「カナ、夏に映画出てくれ!」

 何度目かの懇願だった。花壇の花が咲く中庭で写真を撮っていると、マリがやって来た。朝日に照らされた彼の姿はキラキラと眩しい。諦めない彼に少し意地悪したくなり、思わず口から出た言葉。

「じゃあ、脱いで」

 冗談のつもりだった。マリはそこまでするはずがない。これで諦めてくれるだろうと。案の定マリは驚いた表情を見せた。俺は我ながら意地悪だと思いつつ、続けた。

「ヌードモデルになってくれたら、出てあげる」
「俺の裸見て、何するつもりだよ...」

 マリは腕で体を覆う。恥じらう姿がかわいい。そんなの、見たいからに決まっている。ゲイなんだから。この提案で危機感を覚えて、もう俺に近づかないだろうとこの時は思っていた。

 ◇

 数日後、赤い光の中で写真を現像していると、ノックの音が響く。ドアを開けるとマリが立っていた。逆光に包まれる彼の姿に、思わずシャッターを切りたくなる。

「脱ぐよ」

 一言だけ告げるその表情に、言葉を失う。あの提案は彼を遠ざけるためのものだったのに。誰も受け入れないはずの無理難題。まさか承諾するとは。

「え?」
「映画に出てくれるなら、脱ぐ。撮っていいよ」

 決意に満ちた瞳を見て、俺の内側から何かが波立つように動いた。彼は本気だ。映画のためなら、プライドも羞恥心も捨てられる。その純粋さに魅了されてしまいそうだ。

「本当に?後悔しない?」
 声が揺れた。もう引き返せない。マリの熱意に、応えなければ。
「後悔するかもしれないけど、それでもカナに映画に出てほしいから...」

 罪悪感が込み上げる。冗談のつもりだったのに、彼は真摯に受け止めてくれた。これ以上逃げられない。俺も覚悟を決めた。

「わかった。来週の日曜日、海辺のスタジオで」

 海辺のスタジオを選んだのは、光の条件だけではない。人目につかない場所で、二人だけの空間が欲しかった。彼の裸を見る罪悪感と期待が交差する。誰にも邪魔されたくない。絶対に……。

「あと、マリ」
 脳裏に『サマードレス』の一場面が浮かぶ。青い海を背景に立つ男性。

「ライトブルーのドレスを持ってきて」
「ドレス?何に使うの?」

 戸惑うマリに微笑む。俺の願望のために必要だったけど、それは言わなかった。ここで拒否されては困るからだ。
「映画用だよ。約束したでしょ?」

 約束。映画に出る約束。でも本当は、マリの裸体だけでなく、魂まで写真に収めたいと願っていた。その欲望に、自分でも驚く。

 マリを撮りたい。光の中で、彼のすべてをフレームに閉じ込めたい。彼は俺を映画に出したがり、俺は彼を写真に収めたがる。奇妙な関係が始まろうとしていた。

 マリが去った後も、現像作業は続く。薬品の香り、暗室の赤い光。写真が現れる瞬間には不思議な魔法のような感覚がある。けれど全く集中できない。マリの裸体を撮る。想像だけで、指先の震えが止まらない。

 現像液に浸した指が痺れる。化学薬品の刺激だが、心の葛藤には比べものにならない。マリは本当に脱ぐのか?俺は感情をコントロールできるだろうか。

 ベッドに横たわり、携帯で映画『サマードレス』の画像を開いた。砂浜に立つドレスを着た男性。マリの顔を重ねる。着せたい……。鼓動が速まる。

 彼を好きになりかけている。認めたくなかったけれど、もう隠せない。大学に入って以来、誰とも関わらないように生きてきた。でも、マリは特別だ。

 俺の心の奥底にある氷の要塞を、熱を放ちながら壊そうとする。輝く笑顔、真っ直ぐな性格、映画への情熱。眩しすぎて直視出来ない。

 彼が脱いだら、俺はどうなってしまうのだろう。カメラという盾がなければ、素の自分をさらけ出してしまう。恐怖と期待が心の中で交錯した。

 ◇

 日曜日の朝、海辺のスタジオへ向かう。波の音と潮の香りが緊張を和らげてくれる。カメラバッグを肩に、三脚を持って砂浜を歩く。マリはまだ来ていない。

 スタジオは、展望台を改装した建物で、大きな窓から朝日が木の床を温かく照らしている。マリが来る前に機材をセットアップする。ライトの位置、三脚の角度、すべてを完璧に。彼の姿を最高の光で捉えたい。

「カナ、来てる?」
 ドアの向こうからマリの声。逆光に浮かぶシルエットが、神秘的な輝きに見えて息を呑む。
「来たんだ」驚きが声に出た。

「約束したから」
 マリは緊張した様子で周りを見回し、リュックを置き、ライトブルーのドレスを俺に渡す。

「すごいところだね」
「光の入り方がいいから」

 会話は表面的なもの。本題には触れない。空気は電流を帯びていた。マリの瞳がカメラへ、そして俺の顔へと移る。不安と決意が混ざりあう。

「じゃあ、始めようか」
 俺は冷静に言ったが、心は嵐のように騒がしかった。マリは頷き、携帯用タンブラーを取り出す。中身はアルコールだった。一口飲み、顔をしかめる。

「勇気を出そうと思って」
 笑う彼の姿に、心が乱れる。追い詰めてしまったのか。映画のためなら脱ぐと言ってくれた思いに応えなければ。

「どう...脱げばいいの?」
 声は震えて、瞳は揺れていた。
「自然に。緊張しないで」

 カメラを手に構えると、マリがシャツのボタンを外し始める。震える指。緊張が伝わってくる。マリは「恥ずかしい...」と言いながらも服を脱いでいく。肌が露わになる光景に、呼吸が荒くなる。

 シャッターを切る事が止められない。光に照らされたマリの肌は幻想的な輝きを放ち、彫刻のような美しい筋肉が俺の心を惑わす。夢中で撮り続けた。

 下着姿のマリ。最初の緊張が消え、どこか恍惚とした表情。カメラを通して彼と見つめ合い、そして魅了される。ファインダーの向こうで、光のヴェールに彼が包まれていく所を見た気がした。

「あと少し」
 声がかすれて言葉を失う。下着に手をかけた瞬間、理性が危うくなる。

「待って!」
 声を上げる。驚いたマリの表情。混乱と不安が目に浮かんでいた。

「もういいよ。これで十分」

 言い訳のように告げる。マリは不安そうな顔をしていたが、すぐにホッとした表情になり微笑んだ。俺は椅子に掛けていたドレスを彼に渡した。

「これ、着て」

 ドレスを手に取るマリの表情は複雑だった。だが嫌な顔はせず、好奇心と挑戦心が見える。ドレスを広げ、生地に光を当て、青い影を白い壁に映す。

「でも、映画ではカナが着るんじゃ...」

 俺に着せたがっていたドレスを、マリに着せる。マリの俺への執着の象徴のドレス。マリに着せて俺も撮ってみたいと強く思っていた。きっと綺麗だから...。

 ドレスの着方が分からない彼に、俺が着せてあげることになった。全体的に小さいようで苦戦する。肩紐をずらすとき、指が肌に触れた。温かくて、柔らかい肌。そして、麗しい瞳...。鼓動が早まる。

 ドレスを着たマリは、想像以上に美しかった。日焼けした肌と肉体美、ドレスの柔らかさが不思議な調和を見せている。恥じらいながら笑い、窓辺に立つ。

「こんな感じ?」
 答えられなかった。カメラを構え、シャッターを切る。マリは輝いていた。存在そのものが光を放っているかのように。

 撮影に集中しようとしたが、ふと気づく。レンズ越しではなく、直接見たくなった。衝動に抗えず、カメラを下ろし、引き寄せられるように近づいていく。

「カナ?」
 声が遠くに聞こえる。頭が真っ白で、触れたいという思いだけがあった。顔が近づく。キスしそうになった瞬間、我に返った。

「ご、ごめん。光の...調整」
 意味不明な言い訳を口にして距離を取る。マリは困惑していたが、何も言わなかった。心の中で何かが崩れ始めていた。自制心か、理性か…。

 撮影終盤、白いブランケットにマリを仰向けに寝かせた。俺は彼にまたがり、カメラを構える。多分アウトだったと思う。しかし、この構図でどうしても撮りたかった。

 シャッターを連続で切り続ける。そのうち、彼にもっと近づきたくて、触れたい……と強く思ってしまった。

「カナ...ちょっと恥ずかしい...」
 声が弱まっていく。もう止まれない。どこまでも落ちていこうと思った。

「いいから。動いて表情見せて」

 集中すると、俺は別の人格が目覚める。支配的なもう一人の自分。被写体をコントロールしたい。特にマリを。自分だけのフレームに閉じ込めたかった。その後はどうなったのか覚えていない。おそらく官能の渦に飲み込まれたのだろう。

 ◇

 海辺のスタジオでの撮影後、俺たちの距離は一気に縮まった。映画に出ることになったので、毎日のようにマリに演技指導を受けるようになる。夜に俺の部屋に集まり、映画を見ては演技プランのイメージを膨らませていた。

「オゾンって変わった映画多いよね」ある夜、ふと呟く。
「変わってるんじゃなくて深いんだよ。自由に映画を作れるのって強いし、ゲイの監督らしいよな。憧れる」
「確かに。それに、男同士の恋愛を描くのも美しさが際立っていて上手いよね」

 間を置いて、続ける。

「マリは……そういうの気にする?」
「え?」
「同性の恋愛……男が男を……好きになること」

 言葉が詰まった。顔が熱くなる。

「別に...いいんじゃない?好きは好きじゃん」
 カジュアルな肯定の言葉が、俺の心を羽のように軽くした。
「そっか...」

 時計の針は0時をさす。明日も一限から講義があるのに、まだ起きている。マリとの時間があっという間に過ぎていく。

「もう一本見ない?オゾンの『Summer of 85』も面白いよ」
 俺の好きな映画だ。マリは少し眠そうに頷き欠伸が出る。

「あ、ごめん...眠くて」
「無理しなくていいよ。休む?」
「いや、平気、見よう」

 マリは目を擦って、いまにも寝てしまいそうだった。
「ごめん...少しだけ...」

 すぐにマリは俺のベッドで寝落ちしてしまう。一日中脚本を書き続けていて、疲れていたみたいだ。精神的にも、肉体的にも。寝顔を見つめながら、ようやく自分の感情と向き合った。

 好きだ。この感情に名前をつけるなら、それしかない。好きだけど、怖い。傷つくのが、拒否されるのが怖い。
 でも、彼のそばにいたい。撮り続けたい。守りたい。矛盾する感情に心が揺れ動く。

 エンドロールが流れる部屋で、マリの寝顔を見つめ続けた。長い睫毛、目を閉じるといつもよりかなり幼い、赤ちゃんのような唇、すべてが心を乱した。

 髪に触れる。額が見えるように、前髪を分けた指が震えた。
「油断しすぎだよ、マリ...」頬を優しく撫で、唇を親指でなぞる。
「抑えきれないかも」と声が漏れる。心の叫びだった。
「可愛いな…」

 無防備な寝顔に少しずつ近づく。脈拍が激しくなる。無意識のうち、本能のままに、唇を重ねていた。柔らかく、温かい。初めてのキス。全身が震える。罪悪感と快感。許されないことだと分かっていた。でも止められない。

 電気が走った。寝息が乱れ、慌てて手を引っ込める。しかし、欲望は収まらない。

 数秒後、我に返って離れた。目を閉じたままのマリ。寝ていたのか、起きていたのか。不安が募る。気づいていたら?嫌悪されたら?友情すら失ってしまうのではないか?

 窓の外は闇に沈み、寮は静寂に包まれている。俺の心も暗闇の中に閉じ込められた。

 マリはまだ眠っているように見える。ほっとして、同時に残念にも感じた。起きていて、受け入れてくれたら...。なんて期待を抱きながら、机へ向かう。パソコンを開き、キーボードを打つ振り。頭はキスのことでいっぱいだった。

 暫くすると、マリが伸びをしながら目を覚ます。
「あ、ごめん。寝てたみたい」
 パソコンに向かったまま答える。
「お疲れ。30分くらい寝てたよ」
「なんか...変なことした?寝言とか」

 心臓が跳ねた。バレたのか?表情は普通に見える。
「特に何も。静かに寝てたよ」
 視線をパソコンに戻す。全く落ち着かないが、絶対にバレてはいけない。
「そっか...」

 気まずい沈黙が流れる。このまま帰ってくれれば...。
「カナ、今何してるの?」
「写真の編集」画面を向けた。マリのモノクロの写真。
「...すごい。アートだね」感嘆の声に、心が温まった。

「ドレス似合ってたよ、マリ」
 真剣に告げる。目が合い、慌てて視線をそらす。
「冗談だろ...?恥ずかしいんだけど」
「冗談じゃない。本当に...美しかった」

 声が低くなる。本心だった。そして、空気が変わる。時計のカチカチという音だけが響く。

「マリ、聞きたいことがある」
 立ち上がり、向き直る。鼓動が早鐘を打つ。
「なに?」
「さっき...本当に寝てた?」
 表情が微かに変わった。息を潜めたように見える。

「え?...うん、寝てたよ」
 嘘だ。その目は、何かを隠している。気づいていたのか?認めたくないのか。

「そっか...なら良かった」
 安堵のふりをする。良かった、と言ったが、本当は違った。本当のことを言って欲しかった。無理な話だ。

「...なんで?」声に不安が混じる。
「いや、何でもないよ。気にしないで」
 パソコンに向き直った。何かが宙ぶらりんのまま、中途半端に終わってしまった。

「そろそろ帰るわ。遅いし」
「ああ、また明日」
 俺は振り返らない。背中が寂しげに見えたら、気づかれてしまう。

「おやすみ」
 マリが出て行った後、黒い画面を見つめていた。寝顔が浮かぶ。柔らかい唇の感触がまだ残っていた。

 ◇

 翌日の帰り道。ふいにマリは俺に問う。

「なあ、カナ。昨日さ、なんか変なことなかった?」
 やはり、気づいていたのか?声のトーンからは何も読み取れない。息が止まりそうになる。しかし、無理やり笑顔を作った。

「マリが寝相悪くて、ベッドから落ちそうだったくらいかな」
 嘘だった。真実は言えない。受け入れられる可能性より、拒絶される確率の方が高い。そんなリスクは取れなかった。

「そっか...」
 表情に、何かを悟ったような影が過る。彼も何かを隠しているようだ。二人の間に、言葉にならない何かが漂っていた。空気が重く感じる。このまま、こんな感じで、はぐらかしていいのか自問自答し始めた。

 ◇

 数日後、事態は急変する。真実を告げなければならない時が来た。

 夕方、部室で二人きりになった時だった。夕陽がマリの横顔を照らしている。その美しさに、切なさがこみ上げて、胸が苦しくなった。もう隠し続けることはできない。

 あの日なぜキスしたのかと、マリに聞かれて逃げられなくなった。マリはやはり寝たふりをしていたのだ。なぜキスしたのかと問われたとき、もう言うしかなかった。

「俺、ゲイなんだ」

 言葉にした瞬間、力が抜けて、何かに開放された気がした。長い間抱えていた秘密を手放せたのだ。マリの驚きの表情は忘れられないだろう。だが嫌悪の色はなかった。それが唯一の救いだった。

「高校のとき、ゲイバレして、色々大変で...ずっと隠してきたんだ」

 記憶が蘇る。嘲笑、侮辱、孤立。すべてが崩れた時...。大学では本当の自分を見せないと決めていた。もうあんな思いをする事に耐えられないから。
 でも、本当に、マリが例外になるなんて思ってもみなかった。

「...このままだと、どうなっても知らないよ?また、隙を見せたら、変なことするかもしれないし」

 キスのこと、ただの衝動だと言ったけど……嘘だ。計画的ではなかったけれど、ずっとキスしたいと思っていたから。好きだという事実から、もう逃げられない。

「カナ……俺のこと……好きなのか?」

 言葉が出ない。喉が詰まった。「好きだ」と言えば関係が壊れてしまう。嘘をつけば自分を裏切ることになる。

「……俺も?って言いたいのか?」

 視線をそらした。マリの言葉にかすかな期待が混じってしまう。「好きだ」と伝えたい。でも怖かった。拒絶の恐怖が、勇気を上回る。
 黙り込むマリ。距離をおきたいと俺が言ったとき、思いがけない言葉が返ってきた。

「撮影最終日まで、考えさせてくれ」マリは俺に希望を与えたのだ。完全な拒絶ではない。前向きに考えてくれる。胸の奥に小さな灯りがともった。

「じゃあ、撮影最終日までに答えを出して」
「うん...分かった」
 約二週間後。どんな答えが待っているのか?期待と不安が入り混じる。

 夕陽が部室を赤く染めていた。あの日、窓の向こうから俺を眺めていた彼。今は同じ空間にいる。心の距離はまだ遠い。でも、少しずつ縮まっているのかもしれない。

 フレームの向こうの光。あの日見た光は、今、手の届くところにある。撮影を通して、二人の関係はどう変わっていくのか?怖いけれど、期待もある。カメラに決意を込めて、その日を待つことにした。

 次の日から、俺もマリも実家に帰る予定だ。暫く会えない。その間に心の整理をしようと思う。

 ◇

 実家に戻って三日後。明日からロケハンの予定だったから、マリに連絡した。向こうからは連絡しづらいだろうから、俺から。すると、彼は嬉しそうに返事をくれた。

 明日はあの日以来マリに会える。複雑な感情を抱えながらも、会える喜びで明日が待ち遠しいと思った。