田んぼの水に月が反射する。
 空が地上に降りてきたみたいだ。
 わたしは、ふわふわとする心地を引きずって、半分浮いているのではないかと疑いながらも足を動かす。
 午前0時の町は静寂だ。虫や蛙が時折鳴く。そして、わたしの足音だけがする。
 雨塚悠誠。
 まったく知らない名前だった。あれほどにバイオリンが弾ければ、大きくはない園尾中学の中で有名になっているだろうに、普段は弾かないようにしているのだろうか。
 小さく鼻歌を歌う。
 夜の帳が降りた町には響いてしまうので、極力小さく。悠誠くんが弾いた「ラ・カンパネラ」の一節だ。
 思い出しても、美しかった。
 あんなに映像がはっきり見えることは、あまりない。この共感覚を面倒なものだと思っていたが、わたしは今日初めて、自分の特性に感謝した。
 音楽を聴くことは、耳が聞こえればできる。しかし、それを体感として全身で味わうことができるのは、わたしの特権だ。
 キラキラ光る深い青。
 それに出会えたことを感謝しながら、わたしは星空を仰ぎ見る。
「また会えるかな……」
 何組か聞き忘れたが、園尾中学の生徒なのだ。きっと会えるだろう。
 一軒家が見えてきた。
 リビングはもう暗い。二階についている電灯は、お兄ちゃんの部屋だ。
 お兄ちゃんは頑張っている。律陵で成績を維持することが、どれだけ大変かなんて、想像をすればわかる。
 自分の無価値感から逃げ出した自分が恥ずかしくなる。
 わたしは、もっと頑張らないといけない。
 そっと鍵を開けて、家の中に滑り込んだ。