次の日、俺はいつもより早く家を出た。

 瑛斗とは毎朝、待ち合わせて一緒に学校へ行くのが当たり前だったけど、今日はとてもそんな気分になれなかった。だから、わざと早く家を出た。

 ――昨日のことなんて、考えたくなかった。

 いつもの教室に入り、黙って席に着く。まだ周りには数人しかいない。ぼんやりと窓の外を眺めながら、時間が過ぎるのを待った。

 やがて、いつものように賑やかな声が教室に響き始める。

「あぁ、おはよう」

 瑛斗の声だ。

 だけど、俺は顔を上げなかった。いつもなら軽く手を上げて挨拶するのに、今日はできなかった。

 瑛斗は俺の隣の席に来たはずなのに、何も言わない。俺も、何も言わない。

 ――気まずい。

 けど、どうしても目を合わせられない。

「ん? お前らどうした?」

 不意に、光輝の声がした。俺と瑛斗を交互に見比べながら、首を傾げている。

「なんか空気おかしくね?」

 隼人も怪訝そうな顔をしている。

「まさか......喧嘩した?」

 軽い調子で言われたその言葉に、俺は思わず肩をこわばらせた。

「いや、別に」

 俺はそっけなく答え、ノートを開くふりをする。

「えー、まじか!ここふたりが喧嘩するとか珍しいな!」

 光輝がニヤニヤしながら言う。

「おい、何したんだよ。なぁ、瑛斗?」

 瑛斗に話を振る光輝だったが、瑛斗は無言だった。

 俺は思わず瑛斗の方をちらっと見てしまった。

 瑛斗は、俺を見ていなかった。

 ――なんでだよ。

 昨日あんなことをしてきたくせに、なんでそっちまで黙るんだよ。

 俺は奥歯を噛みしめて、また視線をノートへと戻した。

 体育の授業で、今日はサッカー。

 ペアを組むことになり、俺は当たり前のように瑛斗を見た。いつもなら、何も言わなくても瑛斗が「蒼、一緒にやるぞ」って声をかけてくる。

 でも――

「隼人、組もうぜ」

「お、いいじゃん!」

 ......は?

 思わず固まった。俺のすぐそばを、瑛斗と隼人が並んで通り過ぎる。

 いつもなら俺を誘うのに。俺はなんだか腹が立って対抗するように光輝を呼んだ。

「光輝、一緒にやるぞ!」

「おー、いいぞ。お前と組むの久しぶりだな」

 モヤモヤした気持ちのまま、俺は光輝とペアになり、試合をすることになった。

 ***

 試合が終わり、俺のチームは休憩時間。グラウンドでは、瑛斗たちのチームが試合をしている。

 俺は気がつけば自然と目で追っていた。

 瑛斗は、やっぱりかっこよかった。
 スピードのあるドリブル。相手を軽やかにかわす。絶妙なタイミングでパスを出し、ゴール前では迷いなくシュートを決める。

「ナイス!瑛斗!」

「お前、キレッキレじゃん!」

 周りのやつらが楽しそうに盛り上がる中、瑛斗は笑いながら、仲間と肩を組んでいた。

「......」

 なんだよ、それ。昨日は俺のこと好きだのたんだの言っときながら何もなかったかのような顔しやがって。

 なんで、あんな楽しそうなんだよ。

「って、俺、なんでこんなに気にしてんだ......!?」

 俺は頭を全力で左右に振り、頭を切り替える。

「あいつがそう来るなら俺だって」

 小さく呟いた、その瞬間――

「——ッ!!?」

 突然、衝撃が走った。
 視界が一瞬、真っ白になる。

「蒼!?大丈夫か!?」

 周りがザワつく。
 何が起こったのか理解する前に、ツーッと鼻の下に熱い液体が流れる感触があった。

「うわっ、鼻血出てる!」

「誰だよ、ボール飛ばしたの!」

「ご、ごめん、蒼!変な方向に蹴っちゃって......!」

 混乱する声が飛び交う中、誰かが俺の肩を掴んだ。

「蒼、大丈夫か?」

 鼻血を垂らしながらぼんやりしている俺の前で、瑛斗がしゃがみ込む。さっきまでの試合で汗をかいたままの瑛斗の顔が、すぐ目の前にあった。

「あ、あぁ、大丈夫......」

 声を出そうとしたけど、なんか変に喉が詰まる。
 近すぎる。顔が近すぎるんだよ......!

「先生、どこ行ったんだよ!」

「蒼、立てるか?」

 周りがザワつく中、瑛斗がすっと手を差し出してきた。

「......ほら、保健室行くぞ」

「いや、俺一人で行けるって......」

 そう言いながら立ち上がろうとした瞬間――

「っ……!」

 ズキッとした痛みが走り、膝がぐらついた。そのままバランスを崩しかけた俺の腕を、瑛斗がしっかりと掴んで支える。

「おい、無理すんな」

 瑛斗の腕に引っ張られる形で、俺の身体が瑛斗に寄りかかる。

 近い。心臓が跳ねる。

「ったく......ほら、乗れ」

「いや、いい!大袈裟すぎるって!」

「いいから乗れ。血垂らしながら歩くよりマシだろ」

 そう言うと、瑛斗は俺の返事を待たずにぐっと俺の腕を引いた。
 一瞬、視界が揺れる。気づけば、瑛斗の背中に俺は乗せられていた。

「お、お前......!」

「暴れるなって。鼻血また出るぞ」

 そう言いながら、瑛斗は軽々と俺を背負って歩き出した。

「王子様かよ!」

「きゃーっ!私も瑛斗くんにされたい♡」

 周りから冷やかしの声が飛ぶ。
 俺は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら、瑛斗の肩をぎゅっと掴んだ。

「お前な......」

「何だよ?」

「......かっこつけすぎ」

「別に? いつも通りだろ」

 瑛斗の背中越しに聞こえる声は、やけに楽しそうだっ た。

「はぁ......鼻血とかマジでダサいわ」

 俺はため息混じりに呟きながら、ティッシュを鼻に詰める。
 保健室の静かな空間に、俺と瑛斗の二人だけ。カーテンの向こう側には誰もいない。

「しょうがねぇよ。不意打ちだったしな」

 瑛斗はベッドの横に座りながら、軽く笑う。

 さっきまでの体育でかいた汗がまだ少し残っていて、髪の毛が少し湿っている。
 それなのに、なんか......妙にかっこよく見えるのがムカつく。

「いや、でもさ......よりによって顔面直撃って......」

「まぁ、お前らしいけどな」

「どういう意味だよ!」

「んー?」

 大丈夫。ちゃんと今だって話せてる。
 瑛斗は悪戯っぽく口元を緩めながら、俺の顔をじっと見てくる。

「な、なんだよ」

「いや......鼻血止まった?」

「止まったけど......痛っ」

 俺は思わず目元を擦る。どうやら顔面にボールが当たった衝撃で、砂が目に入ったらしい。

「おい、擦んな」

 瑛斗が軽く俺の手を払って、俺の顔をグイッと自分のほうへ向ける。

「ちょ、大丈夫だって」

 文句を言いつつも、瑛斗の顔があまりにも近くて、心臓が跳ねた。昨日のことを思い出してしまう。
 俺の目元をじっと覗き込みながら、そっと指先で瞼を押さえる。

「んー......赤くなってるけど、傷とかはなさそうだな」

 低い声でそう言われると、なんか変に意識してしまう。
 瑛斗の指先がまだ俺の顔に触れているせいか、心なしか体温が上がった気がした。

「......何、意識してんの?」

 ふっと瑛斗が口元を緩めて、からかうように笑う。

「はぁっ!? してねぇし!」

 俺は反射的に声を上げたが――それがまるで図星を突かれたみたいで、余計に悔しくなった。
 まんまと瑛斗の策略にハマったみたいで納得いかない。

「ふはっ、お前ほんとわかりやすいよな」

 瑛斗はクスクス笑いながら、軽く俺の髪をくしゃっと撫でる。

「っ......ふざけんな」

 ムカついて瑛斗の手を振り払おうとした瞬間、瑛斗の表情がふっと真剣になる。

「昨日のこと――あれ、嘘でも冗談でもねぇから」

 低く静かな声。

 いつも余裕そうに笑ってる瑛斗が、今だけはやけに真剣な目で俺を見つめていた。

「お前......」

 言いかけた声が、喉の奥で詰まる。

 瑛斗の目が、まっすぐ俺を見つめている。
 さっきまでのからかい混じりの笑顔じゃなくて、本気の顔。

 俺の心臓が、痛いくらいに跳ねた。

「すぐにとは言わないからさ」

 瑛斗は俺の反応を待たずに、ゆっくりと続ける。

「少しずつでいいから、俺のこと意識してよ」

 普段の瑛斗からは想像もつかないくらい真剣で、優しくて――なんか、ずるい。

「......っ」

 何か言わなきゃ、と思うのに、喉が固まって声が出ない。

 瑛斗の手が、俺の前髪にそっと触れた。

「......ほら、ここ。ボールの跡、ちょっと残ってる」

「えっ?」

「痛む?」

「いや、平気だけど......」

 こんな距離で見られたら、余計なこと考えそうになる。

「お前さ」

 瑛斗が不意に口を開く。

「さっき、俺の試合ずっと見てただろ」

「――はっ」

 思わず、変な声が出た。

「見てない......!」

 慌てて否定しようとするのに、瑛斗はニヤッと笑う。

「嘘つけ。気づいてたし」

「......っ」

「俺のこと意識しないとか言いながら、目で追ってたじゃん」

「~~~っ」

 否定したいのに、言葉が出てこない。
 何でこいつ、そんなことまで見てんだよ......!

 俺が視線を逸らすと、瑛斗は軽く笑ったあと、ふっと真剣な顔に戻る。

「だからさ」

「――これからも、もっと意識させてやるよ」

 俺の肩をポンッと叩いて、瑛斗は軽く微笑んだ。

 それはいつものふざけた笑顔とは違って、どこか優しさを含んだものだった。

 俺は――

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるのを感じた。

 ......なんだよ、それ。

 こんなふうに、ずるい顔して。
 からかうみたいに、でも本気みたいに言って。

 お前のそういうところが――

「......っ」

 気づいたら、俺は瑛斗の制服の袖を軽く掴んでいた。

「......お前」

「ん?」

「......ずるい」

 絞り出すように言った俺の言葉に、瑛斗は少し驚いたように目を見開く。

 それから、ふっと柔らかく笑った。

「そう?」

「......そうだろ」

「そっか」

 瑛斗は苦笑するように言って、それから俺の手をそっとほどく。でも、そのまま手を離すんじゃなくて、軽く俺の指に触れて――

「ま、これからもっとずるくなるかも」

 そう言って、俺の手をポン、と叩いた。

 俺は――それ以上、何も言えなかった。

 胸が、熱くて苦しくて。
 頭の中がぐちゃぐちゃで。

 わけがわからないまま、瑛斗の笑顔をただ見つめるしかなかった。