ユナがこちらに気づいて手を振った。にこやかな表情だが、どこか意地悪な笑みが混じっている。
「偶然ね!私たちも下見に来てたの」
偶然のはずがない。不自然すぎる。どこからか情報を入手したに違いない。
「あの、そこのポイント、私たちが使うから」ユナが岬を指差した。
「私のポートレートと映画のロケ地にするの」と言い切る。
「え?でも俺たちが先に...」カナが困惑した表情で言いかけた。
「大丈夫よ」ユナが甘い声で言う。
「私が青いドレス着るから、マリ先輩のイメージ通りになるわ」
何様のつもりだ。内側から怒りが噴出しそうになる。
「ドレスはカナ以外には着せない」思わず強い口調になった。「俺の映画では」
「えー、でも私の方が似合うと思うな」ユナが意地悪く微笑む。
「それとも、奏多くんを本当に女装させる気なんですか?マリ先輩、変態じゃないですか?」
その言葉に、カナの表情が曇った。俺の拳に力が入る。
「ユナ」カナが冷たい声で言う。
「約束したのはマリとだ。俺が着ると決めたんだ」
「何言ってるの?男の子が女の子の服着るなんて、おかしいでしょ」ユナの声には明らかな悪意が含まれていた。
「おかしくない」反論する。「映画だ。役なんだよ」
ユナは唇を尖らせた。
「奏多くん、本当にそれでいいの?みんなに変な目で見られるよ?」
カナの表情が一瞬揺らいだ。不安?恐れ?読み取れない感情が彼の顔をよぎる。世間からの視線に敏感なカナの弱みを、ユナは正確に突いてくる。
一歩前に出て、「カナの判断だ。俺は彼を信じてる」と告げた。
「奏多くん」ユナが甘えた声で呼びかける。
「私と一緒に素敵な写真集作りましょう?青いドレスも似合うって言ってくれたじゃない」
カナが黙り込んでしまう。迷っているのか?不安が募り、その横顔を見つめる。
「マリ」突然、リョウの声が聞こえた。
「おーい、遅れてゴメン!」振り返ると、リョウが走ってきている。バイトのはずでは?
「リョウ?どうして...」
「バイト、早上がりさせてもらったんだ。お前たちが心配で」リョウが息を切らしながら説明した。
「マリ、頑張れよ」リョウの言葉に、不思議と勇気が湧いてくる。彼はやはり幼馴染だ。普段はふざけてばかりだけど、こういう時、いつも支えになってくれる。
「カナ、どうする?」彼の目をしっかり見つめた。
カナはしばらく沈黙していたが、ふっと顔を上げる。
「マリの映画に出る。約束したから。何度も言ってるよ?」
「え?でも奏多くん!」ユナが少し怯む。
「ごめん、ユナ」カナはきっぱりと告げる。「俺はマリの映画に出るから、諦めて欲しい」
ユナは悔しそうな表情を浮かべる。写真サークルの仲間の「もう行こうよ」という呼びかけに、しぶしぶといった様子で、ユナたちは別の場所へ移動していった。
「ふぅ」リョウが溜息をつく。
「なんか凄い緊張感だったな。三角関係ってこんななんだ」とおちゃらける。
「何言ってんだよ」苦笑しながらリョウの肩を叩く。
「でも来てくれてありがとう」
「当たり前だろ。お前のラブストーリー、見届けないとな」と俺をからかう。
「ラブって……違うぞ!映画の話だ!」顔を熱くして反論した。
リョウは意味深に微笑み、俺はその視線に居心地の悪さを感じ、目を逸らす。
「あのさ」カナが恥ずかしそうに言った。
「本当にドレス、着るから。マリの映画のために。マリに撮ってほしいんだ、俺自身を」
その言葉に心の奥が熱を帯びる。カナは本気だ。彼は俺の映画のために、殻を破ろうとしている。
「ありがとう。必ず、最高の映画にするから」
精一杯の思いを込めて伝えると、カナは輝く笑顔をこちらに向けた。この夏の海よりも鮮やかだと思った。
三人で海辺を歩きながら、撮影プランを練る。途中、カナは俺たちにもカメラを向けた。波打ち際で笑うリョウと俺。岬に立つシルエット。無言でシャッターを切るカナの姿は美しくて、その姿を俺も撮りたくなった。
夕方近くになり、帰りの電車に乗る頃には、完璧なロケ計画が出来上がっていた。
「じゃあ、来週から本格的に撮影開始だな」リョウが言う。
「うん。楽しみ」カナが頷く。
電車の中、疲れて眠るカナを見つめながら、思いを巡らせる。この映画は、きっと特別なものになるだろう。単に自分の作品というだけではなく、カナとのこの夏の記憶として。
寝顔を見ていると、ふと気づく。もう否定できない。カナへの感情が友情の域を超えていることを。認めたくても、それが怖い。彼を受け入れたら自分はどうなってしまうのか。
リョウが以前「カナはお前のことが好きなんじゃないか」と言ったことを思い出す。そのとき即座に否定したけれど、今は違う。
カナはゲイだと打ち明けてくれた。お互いがストレートなら、もう少し単純だったかもしれない。この複雑な感情をどう扱えばいいのか。信頼を裏切りたくないし、答えを間違えたら取り返しがつかない。その責任感に押しつぶされそうになりつつも、この鼓動の高まりも無視できなかった。
窓の外に沈んでいく夕日を眺めながら、この夏がどう終わるのか、まだ想像もつかなかった。ただ、カナと過ごす一日一日が、かけがえのない時間になっていることだけは確かだ。
夕焼けに染まる海辺の光景が、遠ざかっていく。
◇
あのロケハンから一週間後。いよいよ本格的な撮影が始まった。海辺でのドレスシーンは特に重要で、朝早くから準備を整えていた。
「今日の天気、最高だな」
リョウが機材を並べながら声をかけてくる。
「マリ、どんな感じで撮影する?」
手元の絵コンテを指さす。
「まず岬のシルエットから始めて、それから波打ち際のシーンへ。光の角度が変わるから、時間との勝負だ」
潮風が吹く中、カナがライトブルーのドレスを身にまとい波打ち際を歩く姿は、カメラ越しでも目を奪われるほど優美だった。波が足元を濡らすたびに振り返るカナの表情が、どこか儚くて呼吸が浅くなる。
『ただの映画用のイメージじゃない。カナがこんな近くにいるからだ』と心の中で呟いたところで、リョウに「マリ、顔赤いぞ」と指摘された。「日差しが強くて暑いんだ」と誤魔化す。
午後になるにつれ潮風が強まり、撮影はより難しくなっていく。それでもカナは文句一つ言わず、何度も同じシーンを繰り返してくれる。ドレスの裾が風に舞い、彼の細い肩が夕陽に染まる光景は、まるでファンタジー映画のヒロインのようだった。
「OK!これで完璧!」
最後のカットを終え、満足げに声を上げた。カナは疲れた表情ながらも、緊張感から解放されていた。
「良かった。マリの想像通りになった?」
「想像以上だよ」正直な気持ちを伝えると、カナはホッとした表情を見せた。
撮影を終えて機材を片付けていると、リョウが突然声をひそめた。
「おい、マリ。あそこを見ろよ」
振り返った先、少し離れた砂浜にユナの姿がある。青いワンピース姿で、写真サークルのメンバーと何か話している。
「まだ諦めていないのか」思わず声が漏れる。
「気にするな。衣装まで被せてくるなんて、あいつマジでヤバい」呆れ顔でリョウが俺の肩をポンと叩き、「今日の撮影は最高だったぞ」と励ましの言葉をくれた。
◇
その夜、予約していた海辺のコテージに泊まる。夕食後、カナとリョウには先に部屋へ戻って休んでもらい、明日の撮影プランを一人で考えたくて、俺は浜辺を散策していた。波の音を聞きながらイメージを膨らませていると、背後から声がかかる。
「一人で何してるんですか?マリ先輩」
振り返ると、ユナが立っていた。月明かりに照らされた彼女の表情には、いつもの高慢さがない。どこか寂しげで、初めて素顔を見た気がした。
「ユナ...なぜここに?」
「私も撮影で来てるんです。さっきも会いましたけど」彼女は砂浜に腰を下ろそうとして、「座ってもいいですか?」と俺に許可を求める。
「いいよ」警戒しながらも、隣に座ることを許す。
「奏多くんのこと、本当に大切にしてるんですか?」不意にユナが問いかけてくる。
「当然だよ」躊躇なく答えた。
「カナは俺にとって特別な存在だから」
「そうですか」ユナは遠い目をして海を見つめた。
「私、ずっと前から奏多くんの事が好きなんです。でも、最近の奏多くんの目には、マリ先輩しか映っていないみたいで...」
その言葉に息を呑む。ユナの行動は全て嫉妬からだったのか。
「私の映画、全国大学映像コンテストで一位を取ります」彼女は急に声のトーンを変えた。
「先輩達も私の味方。このままだとマリ先輩の映画は応募も難しいかもしれませんね。各大学から一本しか応募できないらしいし」
「何だって?」思わず声が上ずる。
「奏多くんに伝えておいて下さい。明日、私に会いに来てほしいって」ユナは立ち上がり、砂を払う。
「選ぶのは奏多くん自身ですよね?」そう言い残して、彼女は暗闇の中へ消えていった。
部屋に戻ると、カナとリョウはまだ起きていて編集プランを話し合っていた。ユナとの会話は二人には話せない。特にカナには余計な不安を与えたくなかった。
◇
翌朝、カナが「ちょっと出かけてくる」と言い残して部屋を出て行く。懸念が頭をよぎり、リョウを残して後を追う。
海辺のカフェで、カナとユナが向かい合っている姿を発見して、近づいて話を聞こうとすると、ユナの声が風に乗って聞こえてきた。
「マリ先輩の映画なんかより、私の映画はコンテストで一位取れるよ。私の方が撮影技術が高いし、写真も上手いでしょ?それに、あんなドレス着た映像が残るなんて、みんなの笑いものになるだけだよ」
カナは黙って聞いている。その姿を見るのが辛かった。
「藤崎先輩も言ってたよ。マリ先輩の映画は選考から外されるって。奏多くん、私と一緒に素敵な映画を作りましょう?」
「これで奏多くんは私のもの」と言わんばかりのユナの笑顔。俺は居ても立っても居られなくなり、その場から立ち去った。
部屋に戻ると、リョウが心配そうな顔で俺に話しかける。
「どうした?顔色悪いぞ」
「もうダメかも」膝を抱えて床に座り込む。
「俺の映画、選考から外されるかもしれない。カナもとられるかも...」リョウは真剣な表情で前にしゃがみ込んだ。
「選考外されるって何?それに、カナはお前を選んだんだろ?」
「ユナが言ってたんだ...」
「あいつにまたなんか言われたのか?諦めるなよ。まだ分からないだろ?」リョウがきっぱり言い切る。
「カナの事も信じてやれよ」と言うリョウの言葉に、徐々に落ち着きを取り戻す。
「ユナなんかに負けたくない。カナと約束したんだ」
「そうだ」リョウが笑顔で俺を諭す。「それがお前だ」
その時、部屋のドアが開き、カナが戻ってきた。予想以上に早い帰還に驚く。
「カナ...」
「ユナに会ってきたよ」カナが静かに言う。
「彼女の誘いを断ってきたんだ」
「本当に?」
「悪いけど、俺はマリの映画に出る。ユナの企画は自分で頑張ってって伝えた」カナは照れくさそうに言う。
「ユナ、かなり怒ってたけどね」
「でも、藤崎先輩が...」
「知ってる」カナが頷く。
「コンテストの選考は、上映会で決められるから、ユナの映画に勝てばいいんだよ。マリには出来るよね?」
「上映会で皆を認めさせればいいってこと?」
「そう。いい映画が出来れば皆に認められるよ。それに審査員長は外部の専門家に依頼するらしいから、本当に実力勝負だ」カナがまっすぐに俺の目を見つめた。
「やるだけやってみよう」
カナが差し出した手を握ると、不思議な安心感が全身を包んだ。温かいその手を強く握り返す。
「よし」リョウが二人の背中を叩く。
「じゃあ、最高の映画を作ろうぜ!」
俺たちは気合を入れ直して撮影に取り組み、この日のスケジュールを計画通りに進めた。
撮影は順調で、デジタル映像の編集作業も今日から同時に行う。8ミリフィルムの編集が始まるまでに終わらせる予定だ。2つの映像を効果的に使い1本の短編映画に仕上げる。
明日はついに映画のクライマックスシーンの撮影。カナの姿を思い浮かべながら、カメラワークのシミュレーションを行う。再び心を引き締め直し、彼が俺を選んでくれたことの意味を、この映画に込めようと決意する。



