午後の授業は、午前中よりも講義室内の雰囲気は高揚していた。
 テラスで受けたダメージを回復させられないまま、やる気もなく授業をやり過ごして帰路につく。

 クリスマス当日だから当然と言えば当然だが、どこに行っても浮かれた空気一色でどうも居心地が悪い。
 今朝はコンビニのチキンぐらい買って行こうかと考えていたが、今はとにかく一人になりたい。脇目も振らず、家までの道を急いだ。

 家に着きリビングに足を踏み入れると、なにもしていないのにどっと疲れを感じた。
 コートも脱がず、ローテーブルの横にばたりと倒れ込む。頬と接したフローリングは、不思議と温かかった。

 なにもせずそのままの体勢でぼんやりしていると、ローテーブルの下に白い何かが落ちていることに気づいた。
 つまみあげて、顔に寄せる。 

「……犬だ」
 安村くんが箸袋で折った、犬の箸置き。
 冷蔵庫の上に置いていたはずなのに、なにかの拍子で落ちてしまっていたらしい。


 いつだったか、早く食べ終わった安村くんがあまりに俺の方をじっと見るので、たまりかねて俺が「こっち見てないで、これでなんかやっとけ」と言って箸袋を渡したときのものだ。
 無茶な指示にもかかわらず、スマホでなにやら調べて熱心に折り始めた。

 大きな身体を丸めながら、大きな手でちまちまと箸袋に向かっている姿はなんだか可笑しくて、笑いをこらえながら食事を進めながら様子を見守った。

 少しして、「できた」という小さい声とともに差し出された安村くんの手のひらには、小さな白い犬がのっていた。
 ダックスフンドのような形状をしたそれに、無意識に顔が綻ぶ。

「めっちゃうまいじゃん」
「結構頑張りました」

 あごを少し出し、得意げなにんまりとした表情の安村くんを見て、ぷっと吹き出してしまう。

「ドヤ顔やば」
「え、ドヤってました?」
「めちゃくちゃドヤってたよ」
 こうやって、と大げさにあごを突き出して真似て見せる。

「俺、そんな顔してました?」
「してたよ。確実にドヤってた」
「まじっすか……顔に感情出ないってよく言われんのに」
 独り言のように呟き、テーブルの上に犬を置く。

「そう? 結構出てる気がするけど」
「え、そんなに出てます?」
「最初のときよりは、ね」
「まじか……」
 そうぽつりと呟くと、視線を犬に向けてじっと黙り込む。

「どした? なんか駄目なの?」
「いや、駄目とかじゃなくて……」
 まじかー、と再び小さくもらし、テーブルに顔を突っ伏してしまった。

「どうしたんだよ」
「……なんもないっす」
 ふーっと長く息を吐き、顔を上げるといつもの真顔に戻っていた。

「油断しました」
「なんだよ、油断って」
「こっちの話です」
「意味わかんねー」
 わかんなくていいんです、と犬に優しげな眼差しを向けながら指でつつく。

 ーーほら、今もじゃん。

 そう言いかけて、ぐっと言葉を飲み込む。指摘すれば、さっきのように真顔に戻ってしまうにちがいない。

「あ、食べ終わりました?」

 こちらに目を向けた安村くんは、いつもの表情に戻っていた。もったいない。もうちょっと眺めていたかったのに……

「あ、あぁ。うん」
「二十分発の急行に乗りたいんで、そろそろ片付けて出ますね」
 犬をつまみ上げ、空のプラ容器にのせて一緒くたにビニール袋に入れる。

「あ、あとやっとくから。いいよ、そのままで」
「いや、でも」
「いいって」
「……じゃ、お言葉に甘えます。すいません」

 安村くんを見送り、テーブル上を片付けていると、ビニール袋に入れたプラ容器の最上部に鎮座している犬がじっとこちらを見ているような気がした。
 そっとビニール袋から救出して以来、その犬は俺の家の一員になったのだ。


 こんなもの残してるってバレたら、絶対気持ち悪がられるよな……いや、そもそも安村くんはもうここには来ないかもしれない。

 ーーそういえば、あのときにぽろっと言った『こっちの話』ってなんだったんだろう。

 聞きそびれてしまった話は、もう今後聞けそうにもない。指先の白い犬を見つめていると、はぁ、と深いため息がこぼれた。

 ローテーブルの上に犬を避難させ、再びフローリングの上に転がる。
 先ほどより、大きくて深いため息が口をついて出た。