膝の上で拳を握る。
「あのね、悠誠くん」
悠誠くんは首を軽く倒して、目で先を促す。
「わたし、藤瑶館高校の普通科が気になってる」
「藤瑶館の……普通科?」
わたしは、大きく頷いた。
「友達と話していて……わたしに合うんじゃないかって。今週末に、学校説明会があるの」
悠誠くんは、わたしの目をまっすぐに見て、頷く。わたしの想いを受け止めてくれていることを理解すると、わたしは続ける。
「親は怒ると思うから、まだ言えていない。でも、わたしは、櫻山女学院以外の選択肢も知ってみたい」
大きく息を吸う。
「自分の人生に責任を持つために」
悠誠くんが繰り返した。
「自分の人生に責任を持つ……」
「うん。わたし、親にああしなさい、こうしなさいって言われてきた。でも、それってわたしの人生じゃない。わたしのことはわたしが決めないと、納得しないって友達に言われて、そのとおりだと思った」
悠誠くんの緊張が緩む。緩められたバイオリンの弓のような雰囲気で、悠誠くんは言う。
「すごいね。瑠衣ちゃん。すごいよ」
「すごくない。このことに関しては友達がすごいし、それを素直に聞き入れられたのも、悠誠くんのバイオリンへの強い想いを感じたから……。自分のことを自分のこととして考えることができたんだ」
悠誠くんは嬉しそうに頷いている。
「わたしは出来損ないで、誰にも必要とされていないけれど、それでも、わたしはわたしのことを考えなきゃ、って思った」
悠誠くんの表情に翳りが落ちる。
「瑠衣ちゃんは、出来損ないなんかじゃないよ」
「……それはまだ、自分では認められないから……」
「そっか……。そうとしか思えないんだね。ゆっくりで良いよね」
悠誠くんは否定しない。
出来損ない。馬鹿。わたしに投げつけられる言葉はヘドロのように不快で、べったりとまとわりつく。
そういったものを洗い流してくれる、きれいな青を持った声で、わたしを否定しない、肯定もしない、フラットな言葉をくれる。
わたしは、向かい合って座る悠誠くんの両手を包む。自分から男の子の手を握るなんて、ドキドキしてしまう。
「ねぇ、悠誠くんも藤瑶館の学校説明会、行かない?」
目を丸くした悠誠くんは、目尻を下げて笑った。
「ごめんね、やめておくよ」
「どうして。音楽科の紹介もあるって……」
そこまで言って、わたしは自分がどれだけ無神経なことを口にしてしまったのか理解した。
「うん。だから、行けない。僕の本当の志望校。許されない進路だから。そんな学校を見るのは、僕、ちょっとつらいかな」
「ごめんなさい!」
悠誠くんの手を離して、わたし立ち上がり、頭を深く下げた。ボブの髪が床に対して垂直に流れる。
「わたし、酷いことを言った。ごめんなさい。本当に、ごめんね……!」
「る、瑠衣ちゃん。顔を上げて。大丈夫だから」
そっと顔を上げると、慌てた悠誠くんが見えた。
「ああ、びっくりした。そんなに謝らなくて良いよ」
「だって、わたし……もう、自分がいやになる!」
わたしは髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。悠誠くんは大人なのに、わたしは自分のことしか考えてなくて、ただただ自分勝手な子供だ。
悠誠くんと一緒に行けたら、と思っただけだった。日の下の悠誠くんはどんな顔なのだろう。高校生の先輩たちにも落ち着いて対応ができるだろうな、格好良いだろうな、って……。
「落ち着いて、瑠衣ちゃん」
悠誠くんのひんやりとした指先がわたしの手の甲に触れる。
「大丈夫だよ。僕を誘ってくれただけなんだよね。僕はそれだけで嬉しいよ」
わたしは手を降ろす。
「触って良い?」
人形のようにこくり、と頷くと、悠誠くんは手ぐしでわたしの髪を整えはじめた。
くすぐったくて、照れくさい。
「学校説明会には、ほかのお友達と行くと良いと思うよ。二年生のうちから、志望校を考えるのは良いことだから」
「でも、どうしよう。両親……特にお母さんは櫻山女学院しか許さないと思う。せめて同レベルの廉城か……。藤瑶館では、レベルが下がる」
悠誠くんは、わたしの頭から指を離すと、自分のあごを撫でた。
「すべてを偏差値で考える必要はないんじゃないかな」
「え?」
「瑠衣ちゃんの話を聞いていると、学校選びを偏差値でしかしていないように思える。でも、それってもったいないよね。三年間通う学校だよ? ご両親は偏差値が大切かもしれないけれど、実際に通うのは瑠衣ちゃんだよね」
悠誠くんは再びわたしの目を見る。
「自分の人生に責任を持つために、自分で決めたいんでしょう? 瑠衣ちゃんは未成年だし、親の言うことに左右されることはしかたない。僕がバイオリンを続けられなかったみたいにね。でも、もっと多角的にいろんな学校を見て、ここなら通えると納得できる学校を探すことが、自分で責任を取るって、そういうことなんじゃない?」
自分で偉そうなことを宣言しておきながら、わたしはまた、お父さんやお母さんに忖度しようとしていた。
両親の期待に応えるように。
両親の自慢の娘になれるように。
両親に喜んでもらえるように。
両親を怒らせないように。
わたしは、両親の気持ちばかり優先させていた。
そんなことで、自分の人生に責任を持つなんて、言える状態ではなかった。
「悠誠くんはすごいなぁ」
わたしは、ピアノの椅子の上で、両手両足をぴんと伸ばす。
「すごい。すごい。わたしなんかと違って、本当に大人だ! 本当に中学三年生なの? 中身、おじさんなんじゃない?」
「中身って」
悠誠くんが笑い出す。
「ほら、背中にチャックとかついてて、中からおじさんが……」
「ホラーでしょ! それ!」
無邪気に笑うその姿は、やはりわたしと変わらない歳に見える。
なのに、わたしよりもずっと思慮深くて、広く見渡すことができる悠誠くんは、それだけたくさん悩んできたということなのだろう。
バイオリンを辞める、ということに、重い、鉄のような苦悩があったのだろう。
悠誠くんと出会えて良かった。
わたしは、ただ一面だけを見て「できない」と言って泣くだけの子供だった。
視野を広く。物事を深く。
逃げずに考える。
悠誠くんから、たった二日間で教わったことだ。
「あはは、ああ、笑った。あれ、もう0時だ。あと一曲弾いて終わろうかな」
「わ、嬉しい!」
「こんなのはどうだろう」
悠誠くんがバイオリンを構え、奏でる。飛び出した音は、可愛らしく飛び跳ねる。
「聞いたことある!」
「バッハの『ガヴォット』だよ。有名な曲だね」
器用に返事をすると、すぐに演奏に没入する。
バイオリンのことはわからないが、「ラ・カンパネラ」よりは難易度が低いように思える。それでも、一曲一曲丁寧に弾く悠誠くんからは、音楽への敬意が垣間見えた。
青の粒がぴょんぴょんと飛ぶ。わたしは自然と笑顔になる。
この夜が永遠なら良いのに。
叶わない願いを、星に願う。
「あのね、悠誠くん」
悠誠くんは首を軽く倒して、目で先を促す。
「わたし、藤瑶館高校の普通科が気になってる」
「藤瑶館の……普通科?」
わたしは、大きく頷いた。
「友達と話していて……わたしに合うんじゃないかって。今週末に、学校説明会があるの」
悠誠くんは、わたしの目をまっすぐに見て、頷く。わたしの想いを受け止めてくれていることを理解すると、わたしは続ける。
「親は怒ると思うから、まだ言えていない。でも、わたしは、櫻山女学院以外の選択肢も知ってみたい」
大きく息を吸う。
「自分の人生に責任を持つために」
悠誠くんが繰り返した。
「自分の人生に責任を持つ……」
「うん。わたし、親にああしなさい、こうしなさいって言われてきた。でも、それってわたしの人生じゃない。わたしのことはわたしが決めないと、納得しないって友達に言われて、そのとおりだと思った」
悠誠くんの緊張が緩む。緩められたバイオリンの弓のような雰囲気で、悠誠くんは言う。
「すごいね。瑠衣ちゃん。すごいよ」
「すごくない。このことに関しては友達がすごいし、それを素直に聞き入れられたのも、悠誠くんのバイオリンへの強い想いを感じたから……。自分のことを自分のこととして考えることができたんだ」
悠誠くんは嬉しそうに頷いている。
「わたしは出来損ないで、誰にも必要とされていないけれど、それでも、わたしはわたしのことを考えなきゃ、って思った」
悠誠くんの表情に翳りが落ちる。
「瑠衣ちゃんは、出来損ないなんかじゃないよ」
「……それはまだ、自分では認められないから……」
「そっか……。そうとしか思えないんだね。ゆっくりで良いよね」
悠誠くんは否定しない。
出来損ない。馬鹿。わたしに投げつけられる言葉はヘドロのように不快で、べったりとまとわりつく。
そういったものを洗い流してくれる、きれいな青を持った声で、わたしを否定しない、肯定もしない、フラットな言葉をくれる。
わたしは、向かい合って座る悠誠くんの両手を包む。自分から男の子の手を握るなんて、ドキドキしてしまう。
「ねぇ、悠誠くんも藤瑶館の学校説明会、行かない?」
目を丸くした悠誠くんは、目尻を下げて笑った。
「ごめんね、やめておくよ」
「どうして。音楽科の紹介もあるって……」
そこまで言って、わたしは自分がどれだけ無神経なことを口にしてしまったのか理解した。
「うん。だから、行けない。僕の本当の志望校。許されない進路だから。そんな学校を見るのは、僕、ちょっとつらいかな」
「ごめんなさい!」
悠誠くんの手を離して、わたし立ち上がり、頭を深く下げた。ボブの髪が床に対して垂直に流れる。
「わたし、酷いことを言った。ごめんなさい。本当に、ごめんね……!」
「る、瑠衣ちゃん。顔を上げて。大丈夫だから」
そっと顔を上げると、慌てた悠誠くんが見えた。
「ああ、びっくりした。そんなに謝らなくて良いよ」
「だって、わたし……もう、自分がいやになる!」
わたしは髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。悠誠くんは大人なのに、わたしは自分のことしか考えてなくて、ただただ自分勝手な子供だ。
悠誠くんと一緒に行けたら、と思っただけだった。日の下の悠誠くんはどんな顔なのだろう。高校生の先輩たちにも落ち着いて対応ができるだろうな、格好良いだろうな、って……。
「落ち着いて、瑠衣ちゃん」
悠誠くんのひんやりとした指先がわたしの手の甲に触れる。
「大丈夫だよ。僕を誘ってくれただけなんだよね。僕はそれだけで嬉しいよ」
わたしは手を降ろす。
「触って良い?」
人形のようにこくり、と頷くと、悠誠くんは手ぐしでわたしの髪を整えはじめた。
くすぐったくて、照れくさい。
「学校説明会には、ほかのお友達と行くと良いと思うよ。二年生のうちから、志望校を考えるのは良いことだから」
「でも、どうしよう。両親……特にお母さんは櫻山女学院しか許さないと思う。せめて同レベルの廉城か……。藤瑶館では、レベルが下がる」
悠誠くんは、わたしの頭から指を離すと、自分のあごを撫でた。
「すべてを偏差値で考える必要はないんじゃないかな」
「え?」
「瑠衣ちゃんの話を聞いていると、学校選びを偏差値でしかしていないように思える。でも、それってもったいないよね。三年間通う学校だよ? ご両親は偏差値が大切かもしれないけれど、実際に通うのは瑠衣ちゃんだよね」
悠誠くんは再びわたしの目を見る。
「自分の人生に責任を持つために、自分で決めたいんでしょう? 瑠衣ちゃんは未成年だし、親の言うことに左右されることはしかたない。僕がバイオリンを続けられなかったみたいにね。でも、もっと多角的にいろんな学校を見て、ここなら通えると納得できる学校を探すことが、自分で責任を取るって、そういうことなんじゃない?」
自分で偉そうなことを宣言しておきながら、わたしはまた、お父さんやお母さんに忖度しようとしていた。
両親の期待に応えるように。
両親の自慢の娘になれるように。
両親に喜んでもらえるように。
両親を怒らせないように。
わたしは、両親の気持ちばかり優先させていた。
そんなことで、自分の人生に責任を持つなんて、言える状態ではなかった。
「悠誠くんはすごいなぁ」
わたしは、ピアノの椅子の上で、両手両足をぴんと伸ばす。
「すごい。すごい。わたしなんかと違って、本当に大人だ! 本当に中学三年生なの? 中身、おじさんなんじゃない?」
「中身って」
悠誠くんが笑い出す。
「ほら、背中にチャックとかついてて、中からおじさんが……」
「ホラーでしょ! それ!」
無邪気に笑うその姿は、やはりわたしと変わらない歳に見える。
なのに、わたしよりもずっと思慮深くて、広く見渡すことができる悠誠くんは、それだけたくさん悩んできたということなのだろう。
バイオリンを辞める、ということに、重い、鉄のような苦悩があったのだろう。
悠誠くんと出会えて良かった。
わたしは、ただ一面だけを見て「できない」と言って泣くだけの子供だった。
視野を広く。物事を深く。
逃げずに考える。
悠誠くんから、たった二日間で教わったことだ。
「あはは、ああ、笑った。あれ、もう0時だ。あと一曲弾いて終わろうかな」
「わ、嬉しい!」
「こんなのはどうだろう」
悠誠くんがバイオリンを構え、奏でる。飛び出した音は、可愛らしく飛び跳ねる。
「聞いたことある!」
「バッハの『ガヴォット』だよ。有名な曲だね」
器用に返事をすると、すぐに演奏に没入する。
バイオリンのことはわからないが、「ラ・カンパネラ」よりは難易度が低いように思える。それでも、一曲一曲丁寧に弾く悠誠くんからは、音楽への敬意が垣間見えた。
青の粒がぴょんぴょんと飛ぶ。わたしは自然と笑顔になる。
この夜が永遠なら良いのに。
叶わない願いを、星に願う。



