大場先生のピアノの椅子に座る。もはや、ここはわたしの特等席でもある。
「……もう来てくれないかと思った。ごめんね、ずっと隠していて」
わたしは、悠誠くんの顔を直視できず顔を伏せる。
「全部、大場先生に聞いた」
「大場先生……」
「悠誠くんも知ってるはずだよ。大場里香子先生」
悠誠くんは大きく息を吸った。この世にいないはずなのに、その息遣いを感じられることが、悲しい。
「大場さん……? 僕の伴奏をしてくれた大場さん?」
「そうだよ。今は、この園尾中学の音楽の先生をしている」
「大場さんが……先生……。そうか。あの先生が大場さんだったのか。すごいね」
「良い先生だよ。人気がある」
「きっとそうだと思うよ」
悠誠くんは窓ガラスを見遣る。その奥では星が輝く。
「大場さん、先生に……なったんだ。僕は……」
中学三年生で、自ら時を止めてしまった悠誠くんは、この事実をどう感じているのだろうか。窓ガラスのほうを向いているから、表情は見えず、ガラスにも映らない。悠誠くんの感情を読み取れるのは声だけだったが、濃淡さまざまな青の色がマーブル模様になったような色だった。
悠誠くんが振り向く。その表情は微笑み。
「本当におじさんだったでしょう」
以前、わたしがからかったことだ。達観したような悠誠くんを、おじさんみたいだと。
「おじさんだけど、中学三年生だよ」
「成長できないからね、僕は……」
その目は自虐に満ちている。
「なんで、死んじゃったの……」
独り言のように、わたしは言った。実際、独り言だったのかもしれない。だって、この悠誠くんは幻影なんだから。
「もうバイオリンが弾けないことに、絶望したんだ。進むべき道がわからなくなって、迷子になってしまった」
詰襟の幻影が答える。
「僕にとって、バイオリンはすべてだった。たった十四歳だったけれど、人生をかけてやっていきたいものだったんだ」
その声は、青く澄んでいた。悠誠くんのバイオリンの音と同じだ。ただ淡々と、静かに話す。
「幼稚だったと思う。僕は、死んだその時から、ここにいた。ここにやってきた母が泣き崩れるのも、呆然とする父も見ていた。二十三年間、この音楽室で学び、活動する生徒たちも、教え導く先生たちも、ずっと見ていた」
「昼間も……いるの……」
「いるよ。ずっと。音楽室からは出られない。夜になると、一人でバイオリンを弾いていた」
「わたし、昼間に悠誠くんを見たことがない」
悠誠くんは肩をすくめていたずらっぽく笑む。
「昼も夜も、僕が死んでから僕を見つけてくれたのは、瑠衣ちゃんだけだ」
息を飲む。悠誠くんはずっと孤独だったのだ。二十三年間も、誰にも見つけられず、ただ一人でこの音楽室という牢獄に囚われて、バイオリンを弾き続けた。孤独に。寂寥に。
「何故瑠衣ちゃんが僕を見つけられたのか、わからない。けれど、考えられるとしたら、瑠衣ちゃんが見えないものを見える人だからかもしれない」
「どういうこと?」
「瑠衣ちゃんは、初めて僕に会ったとき、何を最初に見つけた?」
わたしは必死に思い出す。
あの鈍い銀色であふれた家から逃げ出して、そこで見たものは。
「青の光」
そうだ。音よりも前に、青が見えた。
「青い光が見えて、それがバイオリンの音だと気づいた。それから、音楽室に明かりがついているのを見つけた」
「……やはり、音ではなく、普通の人には見えないものが見えたから、僕が実体として感じられたのかもしれない」
「……じゃあ、わたしが今見て、聞いているのは、音の世界……?」
髪の流れ。衣擦れ。吐息。人は音を立てて生きている。そのわずかな音をわたしの共感覚が感じ取ることで、悠誠くんを実体化できたのだろうか。
「奇跡だと思う」
悠誠くんはわたしに近づき、手を取る。ひんやりとしたてのひらは、音から実体となった存在とは、とても信じられない。
「こんなふうに誰かに触れられることなんて、二度とないと思っていた。誰も僕を見つけてはくれなかった。この世界に別れを告げたのは僕だから、自業自得なんだけどね。……孤独だった」
悠誠くんが膝立ちになる。目線が合う。
「瑠衣ちゃんは魔法使いみたいだ」
とろけるような笑顔で、悠誠くんは言った。
「僕を見つけてくれてありがとう。僕を好きになってくれてありがとう」
わたしは、泣きたいのか笑いたいのかわからない。
「僕は瑠衣ちゃんを好きになってはいけないから。……実年齢だったらとっくにおじさんだしね。犯罪になっちゃう」
こんなときの冗談は、妙に笑える。
「悠誠くんはもう生きていないんだから、犯罪にはならないよ」
肩を震わせて笑う。笑っているのに、目尻からは涙が落ちる。
「ねぇ、瑠衣ちゃん。一つだけ、約束をして」
「うん」
わたしは、何の約束かも聞かずに、頷く。悠誠くんとの約束なら、何だって守る。
「もう自分のことを卑下しないで」
ひゅ、と息が鳴った。
「最初に会ったとき、瑠衣ちゃんは自分を『出来損ない』『ごみみたい』って言った。それは、とても悲しいことだよ」
わたしは答えられない。たとえ多少成績が上がっても、翔太郎に叱られても、ずっと否定して、否定されてきた自分への感情は、簡単には変わらない。
「じゃあ、僕の命には価値がなかった?」
「そんなことない!」
わたしは、かばりと顔をあげて叫んでいた。
「ここでバイオリンを弾いてくれて、話を聞いてくれて、一緒に花火を見て……わたしを励まし続けてくれた悠誠くんは、わたしの大切な人だよ! 価値がないわけない!」
「でも、自殺していろんな人に迷惑をかけた」
「そんなの関係ない! わたしには、大切な人なの!」
悠誠くんはわたしの手をぎゅっと握る。
「僕もだよ」
「え?」
「僕にとっても、瑠衣ちゃんは大切な人だよ。僕を見つけてくれた。僕に愛をくれた。とても大切な人だ。だから、自分が要らないなんて言わないで」
わたしは、ずっとわたしを見つけてほしかった。点数でラベリングされた、テストの名前欄に書かれた「上坂瑠衣」ではなく、生身のわたしを見つけてほしかった。
きっと、澪も、翔太郎も、わたしのことを見てくれていた。でも、わたしは子供で、意固地で、それに気づかないふりをした。
悠誠くんは、そんなどうしようもないわたしを、逃れられないように優しく捕まえてくれた。
わたしは、悠誠くんを見つけた。悠誠くんも、わたしを見つけてくれた。
変わらないわけにはいかなかった。
「瑠衣ちゃんは、点数じゃないよ。もっと、自分を大切にして。僕の大切な人なんだから」
悠誠くんの手がわたしから離れた。
「不思議な心地だ」
悠誠くんの色が薄くなっていく。透けていく。
「僕は瑠衣ちゃんに僕の音を見つけてもらったから、もうここにいる必要はないのかもしれない。もうバイオリンを弾く理由はなくなったんだろう」
「え……」
その意味を理解して、わたしは悠誠くんの腕を掴もうとしたが、その手は空を切った。
「いやだ! 消えないで! ねぇ、また『ラ・カンパネラ』を……青の音を聴かせてよ!」
「ままならないね。一体どういう力が働いているのかわからないけれど……ここでさよならみたいだ」
「いやだ! いやだ! 悠誠くん!」
悠誠くんにすがりつこうにも、もうその姿はほとんど見えない。
「僕の音を、色を……僕の心を見つけてくれて、ありがとう」
悠誠くんが話し終えるのと、悠誠くんが完全に見えなくなるのは、同時だった。
バイオリンもない。紺のバイオリンケースもない。
白いLEDが残酷に音楽室を照らしている。
悠誠くんは、いなくなったんだ。最後に、約束を残して。
「悠誠くん。ありがとう。大好きだったよ」
誰もいない。誰にも聞こえない。わたしのその声は、ひだまりの色をしていた。
「……もう来てくれないかと思った。ごめんね、ずっと隠していて」
わたしは、悠誠くんの顔を直視できず顔を伏せる。
「全部、大場先生に聞いた」
「大場先生……」
「悠誠くんも知ってるはずだよ。大場里香子先生」
悠誠くんは大きく息を吸った。この世にいないはずなのに、その息遣いを感じられることが、悲しい。
「大場さん……? 僕の伴奏をしてくれた大場さん?」
「そうだよ。今は、この園尾中学の音楽の先生をしている」
「大場さんが……先生……。そうか。あの先生が大場さんだったのか。すごいね」
「良い先生だよ。人気がある」
「きっとそうだと思うよ」
悠誠くんは窓ガラスを見遣る。その奥では星が輝く。
「大場さん、先生に……なったんだ。僕は……」
中学三年生で、自ら時を止めてしまった悠誠くんは、この事実をどう感じているのだろうか。窓ガラスのほうを向いているから、表情は見えず、ガラスにも映らない。悠誠くんの感情を読み取れるのは声だけだったが、濃淡さまざまな青の色がマーブル模様になったような色だった。
悠誠くんが振り向く。その表情は微笑み。
「本当におじさんだったでしょう」
以前、わたしがからかったことだ。達観したような悠誠くんを、おじさんみたいだと。
「おじさんだけど、中学三年生だよ」
「成長できないからね、僕は……」
その目は自虐に満ちている。
「なんで、死んじゃったの……」
独り言のように、わたしは言った。実際、独り言だったのかもしれない。だって、この悠誠くんは幻影なんだから。
「もうバイオリンが弾けないことに、絶望したんだ。進むべき道がわからなくなって、迷子になってしまった」
詰襟の幻影が答える。
「僕にとって、バイオリンはすべてだった。たった十四歳だったけれど、人生をかけてやっていきたいものだったんだ」
その声は、青く澄んでいた。悠誠くんのバイオリンの音と同じだ。ただ淡々と、静かに話す。
「幼稚だったと思う。僕は、死んだその時から、ここにいた。ここにやってきた母が泣き崩れるのも、呆然とする父も見ていた。二十三年間、この音楽室で学び、活動する生徒たちも、教え導く先生たちも、ずっと見ていた」
「昼間も……いるの……」
「いるよ。ずっと。音楽室からは出られない。夜になると、一人でバイオリンを弾いていた」
「わたし、昼間に悠誠くんを見たことがない」
悠誠くんは肩をすくめていたずらっぽく笑む。
「昼も夜も、僕が死んでから僕を見つけてくれたのは、瑠衣ちゃんだけだ」
息を飲む。悠誠くんはずっと孤独だったのだ。二十三年間も、誰にも見つけられず、ただ一人でこの音楽室という牢獄に囚われて、バイオリンを弾き続けた。孤独に。寂寥に。
「何故瑠衣ちゃんが僕を見つけられたのか、わからない。けれど、考えられるとしたら、瑠衣ちゃんが見えないものを見える人だからかもしれない」
「どういうこと?」
「瑠衣ちゃんは、初めて僕に会ったとき、何を最初に見つけた?」
わたしは必死に思い出す。
あの鈍い銀色であふれた家から逃げ出して、そこで見たものは。
「青の光」
そうだ。音よりも前に、青が見えた。
「青い光が見えて、それがバイオリンの音だと気づいた。それから、音楽室に明かりがついているのを見つけた」
「……やはり、音ではなく、普通の人には見えないものが見えたから、僕が実体として感じられたのかもしれない」
「……じゃあ、わたしが今見て、聞いているのは、音の世界……?」
髪の流れ。衣擦れ。吐息。人は音を立てて生きている。そのわずかな音をわたしの共感覚が感じ取ることで、悠誠くんを実体化できたのだろうか。
「奇跡だと思う」
悠誠くんはわたしに近づき、手を取る。ひんやりとしたてのひらは、音から実体となった存在とは、とても信じられない。
「こんなふうに誰かに触れられることなんて、二度とないと思っていた。誰も僕を見つけてはくれなかった。この世界に別れを告げたのは僕だから、自業自得なんだけどね。……孤独だった」
悠誠くんが膝立ちになる。目線が合う。
「瑠衣ちゃんは魔法使いみたいだ」
とろけるような笑顔で、悠誠くんは言った。
「僕を見つけてくれてありがとう。僕を好きになってくれてありがとう」
わたしは、泣きたいのか笑いたいのかわからない。
「僕は瑠衣ちゃんを好きになってはいけないから。……実年齢だったらとっくにおじさんだしね。犯罪になっちゃう」
こんなときの冗談は、妙に笑える。
「悠誠くんはもう生きていないんだから、犯罪にはならないよ」
肩を震わせて笑う。笑っているのに、目尻からは涙が落ちる。
「ねぇ、瑠衣ちゃん。一つだけ、約束をして」
「うん」
わたしは、何の約束かも聞かずに、頷く。悠誠くんとの約束なら、何だって守る。
「もう自分のことを卑下しないで」
ひゅ、と息が鳴った。
「最初に会ったとき、瑠衣ちゃんは自分を『出来損ない』『ごみみたい』って言った。それは、とても悲しいことだよ」
わたしは答えられない。たとえ多少成績が上がっても、翔太郎に叱られても、ずっと否定して、否定されてきた自分への感情は、簡単には変わらない。
「じゃあ、僕の命には価値がなかった?」
「そんなことない!」
わたしは、かばりと顔をあげて叫んでいた。
「ここでバイオリンを弾いてくれて、話を聞いてくれて、一緒に花火を見て……わたしを励まし続けてくれた悠誠くんは、わたしの大切な人だよ! 価値がないわけない!」
「でも、自殺していろんな人に迷惑をかけた」
「そんなの関係ない! わたしには、大切な人なの!」
悠誠くんはわたしの手をぎゅっと握る。
「僕もだよ」
「え?」
「僕にとっても、瑠衣ちゃんは大切な人だよ。僕を見つけてくれた。僕に愛をくれた。とても大切な人だ。だから、自分が要らないなんて言わないで」
わたしは、ずっとわたしを見つけてほしかった。点数でラベリングされた、テストの名前欄に書かれた「上坂瑠衣」ではなく、生身のわたしを見つけてほしかった。
きっと、澪も、翔太郎も、わたしのことを見てくれていた。でも、わたしは子供で、意固地で、それに気づかないふりをした。
悠誠くんは、そんなどうしようもないわたしを、逃れられないように優しく捕まえてくれた。
わたしは、悠誠くんを見つけた。悠誠くんも、わたしを見つけてくれた。
変わらないわけにはいかなかった。
「瑠衣ちゃんは、点数じゃないよ。もっと、自分を大切にして。僕の大切な人なんだから」
悠誠くんの手がわたしから離れた。
「不思議な心地だ」
悠誠くんの色が薄くなっていく。透けていく。
「僕は瑠衣ちゃんに僕の音を見つけてもらったから、もうここにいる必要はないのかもしれない。もうバイオリンを弾く理由はなくなったんだろう」
「え……」
その意味を理解して、わたしは悠誠くんの腕を掴もうとしたが、その手は空を切った。
「いやだ! 消えないで! ねぇ、また『ラ・カンパネラ』を……青の音を聴かせてよ!」
「ままならないね。一体どういう力が働いているのかわからないけれど……ここでさよならみたいだ」
「いやだ! いやだ! 悠誠くん!」
悠誠くんにすがりつこうにも、もうその姿はほとんど見えない。
「僕の音を、色を……僕の心を見つけてくれて、ありがとう」
悠誠くんが話し終えるのと、悠誠くんが完全に見えなくなるのは、同時だった。
バイオリンもない。紺のバイオリンケースもない。
白いLEDが残酷に音楽室を照らしている。
悠誠くんは、いなくなったんだ。最後に、約束を残して。
「悠誠くん。ありがとう。大好きだったよ」
誰もいない。誰にも聞こえない。わたしのその声は、ひだまりの色をしていた。



