音楽準備室の壁は、たくさんの楽譜で埋まっていた。音楽準備室に入るのは初めてだ。
 先生はわたしをその一角に誘導した。
「あなたが会った雨塚悠誠くんは、この子ね」
 そこにあったのは、色あせた写真の入った、簡素な木製の写真立てだった。
 写っていたのは、二人の生徒。女の子が一人と、男の子が一人。その男の子は。
「悠誠くん……」
 わたしが見たまま、詰襟姿の雨塚悠誠が、賞状を手にピースサインをしていた。その肩には、紺色のバイオリンケースがかけられている。いつも、青の音色を奏でていた、あのバイオリンを入れていた、使い込まれたケースだった。
「こっちの女子はわたし」
「え!」
 わたしは、わたしの横に並んだ先生の顔を見る。
「雨塚くんは、この園尾中学でわたしと同級生だったの」
 衝撃的な事実に、わたしは二の句が継げない。
「夜になると音楽室の電気がついて、バイオリンの音がするっていう学校の怪談のようなものがあってね。肝試しをする生徒たちもいたみたいだし、わたしも何度か消したはずの明かりがついていることに遭遇したことがあるの。わずかなバイオリンの音を聞いたこともある」
 澪から、渡り廊下横の窓のことを、肝試しをしたときに知ったと聞いていた。きっと、このことだ。わたしは、そんな怪談があることすら知らなかった。
 大場先生は続ける。
「でも、あなたは会ったのね。雨塚くんに」
 わたしは頷いた。間違いなく、わたしは悠誠くんに会って、そのバイオリンの音色を聞いた。
「バイオリンを弾いてもらいました。『メヌエット』、『ガヴォット』、『アヴェ・マリア』、それから、『ラ・カンパネラ』……」
「パガニーニの『ラ・カンパネラ』……」
 大場先生は、ほこりが薄く乗った写真立てを手に取って、目を細めた。
「このときの写真は、雨塚くんが地域のバイオリンコンクールで入賞したときのものよ。わたしは、雨塚くんのピアノ伴奏を頼まれていたの。演奏したのは、『ラ・カンパネラ』」
 その曲は、「ラ・カンパネラ」は、悠誠くんにとって特別な曲だった。
「何故あなただけが雨塚くんに会えたのか、わからない。でも、彼は亡くなっているの。そうね……もう二十三年にもなるのね」
 再び告げられる事実は、変わりない衝撃をもたらす。しかし、こうして三十代後半の大場先生がいて、その大場先生と同級生の悠誠くんが、わたしの見たままの姿で写真の中に閉じ込められている。
 わたしの中で、布が水を吸い込むように、ひたひたとその事実を受け入れ始めていることに気がついた。
 悠誠くんは、死んでいる。死んでいるのだ。
 写真がにじむ。
「なんで……悠誠くんは亡くなったんですか」
 大場先生は言い淀む。小さく頭を振ってから、言った。
「自殺だった。この、音楽室で」
 涙が吹き飛んだようだ。
 自殺。悠誠くんは、自ら死を選んだ。
「なんで……」
「バイオリンは、雨塚くんの生き甲斐だった。当時はバブル崩壊後の不況の名残で、雨塚くんのお父さんも職を失ってしまって……雨塚くんは、中学まででバイオリンを辞める約束だった」
 廉城にはオーケストラ部があると言っていた。趣味の範囲で続けられることになっていたのではないか。
 そこまで考えて、悠誠くんが夜の音楽室で弾いていた理由を思い出す。荒れたお父さんにバイオリンの音が耳障りだと殴られたと言っていた。
「雨塚くんは、自分を追い詰めてしまった。三年生になってすぐの頃、窓際で首を……」
 肩が震える。悠誠くんは、どれほど悩んだだろうか。とれほど苦しかっただろうか。
 穏やかで冷静な悠誠くんが、生きることを拒否するほどに、バイオリンが大切だったのだろう。
「わたしはピアノをやっていたから、雨塚くんと話が合った。雨塚くんにとってバイオリンがどれほど大切なものかもわかっていた。それでも、生きていて、ほしかった……」
 大場先生の声も震えていた。
「あ、ああぁ……」
 我慢ができなかった。わたしは声を上げて泣く。まるで赤ん坊のように。この世界の欠損を知ってしまったから。
 あの青の世界は、悠誠くんそのものだったのだ。何の曲を弾いても、わたしに見える色は青。
 時間が止まったようだと感じたその色は、本当に時が止まっていたのだ。
 二十三年も、悠誠くんはここに囚われている。悠誠くんは、苦しいのだろうか。寂しいのだろうか。夜、誰にも見つからずバイオリンを奏でる悠誠くんは、ずっと孤独だったのだろうか。
 外は、霧雨が降っている。風に流れる細かな粒は、悠誠くんのバイオリンの音のようだった。