二階の音楽室前にたどり着いた。
 その音楽は、聞いたことがあった。曲名は思い出せない。しかし、とても細かく速い音が弾丸のように耳に飛び込んでくる。
 明らかに難易度が高い曲だった。
 音楽室の扉の窓はすりガラスになっていて、中の様子は判然としない。黒い影が立ち、ゆらゆらと揺れているのが見えた。
 弾丸が止んだ。
 わたしは驚いて逃げようと踵を返す。
「誰かいるの?」
 その声に縫い止められる。男の子の声だった。
 音楽室の扉が静かに開いた。
 園尾中学の黒い詰襟の制服を着た、見たことのない男の子が顔を覗かせた。
 男の子は、わたしを見て目を丸くする。
「こんな時間に、どうしたの?」
「あなたこそ……なんでバイオリンなんか……」
 男の子は、ふ、と笑った。
「中に入ったら?」
 好奇心が勝った。
 わたしは、男の子に促されるように音楽室に入った。

 音楽室の中は、いつもどおりだった。違うのは、窓の外が暗闇に支配されていることだ。
「ここで……バイオリンを弾いているの?」
「うん。僕は三年の雨塚(あまつか)悠誠(ゆうせい)。君は?」
 三年生。先輩だ。帰宅部のわたしは、違う学年と交流はない。知らなくても当然だ。
「二年生の、上坂(こうさか)瑠衣です」
「上坂さんか。どうしてここに?」
「それはこっちの台詞です。雨塚先輩はどうしてこんな時間に、こんな場所でバイオリンを弾いているのですか?」
 くすぐったそうに笑う。
「『雨塚先輩』ってなんか、照れるね。悠誠で良いよ。あと、敬語もいらない」
「じゃあ……悠誠くん」
「妥協しよう」
 先輩を呼び捨てにする度胸はなく、提案した呼び名は、無事承認された。
「僕は上坂さんをなんて呼べば良い?」
「別にそのままでも……」
「よし、瑠衣ちゃんにしよう。可愛い名前だし」
 今回は提案が通らなかった。マイペースな人だな、と思う。
 悠誠くんの手には、蜂蜜色のバイオリンがある。近くでバイオリンを見たのは初めてかもしれない。しげしげと見ていると、悠誠くんが気づく。
「瑠衣ちゃん、バイオリンが珍しい?」
「……うん。初めて見た」
 先輩相手に敬語を使わないのは気が引けて、発せられる言葉はたどたどしくなる。悠誠くんは、それに気づいているのかいないのか、にこにこと笑ったまま、バイオリンをかまえて音階を軽く弾いた。
 響いた音は、やはり青い。青く澄んだ音が、星空に吸い込まれていくようだ。
「あまり見る機会もないかもね」
「すごい。きれいな音」
 月並みな賛辞しか出てこない自分の語彙力が呪わしい。