わたしは火種だ。火種によって、藁は勢い良く燃え盛る。
「瑠衣の成績がまた下がっているじゃないか! お前に似て出来が悪いんだから、お前が面倒見ろ!」
「わたしもフルタイムで働いてるのに、面倒も何もないわよ! わたしが働かないと、謙也も瑠衣も塾にすら行かせられない稼ぎのくせに、よくもわたしの出来が悪いなんて言えるわね!」
「黙れ! 謙也は俺に似て優秀なんだ! 出来損ないの瑠衣はお前が世話するべきだろう!」
「なんで瑠衣の出来損ないがわたしのせいにされるの! あなたの血でしょう?」
「俺の血なわけがあるか!」
お父さんとお母さんがリビングで言い争っている。わたしは、掛け布団の中で息をひそめる。もう五月になるというのに、自分の部屋がやけに冷え冷えと感じる。
脳裏に焼き付いた数字。総合偏差値、五十三。
今日返ってきた、塾の高校受験模試の結果だ。両親の喧嘩は、毎日のことだが、今日は一段と激しい。その原因は、この不愉快な数字にある。
部屋の扉が控えめにノックされる。思い当たる人物は一人しかいない。小さく答えた。
静かに扉が開く。隙間から、背の高い男子が覗き込んだ。
「瑠衣、大丈夫か」
ベッドの上で掛け布団を体に巻き付けているわたしを見て、兄の謙也は心配そうに問いかけた。
「入るよ」
音が鳴らないように、細心の注意を払って扉を閉める。
「お兄ちゃん、ごめん。うるさいよね」
「うるさいのは、父さんと母さんだよ。瑠衣は悪くない」
お兄ちゃんは優しい。この家では、お兄ちゃんと話しているときだけが、心休まる。
「でも、わたしの成績が悪いから……」
お兄ちゃんはベッド脇の床にあぐらをかいて座る。掛け布団の上からわたしの頭を撫でた。
「瑠衣は頑張っているんだろう」
「頑張っても……結果を出せなければ意味がない。お父さんやお母さんの期待に応えられないわたしに価値はない」
「そんなこと言うなよ」
お兄ちゃんは優しくて、その飴色にわたしはつい甘えてしまう。
「お兄ちゃんは優秀だから、わたしの気持ちなんかわからないよ」
「今、うまくいっているだけだよ。これからどうなるか、俺にもわからない」
「天下の律陵高校でもトップの成績のお兄ちゃんに、公立中学に通う偏差値五十三のわたしの気持ちなんかわからないよ!」
わたしは、掛け布団を頭まですっぽりと被る。情けなくて涙が出てきた。偏差値五十三も、お兄ちゃんに八つ当たりすることも、何もかもが格好悪い。
お兄ちゃんの小さなため息が聞こえる。その色は乾いた砂利のような灰色だった。
お兄ちゃんは、県内で最難関の私立中高一貫校、律陵中学に合格し、今は高校の二年生だ。律陵は男子校だから、わたしは入れない。
わたしも律陵と同レベルの女子校、櫻山女学院中学を第一希望に受験した。結果は、滑り止めを含めて全滅。結果が出たときに発せられた、お母さんのカラスのように黒いため息は、忘れられない。
結果として、わたしは地元公立の園尾中学に通っている。
櫻山女学院は、外部受験で高校から入学することもできる。わたしに課せられた使命は、高校受験で櫻山女学院に合格することだ。
「……どうすれば良いのか、わからない。無理だよ、頑張ってるのに、成績が上がらないんだもの」
お兄ちゃんは変わらず、わたしを掛け布団の上からあやすように撫でる。弱々しい白い声で、わたしは続ける。
「櫻山女学院高校の偏差値、七十二だよ……。わたし、今回の模試で五十三しか取れなかった。もう中二だよ。受験まで二年もないのに……どうしたら良いの」
お兄ちゃんは、穏やかに言う。
「受験期に一気に伸びることもある。何がきっかけになるかはわからないよ。そもそも、瑠衣は本当に櫻山女学院に入りたいの?」
「わたしの意志なんて関係ないよ。お父さんとお母さんがそれを望んでいるから、わたしにはその選択肢しかないの」
毛布のように包んでくれるお兄ちゃんに、棘を向けることしかできない幼稚な自分がきらいだ。
何から何まで、わたしは自分のことがきらいだった。
だって、まだお父さんとお母さんは喧嘩をしている。毎日のように、わたしの成績のことで言い争っている。
お父さんもお母さんも有名な大学を出て、大きい会社の支社に勤めている。お兄ちゃんは中学から私立で、加えて予備校にも通っている。わたしも塾に通っているし、今は公立中でも高校受験の第一希望が私立だから、お父さんもお母さんもフルタイムで働いてくれている。
いわゆる、教育熱心な家、なのだろう。
しかし、親の情熱に応えられない出来損ないがこの家にいる。わたしは、この家では最下層、無価値な存在だった。
黙り込んでしまったわたしを、お兄ちゃんが布団の上からポンポンと二度軽く叩いた。
「わからないところがあれば聞いて。俺、戻るね」
わたしが何も答えないうちに、お兄ちゃんが扉を閉める音がした。
お兄ちゃんもハイレベルな律陵で成績を維持するために、毎日勉強を頑張っている。しかし、お父さんもお母さんも、そんなことはお構いなしで大声で喧嘩をする。
わたしのせいで、お兄ちゃんの邪魔にもなっている。
息ができない。溺れてしまう。
わたしは、この家にふさわしくない。だから、溺れ死んだほうが良い。わかっているのに、わたしは溺れるのが怖かった。
卑怯者で、臆病者のわたしは、パーカーにデニムという普段着のまま、そっと部屋を出た。
お父さんとお母さんの罵声が大きくなる。すべてが刃となって、わたしに向かってくる。
ぬぐってもぬぐっても溢れ出す涙を止める方法がなくて、わたしは静かに階段を降り、鍵だけを持って、家を飛び出した。
「瑠衣の成績がまた下がっているじゃないか! お前に似て出来が悪いんだから、お前が面倒見ろ!」
「わたしもフルタイムで働いてるのに、面倒も何もないわよ! わたしが働かないと、謙也も瑠衣も塾にすら行かせられない稼ぎのくせに、よくもわたしの出来が悪いなんて言えるわね!」
「黙れ! 謙也は俺に似て優秀なんだ! 出来損ないの瑠衣はお前が世話するべきだろう!」
「なんで瑠衣の出来損ないがわたしのせいにされるの! あなたの血でしょう?」
「俺の血なわけがあるか!」
お父さんとお母さんがリビングで言い争っている。わたしは、掛け布団の中で息をひそめる。もう五月になるというのに、自分の部屋がやけに冷え冷えと感じる。
脳裏に焼き付いた数字。総合偏差値、五十三。
今日返ってきた、塾の高校受験模試の結果だ。両親の喧嘩は、毎日のことだが、今日は一段と激しい。その原因は、この不愉快な数字にある。
部屋の扉が控えめにノックされる。思い当たる人物は一人しかいない。小さく答えた。
静かに扉が開く。隙間から、背の高い男子が覗き込んだ。
「瑠衣、大丈夫か」
ベッドの上で掛け布団を体に巻き付けているわたしを見て、兄の謙也は心配そうに問いかけた。
「入るよ」
音が鳴らないように、細心の注意を払って扉を閉める。
「お兄ちゃん、ごめん。うるさいよね」
「うるさいのは、父さんと母さんだよ。瑠衣は悪くない」
お兄ちゃんは優しい。この家では、お兄ちゃんと話しているときだけが、心休まる。
「でも、わたしの成績が悪いから……」
お兄ちゃんはベッド脇の床にあぐらをかいて座る。掛け布団の上からわたしの頭を撫でた。
「瑠衣は頑張っているんだろう」
「頑張っても……結果を出せなければ意味がない。お父さんやお母さんの期待に応えられないわたしに価値はない」
「そんなこと言うなよ」
お兄ちゃんは優しくて、その飴色にわたしはつい甘えてしまう。
「お兄ちゃんは優秀だから、わたしの気持ちなんかわからないよ」
「今、うまくいっているだけだよ。これからどうなるか、俺にもわからない」
「天下の律陵高校でもトップの成績のお兄ちゃんに、公立中学に通う偏差値五十三のわたしの気持ちなんかわからないよ!」
わたしは、掛け布団を頭まですっぽりと被る。情けなくて涙が出てきた。偏差値五十三も、お兄ちゃんに八つ当たりすることも、何もかもが格好悪い。
お兄ちゃんの小さなため息が聞こえる。その色は乾いた砂利のような灰色だった。
お兄ちゃんは、県内で最難関の私立中高一貫校、律陵中学に合格し、今は高校の二年生だ。律陵は男子校だから、わたしは入れない。
わたしも律陵と同レベルの女子校、櫻山女学院中学を第一希望に受験した。結果は、滑り止めを含めて全滅。結果が出たときに発せられた、お母さんのカラスのように黒いため息は、忘れられない。
結果として、わたしは地元公立の園尾中学に通っている。
櫻山女学院は、外部受験で高校から入学することもできる。わたしに課せられた使命は、高校受験で櫻山女学院に合格することだ。
「……どうすれば良いのか、わからない。無理だよ、頑張ってるのに、成績が上がらないんだもの」
お兄ちゃんは変わらず、わたしを掛け布団の上からあやすように撫でる。弱々しい白い声で、わたしは続ける。
「櫻山女学院高校の偏差値、七十二だよ……。わたし、今回の模試で五十三しか取れなかった。もう中二だよ。受験まで二年もないのに……どうしたら良いの」
お兄ちゃんは、穏やかに言う。
「受験期に一気に伸びることもある。何がきっかけになるかはわからないよ。そもそも、瑠衣は本当に櫻山女学院に入りたいの?」
「わたしの意志なんて関係ないよ。お父さんとお母さんがそれを望んでいるから、わたしにはその選択肢しかないの」
毛布のように包んでくれるお兄ちゃんに、棘を向けることしかできない幼稚な自分がきらいだ。
何から何まで、わたしは自分のことがきらいだった。
だって、まだお父さんとお母さんは喧嘩をしている。毎日のように、わたしの成績のことで言い争っている。
お父さんもお母さんも有名な大学を出て、大きい会社の支社に勤めている。お兄ちゃんは中学から私立で、加えて予備校にも通っている。わたしも塾に通っているし、今は公立中でも高校受験の第一希望が私立だから、お父さんもお母さんもフルタイムで働いてくれている。
いわゆる、教育熱心な家、なのだろう。
しかし、親の情熱に応えられない出来損ないがこの家にいる。わたしは、この家では最下層、無価値な存在だった。
黙り込んでしまったわたしを、お兄ちゃんが布団の上からポンポンと二度軽く叩いた。
「わからないところがあれば聞いて。俺、戻るね」
わたしが何も答えないうちに、お兄ちゃんが扉を閉める音がした。
お兄ちゃんもハイレベルな律陵で成績を維持するために、毎日勉強を頑張っている。しかし、お父さんもお母さんも、そんなことはお構いなしで大声で喧嘩をする。
わたしのせいで、お兄ちゃんの邪魔にもなっている。
息ができない。溺れてしまう。
わたしは、この家にふさわしくない。だから、溺れ死んだほうが良い。わかっているのに、わたしは溺れるのが怖かった。
卑怯者で、臆病者のわたしは、パーカーにデニムという普段着のまま、そっと部屋を出た。
お父さんとお母さんの罵声が大きくなる。すべてが刃となって、わたしに向かってくる。
ぬぐってもぬぐっても溢れ出す涙を止める方法がなくて、わたしは静かに階段を降り、鍵だけを持って、家を飛び出した。



