まだ小さかった俺の家は、いつもどこか冷えていた。

 お母さんとお父さんがよく喧嘩してて、怒鳴り声が響くたび、俺は布団の中で耳を塞いだ。
 気づいたら、ふたりは離婚していて――お母さんは夜も仕事を掛け持ちするようになった。

 まだ小さかった俺は、よく蒼の家に預けられていた。

 蒼の家のリビングは、ほんのり味噌汁の匂いがして、清子さんが優しく迎えてくれた。
 けど、誰にも言えない寂しさは、ずっと胸の奥に沈んでいた。

 夜になると、俺と蒼は並んで布団に入った。

 しんとした部屋の中で、蒼の寝息が聞こえてくると、少しだけ心が落ち着いた。
 でもどうしても眠れない夜もあって、俺は小さな声でつぶやいた。

「......さびしい」

 そしたら、蒼が寝返りを打って、ぼんやりとした目で俺を見た。

「......瑛斗?」

 気づかれたかと思って黙っていると、蒼はふっと笑って、優しい声で言った。

「俺がいるから大丈夫だよ」

 その言葉は、ぽんと胸の真ん中に灯るみたいに、あたたかかった。

「瑛斗はもう俺の家族だ」

 俺は何も言えずに、ただ黙って蒼の腕にくっついた。

 蒼はそれ以上何も言わず、俺の背中をぽんぽんとやさしく叩いてくれた。

 あの夜のことは、ずっと忘れられない。

 蒼は覚えてないかもしれないけど――
 それが俺にとって、どれだけ嬉しかったか、蒼は知らないだろうな。

 ***

「......瑛斗、起きろ!ほら、初詣、行く時間だってば」

 耳元で囁く声に、まぶたがゆっくり開いた。

 ぼんやりと目をこすって顔を上げると、蒼の顔がすぐそこにあった。
 毛布の隙間から冷たい空気が入り込んで、少し背中がゾワっとする。

「......夢、見てた」

「どんな夢?」

「......昔の。蒼の家で一緒に寝てた頃の」

 そう言うと、蒼が一瞬、目を見開いた。

「なんだよ、それ」

「あー、もうさっむ。蒼、もう少し寝ようよ」

 俺は蒼にしがみついた。うっすら赤くなる顔を見つめる。

「ほかのやつにそんな顔するなよ」

 思わず蒼の顔に手を伸ばす。

「......瑛斗に、しかしない......」

 その一言だけで、胸の奥がじんとあたたかくなった。

 こんな可愛い蒼、俺だけが知っていればいい。誰にも知られたくない。自分にこんな感情があるなんて思わなかった。

「ほんと、起きないと!」

 蒼が手を伸ばして、俺を立ち上がらせる。

 その手をしっかりと握った。あのとき、布団の中で握りたかった手を、今はちゃんとこうして――。

 もう、寂しくなんかない。

 今はもう、ふたりで歩いていける。

  ***

 年が明けた朝。
 まだ空はぼんやりと白んでいて、町全体がひっそり静かだった。

 外に出た瞬間、ぴりっとした冷たい空気が肌を刺す。

「......寒い」

 ついぽつりとこぼした声に、瑛斗が立ち止まる。

「蒼、こっち向いて」

 そう言って、俺の前に立つと、瑛斗が自分のマフラーを外して巻いてくれた。

「いいよ......お前が寒くなるだろ」

 遠慮がちにそう言った俺に、瑛斗はふっと笑って首を振った。

「平気。俺は寒くないから」

 そう言うくせに、瑛斗の鼻は赤くなっていて、その姿がなんだかおかしくて、俺はつい笑ってしまった。

「......ありがとな」

 ......ほんと、こいつ、かっこいいな。
 ズルいくらい、かっこいい。
 俺なんかじゃ、もったいないくらいだ。

 俺なんて――って、ずっと思ってた。
 
 取り柄もないし、面白い話もできないし、顔だって地味で勉強も運動もそこそこ。人に自慢できることなんて、ひとつもないのに。
 それでも、瑛斗は俺を好きだって言ってくれた。何度も、まっすぐに。

 だからもう、下を向いてばかりじゃいられない。
 こんなふうに、大切にされてる自分に少しくらい自信を持ってみようと思った。

 ......今は、ちゃんと胸を張って歩ける。
 このマフラーと、あったかい気持ちを巻いたまま、瑛斗の隣を歩いていける気がした。

 それから寒い外の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺たちは神社に向かった。

 境内へと続く参道は、初詣の人たちでにぎわっていて、吐く息が白く溶けていく中、俺たちは光輝と隼人と無事、合流した。

「蒼、瑛斗、あけおめ!」

 そんな声に混じって、俺たちも「ことよろー」と笑い合う。

 みんなで他愛ない会話を交わしている中で、俺は隣に立つ瑛斗に、そっと視線を送る。

 瑛斗も俺を見て、ふっと笑った。

 小さく「よし」と呟くと、みんなの輪の中で一歩前に出る。

「ふたりに話したいことがあるんだ」

 ふたりの視線が、ピタッと俺に向いた。

 緊張している俺の手を、瑛斗はそっと握る。その温度に、心が落ち着いた。

  そして、俺たちが付き合っていることを打ち明けた。

 一瞬、空気が止まった気がした。

「......マジで!?」

 最初に声を上げたのは光輝だった。隼人は目をまんまるにして、ぽかんと口を開けている。

「今年、入っていきなりビッグニュースすぎだろ!」

 隼人も口元を緩めて「まぁ、お前ら最初から距離感おかしかったもんな」とぼそっと言って、俺の肩を軽く叩いた。

 引かれるかもしれないとも思ってた。けど、ふたりとも、普通に笑ってて。

「......ほんとに、引いたり......してない?」

 思わず口からこぼれた問いに、光輝が「は?」と眉をひそめた。

「引くわけないじゃん。驚いたけどさ、なんかわかるってかいうか」

「そうそう。瑛斗なんて最近めっちゃピリついてたもん。なんかあったんだろうなって」

 隼人の言葉に、瑛斗がばつの悪そうに頭をかく。

「お前ら、そんなにわかってたのかよ......」

「ま、詳しく聞こうとは思わなかったけどな。ふたりが自分から話してくれるまで、待ってた」

 光輝がそう言って、まっすぐ俺を見る。

「だからさ、今こうして話してくれて、うれしいよ。ありがとな」

 その言葉に、喉の奥が詰まるような感覚がした。

「......うん。ありがとう」

「じゃあ、やっぱ修学旅行のとき俺、野暮なこと言ったじゃん。まじごめん!!」

 光輝がこちらに手を合わせて謝る。

「まぁ、ふたりともお幸せに?」

 隼人の冗談めかした言葉に照れて俯くと、瑛斗が俺の手をぎゅっと握り直した。

 それから初詣の参拝も無事に終わって、屋台が立ち並ぶ参道を、俺たちはわいわいと歩いていた。

「うわ、りんご飴あるじゃん!食べたい!」

 隼人が目を輝かせて突っ込んでいくと、光輝も笑いながらついていく。

 俺と瑛斗は少し後ろから、ふたりの様子を眺めていた。

「蒼は何、食べたい?」

「焼きそば食べたい!」

 並んで歩くうちに、瑛斗の手が自然と俺の手を探して絡んでくる。昼間ならちょっと気になったかもしれないけど、周りはお祭りの空気で騒がしく、誰も俺たちのことなんて見ちゃいない。

「......なに?」

「んー、別に。ただ手、つなぎたかっただけ」

「......甘えすぎ」

 そう言いつつも、俺も少しだけ指をきゅっと握り返す。冬の冷たい空気の中で、瑛斗の手はじんわりとあたたかかった。

 焼きそばを瑛斗と半分こして頬張る。イカ焼き、チョコバナナ、たこ焼き......気づけばふたりとも、お腹がパンパンになっていた。

「もう食えねぇ......」

「ちょっと食べすぎたかもな......」

「そもそも、あいつらどこ行ったんだよ」

「途中から見失ったよな」

 苦笑しながら境内の端に腰を下ろしたときだった。

「あれ?......ない」

 瑛斗が突然ポケットをまさぐって顔をしかめる。

「どうしたの?」

「お守り......落としたっぽい」

「えっ、さっきの屋台のとこか?」

「たぶん......」

 慌てて立ち上がる瑛斗の背中を見つめながら、俺も小さくため息をついて立ち上がった。

「ほら、行くぞ。ふたりで探せば見つかるって」

「......蒼、やさし......好き」

「それ、今は言わなくていいから」

 でも、そう言いながら俺の口元は自然と笑ってしまっていた。

 参道を逆戻りしながら、落ち葉の隙間や屋台の脇を見て歩く。

「どこで落としたんだ......。お守り落とすとか罰当たりすぎる」

 瑛斗が苦笑混じりに言ったその時、俺の視界に赤い紐のついた小さな布袋がちらりと映った。

「......あ、これ」

「あっ!それそれ!」

 しゃがんで拾い上げると、そこには小さく「恋愛成就」と刺繍された文字があった。

「......恋愛成就?」

 思わず声に出すと、後ろにいた瑛斗が顔を赤くするのがわかった。

「......これ、いつ買ったんだ?」

「......修学旅行のとき」

「えっ?」

 俺が思わず聞き返すと、瑛斗は視線をそらして、ぽつりと答えた。

「俺さ、あのとき......蒼のことで、いっぱいいっぱいだったからさ。もう、神頼みするぐらい余裕なくて」

 そう言って、瑛斗は照れ隠しのように笑ったけど、その笑顔の奥に少しだけ滲む寂しさを、俺はちゃんと感じた。

 俺は、お守りをそっと瑛斗の手に戻してやる。

「じゃあ、次はふたりでお礼言いに行かなきゃな」

 そう言うと、瑛斗は一瞬きょとんとして、それからふっと柔らかく笑った。

「でも、俺ら受験生だよ」

「うっ」

 俺は思わず声が出る。完全にそのことを忘れていた。瑛斗としたいことたくさんあるのに。そんなことしてる暇なんてないだろうなとなんだか寂しくなった。

 俺は、ふと口を開く。

「なあ、瑛斗ってさ......どこの大学、志望してんの?」

 すると、瑛斗は少し考えてから、ちょっと照れくさそうに笑った。

「んー、第一志望は南大。学部はまだ迷ってるけど......。一応、そこ目指してる」

「そっか」

 俺は小さくうなずいた後、ぽつりとこぼすように言った。

「......俺も、そこ目指してみようかな」

 瑛斗の足が止まる。

 驚いたように俺の顔を見て、数秒、口をぱくぱくさせてから。

「......マジで?」

「うん。だって、その方が瑛斗といられるだろ?これからも一緒がいいから」

 俺がそう言うと、瑛斗はゆっくりと、でも確実に顔を綻ばせて、すごくうれしそうに笑った。

「やば......それ、めっちゃうれしいんだけど」

 うれしそうにしてたのもつかの間、瑛斗が何かを思い出したように「あっ」と声を漏らす。

「でも、蒼......前回のテスト320人中、238位だったけど大丈夫か?」

「......ッ!なんでお前が俺の順位、覚えてるんだよ!」

「俺、蒼のことならなんでも知ってるよ?」

 こいつは冗談にならないから笑えない。

「じゃあさ、俺が毎日勉強教える。てかもう、家庭教師みたいに張り付くから覚悟しとけよ?」

「え、それは......てか、すでに張り付いてるだろ」

「だめ。決定事項」

 強引だけど、楽しそうに言う瑛斗につられて、俺もふっと笑ってしまった。

 ――まだ少し先の未来だけど、一緒に目指したいって思える相手がいる。

 そう思えた瞬間、胸の奥があったかくなった。

「じゃあ......一緒に頑張ろうな」

「おう、任せとけ。俺、お前のことならなんでも全力だから」

 その手のぬくもりが、冬の空気をすっかり忘れさせてくれるくらい、あたたかかった。

 きっと、来年はもっと変わっていく。――だけど、瑛斗となら大丈夫だってそう思えるんだ。