お父さんとお母さんが帰ってきて、夕飯を終えてから、わたしは両親と話をする。
 ガラステーブルを挟んで対面に置かれたソファで、お父さんとお母さんは並んで座る。そのわたしは、一人きりでその向かいのソファに座った。
 一人きりだったけれど、一人ではないと思った。お兄ちゃん。澪。翔太郎。そして、青い光の幻影。皆がいてくれたから、わたしは今、ここに座っている。
 「ラ・カンパネラ」が耳元で鳴り、まぶたの裏には青の光が見えた。
 目を開いて、期末テストの結果の冊子を差し出す。お母さんが手に取って、冊子を開く。
「学年百七十一人中、十六位……。前回より、五十七位、アップ……」
 お母さんは目を凝らしながら呟く。お父さんがバチンと手を叩いた。
「おお! すごいじゃないか! 学校のテストだが、短期間にこれだけ上がれば、櫻山女学院ももうすぐだ!」
「そんなわけないじゃない」
 興奮するお父さんを凍らせたのは、液体窒素のようなお母さんの声だった。
「たかが公立中学のテストなんて、一位で当たり前なのよ。櫻山女学院は偏差値七十二よ?」
「そんなこと言わなくても良いだろう。瑠衣はこの間の模試も偏差値が六十を超えていたし、十分じゃないか」
「七十二には届いていないじゃないの」
「まぁ、そうだけど……この間まで偏差値五十台だったんだぞ。それに比べたら……」
「甘いのよ! そんなことじゃ櫻山女学院には受からない!」
 また鈍い銀色だ。解けた鉛が押し寄せてくるようだ。
 でも、わたしはその鈍色には飲み込まれない。わたしは、澄んだ青の光と約束をしているのだから。
「わたしは、櫻山女学院を受けない」
 言い合いをしていたお父さんとお母さんの動きが、ぴたりと止まった。壊れたおもちゃみたいだ。
 こんなおもちゃに負けない。わたしは、わたしの意志を通す。
「何を言っているの!」
 お母さんがヒステリックに叫ぶ。釣られて激昂なんてしない。
「わたしは、藤瑶館高校を受ける」
「はぁ!?」
 お父さんとお母さんの声が重なった。想像もしていなかった学校名だろう。
 お父さんは戸惑った様子でわたしに訊く。
「藤瑶館? いきなりどうして……」
「藤瑶館の学校説明会に行ったの。素敵な学校だった。音楽科もあるから生徒の幅も広くて、部活動も活発で、先輩たちは優しかった」
「そんなことで!? あんな二流校に行くなんて許さない!」
 二流校。お母さんのその表現に、一気に頭に血がのぼるのを感じる。しかし、ここで感情的になったらわたしの負けだ。
 わたしは、負けない。
「そんな言い方、失礼だよ。取り消して」
「ふざけないで! 許さないわよ! あなたは櫻山女学院に行くの!」
「櫻山女学院には行かない。わたしは、わたしの意志で進路を決めたい」
 立ち上がってわたしを見下ろすお母さんの目は燃えている。わたしは視線をそらさず、その炎を受け止める。そのうえで、引けない一線を譲らない。
「わたしは、テストの点数でも偏差値でもない。生身の『上坂瑠衣』だ。わたしの存在をお父さんとお母さんの成績表にしないで」
 お母さんはショックで声も出ないようだ。お父さんは、呆気にとられている。
「ずっと……ずっとお父さんとお母さんに言われてきた。わたしは『出来損ない』だって。だから、わたしは『出来損ない』で、何をやってもだめだって諦めていた。でも違った。いろんな人が、わたしは『出来損ない』じゃないって言ってくれたんだ。わたしの背中を押してくれたんだ」
 耳の奥で鐘の旋律が鳴る。
 立ち上がって声を張る。見ててね、悠誠くん。
「わたしは無価値じゃない! わたしは出来損ないじゃない! わたしは点数じゃない! わたしは『上坂瑠衣』だ! わたしはわたしの意志で生きたい!」
 お母さんは、糸が切れたマリオネットのように、ソファに崩れ落ちた。
「お母さんは……わたしは、瑠衣の将来を思って言っているのよ。あなたには、将来苦労してほしくない」
「わたしは、わたしの生き方を、選択を、後悔したくない」
「あなたはまだ子供だから……」
「母さん、そのくらいにしておきなよ」
 声は横からした。リビングの入り口に、いつの間にかお兄ちゃんが立っていた。
「お兄ちゃん……」
「そうよ……。謙也、言ってやって。甘えるなって。あなたは律陵に入って良かったでしょう?」
 お兄ちゃんは腕を組んでたたずんでいる。
「俺は律陵に入って良かったよ。でもそれは、結果として良かっただけだ。瑠衣が行きたい高校があるなら、それを尊重するべきじゃないか?」
「一時的な感情で、人生を棒に振ってほしくないのよ」
 お母さんは頭を抱える。わたしは、息を吸う。
「棒に振っても良い」
「え……」
 お父さんとお母さんは、わたしを見上げる。
「それが、わたしの選んだ結果なのだとしたら、わたしはそれに責任を持てる。両親の言われるままに人生を決めていたら、わたしは誰の人生を歩んでいるのかもわからない。たとえ櫻山女学院に入れたとして、入学してからそれが失敗だったと感じたとしても、わたしは自分でその責任を取ることができない」
 わたし以外の誰もしゃべらない。わたしは続けた。
「わたしは、わたしの選択で失敗したい。誰かのせいにして生きるのは、いやだ」
 お兄ちゃんがわたしのほうへと歩み寄った。わたしの肩をポンポンと二度叩いた。
「よく言った」
 わたしは口を一文字に結んで、頷く。大きなため息が聞こえた。お父さんだ。
「……瑠衣がこんなふうに言うのは初めてだ。よほどの覚悟なのだろう。まだ二年生なんだし、志望校を自分で決めることで勉強を頑張れるなら、それでも良いんじゃないか」
 お母さんが、ゆっくりとお父さんのほうを見る。お父さんは続けて言った。
「それから、『出来損ない』などと言ってすまなかった。傷つけたと思う。瑠衣、申し訳なかった」
 ソファに座ったまま、お父さんは頭を深く下げた。
 お母さんが立ち上がる。
「……好きにしなさい。後悔しても知らないから」
「後悔しても、お母さんのせいにはしないよ」
 お母さんは、わたしをちらりと見ると、テスト結果の冊子をガラステーブルに置いて、二階へも上がっていった。
 お兄ちゃんがわたしの肩に腕を置く。
「頑張ったな。格好良かったぞ」
 わたしは、切れそうな緊張の糸を少しずつ緩める。
「ありがとう」
 リビングの窓からわずかに見える空には、星が輝いている。青い光が通り過ぎたような気がした。