今でもたまに思い出す。
入学して間もない、あどけない子どもたちの好奇に満ちた視線。ひそひそとした囁き。
取り囲むそれらに怯えながら、懸命に箸やスプーンを動かしていたときのことを。
「須崎くん、クラスのみんなが待ってるよ」
「お前のせいで遊ぶ時間ないんだけど」
「のろのろしてないで早く食えよ」
「やめなよ、また吐いたらどうするの」
記憶の中の子どもたちは、今の自分と比べ物にならないぐらい小さい。
なのに、苛立ちを帯びた言葉やくすくすと嘲る笑い声で、今だに俺の心はじっとりと湿る。
スマホを取り出して通話履歴を表示させる。十一月半ばともなるとさすがに夜は冷え込んでいて、袖から忍び込んでくる空気はひんやりとしてきた。
今日も一番上にある『ヤマダ亭』の文字をタップし、電話をかけた。
「はい、お電話ありがとうございます。ヤマダ亭です」
「あ、山田さん? 俺です」
「あら、アサちゃん。今日はなににする?」
「生姜焼き弁当で」
「はい、生姜焼き、と。いつも通り大盛り?」
「もちろんっす。あ、もう向かってます」
「はい、はい。じゃあ今から作っておくわねぇ」
電話の向こうから「いらっしゃいませー」と山田さんの張りのいい声が聞こえ、それから電話が切れた。
ーーあぁ、腹へったなぁ。
注文したばかりの生姜焼き弁当を思い浮かべ、思わず歩くスピードが速くなる。
何度食べたかは数え切れないが、今でもヤマダ亭のお弁当を食べるときは心が踊るのだ。
うちから最寄り駅までの通り道に位置していることも利用頻度が高くなる要因だが、なんと言っても、ヤマダ亭のお弁当はめちゃくちゃおいしい。
コンビニやチェーン店でテイクアウトできるそれとは、はっきり言って天と地ほどの差がある。
メインのおかずのクオリティはもちろん、ぼんやりとした味であることが多い副菜でさえも、主役級の輝きを放っている。そっと添えられた漬物さえ酸味と甘味が絶妙で、全く無駄がない。
夫婦二人でやっている小さな店なのに、リピーターが絶えない。口コミサイトの評判もすこぶるいいのも納得だ。
確かもうすぐ六十になるらしいが、山田さんの動きは下手すると俺よりきびきびとしていて気持ちがいい。
ほとんど厨房にいる親父さんも、たまに接客してもらうが動きが機敏で感心してしまう。
大学進学で一人暮らしを始めたのを機に、越してきてからヤマダ亭にずっとお世話になっている。
大学三年生も終盤に差し掛かろうとしている今、ほぼ丸々三年ぐらいは山田さんご夫婦を知っていることになるが、衰えるどころか二人とも年々パワーアップしているような気すらする。
恐ろしいような、羨ましいような。
店に到着してガラス越しに中を見遣ると、いつもはカウンターの中に立っている山田さんの姿が見えなかった。
店内に踏み入れた途端、一気に全身が暖かい空気に包まれる。
山田さんがカウンターにいないの珍しいな、と不思議に思っていると、カウンター横の暖簾からにゅっと頭が出てきた。
「おわっ」
予想外に登場した知らない顔に、声が思いっきり裏返った。
「アサさん、っすか」
「え、そう、です……」
「生姜焼き弁当、大盛りの」
「はい……」
「もうちょっとなんで、座っててもらえますか」
そう言い終えると、さっと頭が引っ込んだ。
ーー誰だ、あいつ。新しいバイトか? これまでバイトなんか入ったことなかったのに。
突然の出来事にばくばくと鳴る心臓に手を当てながら、レジ前に置かれている椅子に腰掛ける。
キャップとマスクを身に着けているせいでほとんど目しか見えなかったけれど、声の感じからして年は俺と同じぐらい?
もしかして山田さんの息子さんだろうか?
いや、前に聞いた話だともう三十近いはずだ。
ーーにしても、接客が雑すぎないか。
お喋り好きな山田さんの対応に慣れているせいか、なんとなく無愛想なやつだな、という印象を受けてしまう。
暖簾をじっと見つめていると、先ほどの男が出てきた。
「お待たせしました」
「どうも……」
カウンターの前に立ち、向き合う。そのとき、思いがけず視界に入った胸板と腕の太さに目を奪われた。
薄手のシンプルな黒いロンTからは、うっすらではあるが確かな筋肉の存在が窺えた。
ビニール袋にお弁当や箸を入れる動作に合わせて、しなやかに動く様子に目を奪われる。
「あの、お支払いは」
少し棘のある声音に、はっと我に返った。
「あぁ、すいません。これで」と、ポケットから出したスマホを掲げる。
端末にスマホをかざして決済を終え、カウンターに置かれたビニール袋に手を伸ばした。
「あ、」
声をかけられ、反射的に手を止める。
ーーやばい。さっき、ちょっとじろじろと見すぎたか?
「今日の生姜焼き、タレ多めになっちゃって……漏れるかもなんで、持ち方気をつけてください」
さきほどとは打って変わって、優しげなトーン。腹に響くような低めの声が、耳に心地いい。
思いがけない気遣いの言葉に拍子抜けし、自分でも驚くほど情けない声が出る。
「あぁ、はい」
「ありがとうございました」
弁当を手に取ってぺこりと頭を下げ、そそくさと店を出た。
入学して間もない、あどけない子どもたちの好奇に満ちた視線。ひそひそとした囁き。
取り囲むそれらに怯えながら、懸命に箸やスプーンを動かしていたときのことを。
「須崎くん、クラスのみんなが待ってるよ」
「お前のせいで遊ぶ時間ないんだけど」
「のろのろしてないで早く食えよ」
「やめなよ、また吐いたらどうするの」
記憶の中の子どもたちは、今の自分と比べ物にならないぐらい小さい。
なのに、苛立ちを帯びた言葉やくすくすと嘲る笑い声で、今だに俺の心はじっとりと湿る。
スマホを取り出して通話履歴を表示させる。十一月半ばともなるとさすがに夜は冷え込んでいて、袖から忍び込んでくる空気はひんやりとしてきた。
今日も一番上にある『ヤマダ亭』の文字をタップし、電話をかけた。
「はい、お電話ありがとうございます。ヤマダ亭です」
「あ、山田さん? 俺です」
「あら、アサちゃん。今日はなににする?」
「生姜焼き弁当で」
「はい、生姜焼き、と。いつも通り大盛り?」
「もちろんっす。あ、もう向かってます」
「はい、はい。じゃあ今から作っておくわねぇ」
電話の向こうから「いらっしゃいませー」と山田さんの張りのいい声が聞こえ、それから電話が切れた。
ーーあぁ、腹へったなぁ。
注文したばかりの生姜焼き弁当を思い浮かべ、思わず歩くスピードが速くなる。
何度食べたかは数え切れないが、今でもヤマダ亭のお弁当を食べるときは心が踊るのだ。
うちから最寄り駅までの通り道に位置していることも利用頻度が高くなる要因だが、なんと言っても、ヤマダ亭のお弁当はめちゃくちゃおいしい。
コンビニやチェーン店でテイクアウトできるそれとは、はっきり言って天と地ほどの差がある。
メインのおかずのクオリティはもちろん、ぼんやりとした味であることが多い副菜でさえも、主役級の輝きを放っている。そっと添えられた漬物さえ酸味と甘味が絶妙で、全く無駄がない。
夫婦二人でやっている小さな店なのに、リピーターが絶えない。口コミサイトの評判もすこぶるいいのも納得だ。
確かもうすぐ六十になるらしいが、山田さんの動きは下手すると俺よりきびきびとしていて気持ちがいい。
ほとんど厨房にいる親父さんも、たまに接客してもらうが動きが機敏で感心してしまう。
大学進学で一人暮らしを始めたのを機に、越してきてからヤマダ亭にずっとお世話になっている。
大学三年生も終盤に差し掛かろうとしている今、ほぼ丸々三年ぐらいは山田さんご夫婦を知っていることになるが、衰えるどころか二人とも年々パワーアップしているような気すらする。
恐ろしいような、羨ましいような。
店に到着してガラス越しに中を見遣ると、いつもはカウンターの中に立っている山田さんの姿が見えなかった。
店内に踏み入れた途端、一気に全身が暖かい空気に包まれる。
山田さんがカウンターにいないの珍しいな、と不思議に思っていると、カウンター横の暖簾からにゅっと頭が出てきた。
「おわっ」
予想外に登場した知らない顔に、声が思いっきり裏返った。
「アサさん、っすか」
「え、そう、です……」
「生姜焼き弁当、大盛りの」
「はい……」
「もうちょっとなんで、座っててもらえますか」
そう言い終えると、さっと頭が引っ込んだ。
ーー誰だ、あいつ。新しいバイトか? これまでバイトなんか入ったことなかったのに。
突然の出来事にばくばくと鳴る心臓に手を当てながら、レジ前に置かれている椅子に腰掛ける。
キャップとマスクを身に着けているせいでほとんど目しか見えなかったけれど、声の感じからして年は俺と同じぐらい?
もしかして山田さんの息子さんだろうか?
いや、前に聞いた話だともう三十近いはずだ。
ーーにしても、接客が雑すぎないか。
お喋り好きな山田さんの対応に慣れているせいか、なんとなく無愛想なやつだな、という印象を受けてしまう。
暖簾をじっと見つめていると、先ほどの男が出てきた。
「お待たせしました」
「どうも……」
カウンターの前に立ち、向き合う。そのとき、思いがけず視界に入った胸板と腕の太さに目を奪われた。
薄手のシンプルな黒いロンTからは、うっすらではあるが確かな筋肉の存在が窺えた。
ビニール袋にお弁当や箸を入れる動作に合わせて、しなやかに動く様子に目を奪われる。
「あの、お支払いは」
少し棘のある声音に、はっと我に返った。
「あぁ、すいません。これで」と、ポケットから出したスマホを掲げる。
端末にスマホをかざして決済を終え、カウンターに置かれたビニール袋に手を伸ばした。
「あ、」
声をかけられ、反射的に手を止める。
ーーやばい。さっき、ちょっとじろじろと見すぎたか?
「今日の生姜焼き、タレ多めになっちゃって……漏れるかもなんで、持ち方気をつけてください」
さきほどとは打って変わって、優しげなトーン。腹に響くような低めの声が、耳に心地いい。
思いがけない気遣いの言葉に拍子抜けし、自分でも驚くほど情けない声が出る。
「あぁ、はい」
「ありがとうございました」
弁当を手に取ってぺこりと頭を下げ、そそくさと店を出た。

