あっという間に平らげてしまい、一息つく。
 膨れたお腹をさすっているうちに、鍋とお椀はさげられ、かわりに水の入ったグラスがテーブルに置かれた。

「薬、あります?」

 体温計のありかを忘れるぐらいだから、風邪薬を最後にいつ飲んだかなんて記憶がない。今度は正直に頭を振る。

「ですよね、やっぱり」

 向かいに腰を下ろした安村くんが手のひらを差し出す。二粒の錠剤がちょこんとのっていた。

「……薬まで持ってきてくれたんだ」
「一応、要るかなって」
「なにからなにまで……ありがとう」
「いえいえ。薬飲まないとだし、その前にちゃんと食事摂れてよかったっす」

 大人しく薬を口に入れ、水で流し込む。グラスをテーブルに置くやいなや、「じゃ、帰りますね」という言葉が耳に届いた。

「え、帰るの?」
 
 反射的にそう口にしてしまい、すぐに後悔した。移してしまうかもしれないのに、引き止めるような言葉を吐いてしまったことに。

「えっ……まぁ……」
 安村くんは少しばかり目を大きく開き、驚いたような様子だった。

「そ、そうだよね、移ると大変だしね、ごめんね」
 焦ってしまい、無意識のうちに早口になる。

「いや、移るっていうか……もう用済みかなって」
「用済みって、そんな」
「ご飯食べて、薬飲んで、しっかり寝て、治さないとですし」

 食事を用意してくれて、薬まで飲ませてくれて、必要と思ったものも買ってきてくれて。
 これ以上、なにかを求めるのはわがまますぎると解っている。

 けれど、本心はこのまま安村くんにもう少しそばに居てほしいーー

 もちろんそんな言葉を口にできるわけもなく、ただ頭を上下に振る。

「ゆっくり寝てくださいね」
「……うん。わざわざ来てもらってありがとう」
「全然っす。アサさんってろくな食料買ってないっぽいから、体調崩したらアウトだなって前々から思ってたんで」
「ぐっ、確かに」
「はは、死んでなくてよかったっす」

 そう言って、すっと目を細める。冗談めかして言っているけど、俺のことを心配して家まで来てくれた。その事実を、心の中で何度も噛み締める。

 ただの、バイト先の常連客に、どうしてそこまで……

 ーー待て待て。深く考えるな。ただ安村くんが優しくて、体調の悪い人をほっておけなかっただけだろ。

 自分にとって都合よく解釈してしまいそうになるのを、軽い口調で必死で打ち消す。

「安村くんのおかげで死なずに済んだわ。一人暮らしで体調崩すと詰むし」
「そっすよね」

 会話が途切れたタイミングで、安村くんがよいしょ、と立ち上がった。

「じゃ、そろそろ帰ります」
「あ、あぁ、うん」
「早くよくなるといいですね」

 ま、あんだけ食べてたら大丈夫っすね、と笑い混じりに言い、上着を羽織りながら玄関へ向かう。相変わらず身支度が速い。
 
 まだここにいてほしい。
 もう少しでいいから……

 もはや懇願に近いような気持ちで背中を見つめていると、安村くんがぱっとこちらを振り返った。

「なんか言いました?」
「え、」

 ーーまさか、俺、声に出してた?

「い、いや? 別に」
「……そっすか」

 なにか勘付かれたかと焦る俺をよそに、ゆったりとした動きで安村くんは視線を宙にさまよわせた。
 そして、うーんと小さく唸ったかと思うと、踵を返し、すたすたとベッド近くまで歩み寄った。

「ど、どうした? なんか忘れ物?」
「いやー……なんていうか」

 言葉を選んでいるのか、なかなか視点が定まらない。びくびくしながら言葉を待っていると、遠慮がちに安村くんが口を開いた。

「あの」
「ん?」
「きつかったら、全然断ってもらっていいんですけど」
「うん」
「できれば、なんですけど」
「うん、なに?」

 マスクで表情が読めず、なにを考えているのか解らない。無言のまま仁王立ちする安村くんを、ただじっと見つめる。

 少しの沈黙の後、ぽつりと小さく言葉を発した。

「……もうちょっと、いてもいいですか?」