空腹の安村くんをそのまま帰らせるのは気が引けて勢いで誘ったみたはいいものの、後のことは全く考えていなかった俺は焦り始めた。
 そもそもなるべく人と一緒に食事するのを避けているのに、考えなしに誘ってしまった……
 ーーでも、自分だけもらって、腹ペコのままで帰らすのはなんかなぁ。
 堂々巡りのまま、マンションに到着した。
 オートロックなんて洒落たものはない、各階に四つ部屋があるだけのこぢんまりとした五階建て。いたってフツーで、ちょっと古めなマンション。四階の一番手前が俺の家だ。
 エレベータもマンションのサイズと同じように小さめで、安村くんと二人で乗ると圧迫感が半端なかった。マンションの住人と乗ったときは狭いなんて思ったことがない。やっぱりデカい。
 開錠して玄関のドアを開け、安村くんを招き入れる。
 安村くんは「お邪魔します」と小さい声で言い、狭い玄関に苦戦しながらも靴を脱いで、脱いだ靴のつま先をドアに向けるように置き直した。
 まずダイニングテーブルにビニール袋を置き、二人で洗面台に向かう。
 初めての場所で勝手がわからない安村くんは俺の後ろにぴったり付いて歩いてきて、大型犬の散歩をしているみたいだ。実際にしたことはないが、こんな感じな気がする。
 鏡と申し訳程度の収納がついた洗面台の前に立つと、後ろに立った安村くんの顔が鏡ごしに見えた。
 冷たい水が苦手な俺は、レバーを捻って水を出し、お湯に変わるのを待っていた。
 最近冷え込んできたので、出し始めだとかなり冷たく、お湯になるまで少し時間がかかる。
 水を出しっぱなしにしていると、俺の脇から安村くんが「すいません、先にいっすか」と手を洗い始めた。
「え、まだ冷たくない? 大丈夫?」
「そんなっすよ」
 試しに流れ出る水に手を当ててみると、幾分か温かい。けれど、俺が触れたときにこの温度なら、安村くんのときはきっと冷たかっただろう。
「ここまで寒かったし、手、冷えてるでしょ。お湯で洗えばいいのに」
「俺、体温高めなんで。水でも結構平気っす」
「そういう問題?」
 手を洗い終えた安村くんは、タオルで拭った手のひらを何度かすりすりと擦り合わせてから、俺の顔の前で手をひらひらさせる。
「ほら」
 ほら、って? 体温高めアピールのつもりか?
 相変わらずの仏頂面ゆえに本気か冗談かわからないし、なんとなくコミカルに見える動きにぷっと吹き出してしまう。
「いやいや、見た目で温度はわかんないから」
 ひらひらする動きを止めて、そのままの格好で目線だけ上げる。
「確かに」
 ーーもしかして、安村くん、ちょっと天然なのか?
 身体も顔も良くて、天然っぽいところもあって。こんなん、絶対モテるじゃん。もし俺が同じことしたら、「天然」じゃなくて、ただの変なヤツになるだけだろうな……
 そんなことをぼんやりと考えながら手を洗い続けていると「ちょっと」と言って安村くんがまた俺の後ろに回り込んだ。
「な、なに」
「ちょっと、失礼します」
 正面の鏡には、怪訝な表情をしている俺と、俺の頭からにゅっと飛び出しているような安村くんが映っている。
 阿修羅のように安村くんの腕が伸びたかと思えば、そっと俺の耳に手を添えた。
「ひっ」
「え、そんなにびっくりします?」
 鏡の中の安村くんは、全く表情が変わらない。
「ね、結構あったかいっしょ」
「う、うん」
「てゆか、アサさんの耳つめた」
 触れられた耳からは、ほかほかとした安村くんの手の温度が伝わってくる。
 どうしていいか全く見当がつかず、一ミリも身動きできないままでいると「そろそろ止めちゃいますね」と声がして俺の耳から手が離れた。
 安村くんはレバーをきゅっと捻って水を止め、何事もなかったかのようにリビングへ向かう。
 イケメンは、やることもイケメンなのか……と、初めてされた距離の詰め方や接し方にただただ驚く。
 俺が男だからちょっとドキドキするだけで済んだけど。これ、女の子がされたら一瞬で好きになっちゃう案件だろ。
 思いのほか忙しなく動いている心臓を深呼吸で落ち着かせ、のろのろと手を拭いてリビングへ向かう。安村くんは何事もなかったかのように、ローテーブルの上にせっせと食事の準備を進めていた。