同居人、というのはどのラインまでが、その意味をなせるんだろうか。
実咲は、いつもより早めに目が覚めてしまった。寝つきが悪かったからかもしれない。その理由はわかっている。伊織が昨日あんなことを言ったからだ。
顔を合わせるのも気まずく、実咲はいつもより一時間以上早めに家を出た。夏が近づいてきたこの時期は、まだ湿度も低いためか過ごしやすい。
駅までのんびり歩きながら、昨日のことを頭の中で整理する。
(好きって言ってたよね。でも、スキーかもしれないし、すき焼きかもしれない。そうだ。伊織の好きな食べ物ってすき焼きだったよね。いやいや、さすがにあの場面ですき焼きは……でも、でも)
どうして言ってくれたかなんて訊けなかった。熱に浮かされていた相手に今更問いただすこともできない。
歩いているとぐうっと大きな音がお腹から漏れてきた。とっさに辺りを見回し人がいないことを確認してしまう。
いつもならば、伊織お手製のスムージーか朝食セットを食べてから出かけるだけに、空腹のままでは、仕事にも集中ができない。仕方がない。コンビニでおにぎりでも買ってから行こうか。
ブブブブブ。
震えているスマホを取り出すと、相手は伊織だった。むず痒い気持ちのまま、通話ボタンを押す。
「……おはよ」
『今日土曜日だけど、休日出勤だった?』
いつも通りの伊織の声。昨日言ったことも忘れてしまったのだろうか。もやもやした気持ちのまま返事を考えていたところで気づいた。
「え、土曜日?」
スマホの画面を見なおしてみると、確かに土曜日だった。
「うわー、曜日感覚ずれてたぁ」
『戻ってきて、朝ごはんを食べよ?』
「……う、うん」
一人照れているのが悔しい。でも、いろいろ訊きたいこともある。
実咲は来た道を小走りになって向かった。
「た、ただいま」
顔をのぞかせると、ふんわりと甘い香りがしてきた。知ってる、この香り。甘い香りに誘われて、実咲がリビングに行くと、ちょうど伊織が食事の準備を終えたところだった。
「タイミング、ばっちりだ」
イタズラっぽい顔で、伊織は顔を実咲に向けた。昨晩の青白い顔はすっかり治っている。
でも、それだけではない。朝日が部屋に差し込んでいるからかわからないが、いつもよりもキラキラしているように見えているのは気のせいだろうか。
「今日は、パンケーキにしてみたんだ。ヨーグルトを合わせてみたからいつもよりもしっとりしてると思う」
「ふわふわじゃなくて?」
「そんな気分だったんだ。さ、食べようか」
どうしてそんなにいつも通りでいられるの。そう訊きたくなったが、実咲はぐっと言葉を飲み込んだ。まずは腹ごしらえだ。
一緒に手を合わせてから食べ始める。伊織が言っていた通り、いつもよりもしっとりしている。ハワイアンパンケーキと同じようにも思えるけど、それよりもフワフワしている。二つの良いとこどりみたいで贅沢だ。
ホットケーキを頬張りながらいると、伊織と目線があった。
「な、なひ?」
「ほっぺについてるよ」
慣れた手つきで伊織は実咲の右頬についていたパンケーキの屑を取った。骨ばっている手の指は細くて長いことに、実咲は今更ながら気になった。
「そんなに美味しい?」
飄々とした様子の伊織は、実咲をじっと見ていた。バツが悪くなったように、実咲は下を向く。触られたところが少しだけ熱い気がする。
「だって、伊織が作ってくれたし」
「そりゃどうも。俺は実咲が美味しそうに食べてくれるのが嬉しいから、作れる」
頬杖をつきながら真顔で言う伊織を見て、実咲は気づいてしまった。
伊織が、男の人だと。
今まで通り友達のように気軽な話もなかなか先に進まない。原因はわかっている。でも、このままモヤモヤした気持ちを抱えているのも嫌だ。訊くならば、今しかない。
「どうして、好きって言ったの?」
伊織が目を丸くしながら、実咲を見た。伊織はしばらく固まったままだったが、すぐに思い出したのか、さっと伊織の顔が赤く染まった。
「……ごめん。ちゃんとしたときに言いたかったのに」
伊織の言葉に実咲は咄嗟俯きながら、ナイフとフォークでパンケーキを細かく切り分けていく。
伊織からもは何も言ってこない。お互いに黙ったままだ。
今までお互い黙っていても気にしなかったのに、今はこの沈黙が辛い。
伊織の顔を見るのが怖くて、実咲は目を上げられない。目を上げてしまったら、答えが分かってしまうかも。そしたら、この生活はどうなる。今が一番過ごしやすいのに。
「……実咲、顔を上げて」
「いや」
「ちゃんと目を見て言いたい」
その言葉で、実咲が考えていた以上に伊織が真剣だったのが分かってしまった。実咲は切ったパンケーキを口の中にいっぱいに突っ込む。これならば何を言われても、返事を少し考えることができる。
実咲は伊織をそっと見る。実咲の視線の先には、苦笑した顔をした伊織がいた。
「そんなにがっつかなくても。ゆっくり食べれば良いじゃん」
それは正しいが、実咲は伊織から出てくる言葉が気になって仕方がない。
頬杖をついていた伊織が、そっと両手を合わせて実咲を見つめる。その目は見たことが無い目だった。透き通っていて、嘘偽りがなさそうな純真な目。
伊織の目を見た瞬間、実咲は胸の鼓動が早くなったのを感じる。
「俺はね、実咲のことが好きなんだ、誰よりも」
昨晩とは違って今まで聞いたことが無いくらいの真剣な言葉に、実咲は体温が急に上がったように感じた。
「実咲の笑顔が好き。気配りできるところも。仕事で鬼のような愚痴が出ても、切り替えが早いところもすごいと思ってる。ちょっと弱った時に、一人反省会をしているところも面白くて良い。ねぇ、実咲」
伊織は怒涛の言葉を一度止めてから、じっと実咲を見て再び言った。
「まだ実咲の好きなところ言えるけど、良いかな」
これは恋愛に疎くなっていた実咲でも、わかった。
これほどまでにまっすぐな気持ちを伝えてきてくれた伊織に、実咲はぼうっと見るしかできなかった。
どのくらい見つめ合っていたのか、わからない。
「実咲、答えて?」
伊織にそう促されて、あわてて口の中に残っていたパンケーキを飲み込む。すっかり冷めてしまった紅茶を一口飲んでから、ちらりと伊織を見た。彼は実咲の答えをただずっと大人しく待っている。
実咲が答えなければ、答えるまでずっと待つ犬のように。
「……い、いつから?」
「内定式の飲み会から」
「伊織、モテてたじゃん。合コンにも行っていたみたいだし。彼女作らなかったの?」
「実咲が好きだから、断ってたよ」
「……モテてたのは否定しないんだ。わたしのどこが」
「さっき言った。ていうか、言い足りない」
「こんなわたしだよ?」
「どんな?」
「だって、食い意地張っているし、料理苦手だし、仕事馬鹿だし」
「美味しく食べてくれるし、不器用だけど頑張り屋だし、仕事にまっすぐなところも好きだよ」
「ていうか、そんなにぽんぽん好きとかよく出てくるよね」
「だって、正直にならないと、って思ったから」
「どうして?」
「俺が実咲の土台を支えたいから」
「土台?」
「実咲が元気になれる場所になりたいんだ。ずっと実咲を支えていきたい」
それって、普通彼女になりたい女の子が言うセリフじゃない?
伊織の言葉に、実咲は悩んでしまった。別に大黒柱になりたいわけではない。ただ、伊織といるこの生活が楽しいだけ。
「嫁になりたい、とかじゃないから」
実咲が考えていることを見透かしたように伊織が言う。
「じゃあ、どういう意味?」
「旦那になってほしい、とかじゃないから、念のため。実咲の隣にずっといたいから伝えてみたんだけど、迷惑だった?」
迷惑なわけがない。実咲は首を横に振った。
だって、ずっと支えてもらったから。それが甘えなのかもしれないけど、これからも一緒にいるならば、実咲も伊織を選びたい。
「良かった。じゃあ、ゆっくり食べようか」
言いたかったことを全て言い終えた伊織は、満足そうにホットケーキを食べ始めた。すっかり冷めてしまったようだが、伊織は美味しそうに食べている。実咲は何も言うことができずに、一緒に黙々とホットケーキを食べることにした。
二人同時に食べ終えると、それこそなんて話を続ければ良いか実咲はわからず、伊織を見る。タイミングが合っただけなのか、伊織も実咲を見ていた。
「な、なんですか、伊織さん」
「固くなりすぎ。これまでと変わらないよ、俺は」
「でも、か、かかか彼氏ってことですよね?」
「それは、俺の好きを受け止めてくれったってこと?」
「はうあっ」
奇声を上げて、実咲は頭を抱えテーブルに突っ伏した。
「なに、その声。可愛すぎるんだけど」
「か、かわ、かわいいと?」
「そうだけど、何?」
文句を言うなよと視線で言う伊織。実咲は顔が熱くなるのを感じながら、ちらりと上目遣いで伊織を見ると、伊織の手が伸びてきた。伸びてきた手は実咲の頭をくしゃりと撫でる。
「これからもよろしくな、実咲」
「よ、よろしく、伊織」
実咲の反応に満足したのか、伊織はテーブルの上を片付け始める。実咲も一緒になって片づけを始めた。
「ちなみにさ」
「な、なんでしょうか」
「俺のどこが好き?」
「……ごはんを美味しく作れるところ」
「それだけ?」
「……」
具体的に、と訊かれても言葉に悩む。何を言っても、即物的な感じに聞こえてしまうかもしれない。伊織みたいにきちんと言えないことに実咲は思わず口ごもる。
「安心して。実咲も俺のこと好きなの知ってるから」
「え?」
「じゃなきゃ、この生活は成り立たない。無自覚なところを自覚してもらえるようにこれから俺は頑張りますね」
意地悪そうな、子どもっぽい笑顔で、伊織は実咲の頭を再びクシャっと撫でた。耳まで真っ赤に染まるのを感じながら実咲が俯いていると、伊織はそっと実咲の頭に唇に口づけした。
あまりにも一瞬のことで実咲は目を白黒させながら、顔を上げると伊織がにやっと笑った。
「覚悟していてね?」
ルームメイトから、彼氏彼女に変わった瞬間だった。



