朝の光は、無遠慮に差し込んでくる。カーテンの隙間からこぼれる冷たい光が、汐音の頬を照らしていた。
 目を開けたくなかった。今日が始まるのが嫌だった。
 時計の針は、もうすぐ学校へ行く時間を示している。仕方なく体を起こし、ぼんやりとした頭で制服に袖を通す。鏡に映る自分を見ても、何も感じなかった。

「……行かなきゃ」

 誰かに待たれているわけじゃない。話しかけてくる人もいない。
 それでも、ただの義務として、汐音は学校へ向かった。



 いつものように、教室の隅の席に座る。窓の外を眺めながら、ただ時間が過ぎるのを待つ。
 誰かが楽しそうに笑っている声が聞こえる。でも、それは汐音には関係のない世界だった。

「――今日からこのクラスに転校生が来る」

 担任の言葉に、教室がざわついた。
 どうでもいい、と汐音は思った。新しい誰かが増えたところで、自分には何の影響もない。ただ、また一つ名前を覚えるのが面倒なだけ。

「じゃあ、自己紹介を」

 黒板の前に立つ少年は、少しだけ笑った。

「澪翔(れいと)です。前の学校では、あまり長くいられなかったけど……今度こそ、ちゃんと馴染めたらいいなって思ってます。よろしく」

 軽やかな声。
 けれど、その瞳の奥には、何かが沈んでいた。

(……あの人も、本当に笑ってるわけじゃない)

 汐音は思った。
 なぜか、それが分かってしまった。



 澪翔はすぐにクラスの輪に入っていった。誰にでも話しかけ、笑い、明るい空気を作る。
 けれど、その笑顔は、どこかで見たことがあるような気がした。

(あの人の笑顔、嘘っぽい)

 そう思った瞬間、澪翔と目が合った。
 一瞬だけ、彼の表情が揺らぐ。

「……汐音、だっけ?」

 話しかけられるとは思わなかった。汐音は何も言わずに目を逸らす。

「ふーん、そっか」

 それだけ言って、澪翔はまたクラスの輪の中に戻っていった。



 放課後。
 教室を出ようとした汐音の前に、紬葵が立っていた。

「……久しぶり」

 その声に、汐音の足が止まる。

 ――久しぶり。
 それは、本当は言いたくなかった言葉だ。

「別に」

 冷たく返すと、紬葵は少しだけ眉を寄せた。

「……ねぇ、汐音。本当にそれでいいの?」

「何のこと?」

「ずっと、ひとりでいること」

 うるさい。
 言葉にはしなかったけれど、汐音の心はそう叫んでいた。

「関係ないでしょ」

 そう言って、汐音は歩き出す。
 背中に、紬葵の視線を感じた。

 過去にあった、あの出来事。
 それを思い出しそうになって、汐音は頭を振った。



 帰り道、校門を出たところで、また澪翔に出くわした。

「おー、偶然だな」

「……何」

「いや、ただの挨拶」

 澪翔はまた笑った。でも、その笑顔の奥にあるものが、どうしても気になってしまう。

「……無理してない?」

 気づけば、そんな言葉が口をついていた。

 澪翔の表情が、ぴたりと止まる。

「……なんで?」

「なんで、って」

「なんで、そんなこと言うの?」

 声のトーンが変わる。
 明るさを装っていた笑顔が、ほんの少しだけ崩れた。

「君に何が分かるの?」

 汐音は、何も言えなかった。
 でも――分かる気がした。

 澪翔は、自分と同じだ。

 誰とも関わらないようにしているのではなく、誰かに触れることを恐れているのだ、と。



 家に帰ると、汐音はベッドに倒れ込んだ。
 澪翔の表情が、ずっと頭から離れなかった。

 あの目は、かつての自分と同じだった。

 傷つくのが怖い。
 壊れるのが怖い。
 だから、笑顔でごまかす。
 でも――本当は、ずっと誰かに気づいてほしかった。

(……バカみたい)

 そんなこと、考えたって仕方がないのに。
 汐音は目を閉じた。

 世界は、きれいごとじゃない。
 そんなこと、ずっと前から知っていた。

 それでも。

 澪翔の笑顔が、どこか寂しげに揺れるのを見てしまった今――

 もう、「何も感じない」ふりなんて、できなくなってしまった。