修学旅行3日目。

 旅館の食堂には、朝食をかきこむ声と、スーツケースのガラガラという音が混ざっていた。

 修学旅行も、いよいよ最終日。
 今日の行動は自由で、三時までに駅に集合すれば、どこに行ってもいいということになっている。

「悪い。俺、今日は部活のメンバーで回るわ」

 そう言ったのは隼人。お揃いのリストバンドを手首に巻いて、どこか嬉しそうだった。

「俺も最近いい感じの子に誘われちゃった」

 そう自慢げに笑ったのは光輝。まさかの展開だった。

「え、お前ら抜けるの?じゃあ、俺たちは......」

 戸惑っている俺に、瑛人がさらっと言った。

「俺らはふたりで回るわ」

 そのまま、当たり前のように俺の方を見て、にこっと笑う。

 その笑顔が眩しくて、なんかもう、逆らえなかった。

「......そうだな」

「お前ら、今のうちにトイレ行っとけよー。もうそろ出るからな」

 先生の声がかかると同時に、生徒たちが慌ただしく動き始めた。

「俺、トイレ行ってくる」

 立ち上がって、のれんをくぐって奥へ向かう。

 手を洗って、顔を軽く整えて、スッとトイレを出たところで――誰かとぶつかった。

「すみません......」

 軽く頭を下げながら顔を上げると、目の前にいたのは――怜央だった。

「......」
「......」

 気まずい。明らかに気まずい。
 俺はその空気に耐えられなくて口を開いた。

「......昨日は、部屋追い出してごめん」

 少しの沈黙のあと怜央がはぁと、ため息をはいた。

「......ホントだよ。おかげで、野郎と狭い布団で寝る羽目になった」

 冗談めいた口調に、肩の力が抜ける。怒ってるわけではなさそうだった。

「まぁ、俺はお邪魔だったわけだな」

「お邪魔まって......」

「瑛人に飽きたら、いつでも相手してやるよ」

「いや、それは結構です」

 いつものように笑う怜央の視線が、ふと俺の首元で止まった。

「......お前、それ」

「え?」

 何のことかわからなくて首を傾げる。すると怜央は鼻でふと笑った。

「......あいつ、マジ、独占欲強すぎ」

「な、なんのこと......」

 言いかけたところで、遠くから「怜央ー!」と誰かの声が飛んでくる。

「お、呼ばれた。じゃあな」

 くるっと背を向けて歩き出す怜央。

「おい、ちょ、結局なんなんだよ!」

 追いかけるように言うと、怜央は足を止めて、くるっと振り返った。

 そして、腰を少しかがめて、俺の耳元でぼそっと囁く。

「......キスマーク、ついてんぞ」

「......っ、は?」

 理解できずいる俺をおいて怜央は「じゃあな」と去っていく。

 慌ててトイレの鏡の前に駆け寄る。首元の服の襟をめくってみると――あった。うっすらと赤くなった痕が、くっきりとそこに残っていた。

「まさか......あいつ、寝てる間に......?」

「蒼?」

 不意に名前を呼ばれて、びくっと振り返る。

 瑛人が、のんびりした顔でトイレの入口に立っていた。

「早くしないとおいてかれるぞ」

 瑛人がいつも通り笑いながら言う。
 俺は思わず首元をギュッと押さえた。

「......もう行く」

 顔が熱い。絶対、今、真っ赤だ。

 俺は早足で瑛人の横をすり抜ける。
 バレてない、たぶん。......いや、バレてても言わないだけかも。
 考えれば考えるほど、脳みそがわーってなる。

 なに勝手にそんなことしてるんだよ。

 でも、本人に聞けなかった。
 言い出せないまま、俺はそのままバスへと向かった。

 キャリーケースをガラガラ引きながら、瑛人と並んで歩く。

「あ、キャリーケース貸して。重そう」

「平気」

「えー、貸せよ。筋トレになるし」

「どんな理由だよ......」

 苦笑いしながらも、キャリーケースを渡す。
 瑛人はひょいっと持ち上げて、そのまま軽々とバスのトランクへ積んだ。

 いつも通り。
 変わらない態度。
 ――むしろ、こっちが勝手に意識してるだけかもしれない。

 その“いつも通り”がちょっと悔しくて、俺はそっと首元を押さえた。

「......なあ」

「ん?」

 つい、口を開きかけたけど――

「......なんでもない」

「なんだよ、それ」

 笑う瑛人の顔を見て、ますます言えなくなった。

 ......いーや、今日はもう気にしない。
 忘れたことにして、最後の修学旅行を楽しもう。

 そう心に決めて、俺はバスの階段を踏んだ。

 朝の光が、瑛人の髪に反射してきらきらしてた。
 あの夜のことも、キスマークのことも、全部なかったみたいな顔をして。

 瑛人は、変わらず俺の隣に腰を下ろす。

「なんか、修学旅行ってあっという間だな」

「......うん」

 座席の窓に映った自分の顔を見ながら、小さく答える。
 その頬には、まだうっすら赤みが残っていた。

 バスが出発し、窓の外には、京都らしい町並みがゆっくりと流れていく。
 低く連なる瓦屋根、古びた木の格子戸、小さな川をまたぐ赤い橋。
 どれもどこか懐かしくて、目を奪われたまましばらく見つめていた。

 ふと、ガラスに映る自分の顔に目がいく。
 その横に、少しだけ身体を傾けた瑛人の姿がぼんやりと重なっていた。

 ガラス越しに視線を向けると――
 まるでタイミングを合わせたかのように、瑛人と目が合った。

 反射の中で、瑛人の口元がゆるんで、小さく笑う。

 ふと肩が触れたけれど、瑛人は何も言わず、そのまま座っていた。

 ......罪悪感、少しだけある。
 ちゃんと返事をしなきゃいけないのに、俺は曖昧にしてる。
 あいつはきっと、待っているのに。

 でも――

 瑛人と離れるなんて、考えたこともなかった。

 気づけば、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
 俺たちは、ずっと一緒にいた。保育園の頃から、気づけばいつもそばにいて、当たり前みたいに毎日を過ごしてきた。
 好きとか嫌いとか、そういう言葉の前に、“瑛人”という存在がある。

 あいつのことを考えると、胸の奥がぎゅっとなる。
 でも、その痛みと一緒に、どうしようもない安心感がある。
 他の誰にもない、あたたかい何かがある。

 きっと、ずるいのは俺の方だ。
 答えを出さずに、瑛人の優しさに甘えて。こうしてまた、同じ場所に座って、何も言わずにいる。

 そもそも、誰かと付き合ったことなんてないし、初恋がどんなものかも、ちゃんと知らない。

 だから俺はこの感情に名前をつけられずにいる。

「蒼、着いたぞ」

 ぼーっとそんなことを考えていると、隣から瑛人の声がした。

 はっとして顔を上げると、窓の向こうには、朝の光に包まれた嵐山の風景が広がっていた。
 やわらかい緑に覆われた山々が、静かに重なり合って連なり、その足元を、透き通るような水をたたえた大きな川が、ゆったりと流れている。
 川沿いの小道には、人の気配と一緒に、どこか懐かしいような風が吹いていた。

「バス、酔ったか?」

 心配そうに瑛人が覗き込んでくる。至近距離にあるその顔に、思わずどきりとした。

「......いや、ただちょっと考えごと」

 そう答えると、瑛人は安心したようにふっと笑った。

「そっか。ならよかった」

 バスを降りた瞬間、空気の質が変わった気がした。

 どこか澄んでいて、空気がおいしい。

 駅前の通りには、古風な町家づくりの店が並び、木の看板や格子戸が目を引く。
 観光地のざわめきの中にも、どこかゆったりとした時間が流れている気がする。

 店先には風鈴が揺れて、カラン、カランと涼しげな音が風に乗った。

「わあ......」と、小さくつぶやいた俺の隣で、瑛人も足を止める。

「めっちゃ雰囲気あるな。京都って感じ」

「うん......すごい、映画の中みたい」

 ふと通りの奥から、炭火の香ばしい匂いが流れてきた。
 串焼きか、それともみたらしか――お腹がきゅっと鳴る。

「食べ歩き、早速スタートか?」

 瑛人が笑いながら、俺の顔を覗き込んでくる。
 なんか、すごく嬉しそうで、目がきらきらしてて。

「もう、何食べるか迷う」

「とりあえず、片っ端から行こうぜ」

 そんな会話をしながら長い橋を歩き出す。

 まず立ち寄ったのは、路地の一角にあった湯葉チーズの店だった。

 とろっとした湯葉の中に、とろけるチーズ。
 一口かじると、優しい塩気とチーズの香りがふわっと広がる。

「え、めっちゃうま......」

「な?湯葉、正直ナメてた」

 ふたりして目を見合わせ、思わず笑った。

 そのまま通り沿いのコロッケ屋で揚げたてをゲット。
 サクサクの衣を割ると、ほくほくのじゃがいもに甘めのミンチがぎっしり詰まっていて、また無言で顔を見合わせて頷く。

 次に入った小さな店では、大きいサイズのシュウマイがお団子のように串に刺さっていた。
 熱々の肉汁がじゅわっと広がって、また「うまっ」「うま......」としか言えなくなっていた。

「蒼、次どこ行く?もう食べ歩きで満足してない?」

「いや、まだまだ行ける。でも......その前に、天龍寺とか寄ってもよくない?」

 お腹をさすりながら提案すると、瑛人が「賛成」と親指を立てた。

 天龍寺の中は静かで、敷かれた白砂と苔庭が見事だった。
 池の水面には青空が映り込んで、風が吹くたびに波紋が揺れる。

 派手じゃないけど、じんわりと心が落ち着く感じがした。

 それから、有名な竹林の道へと足をのばす。

 空を覆うようにそびえる竹の群れが、風にざわざわと揺れていた。
 その音はまるで、森が呼吸しているみたいだった。

「......すげぇ、なんか別世界みたい」

「ここ歩いてるとさ、自分がめっちゃ、小さく感じるな」

 竹の間から差し込む光が、瑛人の横顔をきらきら照らしている。
 なんだか言葉がうまく出てこなくて、俺はただ黙って、その横を歩いた。

 歩き疲れた頃、今度は甘いものが欲しくなって、たい焼きのお店に並んだ。

「これ、賞味期限1分だって」

「え、なにそれ。1分たったら腐るの?」

 受け取ったたい焼きは、ほかほかの生地に、あんこと厚めのバターが挟まっていた。
 そのバターがもう、見るからにとろけてて、端からあんこに染み出している。

 俺たちは店の端に移動した。

「うわ、これは絶対うまい」

「同時にかぶりつこうぜ!」

 せーの、でガブッとかじると、バターがじゅわっと溢れ出して、手に落ちそうになる。

「うまっ......バターえぐ......」

「口ん中、幸せすぎ.....!」

 頬張りながら感動していると――

「蒼、口についてる」

「え?」

 ぽかんとしている間に、瑛人の指がすっと伸びてくる。
 そして、唇の端に触れて、すっとバターを拭き取った。

「......っ!」

 抗議の声を上げる間もなく、瑛人はその指を自分の口元へ持っていって――ぺろりと舐めた。

「なめるなよ!!!」

 思わず大声を出してしまった。
 顔が一気に熱くなるのがわかる。

 瑛人はそれを聞いて、悪びれる様子もなく、楽しそうに笑った。

「ごめんって」

 からかうような声と、楽しげな笑顔。
 それがまた、腹が立つのに心臓をドキドキさせる。俺はわざとらしくそっぽを向いた。

 この三日間で、気づいたことがある。

 瑛人はいつも俺の歩幅に合わせて歩いてくれるし、さりげなく道路側を歩く。俺が疲れてきたら「ちょっと、休もうぜ」って声をかけてくれる。

 それに――この笑顔。
 こいつ、かっこいいんだよ。ほんと、むかつくくらい。
 女子に向ければ、きっと一発で落ちるやつだ。
 瑛人がモテるのは、顔がいいからだけじゃない。こういう優しさが、自然にできるところなんだ。

 それなのに......

「また考えごとか?」

 瑛人の声に、ふっと我に返って顔を上げる。

「なあ......なんで俺なんだよ。お前、女子からめちゃくちゃモテるのに」

 思わたず、口に出た。

 でも瑛人は、まっすぐな目で、迷いなく言った。

「俺は、蒼さえいればいい。俺が好きなのは蒼だから」

「お前......そんな恥ずいこと、よく......」

 こっちが恥ずかしくなりそう言う。
 瑛斗が一歩、近づいてきた。

「......え――」

 言葉が終わる前に、ふっと唇に柔らかな感触が落ちる。

 一瞬だった。
 でも、確かにキスだった。

 「......なっ、お前こんなとこで!」

 俺はあたりを見渡すが、幸い誰にも見られてなかったようだった。

「......そうだ。清子さんに、お土産買わないとな」

 わざとらしく明るい声で、話題を変えるように言って、
 そのままスタスタと歩き出す。

 その横顔は平然としていたけど、耳の先だけ、真っ赤に染まっていた。

 ......ほんと、あいつ俺のこと好きすぎだろ。

 ちょっと前まで、好きとか言われても困るって、思ってたのに。
 
 今は――キスされても嫌だと思わなかった。

 それがどういうことなのか......どこかで俺は、もうわかってる気がした。

 それから色とりどりの八つ橋、お団子、バームクーヘン。思いつくままに手に取って、買い物袋はもうパンパンだった。

 もう、そろそろ駅に向かわないと、集合時間に間に合わない。そう思ったタイミングで、瑛人が言った。

「最後にトイレ、行ってくる。蒼は?」

「俺はいいや。ここで待ってる」

「じゃあ、荷物頼んだ」

 そう言って、軽く手を振って歩いていく瑛人の後ろ姿を見送りながら、俺はベンチの近くでひと息ついた。
 そのとき、ふと目に入った見慣れた後ろ姿。

 ――隼人と光輝?

 あいつらも嵐山に来てたんだ。でもふたりは別行動だったのに。

 声をかけようと近づいた瞬間、光輝の弾んだ声が耳に入った。

「まじだって!」

 光輝の興奮した声が響いた。

「お前、なに言ってんだよ」

 隼人の声がそれにかぶさる。

「ほんとだって!瑛人が蒼にキスしてたんだよ!」

 ――。

 息が止まる。
 心臓が、鈍く、嫌な音をたてた。

 さっきの......見られてた?

「瑛人って、もしかして......」

 光輝のその続きを聞きたくなかった。
 瑛人が、あいつらにそんな目で見られるのが、たまらなく嫌だった。

「そんなわけないだろ!」

 気づいたら、叫んでいた。
 突然の登場にふたりは驚いたように目を開いた。

「あ、蒼。今の聞いて......」

「俺が瑛人とキスするとか、きもいこと言うなよ!そもそも俺ら、男同士だし!」

 勢いだけで言葉を並べる。けれど、声がちょっとだけ、震えていた。

 隼人が気まずそうに笑いながら「そう、だよな」とつぶやいた。
 
「悪い。お前ら、いつも距離近いからてっきり、そういうことなんだと思ってた」

「なわけないだろ。瑛人は......ただの、友達なんだから」

 口が勝手にそう動く。自分で言っておきながら、チクリと胸が痛むのを感じた。

「そうそう」

 後ろから聞こえた声に、心臓がもう一度跳ねた。

 振り向くと、瑛人がいつもの笑顔で立っていた。
 俺の肩に、ぽんと手を置く。あたたかくて、逃げ出したくなるくらい、優しい。

「距離近いって、昔からだしな?」

 その穏やかな笑顔に、俺はどこか気まずくなって、目を逸らす。あいつの気持ちを、裏切ったような気がして。

 ......さっきの聞かれてた?

 心の中でそう呟いた瞬間、罪悪感が胸を締めつけた。

「ほら、だからお前の勘違いだって言っただろ」

 隼人が割って入り、呆れたように肩をすくめる。

「まじか。ふたりともごめん!」

「いいよ、いいよ。っていうか光輝、お前......女の子はどうしたんだよ?」

 瑛人が、ごく自然な口調で話題を切り替えた。
 そのことが、なんだか余計に胸に刺さる。

 光輝は「あ」と思い出したように肩を落とした。

「途中からやっぱり友達と回るって逃げられた......」

「俺は前半は部活のヤツらといたんだけど、後半こいつが泣きながらお願いしてきてさ」

「泣いてねぇし!」

 ツッコミとともに笑い声があふれて、さっきまでの緊張がどこかへ流れていった。
 まるで、何もなかったみたいに。

「お土産買った?」

「さっき買った。八つ橋と......あとバームクーヘンも」

「なら、このまま駅に戻るか」

「そうだな」

「......もう、修学旅行終わりかー」

 光輝がぽつりと呟いた。
 誰もそれに応えなかったけど、みんな少し寂しそうな顔をしていた。

 ――もうすぐ、終わってしまうんだな。この旅も、そして、何かが。

 瑛人の手が、まだ肩に残る温度とともに、俺の胸の奥でなにかが、静かに揺れていた。

 俺は無意識に、隣に立つ瑛人の顔をちらりと見た。  ......やっぱり、さっきのこと、聞こえてたよな。
「きもい」とか、「そんなわけない」とか。

 一一俺、最低だな。

 なんでもないふりで笑ってたけど、あいつがどう思ったのかーー考えると、胸の奥がチクリと痛んだ。

 駅までの道を、俺たちは4人で歩いた。土産袋を揺らしながら、冗談を言い合って、笑いながら。

 電車に揺られて、駅に着くころにはもう夕暮れが近づいていた。
 修学旅行の最後の一日。楽しかったはずなのに、胸の奥に残るのは、モヤモヤとしたざらついた感情だった。

「じゃあなー!」

 隼人と光輝が手を振って、改札を抜けていく。

 俺はいつもの帰り道を瑛人とふたりで歩く。
 けれど、並ぶ足音は妙にぎこちなくて、さっきまでの嵐山での空気とは明らかに違っていた。
 沈黙が重くて、胸のあたりが落ち着かない。
 さっきのことが頭から離れなかった。あのとき俺が言ったこと、瑛人は聞いてたはずだ。あんなふうに否定して、ひどい言い方をして――。

 家の前まで来たとき、瑛人が小さく笑った。

「じゃあ、またな」

 それだけを言って、歩き出そうとする背中を――咄嗟に、俺は呼び止めた。

「......瑛人!」

 瑛人がぴたりと立ち止まる。
 俺は勇気を振り絞って口を開いた。

「あのとき......俺――」

「ごめん」

 俺の言葉を遮るように、瑛人が言った。
 その背中は、どこか寂しげだった。

「俺のせいだよな。蒼の気持ち、考えてなかった」

 淡々としてるけど、声の奥がかすかに揺れていた。

「一方的に好きになって、押しつけて......」

「ち、違っ――」

 否定しかけた声も、またかき消された。

「蒼は優しいから。押せば引けなくなるの、わかってたんだ」

 夕陽が赤く染める道の上で、ふたりの距離がそっと離れていく。こっちを見ずに、苦笑いのまま言うその姿に、なぜか言葉が出てこなかった。

「だから、もう......“友達”に戻るから。昔みたいに」

 また、“友達”――。

 その言葉が、ひどく遠く感じた。

 瑛人は振り返らなかった。
 背中越しに、ぽつりと最後の言葉が落ちる。

「もう、忘れてくれ」

 俺は何も言えず、ただ立ち尽くすことしかできなかった。