「ただいま」

 家の中はまだ暗かった。実咲がまだ帰宅していないのはわかっている。定時退社を徹底している会社と違って、実咲は今も仕事に追われているに違いない。

 今日は蒸し暑かった。夏バテにならないように気をつけないと。汗が引き始めているせいか、少し肌寒い気がする。

 スーツからジャージに着替え、ぺたぺたと裸足で歩きながら、キッチンに向かう。冷蔵庫を開けて、ビールを一つ手に取る。プシュッと音を立てながら開けて、一口だけ飲む。夏こそビールが美味しい。特に金曜日に飲むと、解放感を味わえるのが好きだ。
 とりあえず、実咲が帰ってくるまでにごはんを作ろうか。今日も疲れているだろうから、さっぱりしたものが良いか。
 冷蔵庫の中を見てメニューに悩みながら、もうひと口ビールを飲む。いつもより少しだけ口の中に苦みが広がった。

「ただいまあぁ。暑かったねぇ」

 玄関から実咲の明るい声がした。いつも通りキッチンから顔を出すと、実咲が笑顔でお弁当バッグを掲げた。

「お弁当ありがとう。めちゃくちゃ元気出た。やっぱり、伊織のお弁当が一番だよ」
「良かった」

 おかしい。いつものように軽口を言いたいのに、口が重い。

「伊織、どうしたの?」
「え?」

 咄嗟に誤魔化すように笑った。笑顔が張り付いたままなのは自覚している。

 自分の気持ちを伝えるのは今ではない。

 伊織は実咲からお弁当バッグを受け取る。なかなかバッグの取っ手を離さないことに気づいた伊織は実咲を見る。実咲は首をひねって、不思議そうに伊織を見ていた。

「どっか体調悪い?」
「いや、普通だけど」
「そう?」

 顔色でも悪いのだろうか。さっき鏡で見た時は……、見たっけ。

「今日はわたしがごはんを作ろうか?」
「帰ってきたばっかりで、悪いよ。少し休んだらすぐ作る。何食べたい?」
「んー、でも、その顔色で作られてもなぁ」

 そんなに悪いのだろうか。ビール缶をテーブルに置いて自分の手を見た。体調が悪い時は青白くなっているはずだが、特に変わりないように見える。

「ほらほら、座って。ささっと作るからね」

 鼻歌交じりに実咲は伊織の背中を押して、リビングに追いやる。
 仕方がなく、ソファに座ると途端に体が重く感じた。思っていたよりも疲れていたのかもしれない。なんとなく、そのまま体をごろっと横にする。

 料理が苦手な実咲に料理をさせてしまった。ルームシェアを始めてからさせたことが無かったのに。今は実咲の方が大変なんだから、実咲が帰ってくる前に作っておけばよかった。ビールを飲む前に、一品でも簡単に作れるものがあったはずだ。

 モヤモヤと浮かんできた後悔が奥の底から湧き上がってくる。

 それにしても、実咲はどうしてこんな時間に帰って来られたんだろうか。

「伊織?」

 いつの間にか眠ってしまっていたことに、起こされてから気が付いた。
 ふんわりと漂う出汁の香り。
 目の前に置かれたどんぶりをみると、うどんがそこにあった。冷凍庫に作り置いていたみじん切りのネギも少しかかっている。

「どうやって」
「できない人にはできない人なりの方法があるんですよ」

 にやっと笑いながら、得意げに言う実咲。

「冷凍うどんに、冷凍ネギ。とどめは、簡単お出汁の素。これならば、わたしだって作れるんだから」

 ちらっと実咲の後ろのキッチンを見ても、あまり汚れていない。確かに鍋一つでできるこのうどんならば、片付けも簡単だろう。

「食べてみてよ」

 初めて料理をして食べてもらいたい子どもみたいな笑顔。これが子どもだったら、母親は感動するに違いない。
 箸を手に取り、一口分のうどんを口に入れてみる。味は想像通り、というかパッケージ通りの味だった。

「伊織が前に言っていた、分量をきっちり守る、を実行してみたんだけど、どうかな?」
「……おいしい」
「ホント? 人に食べさせるの、初めてだからめちゃくちゃ緊張したっ」

 はあっと大きな息を吐いてから、安堵の表情で実咲は伊織の向かい側に座った。

「嬉しいなぁ」
「実咲?」
「いつも伊織はこんな気持ちを抱えているんだね」
「え?」

 顔を上げて、実咲を見る。頬をかきながら、照れ笑いをしていた彼女の表情は、見たことがなかった。

「おいしいって言ってもらうのって、こんなに嬉しいんだね」
「……」
「なんか、エネルギーを貰えるんだね」

 へへへっと言いながら、実咲は空になったどんぶりを片付けていく。

「ごちそうさま」

 実咲に聞こえるかどうかの小さな声でそう言ってから、伊織は再びソファで横になる。対面型のキッチンを見ると、実咲がどんぶりを洗っているのが見えた。手際よく片づけをしているその姿は、いつもと少しだけ違うように見える。
 時計を見ると、十九時になろうとしていた。準備・盛りつけを考えても、帰ってきたのが随分早い。

「……ありがと」
「なあにぃ?」

 食器の汚れを洗い流している水の音で聞こえていないのかもしれない。でも、大きな声で言う気力もない。

「もう休んじゃいなよ」

 実咲の優しい声に導かれるままに、のろのろ立ち上がり伊織はキッチンにいる実咲の隣までなんとか歩いて行く。

「どうして、今日は早かったの?」
「それはねぇ、超奇跡の逆転ホームランが発生したんですよ」

 昨日のどんよりとした顔が嘘のように明るい。
 実咲の話が右から左に耳を素通りしていく。良いことがあったのはなんとなくわかるが、今はそれに共感できる余裕がない。

「何がそんなに嬉しいんだ?」

 壁に軽く体を預けてから、じっと実咲を見る。

 何をそんなに驚くことがあるのか、わからない。

 わからない。わからない。わからない。

 その言葉ばかりが頭のなかで響く。

 好きな彼女のことくらい、わかっていたいのに。
 ぎゅっと奥歯を噛みしめて、俯く。

「そんなにつらかったの?」

 ハッと気づいて目を開けると、実咲の顔が目の前にあった。
 慌て後ろに下がろうとして、頭をぶつける。壁がすぐ後ろだったのも気づいていなかったとは。
 頭を押さえながら、しゃがみこむ。足にあまり力が入らないことに、そこで初めて自覚した。
 ひんやりとした何かが、伊織の額に触れる。

「うわっ、なに、めちゃ熱あるんだけど」
「へ?」
「早く寝ちゃいな!」

 自分の母親かのような怒鳴り方に、こそばゆさを覚えた。
 この声も顔も手放したくない。実咲とこの生活は伊織の生活の土台だ。だから、これだけはいつか伝えたい。
 ぼうっとした頭のまま、実咲の腕を掴んで伊織は小さな声で伝える。

「実咲、好きだよ」

 それだけ言い残して、伊織はふらつく足取りのまま自分の部屋に向かう。

 あれ、今なんて言った?
 好きって言ったんだっけ?
 まあ、いいや。今日はもう疲れた。
 部屋に入るとすぐに伊織は、夢の中になだれ込んで行ったのだった。