きみと、壊れかけの世界で

 雨が降っていた。
 細かい雨粒が、街灯の光にぼんやりと照らされる。
 冷たい夜の空気が、三人の間を満たしていた。

 汐音、澪翔、紬葵――
 今まで、どこか距離を取っていた三人が、今、この場所で真正面から向き合っていた。
 言葉は、もう隠せない。
 心がむき出しになっていく。



 始まりは、ほんの些細なことだった。
 でも、積み重なっていたものが、一気に溢れ出す瞬間は、いつだってそういうものだ。

「……なんで、お前はそうやって他人事みたいな顔してんだよ」

 最初に声を荒げたのは、澪翔だった。

 校舎裏。
 放課後の冷たい空気の中で、彼は汐音を睨みつけていた。
 その隣で、紬葵もぎゅっと拳を握りしめている。

「私は……別に……」

「別に? ふざけんなよ」

 澪翔の声が震える。

「お前、全部分かってるくせに、なんで何も言わないんだよ!」

 その言葉に、汐音の心が波打った。

 分かってる?
 何を?

 ――そんなの、自分でも分からない。

「私に、何を言えっていうの」

「なんでもいい! お前が思ってること、考えてること、なんでもいいから言えよ!!」

 汐音は息を呑んだ。
 怒鳴られるなんて、久しぶりだった。

 でも、それよりも――

(……どうしてこの人は、こんなに必死なんだろう)

 澪翔の目は、怒りよりも、もっと深い感情を湛えていた。
 焦りと、悲しみと――孤独。



「……ずっと、逃げてたんだろ?」

 澪翔の言葉が、汐音の心を貫いた。

「誰にも関わらなければ、傷つかないって思ってるんだろ? でも、そんなの……結局、ひとりで傷ついてるのと変わんねーじゃん!」

「っ……!」

 汐音は息を詰まらせた。
 なぜ、そんなことを言うの。
 なぜ、そんなに踏み込んでくるの。

 ずっと、ひとりでいるのが楽だった。
 誰とも深く関わらなければ、痛みもない。
 それなのに――

「私のことなんて、何も知らないくせに……!」

 思わず叫んでいた。

「知らないよ! でも、知りたいって思うことはダメなのかよ!」

 澪翔の声が、雨の中に響く。

「俺だって……俺だって、ずっと一人で平気なふりしてた。でも、そんなの本当はクソみたいだった!」

 彼の肩が震えている。
 握りしめた拳が、痛々しいほどに強張っていた。



「……紬葵は?」

 静かに澪翔が言った。
 その視線が、紬葵に向けられる。

「お前も、何か言いたいことあるんじゃねぇの?」

 紬葵は少しだけ唇を噛みしめた。
 そして、ゆっくりと顔を上げる。

「……守れなかったんだよ」

 かすれた声だった。

「私が……汐音を……あの時、守れなかったんだ」

 汐音の心臓が跳ねる。

 ――その話は、したくなかった。
 ずっと、触れないでいてくれるはずだった。

「紬葵……もういい」

「よくない! 私は……あの時、汐音を助けられなかった。あの時、私がちゃんと守れていたら……!」

 紬葵の目から、ぽろぽろと涙が落ちる。

「……私は、あの時の後悔を、ずっと抱えてる。なのに……汐音は、私のことを遠ざけた……っ」

 震える声。
 泣きじゃくる紬葵の姿を見て、汐音の喉が詰まる。

(私は……)

(紬葵に、傷ついてほしくなかっただけなのに)



「もう……いいよ……」

 汐音は、かすれた声で呟いた。

「……全部、言うから」

 胸が、痛いほどに締めつけられる。
 それでも――言わなきゃいけない気がした。

「私は……怖かったんだよ」

「……」

「誰かと関わることが、怖かった……傷つくのも、傷つけるのも、全部怖くて……だから、遠ざけた……」

 初めて、心の奥の傷を言葉にする。

 雨音が、静かに響く。
 紬葵は泣きながら、ぎゅっと汐音の手を握った。

「汐音……」

「……ごめん」

「ううん……私も、ごめん……」



「……ったく」

 沈黙を破るように、澪翔が小さく笑った。

「やっと、話してくれたな」

 彼の目も、どこか潤んでいた。

「……俺も、ちょっと話していいか?」

 澪翔はそう言うと、少しだけ空を仰ぐ。

「俺さ……ずっと、笑ってるのが得意だったんだよ」

 雨が、彼の髪を濡らしていく。

「笑ってれば、誰も傷つけないし、誰にも本当の俺を見せずに済む。だから、ずっとそうやってきた」

 ふっと、自嘲するように笑う。

「でも……本当は、ずっと誰かに気づいてほしかったのかもしれない」

 その言葉に、汐音も紬葵も息を呑んだ。

「だから……今、こうしてるのが、不思議なんだよな」

 澪翔は汐音と紬葵を見つめる。

「お前らには、嘘つかなくてもいい気がする」

 静かな雨音の中で、三人は立ち尽くした。
 心がぶつかり合い、傷つけ合い――それでも、分かり合いたいと願った夜。

 その夜のことを、汐音はきっと、一生忘れない。