あれから、あっという間に日常生活に戻った。
朝、いつも通りに瑛人が迎えに来て、一緒に登校して、くだらない話をして、うちでゲームして――。
全部が、前と同じはずだった......けれど、どこか違っていた。
それは、ほんのわずかな“間”だったり、“距離”だったり。
手がふれそうになった瞬間に、瑛人がふと指先を引っ込めるとか。
何かに笑ったとき、目が合っても、すぐに逸らされるとか。
たぶん、ほかの誰も気づかない。でも俺にはわかる。
――あいつが、俺に触れなくなった。
まるで、本当に今までのことが、全部なかったことになったみたいに。
嵐山でのキスも、抱きしめられた腕も「好きだよ」って言った声も。
そして、俺が、あいつを傷つけたことも。
あのとき、「きもい」とか「そんなわけない」なんて、思ってもない言葉を、あんな言い方で言ってしまった。
ずっと胸の奥に引っかかってるのに、謝るタイミングがわからないまま、時間だけが過ぎていく。
――なぁ、瑛人。俺たち友達に戻れるのか?
何度も訊きかけて、けどそのたび、あいつの「何でもない」みたいな笑顔に、言葉が飲み込まれてしまう。
教室でも、廊下でも、ふとした瞬間に横顔を探してしまう。
触れられないことが、こんなに寂しいって、知らなかった。
昼休み。校舎の裏手にある中庭。
晴れてるのに、ときどき吹く風が冷たかった。
「......なあ、怜央」
「なんだよ?」
怜央には既に修学旅行の事件について話してあった。怜央は嫌がる素振りをしながらもなんだかんだ言って、よく話をきいてくれていた。
今日も横並びに座り、怜央は唐揚げを口に放り込みながら、気のない返事をした。
「俺、このままでいいのかな」
「......はぁ、またその話かよ」
怜央の箸が止まる。
「いや、このままじゃ友達に戻るどころか、瑛斗と離れてく気がするんだよ」
「ふーん」
怜央はあまり興味なさそうに相づちを打つ。でも、ちゃんと聞いてるってわかるから、続けた。
「今まで通りだけど、どこか距離があって......」
「ったく、なんで俺が、お前らの相談なんて聞かなきゃなんねーんだよ」
呆れたように言う声に、どこか優しさが混じっていた。
「......こんな話、怜央にしかできないんだよ」
少し間を置いたあと怜央が口を開いた。
「それの何が問題なんだよ」
怜央の声は静かで、でも強かった。
「えっ......」
「そりゃ、今まで通りになるには時間かかるだろ」
「そうだけど......」
俺はぎゅっと箸を握りしめて、俯いた。
「お前は、どうしたいんだよ。ずっとこのままでいいのか、それとも――」
「俺は......ずっとこのままなんて、嫌だ」
「じゃあ、ちゃんと向き合えよ。曖昧にしてんのは、お前のほうだって、わかってるだろ?」
怜央が食べかけの弁当をふたで閉じる。その音だけが、中庭に響いた。
「俺から言わせてもらえば、お前が素直になれば全部、丸く収まるんだけどな」
「......俺、瑛人のこと......」
言葉にならなかった。それを怜央は鼻で笑った。
「俺に言ったって意味ないだろ。本人に言えよ」
怜央はそう言って、立ち上がりこちらを振り返る。
「俺はもう戻るからな」
「......ありがとう、怜央。またなんか奢るから!」
「礼とかいいから、早く終わらせろよ。......ぐだぐだしてるお前ら見てるとイライラすんだよ」
「......うん」
そんな口調だけれど、怜央なりの優しさを感じた。
***
俺は重い腰をあげて、歩き出す。
ふと、視線を感じて顔を上げると、教室の窓から、瑛人がこちらを見下ろしていた。
目が合った瞬間、あいつの眉がピクリと動く。
「なにが『ただの友達』だよ......あー、こえー」
俺はべーと睨んでみせた。
あいつがどんな顔をしたか、見なくても想像がつく。
......蒼もわかってないよな。
俺と話すことが、あいつにとって一番嫌なことだって。
そもそもなんで俺が蒼の背中を押してやらなきゃなんねぇんだよ。意味わかんねぇ。
......なのに話を聞いてやるの、なんでだろうな。
蒼に特別な感情があるかって言われたら――正直、ない。俺の“好き”ってそういうのじゃない。たぶん。
顔がいいって理由で寄ってくる女は腐るほどいた。
でも俺の中身なんて、誰も欲しがっちゃくれなかった。
軽いノリも、チャラい態度も、そういう鎧だったんだ。けど......蒼はあっさり、その中を覗いてきた。
ちょっと、びびったよ。
蒼なら......もしかして、俺のこと、ちゃんと見てくれるかもって――思ったのかもしれない。
でもまあ、あいつらの世界に割って入ろうなんて、面倒くせぇことは考えてねぇよ。
ただ、それだとなんかムカつくんだよな。
もしもあいつらが本当に付き合ったら――また蒼にちょっかいでもかけてやるか。
あいつの反応、見るの面白いから。
***
それから随分と寒くなって、街はクリスマスの飾りで彩られていた。
教室でも「クリスマス、みんなでパーティーしようぜ!」なんて話が持ち上がって、自然と盛り上がった。もちろん、みんなフリー。毎年通りの、気楽な集まりになるはずだった。
なのに、瑛人が断った。
「......ごめん、俺、その日予定あるわ」
その一言に、俺は固まった。
今まで、一度もそんなことはなかった。クリスマスといえば毎年、俺の家でチキン食べて、ケーキ食べて――それが当たり前だった。俺の記憶のなかに、瑛人がいないクリスマスなんて、ひとつもない。
「お前、彼女できただろ?」
光輝がからかうように言って、冗談っぽく瑛人を指さした。
「最近、美香ちゃんとふたりっきりでいたの見たぞ!それに、美香ちゃんのあの顔、ぜってーそうだ!」
「美香ちゃんて、あの清楚な感じの子?」
「そうそう。あの顔はぜったいに恋してる目だったね!」
光輝の“名推理”に教室がわっと沸く。
「......そんなんじゃねぇよ」
瑛人は少し困ったように笑って言った。
その言葉に、正直、俺はほっとしてしまった。
だって、今までの瑛人には、そういう相手がいたことがなかったから。俺の隣には、いつも瑛人がいたから。
でも――
「最近、美香ちゃんに告白されてさ。......真剣に考えてみようかな、とは思ってる」
一拍遅れて、教室が静かになった。
「えぇー!?」
「あの瑛人が!?」
「信じらんねぇ!」
驚きの声が飛び交うなか、光輝が笑いながら俺の肩をバンと叩いた。
「おいおい、瑛人が取られちゃうぞ、蒼~?」
俺は笑うしかなかった。冗談に紛れて、言葉を飲み込むしかなかった。
――止める権利なんて、俺にはない。
その日、俺の頭の中は瑛人のその言葉でいっぱいだった。
放課後、瑛人と並んで廊下に出る。下駄箱で靴を履いていたら、美香ちゃんが瑛人を待っていた。
「瑛人くん、今日一緒に帰っても......いいかな?」
少し恥ずかしそうに、でもまっすぐな瞳で瑛人を見上げる美香ちゃん。その表情は、きっと嘘じゃなかった。本当に、瑛人のことが好きなんだろうなって思った。
俺の存在に気づくと、美香ちゃんは慌てて言った。
「あっ、ご、ごめんね!友達と一緒に帰るとこだったよね......」
俺は笑って、首を横に振った。
「いいよ。俺、ひとりで帰るから」
悟られないように、できるだけいつも通りの声で。きっと、俺が止めれば瑛人はそうしてくれた。でも、それはダメだって、どこかで思ってたから。
瑛人が誰かを見ようとしてるのに、邪魔なんてしちゃいけない。瑛人は一瞬、俺の顔を伺ったが笑って手を挙げた。
「じゃあ、また明日な」
美香ちゃんも嬉しそうに小さく頷いた。ふたりが校門を並んで出ていく。その後ろ姿が、なんだか知らない誰かみたいに見えた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
――結局、瑛人は美香ちゃんと帰ることを選んだんだ。
それが当然だってわかってる。美香ちゃんはちゃんと気持ちを伝えて、瑛人はそれに向き合おうとしてる。ただ、それだけの話だ。
でも......心のどこかで、ほんの少しだけ――期待してた。
『ごめん、蒼と帰るから』
そんなふうに言ってくれるかもしれない、って。バカみたいだ。そんなことあるわけないのに。
ふたりが校門を出ていくのを、俺はその場から動けずに見送っていた。
気づいたら、夕焼けが伸びて、校庭の隅に長い影が落ちていた。
どれくらいぼーっとしていただろう。
「......あ、蒼くん?」
小さな声に、我に返る。
振り返ると、そこには佐々木さんが立っていた。手にはまだ開けていない文庫本。
「今、帰り?よかったら......一緒に帰らない?」
そっと差し出されたその声に、俺はまっすぐに向き合った。
「......あの日の返事、してもいいかな」
佐々木さんの目が少し見開かれて、すぐに柔らかく細められた。
「うん」
そのひと言で、心がじんわりあたたかくなった。
俺たちは並んで歩き出す。ゆっくりとした足取りで、冬の駅へと向かっていった。
街灯のオレンジがアスファルトを照らしていて、吐いた息が白く光った。冬の匂いがして、胸の奥まで冷たい風が吹き抜けた。
「今日も寒いね」
「風、冷たいよな。そろそろ雪も降りそう」
そんなありふれたやりとりだけで、なんだか心が少しだけ落ち着いた。
けれど、駅の灯りが見えてきたころ、佐々木さんがぽつりと口を開いた。
「さっきの......美香ちゃんと瑛人くんのこと、ちょっと見えちゃった」
「......そっか」
言葉が出なかった。ただ、小さく頷いた。
「蒼くん、少し......さみしそうだった」
その一言に、胸の奥がぐらっと揺れた。
「......ううん、そんなことないよ。だって、俺には関係ないし」
「でも、きっと、関係あるよね。蒼くんにとって、瑛人くんは特別なんでしょ?」
俺は思わず立ち止まった。
その視線から、逃げられなかった。
「......どうして、そう思うの?」
「わかるよ。だって、ずっと蒼くんのこと見てきたから」
佐々木さんの声は静かで、優しかった。その顔が、まっすぐで、眩しくて、少しだけ目を伏せたくなった。
「佐々木さんは......すごく優しいし、俺なんかに告白してくれたの、ほんとにうれしかった」
そう言うと、佐々木さんはふんわり笑って、黙って続きを待ってくれた。
「でも......ごめん。俺......瑛人のことが頭から離れなくて」
言いながら、自分の胸の奥がきゅっと痛んだ。
曖昧にしていた気持ちに、やっと輪郭がついたみたいだった。
「だから、佐々木さんの気持ちには、応えられない」
しばらく沈黙が流れる。
でも、佐々木さんは怒ったり、悲しんだりすることもなく、少しだけさびしそうに笑った。
「そっか。でも最初から振られるってわかってたし」
「......ごめん」
「ううん。ちゃんと言ってくれて、ありがとう」
佐々木さんは、涙をこらえながら笑った。
「ごめんね......本当に」
「ううん、大丈夫。......ちゃんと自分で決めたことだから」
そう言って、目尻を指でぬぐう彼女は、少しだけ笑っていた。
その強さと優しさに、胸がぎゅっと締めつけられる。
しばらく、俺たちは黙ったまま歩いた。
そして、俺はぽつりと口を開いた。
「......あのさ、佐々木さん」
「うん?」
「告白って、どんな感じ......?」
言ってから、自分でも何を聞いてるんだと思った。
「......ごめん、こんなの佐々木さんに聞くことじゃないよな」
佐々木さんは少し驚いたように目を丸くして、それからふっと笑った。
「どうしても伝えたくなるの。好きって気持ちが、心に溢れて、言葉にしないと苦しくなっちゃう。怖いし、返事が怖くてたまらないけど、それでも......言いたくなるんだよ」
「......そっか」
瑛人もあのとき、同じ気持ちだったのだろうか。
「蒼くんも自分の気持ち伝えられるといいね」
「......うん」
たとえ、瑛人の気持ちがもう俺に向いていなくても......。俺は何も言わず黙り込む。
でも、佐々木さんはもうすべてをわかってるみたいに、少しだけ目を細めて笑った。
「私、振られちゃったけどね。......でも、後悔してないよ。ちゃんと気持ちを伝えられてよかったって、今は思ってる」
「......ありがとう、佐々木さん」
「うん。......がんばってね、蒼くん」
その声に、背中を押してもらって、俺は小さく頷いた。



