夕飯を食べたあと、すぐにお父さんが帰ってきた。わたしは、自分の部屋に避難する。
 今日も両親は大声で言い争う。
 二人がどれだけ喧嘩しても、わたしの成績は上がらない。手元に戻ってきた七十六点のテストをじっと見る。
 何故かわたしの中に入っている知識と噛み合わない。問題を解くたび、どこかで歯車が壊れているようだと感じる。そして、上がり性だ。テストとなると、体が固まってしまう。
 わたしはこの棘だらけの家にいられない。
 午後十一時。わたしはまた、家を抜け出した。

 園尾中学にやってくる。かすかに青の音が聞こえた。
 昨日夜中に家を抜け出したことは、家族にばれなかった。わたしに興味などないのだろうと虚しく思いながらも、そのほうがありがたい面もある。
 こうして、悠誠くんに会いに行ける。
 昨日と同じ手順で学校に侵入する。いまさらながら、この学校のセキュリティに不安を覚える。
 音をたどって、音楽室に向かう。今日も流れているのは「ラ・カンパネラ」だ。
 音楽室の扉をノックする。
 かちゃりと外開きになった扉から覗いたのは、悠誠くんの顔だった。
 昨日と変わらない様子にほっとする。
「さっそく来たね、瑠衣ちゃん」
 手で中に入るよう促される。音楽室は悠誠くんだけのものではないのに、ここは悠誠くんのテリトリーのようだ。不思議と「おじゃまします」と小さく呟く。「音楽室だよ?」と笑われた。
 今日もLEDの照明が外の闇を押しのけている。今日は昨日に比べて少し曇っている。
 ピアノの椅子を「どうぞ」と勧められ、腰掛けた。
「昨晩は、親御さんに怒られなかった?」
「気づかれてもいないよ」
 わたしは苦笑する。親がほしいのは「優秀な子供」で、「上坂瑠衣」に興味はない。そして、「優秀な子供」ではないわたしは不要な存在だ。
「わたしなんて、どうでと良いんだよ」
「そんな投げやりなことを言わないで。きっと、親御さんは瑠衣ちゃんのことを大切にしてるよ」
「悠誠くん、なんか説教臭い。おじさんみたい」
 悠誠くんに理解してもらえず、わたしはむっつりと唇を突き出す。
「あはは、おじさんと来たか。それなら、おじさんがレディのご相談に乗りましょうか?」
「何それ」
「目が赤いから」
 わたしは慌てて目をこする。ひんやりとした悠誠くんの手が、わたしの手に触れて、こするのを止めさせる。
「もっと赤くなっちゃうよ」
 悠誠くんの声色は、柔らかい。赤ちゃんを慈しむ大人の色に似ている。しかし、色は不思議と青だ。あまりこういう声色で青が見えることはないので、そのちぐはぐさに戸惑ってしまう。
 悠誠くんを「おじさん」と言ったが、ある意味当たっているような気がする。わたしをいじり、品なく笑う翔太郎と比べて、悠誠くんは大人びすぎている。翔太郎だけではない。こんなに落ち着きのあるクラスメイトの男子はいない。
 悠誠くんは、一学年先輩になるが、たった一年でこんなに変わるものだろうか。
 じっと悠誠くんを見つめていると、悠誠くんはわたしの手を離して微笑む。
「どうしたの、急に」
「ううん、悠誠くんは大人だな、って思っていた」
「そうかな。バイオリンを諦めきれなくて、夜な夜な学校の音楽室で弾いているような変なやつだよ?」
「それはそうなんだけど」
「否定されなかった」
 悠誠くんが大きく笑った。わたしも釣られて笑った。
 ここでは、息ができる。