夕暮れが街を染めていた。

 その人混みの中を、掃除機のホースに吸い込まれた紙切れみたいに、僕は不器用にすり抜けながら歩いていた。

 気がつけば、足はいつもの場所へ向かっていた。

 

 マトイ書店の自動ドアをくぐると、ふわりと新しい紙の匂いがした。

 歌扇野市の中ではいちばん大きな書店だから、夕方の店内にはそれなりに人がいて、レジには数人が並んでいた。

 入り口近くのワゴンには、新刊の文庫がきれいに積まれている。

 

 このマトイ書店には、放課後になると、ほぼ毎日のように来ている。

 だけどそれは、読みたい本があるからというより、――他の理由だった。

 

 僕には、足りないものがあった。

 それを、補いたかった。

 

 クラスの中で笑い合ったり、放課後にどこかへ出かけたり。そんな思い出を、みんなは当たり前みたいに持っている。

 だけど、僕にはなかった。

 ただ教室にいて、声も出せずに、時間が過ぎるのを待っているだけ。

 

 だから僕は、本を読むことで、それを埋めようとした。

 物語の中の誰かの人生を追体験することで、自分にも思い出があるような気になりたかった。

 ――いや、むしろ、本の中の思い出のほうが、現実のそれよりもよほど綺麗で、意味があるように思えていた。

 

 小説の言葉ひとつひとつが、まるで粉砂糖のように、僕の欠けた心にそっと染み込んでくるようで。

 それだけで、少しだけ救われるような気がしていた。


 ……でも最近は、少し違ってきた気がする。

 

 以前なら、まっすぐ文庫の新刊棚に向かっていたはずなのに。

 今日の僕は、違う場所に意識が向いていた。

 

 背中に、ふと感じる視線。

 ほんの一秒だけ――そんな甘い気持ちで振り返ると、レジのほうから釣り銭の音が聞こえた。

 

 昨日も、一昨日も、なんとか気にせずに店を出ようとした。

 それでも、カウンター越しに聞こえてくるあの声が、どうしても耳に残ってしまう。

 

 松野瑞夏。
 その名前を、心の中でそっと繰り返した。