目を覚ますと、喉の痛みは引いていて、頭も軽かった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、やけにまぶしく感じる。

 ......治った、か。

 静かな部屋の中で、体を起こす。
 布団の中から出るのが少し惜しいくらい、肌寒い朝。だけど、この土日のおかげで体のだるさはもうなかった。

 制服に袖を通しながら、なんとなくスマホを手に取る。
 ロック画面に一件の通知。瑛斗からの連絡だった。

「委員会あるから、先に行ってる。無理するなよ」

 その一文を読んで、思わず小さく息を吐いた。
 ほっとする、というより、救われたような気持ち。

 あの日のことが、頭の中で何度もリピートしていた。
 あの距離、あの空気。心臓が苦しくなるくらい、近くて、優しかった。

 でも、今日また顔を合わせたとき、俺はどんな顔をすればいいのか、それがわからなかった。
 いや、いや、どんな顔もなにもいつも通り行けばいいんだよ。そう自分で頷いた。

 リュックを肩にかけ、ドアを開ける。

 朝の空気は少し湿っていた。
 俺はいつもよりまったり、と登校する。

 校門のちょっと手前まで来たところで、視界の端に人影が見えた。誰かと誰かが、揉めてる。
 一瞬、見なかったことにしようかと思ったけど――

 パシンッという音が、俺の足を止めた。

 思わず視線を向けると、女の子は今にも泣きそうな顔で立っていた。

「ほんとに私のこと、好きだったの?いつも言葉だけじゃん......!」

 男は無表情のまま、ふうっとため息をついていた。

「だから言っただろ。好きじゃなくてもいいって言ったのお前だし」

「もういい......ほんとありえない」

 女の子が、男の胸を叩いた。そのまま走り去っていく。

 残されたのは、頬を赤くしながら呆然と立ってる――あ、あいつ......怜央(れお)だ。
 クラスでも有名な、顔良し、ノリ良し、軽い感じのチャラ男。女の子とよく喋ってて、正直あんまり関わったことないタイプ。

 そのとき、目が合った。

 うわ、見てたのバレた――そう思った時には、もう遅かった。

「......お前、覗き見か?」

 怜央がこっちに向かって歩いてくる。
 顔は笑ってない。けど怒ってもない。ちょっと疲れてるみたいな目。

「......ごめん。見ちゃった」

 素直にそう言うと、怜央は鼻で笑った。

「いや、別にいいけど。どーせ、すぐ広まるし」

 そう言って、頬をさすった。

「......大丈夫か?」

「これが大丈夫、そうに見えるか?あいつ、本気で叩きやがって」

 それはそうか。俺は少しだけ、口をつぐんだ。いや、そもそもこの状況なに?気まづいんだけど......。
 そう思っていると、怜央はふうっと息を吐いた。

「『本当に私のこと好き?』とか今さら言ってんの。あっちが好きじゃなくてもいいから付き合って、って言ってきたくせにさ」

 なんか怒ってるというより、やっぱり疲れてる感じだった。

「......怜央って、優しいんだ」

 自分でも、なんでそんなことを言ったのかわからなかった。

「は、お前さっきまでのやり取り聞いてた?」

「いや、なんて言えばいいかわかんないけど......ちゃんと相手の気持ち、真に受けてるっていうか」

 怜央が黙った。
 ちょっと驚いた顔して、それから苦笑いみたいに笑った。

「......へー、俺のことそう見えるんだ。優しいなんて初めて言われたわ」

「そう? 俺はそう思ったけど......」

「お前、変わってんな」

 冗談のつもりはなかった。
 ただ思ったままを言った、だけだった。

 でも、その瞬間――怜央の目が、少しやわらかくなった気がした。

 怜央はちょっと黙って、俺のことを見た。何かを探るみたいな視線。けど、いつもの軽さはなかった。

「普通は“ドンマイ”とか“かわいそー”とか言うだろ」

「そういうの、なんか......失礼じゃない?」

「......はは。やっぱ、お前変わってるわ」

 そう言って怜央はふっと笑った。
 さっきまでとは違って、少しだけ柔らかい笑いだった。

「名前、なんだっけ」

「浅野蒼......クラス一緒なのに」

「あはは、じゃーな、蒼」

 怜央は軽く手を振り、先に昇降口へと歩いていく。
 俺はその背中を、しばらくぽかんと見つめていた。

 この出会いが、あとで面倒くさいことになるなんて、このときの俺はまだ知らない。

 そのまま、俺も教室に向かう。教室のドアを開けると、すぐに瑛斗がこちらを見つけた。

「もう、大丈夫なのか?」

 なんだ......別にいつも通りじゃん。そう思った俺は胸を撫で下ろして、すぐに軽く笑って答えた。

「もうバッチリ!」

 その様子を見ていた隼人が、隣の光輝と顔を見合わせて俺らを見る。

「おっ、仲直りしたのかー?」

「まぁ、短い喧嘩だったな」

 二人は笑いながら、俺たちをからかった。

「お前、その顔どうしたんだよ笑」

 不意に響いた笑い声に、俺たちは同時に顔を向けた。

 視線の先にははさっきまで話していた怜央がいた。けれど、今は教室の後ろの方で、数人の友達に囲まれて笑われている。

「マジでまた振られたのかよ、怜央〜?」
「お前、恋愛偏差値だけマジで低いよな」
「いや、それでも付き合えてるんだからすげーだろ」

 からかい半分、羨望半分。けど怜央は肩をすくめて、めんどくさそうに笑っていた。

「あいつ、また振られたのか?」と光輝もぼそっとつぶやいた。

「どうせ、またすぐ彼女できんだろ」

「顔いいやつはイケすかねぇ!」

 光輝が眉をひそめる。でも、口調にそこまで悪意はない。むしろネタにしてる感じだ。

「俺らの学年ってさ、怜央派か瑛人派で別れるよな〜」

「なんだよそれ」

 瑛斗が笑う。

「いや、マジで。“チャラいけどモテる怜央”と、“一途で優しい瑛人”で、女子の好みが頷いれるってやつ」

「俺たちはもちろん瑛人派だぜ!」

「はい、はい。ありがとな」

 至近距離の光輝に瑛斗は苦笑して、手で軽く払い除ける。

「あいつ、可愛い子なら誰とでも付き合うんだってよ」

「くっ、羨ましい」

 隼人がわざと悔しそうに肩を落とす。

 それを聞きながら、俺はぼんやりと怜央の方を見ていた。

 チャラい、イケメン、すぐ彼女できる――たぶん、そういう表面的なイメージが、あいつにまとわりついてるんだろうな。でも、本当の怜央はどうなんだろうって、ちょっとだけ思った。

「おい、蒼。どうした?」

 瑛斗の声に、俺は顔を上げた。

「あ、いや。なんでもない」

 まぁ、もう話すことないだろうけど......。

***

 6時間目のチャイムが鳴る。

 窓の外は晴天で、ほんの少し、風が涼しい。

「今日のLT、何するんだろ......」

 俺がぼそっとつぶやくと、隣の席の瑛斗が机に突っ伏したまま声を出す。

「もう帰りてぇ......」

「早ぇよ」って笑いながら小声で返すと、瑛斗は少しだけ顔を上げて、笑った。

 そのタイミングで教室のドアが開き、担任の先生が入ってくる。

「おーい、今日はこの時間使って、修学旅行のバスと部屋決めやるぞー」

 その一言で、教室が一気にざわついた。

「えっ、マジ?」
「やっと、その話きたー!」
「もうそんな時期かー!」

「よっしゃー!!」と誰かが拳を上げて、それに釣られてさらに盛り上がる。

「修学旅行って京都だっけ?」

 俺は曖昧な記憶を思い出す。

「そうそう、うちの学校は2泊3日で京都と奈良だって」

「食べ歩こう~!」

「絶対、湯葉チーズ食べたい」

「抹茶スイーツ制覇しようぜ」

 あっという間に、教室中がワイワイと修学旅行モードになる。

「みんな盛り上がってんな」

 ぽつりと俺が言うと、瑛斗がまた顔を起こしてこっちを見る。

「お前は? 修学旅行、楽しみじゃねぇの?」

「え、楽しみだよ。鹿とか」

「あははっ!鹿かよ」

「いや、別に笑わかせようとしてないんだけど!」

 慌てて言い訳すると、瑛斗は目を細めて笑った。

「いや、なんか......お前っぽいなって思っただけ」

 その一言に、少しだけ胸がくすぐったくなった。

「男子は全部で15人だから、グループは5人ずつ、3つ作れ。多くても少なくてもダメだ。はい、急げー」

 先生の声が響くと、男子たちはざわつきながら集まり出す。

 俺たちは自然と――俺、瑛斗、隼人、光輝で集まった。いつもつるんでるメンバーだから、流れはスムーズ......だったけど。

「俺ら、4人だったな」

 光輝がつぶやいて、みんな一瞬顔を見合わせる。

「誰か、あとひとり」

 ちょうど、そのときだった。

「――おい、怜央! いいかのよ?」

 誰かが声をかけるのが聞こえた。

「んー?あぁ、 俺があっち行くわー」

 軽い声とともに、怜央が歩いてくる。

「蒼ー」

 俺の名前をやけに親しげに呼んで、にこっと笑う。

「うちのグループ、6人だからさ、俺こっち入ってもいいか?」

「え、うん。俺は全然......」

 と答えつつ、俺はそっとみんなの反応を見た。

「こっちもひとり足りなくて困ってたんだよ!」

「助かるわ」

 隼人と光輝が、あっけらかんとした声で言う。

「......瑛斗は?」

 一瞬、間があった。

「......いいけど」

 少し低めの声。そのトーンに、なんとなく引っかかるものを感じたのは俺だけじゃなかったと思う。

「じゃあ、よろしくなー」

 怜央は明るく笑って、ひらっと手を振って一度自分の席に戻っていった。

 その場がふっと静かになる。

 そして、ぽつりと声がした。

「......なぁ、蒼」

「えっ?」

 横を見ると、瑛斗がこっちを見ていた。表情は変わらないけど、目だけがじっとしていた。

「お前、いつから怜央と仲良くなったんだ?」

「え、別に......仲良くなったわけじゃないけど。さっき、たまたま話して」

 言葉を選びながら答えると、瑛斗は目をそらして、ふっと短く息を吐いた。

「......そっか」

 なんてことない一言。でも、そこに少しだけ棘があった気がして、俺は言い返せずに黙ってしまった。

 あのとき......俺が佐々木さんに告白されたときと同じ目だった。怒ってるわけじゃない。なのに、どこか冷たくて、遠い。

 ――なんなんだよ、あれ。

 最近、こんなことばっかだ。

 瑛人のことを気にして、言葉を選んで、反応を気にして......。前までは、もっと楽だった。何も気を使わなくてよくて、アホみたいなことで笑って、くだらないことで張り合って。

 それが、あのとき、告白されて――
 き、キスされて......あいつが勝手に、友達じゃなくなった。

 大体、瑛人のことで頭いっぱいで佐々木さんの告白だって返事できてないままなのに。

 俺が瑛人の告白を断ったとして......それで、俺たちはまた前みたいに戻れるのか?

 冗談みたいな話して、肩とかどつきあって、バカみたいに笑って。

 そういう関係に、戻れるのか?

 ......わからない。

 今の瑛人の視線が、「友達」として俺を見ていた頃のものとは、確かに、違っていたから。

 そもそも俺は瑛人のことをどう思っているんだろう――