わたしと翔太郎は、校舎脇を歩いていく。一足先に夏を感じるような陽気だ。
「すごく格好良かったよ!」
「俺、ここ受験する気ないのに、悪いことをしたな」
 翔太郎は苦い顔をしていた。
「そこのベンチで休むか。水分補給したほうが良い」
 わたしは金属製のベンチに駆け寄ると、素直に座る。隣に翔太郎が座る。並んでみると、大きい。
 わたしが翔太郎を見上げていると、翔太郎はわたしの視線に気づいた。
「何だよ」
「大きくなったよね。昔は背も変わらなかったのに」
「昔って、本当に子供の頃のことを言っているだろ」
 翔太郎は、顔をくしゃっとさせて笑う。この笑顔は、変わらない。
「今日、何でついてきたの?」
 翔太郎は、鞄からお茶のペットボトルを出して、おいしそうに飲む。喉仏が上下した。
「……俺は廉城が第一志望だけど、ほかの学校も知ったうえで、第一志望って決めたかった。もちろん、すべての学校を見るのは無理だけど、ほかとの比較もなしに、偏差値とその学校の校風だけを見て決めるのもな。せっかく機会があるなら、比較対象が欲しかった」
「廉城も学校見学に行く予定?」
「もう去年行った」
 思わず、手にしたペットボトルを落としそうになった。
「去年? 一年生のときに?」
「そう。文化祭を見に行った。それで、この高校に入りたいって思った」
 翔太郎は、自分の目で見て、納得して、自分の進路を決めている。ほかの学校との比較もして、それでもこの学校に行きたい、と決断しているのだ。
 両親に「櫻山女学院へ行け」と言われるまま、何も考えず、何も決めてこなかった自分が、情けない。
「翔太郎はすごいね……」
「何が」
「ちゃんと、自分の意志で進路を決めてるんだもん」
 翔太郎は、ああ、と言って、もう一口お茶を飲む。
「ありがたいことに、親も俺の意志を尊重してくれているからな。塾にも通わせてもらっているし、恵まれていると思うよ」
 悠誠くんの顔が頭をよぎる。
 悠誠くんは、自分の進みたい道を進むことができない。
 わたしは、どうだろうか。考えたこともなかった。ただ、親の言いなりになってきただけだった。
 やっぱり、わたしたけだ。わたしだけ、皆から周回遅れをしているように感じる。
 黙り込んだわたしに何かを感じたのか、翔太郎が言う。
「瑠衣のところは、親が厳しいもんな」
 確かに厳しい。でも、それはわたしが意志を持たなかった理由にはならない。
 わたしは、わたしの人生を考えていかなければならないのだ。
「そういえば、お前、いつもテストどこ間違えてるの」
 突然話題を変えた翔太郎を見上げる。
「タブレット、持ってきているだろ。このあと塾なんだから。見せろよ」
「や、やだ!」
 わたしは鞄を抱きしめて抵抗する。
「何で」
「恥ずかしいじゃん!」
「でも、解けるようになるかもしれないぞ」
 翔太郎の言葉には、いつものようなからかいは感じられない。本気で勉強を見てくれようとしているようだ。
「でも、友達に教えてもらうなんて、やっぱり恥ずかしいっていうか……」
 翔太郎は首をかしげる。わけがわからないといった顔だ。
「俺、わからないところがあったら友達に聞くし、俺が教えることもあるけど? それ、何か恥ずかしいの?」
 心底不思議だと言わんばかりに、翔太郎が問う。そういえば、一昨日、お兄ちゃんも友達と勉強を教え合うと言っていた。
 もしかして、恥ずかしいと思っているのはわたしだけなのだろうか……?
 そのことに気づくと、違う恥ずかしさが襲ってきた。まるで意固地になっている子供だ。
 わたしは、鞄からタブレット端末を出す。
「たとえば、数学のこことか……」
 塾のテキストを示す。翔太郎はさらっと見ると、画面をスワイプして前のページに戻っていく。
「え、ちょっと……」
「あれ? これ、もしかして……」
 翔太郎がわたしを見る。
「瑠衣。お前、中一のときの単元の内容を間違えて覚えてないか?」
「えっ!」
 考えたこともない指摘に、驚きで口が開きっぱなしになる。
「ほら! これも、これも、これも、同じ箇所でつまずいている」
 指されたところを見ると、確かに共通点がある。何で気づかなかったのだろう。
「これ、中一のときのテキストも入っているよな」
「うん。塾はずっと通っていたから……」
 翔太郎がテキストを変更して、中一のときの問題集を出す。
「ほら! ここの考え方が違う。完全に覚え間違いだろ、これ!」
「ええ!? そんなことでわたし、間違えていたの!?」
「何が『そんなこと』だ! 勉強は積み重ねだぞ! 基礎が間違ってたら、その上に乗っかるものも全部だめになるんだよ!」
 二人して声が大きくなり、周りの注目を集めていることに気づいた。二人組の女子高生の先輩がクスクスと笑いながら通っていく。
「あの中学生、カップルかな。可愛いね」
 またカップルと間違われ、わたしの頬は痛いほどだ。
「と、とりあえず、お前、まずは勉強を中一からやり直せ!」
「そんな時間ないよ!」
「でも、そうしないと成績は上がらないぞ!」
 翔太郎の正論に、わたしは言葉に詰まる。
「英語は……ああ、これも文法の基礎ができていない。適当にその場のノリで解いているだろう」
 図星を突かれて、わたしは目線を逸らす。
「これで櫻山女学院とか、よく言ったもんだよ……」
 翔太郎は額を手で覆う。呆れているようだ。
「う、うるさいなぁ」
「うるさくても良いから、ちゃんとやり直せ。社会や理科は単純に知識不足。ちゃんと勉強しろ」
 一番言われたくないことを言われた。お父さんとお母さんの喧嘩を聞きたくなくて、勉強机から離れる。勉強時間は、削られていた。
「……うち、親がずっと喧嘩していて、勉強どころじゃない……」
「それは甘えだろ」
 翔太郎は、斬って捨てた。
「そんなの、学校から塾の講義の間に、塾の自習室や学校の図書館でもできるし、授業が終わってから、少しでも残ってできる。休みの日は自習室や図書館に行くとか、いくらでも時間は作れる」
 翔太郎の正論が、ザクザクと刺さる。
「俺は暗記は風呂でもやっている。お前は、親を言い訳にして本気じゃないんだ。だから前にも言っただろう。お前は、お前は考え方が甘いんだ」
 何も言えない。そのとおりだからだ。
 わたしは、何に対しても甘い。自分の進路についても、受験勉強にしても、自分に甘い。
 薄々気づいていた事実を目の前に突きつけられて、わたしは、いつの間にか制服のスカーフを握りしめていた。
「……翔太郎の言うとおりだ……。わたし、もっと頑張らないといけない」
 翔太郎が、わたしの背中をそっと叩いた。
「わからないことがあったら聞けよ。短くない仲なんだからさ」
 いつもからかってきてばかりの翔太郎の優しさに触れ、わたしは肩の力が抜けた気がした。
「あー! 見つけた!」
 声の方を見ると、澪が歩いてきた。
「もう! どこ行っていたのよ」
「澪こそ」
「わたしは、オーケストラ部の楽器体験やっていた! 楽しかったぁ。コントラバスってこんなに大きいんだよ!」
 澪は、ご機嫌で話しだす。わたしは、立ち上がって澪の話を聞いていた。

 藤瑶館高校の学校見学は、無事終了した。その後、三人で塾に向かう。全員、今日も講義があった。
「良い高校だよね、藤瑶館」
 澪がわたしを覗き込むように言う。
「うん。先輩たちも優しかった」
「わたしも、ほかの学校を見ることができて、勉強になったよ。これからもっと受験勉強頑張ろ!」
 澪はぴょんとジャンプする。プリーツスカートが風に揺れた。