今日も帰ったら、お兄ちゃんの部屋以外は真っ暗だった。
お兄ちゃんは、もともと頭が良いのに、努力を欠かさない。ときどき、「律陵には到底太刀打ちできない天才もいる」とぼやいているが、そんな相手にも負けないように戦おうとしているお兄ちゃんは格好良いと思う。
こっそりと家に戻ると、手を洗って彼から、お兄ちゃんの部屋の扉をノックする。
「どうしたんだ」
お兄ちゃんが扉を開けて、小声で呼びかけた。
「ちょっと入って良い?」
「良いよ。ちょうどきりが良かったんだ」
お兄ちゃんの部屋に入るのは久しぶりだ。フロアクッションに座って、デスクのチェアに座るお兄ちゃんを見上げる。
「お兄ちゃんさ、律陵に行ってよかった?」
「なんだ、藪から棒に」
お兄ちゃんは、前のめりになって、肘を太ももに置く。
「お父さんとお母さんには内緒にしてね」
お兄ちゃんは頷く。
「……わたし、お父さんとお母さんには、櫻山女学院に行けって言われているけれど……ほかの学校も見てみたくなった。櫻山女学院もきっと素敵な学校だと思うけれど……わたし、あまりにほかの学校を知らなさすぎる。お兄ちゃんは、律陵に入って後悔はなかったのかな、って」
お兄ちゃんは「うーん」とうなりながら、腕組みをする。天井を眺めたあと、わたしに視線を落とした。
「結果オーライだな!」
「結果オーライ?」
お兄ちゃんは、デスクに載った参考書を見せる。厚さは五センチくらいあるだろうか。とても分厚い。
「これ、律陵のテキスト」
「すごいね……」
「勉強は大変だよ。俺より出来るやつもたくさんいる。その中で競争しなければいけないのは、正直きつい」
わたしは自分の顔に力が入っていくのを感じる。お兄ちゃんですら、勉強に苦労する。同レベルの女子校、櫻山女学院に入れたとしても、わたしはついていけるのだろうか。
「でも、良い友達に恵まれた。あいつらはできないことを馬鹿にしないし、皆得意分野があって、それぞれ教え合って頑張っている。周りも皆頑張っているから、頑張るのが当然になって、自然と励まし合う」
お兄ちゃんは、大きな口からきれいな歯を見せる。
「勉強は大変だけど、入って良かった。あいつらは一生ものの友達だ。律陵に入る前に、律陵について詳しく調べていたわけじゃない。まだ小学生だったしな、親の言いなりだ。だけど、結果として良かった。だから、結果オーライ」
清々しいお兄ちゃんの言葉は透明だ。本心から言っている。
「そっか……。そうだよね。結局はやってみないとわからないよね。そのあと『あー、あれは良かった』とか『良くなかった』とか判断できるんだもんね」
「そうそう。結果論なんだよ。律陵にも合わずに辞めていったやつもいる。気の毒だけどな」
「そうなんだ……」
お兄ちゃんは、ずい、と身を乗り出す。
「どこの学校が気になっているんだ?」
「……藤瑶館の普通科」
「藤瑶館? また意外なところを……なんで?」
悠誠くんのことは言えない。澪と話したことを中心に説明することにした。
「廉城志望の友達に相談したんだけど、校則もうるさくないし、サポートも手厚いって。わたしに合ってるんじゃないかって言われた」
「俺は公立はよくわからないけれど、確かに藤瑶館はサポートしてくれるイメージがあるな。あ、そうか。友達の一つ下の妹が藤瑶館なんだ。そいつから聞いたんだよ」
「そうなんだ。それで……今週末に学校説明会があるみたいで……行ってみようかなって」
上目遣いでお兄ちゃんを伺う。
お父さんとお母さんに言ったら絶対反対される。でも、お兄ちゃんなら、背中を押してくれるかもしれない。
「良いんじゃないか?」
真夜中なのに、お兄ちゃんは太陽のような笑顔で言う。
「まずは見てみるのが一番だよ。学校説明会に行ったら絶対に受験しなければいけないわけでもないんだ。あそこは音楽科もあるし、楽しそうだな」
思ったとおり、お兄ちゃんが賛成してくれて心の中が暖かくなる。大丈夫、わたしは一人じゃない。そして、自分の意志で決められている。
「今週末って明後日か。すぐだな。父さんと母さんにはもちろん内緒にしておくから、適当に嘘ついておけよ」
お兄ちゃんは、サムズアップしてにやりと笑った。
「ありがとう」
「瑠衣」
「ん?」
お兄ちゃんは姿勢を直した。
「俺、瑠衣がちゃんと自分のことを自分で考え出してくれて嬉しいよ。父さんと母さんに振り回されてばかりで……。俺はさっきも言ったとおり、律陵に行って結果オーライだったし、親の目を盗んで友達と遊んだりもしているし、それなりに要領良くやっていけている自信があるけれども、瑠衣は真面目だからな。父さんと母さんもあの調子だし、心配していた」
じん、と目頭が熱くなる。お兄ちゃんはこんなにもわたしのことを見てくれていたのだ。
この鈍い銀色の家に、温かみはないと思っていた。でも、お兄ちゃんだけは違ったのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん……!」
「もう0時過ぎているな。早めに寝ろよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
わたしは立ち上がり、お兄ちゃんの部屋をあとにした。
自室に戻り、ベッドの上に座る。大きなぬいぐるみを抱きしめる。
澪が手助けしてくれる。
お兄ちゃんが支えてくれる。
悠誠くんが導いてくれる。
こんな出来損ないのわたしを、皆見捨てないでいてくれる。
それが、とても嬉しく、そしてつらい。
わたしは、なんでこんなに価値がないのだろう。素晴らしい人たちに囲まれているのに、わたし自身には何もない。
首を勢い良く横に振った。
違う。だめだ。
わたしは、まだ一歩歩き出したばかりなんだ。これまで、親に指示されたとおりに生きてきた。
これから、ようやく一人で立ち上がろうとしている。
まだ、これからだ。
わたしの道は、遥かに続いていく。
お兄ちゃんは、もともと頭が良いのに、努力を欠かさない。ときどき、「律陵には到底太刀打ちできない天才もいる」とぼやいているが、そんな相手にも負けないように戦おうとしているお兄ちゃんは格好良いと思う。
こっそりと家に戻ると、手を洗って彼から、お兄ちゃんの部屋の扉をノックする。
「どうしたんだ」
お兄ちゃんが扉を開けて、小声で呼びかけた。
「ちょっと入って良い?」
「良いよ。ちょうどきりが良かったんだ」
お兄ちゃんの部屋に入るのは久しぶりだ。フロアクッションに座って、デスクのチェアに座るお兄ちゃんを見上げる。
「お兄ちゃんさ、律陵に行ってよかった?」
「なんだ、藪から棒に」
お兄ちゃんは、前のめりになって、肘を太ももに置く。
「お父さんとお母さんには内緒にしてね」
お兄ちゃんは頷く。
「……わたし、お父さんとお母さんには、櫻山女学院に行けって言われているけれど……ほかの学校も見てみたくなった。櫻山女学院もきっと素敵な学校だと思うけれど……わたし、あまりにほかの学校を知らなさすぎる。お兄ちゃんは、律陵に入って後悔はなかったのかな、って」
お兄ちゃんは「うーん」とうなりながら、腕組みをする。天井を眺めたあと、わたしに視線を落とした。
「結果オーライだな!」
「結果オーライ?」
お兄ちゃんは、デスクに載った参考書を見せる。厚さは五センチくらいあるだろうか。とても分厚い。
「これ、律陵のテキスト」
「すごいね……」
「勉強は大変だよ。俺より出来るやつもたくさんいる。その中で競争しなければいけないのは、正直きつい」
わたしは自分の顔に力が入っていくのを感じる。お兄ちゃんですら、勉強に苦労する。同レベルの女子校、櫻山女学院に入れたとしても、わたしはついていけるのだろうか。
「でも、良い友達に恵まれた。あいつらはできないことを馬鹿にしないし、皆得意分野があって、それぞれ教え合って頑張っている。周りも皆頑張っているから、頑張るのが当然になって、自然と励まし合う」
お兄ちゃんは、大きな口からきれいな歯を見せる。
「勉強は大変だけど、入って良かった。あいつらは一生ものの友達だ。律陵に入る前に、律陵について詳しく調べていたわけじゃない。まだ小学生だったしな、親の言いなりだ。だけど、結果として良かった。だから、結果オーライ」
清々しいお兄ちゃんの言葉は透明だ。本心から言っている。
「そっか……。そうだよね。結局はやってみないとわからないよね。そのあと『あー、あれは良かった』とか『良くなかった』とか判断できるんだもんね」
「そうそう。結果論なんだよ。律陵にも合わずに辞めていったやつもいる。気の毒だけどな」
「そうなんだ……」
お兄ちゃんは、ずい、と身を乗り出す。
「どこの学校が気になっているんだ?」
「……藤瑶館の普通科」
「藤瑶館? また意外なところを……なんで?」
悠誠くんのことは言えない。澪と話したことを中心に説明することにした。
「廉城志望の友達に相談したんだけど、校則もうるさくないし、サポートも手厚いって。わたしに合ってるんじゃないかって言われた」
「俺は公立はよくわからないけれど、確かに藤瑶館はサポートしてくれるイメージがあるな。あ、そうか。友達の一つ下の妹が藤瑶館なんだ。そいつから聞いたんだよ」
「そうなんだ。それで……今週末に学校説明会があるみたいで……行ってみようかなって」
上目遣いでお兄ちゃんを伺う。
お父さんとお母さんに言ったら絶対反対される。でも、お兄ちゃんなら、背中を押してくれるかもしれない。
「良いんじゃないか?」
真夜中なのに、お兄ちゃんは太陽のような笑顔で言う。
「まずは見てみるのが一番だよ。学校説明会に行ったら絶対に受験しなければいけないわけでもないんだ。あそこは音楽科もあるし、楽しそうだな」
思ったとおり、お兄ちゃんが賛成してくれて心の中が暖かくなる。大丈夫、わたしは一人じゃない。そして、自分の意志で決められている。
「今週末って明後日か。すぐだな。父さんと母さんにはもちろん内緒にしておくから、適当に嘘ついておけよ」
お兄ちゃんは、サムズアップしてにやりと笑った。
「ありがとう」
「瑠衣」
「ん?」
お兄ちゃんは姿勢を直した。
「俺、瑠衣がちゃんと自分のことを自分で考え出してくれて嬉しいよ。父さんと母さんに振り回されてばかりで……。俺はさっきも言ったとおり、律陵に行って結果オーライだったし、親の目を盗んで友達と遊んだりもしているし、それなりに要領良くやっていけている自信があるけれども、瑠衣は真面目だからな。父さんと母さんもあの調子だし、心配していた」
じん、と目頭が熱くなる。お兄ちゃんはこんなにもわたしのことを見てくれていたのだ。
この鈍い銀色の家に、温かみはないと思っていた。でも、お兄ちゃんだけは違ったのだ。
「ありがとう、お兄ちゃん……!」
「もう0時過ぎているな。早めに寝ろよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
わたしは立ち上がり、お兄ちゃんの部屋をあとにした。
自室に戻り、ベッドの上に座る。大きなぬいぐるみを抱きしめる。
澪が手助けしてくれる。
お兄ちゃんが支えてくれる。
悠誠くんが導いてくれる。
こんな出来損ないのわたしを、皆見捨てないでいてくれる。
それが、とても嬉しく、そしてつらい。
わたしは、なんでこんなに価値がないのだろう。素晴らしい人たちに囲まれているのに、わたし自身には何もない。
首を勢い良く横に振った。
違う。だめだ。
わたしは、まだ一歩歩き出したばかりなんだ。これまで、親に指示されたとおりに生きてきた。
これから、ようやく一人で立ち上がろうとしている。
まだ、これからだ。
わたしの道は、遥かに続いていく。



