廊下を歩いていると、早川先生が後ろから小走りでやってきた。
「上坂さん!」
 振り向く。授業中の迫力はどこへやら、眼鏡の奥に笑い皺を作っている様子は、いかにも人が好さそうだ。
「ちょっと顔色悪いように見えたけど、大丈夫?」
 五人程度の少人数クラスとはいえ、良く見てくれていると思うと同時に、いちいち気づいてほしくないこともある。
「はぁ……。体調は大丈夫です」
「何か悩み事?」
「……模試の結果が悪かったので」
 言い捨てる。先生の授業が悪いわけではないのはわかっている。わたしがだめなのだ。でも、ここにしか八つ当たりをする場所はなかった。
 早川先生は眉尻と目尻を下げる。困らせてしまったかもしれない。
「そうか……。高い目標を持つことは大切だが、一度親御さんと三者面談しても良いかもね」
 暗に「櫻山女学院に合格するのは無理だ」と言われて、わたしはあからさまに眉間にしわを寄せた。
「志望校については、わたしの意志ではないので」
 踵を返してわたしは早川先生を置いて廊下を進む。階段を降りていると、踊り場のところで、突然腕に腕が絡みついてきた。
「るーい! 何怖い顔してるの」
 和嶋(わじま)澪。わたしと同じ園尾中学の友達だ。
「階段で危ないでしょ」
「ちゃんと踊り場でやったじゃない」
 澪はいたずらっぽく微笑む。長い髪を揺らして首をかしげる姿は、男の子だったら一瞬でときめいてしまう可愛さだ。
 わたしは、ため息をつくと、澪の腕を解く。
「そっちの授業はどう?」
「まずまず?」
 澪は目線を漂わせて、よくわからない回答をする。
「公立クラスと内容って違うのかな」
「そりゃ多少は違うでしょ。私立はひねってくるし」
「澪は、廉城(れんじょう)高校志望だよね」
 廉城高校は、この地区ではトップの公立高校だ。自由な校風で、おしゃれやファッションが好きな澪は、校風目当てで廉城を目指している。
 澪は、成績が良い。塾に張り出されている模試の結果発表でも、上位十位には必ずと言って良いほど入っている。
 見せてもらったことはないが、おそらく学校の成績も良い。公立の受験には内申点が必要なので、学校の勉強にも手が抜けない。
「澪の成績だったら余裕だよ」
 不貞腐れてわたしは言った。澪は、わたしの頬を指でつんつんとつつく。
「怒らないでよー。瑠衣だって頑張ってるよ」
「頑張ったところで、瑠衣が櫻山女学院なんて無謀じゃん?」
 答えたのは、わたしの声ではない。声がわりをしたばかりの、少年ぽさを残した低い声の主は、堀井(ほりい)翔太郎(しょうたろう)だ。
「中学受験全滅のくせに、高校からなら入れるかもしれないなんて考え方が甘いんだよ」
「ちょっと翔太郎! いくら昔からの知り合いだからって言い過ぎ!」
 澪が代わりに怒ってくれる。
 翔太郎は、保育園からの付き合いだ。母親どうしが仲が良く、わたしの情報はだいたい母親経由で翔太郎のもとに入る。わたしは、それがとてもいやだった。
「行こ、澪。相手にしてもしかたない」
「だっせぇ! 敗走じゃん! ま、俺にも勝てないし、言い返せないよな!」
 翔太郎はゲラゲラと笑う。その真っ黒な悪意に押しつぶされないよう、わたしは澪の腕を引いて足を速める。