太陽が西に傾き始め、少し風が出てきた。
池袋駅東口から一番近い、南池袋公園。芝生広場のベンチを一つ陣取り、志はギターケースを開けた。
黒いボディのアコースティックギターだった。志はそれを腿の上に載せてかまえ、張られた弦のつながっているつまみみたいなものを触り始めた。
「絢斗は、音楽をやるの?」
弦を軽く弾きながら、志はなにげなく問いかけてくる。
絢斗は首を横に振った。歌うことはもとより、楽器の演奏もできない。
けれど、音楽は好きだった。一日に一度はスマートフォンから音楽を流し、サブスクや動画サイトで人気の楽曲、流行りの曲を聴くという、今どきの若者らしい音楽の楽しみ方をしている。
絢斗からも訊きたいことがあって、青いノートに書いて志に見せた。
〈志さんは、バンドマンですか?〉
「違うよ。俺はただの音大生」
音大生!
意表を突かれた。一方で、なるほど歌がうまいのも納得だった。作曲もできるし、彼は音楽の神様に見初められた男なのだ。
ジャカジャカと和音を響かせ始めた志が、また別の質問を絢斗に投げた。
「どんな音楽が好き? ロック? ポップス? ジャズ?」
絢斗は筆談で応じた。
〈ジャンルはよくわかりません。好きな歌手は、星野源さんとか、秦基博さんとか、BUMP OF CHICKENさんとか、Official髭男dismさんとか〉
「いっぱいいるな」
志が笑って、絢斗はようやく好みをさらけ出しすぎていることに気がついた。恥ずかしくなって、頬が赤らむ。
「男性ボーカルが好きなんだ」
絢斗はうなずき、ペンを走らせる。
〈理由はよくわかりませんが、気づいたら男性の方の歌ばかり聴いていて。皆さんいい声なので、耳が喜びます〉
「耳が喜ぶって」
志はまた声を立てて笑った。彼が楽しそうにしていると、なぜか絢斗も楽しい気持ちになってくる。
勢いにまかせ、絢斗は新たな一文を綴った。
〈志さんの声も、すごく素敵です。きれいで、耳に自然となじむというか〉
「ほんと? 嬉しいな」
〈歌もお上手ですし、ずっと聴いていたくなります〉
運命的な出会い、というものがもしもこの世にあるのなら、さっき水族館で聴いた志の歌声はまさにそれだと絢斗は感じた。
歌のうまい人なんてごまんといる。けれど、志の歌はその人たちとは少し違った。
『うまい』という言葉で他の歌い手と一括りにしようとすると、なぜか胸がモヤモヤした。確かに志もうまいのだけれど、ただうまいだけではなくて。
なんと言えばいいのだろう。
そう……好きだ。
志の歌声が好き。歌い方が好き。
自分の紡いだ詩を歌にしてくれたからじゃない。純粋に、志の声が好きなのだ。話す声も、歌う声も。だから彼の歌だけが特別に思えて、もっと聴かせてほしいと願ってしまう。
「じゃあさ」
志はギターを提げて立ち上がると、スマートフォンを操作し、絢斗に手渡した。
「よかったら、これ聴いて待ってて。俺、ちょっと練習してくるから」
受け取ったスマートフォンは、YouTubeを開いた状態になっていた。『Yuki1092』というアカウントのチャンネルにアクセスされていて、二十件以上の投稿動画がずらりと軒を連ねていた。
「俺の歌。全部カバーだけど、そんなんでよければいくらでも聴いて」
絢斗は目をまんまるにして驚いた。
なんらかの形で志が音楽に携わっていることは最初からわかっていたけれど、音大にかよっているだけでなく、いわゆる音楽系YouTuberとしても活動していたとは。
志は絢斗から赤いノートを借りて隣のベンチへと移動し、先ほど即興で作った歌に伴奏をつける作業を開始した。絢斗は大きくした目をぱちくりさせたまま、志のスマートフォンを改めて見た。
動画はどれもギター一本による弾き語りで、サムネイル画像はすべてギターを演奏する手もととマイクのみが映し出され、首から上は画面からはずれていた。
カバーされている楽曲は多岐に渡り、近年の流行曲から、桑田佳祐『白い恋人達』、スキマスイッチ『奏』、THE ALFEE『星空のディスタンス』といった往年の名曲まで幅広く歌われている。
いつも持ち歩いているイヤホンを接続させてもらい、韓国発の大人気アーティスト・BTSの世界的ヒットナンバー『Butter』のカバー歌唱動画をタップして再生した。
始まった直後から最後の一瞬まで、なにもかもがよかった。透明感と力強さを兼ね備え、ときに色気さえ感じさせる歌声。リズミカルでオシャレなアレンジを効かせたギター演奏。英語の発音まで完璧で、正確なピッチ、そして歌い上げる時に響かせるビブラートが心を掴んで離さない。
痺れた。一曲まるごと聴き終えた時、絢斗は放心状態だった。
動画の再生回数が、彼の実力を物語っていた。何万回、何十万回再生を超える動画がいくつもある。
貪るように、絢斗は志の動画を見た。次から次へと再生し、確かな歌唱力に裏打ちされたハイレベルな音楽に酔いしれた。
やみつきになる。時間の許す限り、ずっとこの歌声に浸っていたい。それほどまでに、志の歌は高い中毒性を孕んでいた。こんなにもどっぷりとハマる歌い手に出会ったのははじめてだった。
五つ目の動画を再生しようした時、正面から不意に視線を感じて絢斗は顔を上げた。
絢斗の座るベンチの前に、志がしゃがみ込んでいた。
「……!」
びっくりして息を飲むと、志はクスクスと楽しそうに笑った。
「集中しすぎ」
かぁっ、と首まで熱くなる。すぐ目の前にある志の子どもっぽい笑みが、さっきまで流れていた動画の色っぽく迫力のある歌声とはあまりにもかけ離れていてドキドキする。同一人物とは思えない。ギャップがすごい。
「とりあえず一番だけできたんだけど、聴いてくれる?」
一番。サビだけでなく、AメロやBメロも作ってくれたのだろうか。
絢斗はイヤホンをはずし、うなずいた。「じゃ、歌うね」と、志は絢斗の隣に赤いノートを置き、絢斗から二メートルほど距離を取ったところに立ってギターをかまえた。
絢斗の心臓が早鐘を打つ。自分が歌うわけでもないのに、書いた詩をちゃんと歌にしてもらえると思うと、どうしようもなくそわそわした。
ベンチに腰掛ける絢斗一人を観客に、志はギターのボディを軽くたたいてリズムを刻むと、八小節分のイントロから演奏を開始した。
速すぎず、遅すぎない、ミディアムバラード調に仕上げたようだ。イントロの終わりにすぅっと息を吸い込むと、志はやや抑え気味の声を出し、絢斗の書いた『The light fall』を歌い始めた。
志の歌声がギター伴奏に乗った瞬間、二人を包んでいた公園の空気が色を変えた。
優しく、ガラス細工にそっと手を触れるような歌い方で始まった曲は、Bメロに入ると、叙情的なメロディーに合わせて感情を込めた歌声に変わる。緩急、強弱のつけ方が絶妙だった。
サビのメロディーは力強く、志は声を張り上げるようにして歌った。ビリビリと耳から全身まで震えさせる迫力に圧倒され、知らず知らずのうちに涙腺が緩んだ。
きみが教えてくれた
いつか夜は明けると
逃げることなんてない 走れ
きみの待つ あの場所まで
最後の一節を、志は勢いを保ったまま歌い切った。ほんの少しだけ効かせたビブラートが切なくもあたたかい余韻を残し、歌声は徐々に、泡沫のように消えていく。
ギターの演奏が終わる。志は呼吸を整えるように、気持ち長めに息を吐き出した。
どこからか、拍手の音がいくつも重なって聞こえてきた。見ず知らずの通行人が十人ほど、足を止めて志の歌を聴いていた。
「うまいねぇ、兄ちゃん」
くたびれたスーツに身を包んだ初老のサラリーマンが、ねぎらうように志の肩をたたいていった。他にも何人か、「がんばってください」と言い残してくれた人がいた。
知らぬ間に集まった想定外の観客たちに志は驚いた顔をしつつ、「ありがとうございます」と気恥ずかしそうに挨拶をした。その視線が、ゆっくりと絢斗に注がれる。
絢斗はひたすら呆然としていた。志の歌声に魂を抜かれ、拍手をすることも忘れていた。
すごい。
まったくの素人である自分が見よう見まねで綴った詩に、志が曲をつけて歌ってくれた。それだけで十分感極まっていたというのに、見知らぬ人たちから賞賛の声までもらった。
志のスマートフォンを胸に抱きしめ、絢斗は勢いよくベンチから立ち上がった。
志とまっすぐに視線が重なる。感情が高ぶり、呼吸が揺れる。
感動した。そんなストレートな言葉しか出てこないけれど、とにかく絢斗は興奮していた。
あぁ、どうしよう。この感動を、感謝の気持ちを、どうにかして伝えたい。
はっ、はっ、と絢斗の口から短い息が漏れ始めた。もう少し、もう少しがんばれば、声になりそう。
口を「あ」の形にし、絢斗は懸命に喉に力を込めた。
出ろ、僕の声。
お願いだ。一瞬でいい。
志さんに気持ちを伝えたい。
僕の声で、伝えるんだ――。
「絢斗」
志の右手が、絢斗の左頬をそっと包んだ。
「落ちついて」
志の親指が、頬を優しくなでていく。知らないうちに、涙がこぼれ落ちていた。
出せなかった。
もう少しだったのに。チャンスだったのに。
悔しい。
いつになったら、僕は声を取り戻すことができるんだろう。
「深呼吸しよう」
志はそう言って、絢斗と二人でタイミングを合わせて息を吸い、ゆっくりと吐き出した。高ぶった気持ちが鎮まると、出せそうだと思った声は、再び長い眠りについた。
「どうだった? 今の歌」
感想を尋ねられ、絢斗は思い出したように気持ちを切り替えた。慌ただしくバッグから青いノートを取り出し、感じたままに綴る。
〈最高でした! 感動して、うまく言葉になりません!〉
「本当? よかった」
〈YouTubeに投稿されていたカバーソングも素敵でした! 僕、志さんの歌声が好きです! 四六時中聴いていたいと思いました!〉
「四六時中?」
志が照れたようにはにかむ。興奮冷めやらぬ絢斗は、青いノートから赤いノートへと持ち替え、『The light fall』のページをちぎって志の前に差し出した。
「俺に?」
絢斗はうなずく。志さえよければ、曲の続きを作ってほしいと思った。
志は黙って、絢斗の綴った詩を受け取る。しばらく考えるように文面を眺め、紙から顔を上げた。
「一曲、完成させたいってこと?」
伝わった。絢斗は大きくうなずいて、〈よろしくお願いします〉と手話で伝えた。握った右手を鼻の前に突き出し、手を開きながらお辞儀をする。
志はまた紙を見て、考えるような顔をした。そよ風が木々を揺らす中、たっぷり三十秒ほど沈黙が続いた。
「ねぇ、絢斗」
覚悟を決めたような口調で、志は言った。
「よかったら、俺と一緒に音楽やらない? この一曲に限らず、もっとたくさんの歌を作ろうよ、俺たち二人で」
なんだって?
一緒に、音楽を――?
目を見開いた絢斗に、志は真剣な眼差しで続けた。
「楽器を勉強しろって言ってるわけじゃない。曲は俺が作るし、歌も俺が歌う。絢斗はこれまでどおり、自由に詩を綴ってくれればいい。ただし、その詩は俺が歌うことを前提にして書いてほしいんだ」
全身に熱いものがほとばしるのを感じた。
夢のような提案だった。なんの力もない自分の書いた詩を、志が歌にしてくれる。これまで書き溜めてきた詩は、いつか誰かに届けばいいと絢斗はひそかに願っていたのだ。
その夢を、志が叶えてくれようとしている。志の美しい歌声に乗せるという最高の形で。
絢斗の瞳が潤んだのを見て、志はふわりと微笑んだ。
「さっき教えたYouTubeのチャンネル、今は既存曲をカバーした動画しかアップしてないんだけど、いつか自分だけのオリジナルソングを作れたらいいなって、ぼんやりとだけど思ってたんだ。絢斗と二人でやるんだから自分だけの曲ってわけじゃないけど、それでも、俺たち二人のオリジナルであることに変わりはない。きっと楽しいと思うんだ、俺たち二人でやったらさ」
僕たち二人の、オリジナル。
心臓が小さく跳ねる。二人、という言葉の響きに、胸の奥がこそばゆくなった。
二人で作ったオリジナルソングを、多くの人に向けて発信する。志の歌で。大好きな志の歌声に乗せて届ける。
考えただけでからだが震えた。最高だ。断る理由などどこにもない。
絢斗はシャープペンを握りしめ、青いノートに書き記した。
〈やりたいです。僕も、志さんと一緒にやりたい〉
「ほんと?」
絢斗ははっきりとうなずいて、深々と頭を下げた。「やった」と志は嬉しそうに声を上げ、上体を起こした絢斗に手を差し出した。
「渡久地志。M音大ピアノ専攻の三年生です。改めて、今日からよろしく」
ピアノ専攻。もはや響きだけでかっこよかった。機会があれば、いつかピアノの演奏も聴いてみたいと思った。
彼の手を握り返す前に、絢斗もノートに自己紹介をざっと書いた。
〈城田絢斗です。C大学文学部の一年生です。こちらこそ、よろしくお願いします〉
志とは違ってまるでパッとしないプロフィールを志に見せ、二人は固い握手を交わし、自然な笑みを向け合った。
まだなにも始まっていないのに、絢斗の心はこれでもかというくらいに躍っていた。
こんな風に、自分以外の誰かとなにかを成し遂げようとするのはいったいいつぶりのことだろう。誰ともかかわらない、うまくかかわれなかった絢斗のもとに、こんなチャンスが訪れるなんて。
がんばらなくちゃ、と絢斗は自分自身を奮い立たせた。
志が求めてくれている。こたえたい。こたえなくちゃ。
志の力になりたい。大好きな彼の歌声を、もっと多くの人のもとへ。
自分のことはどうでもいい。ただ絢斗は、志の心が満たされればいいと考えていた。
志が幸せになれたらいい。その手伝いができるのなら。
握手を終え、嬉しそうにギターをかき鳴らす志の横顔に、絢斗はそっと微笑んだ。
駅で優しく声をかけてくれた彼との出会いは、きっと一生の宝物になる。
根拠はないけれど、絢斗はそう確信した。
徐々に赤みを帯びていく西日が照らし出す志の姿が、いっそうきらめいて見えた。
池袋駅東口から一番近い、南池袋公園。芝生広場のベンチを一つ陣取り、志はギターケースを開けた。
黒いボディのアコースティックギターだった。志はそれを腿の上に載せてかまえ、張られた弦のつながっているつまみみたいなものを触り始めた。
「絢斗は、音楽をやるの?」
弦を軽く弾きながら、志はなにげなく問いかけてくる。
絢斗は首を横に振った。歌うことはもとより、楽器の演奏もできない。
けれど、音楽は好きだった。一日に一度はスマートフォンから音楽を流し、サブスクや動画サイトで人気の楽曲、流行りの曲を聴くという、今どきの若者らしい音楽の楽しみ方をしている。
絢斗からも訊きたいことがあって、青いノートに書いて志に見せた。
〈志さんは、バンドマンですか?〉
「違うよ。俺はただの音大生」
音大生!
意表を突かれた。一方で、なるほど歌がうまいのも納得だった。作曲もできるし、彼は音楽の神様に見初められた男なのだ。
ジャカジャカと和音を響かせ始めた志が、また別の質問を絢斗に投げた。
「どんな音楽が好き? ロック? ポップス? ジャズ?」
絢斗は筆談で応じた。
〈ジャンルはよくわかりません。好きな歌手は、星野源さんとか、秦基博さんとか、BUMP OF CHICKENさんとか、Official髭男dismさんとか〉
「いっぱいいるな」
志が笑って、絢斗はようやく好みをさらけ出しすぎていることに気がついた。恥ずかしくなって、頬が赤らむ。
「男性ボーカルが好きなんだ」
絢斗はうなずき、ペンを走らせる。
〈理由はよくわかりませんが、気づいたら男性の方の歌ばかり聴いていて。皆さんいい声なので、耳が喜びます〉
「耳が喜ぶって」
志はまた声を立てて笑った。彼が楽しそうにしていると、なぜか絢斗も楽しい気持ちになってくる。
勢いにまかせ、絢斗は新たな一文を綴った。
〈志さんの声も、すごく素敵です。きれいで、耳に自然となじむというか〉
「ほんと? 嬉しいな」
〈歌もお上手ですし、ずっと聴いていたくなります〉
運命的な出会い、というものがもしもこの世にあるのなら、さっき水族館で聴いた志の歌声はまさにそれだと絢斗は感じた。
歌のうまい人なんてごまんといる。けれど、志の歌はその人たちとは少し違った。
『うまい』という言葉で他の歌い手と一括りにしようとすると、なぜか胸がモヤモヤした。確かに志もうまいのだけれど、ただうまいだけではなくて。
なんと言えばいいのだろう。
そう……好きだ。
志の歌声が好き。歌い方が好き。
自分の紡いだ詩を歌にしてくれたからじゃない。純粋に、志の声が好きなのだ。話す声も、歌う声も。だから彼の歌だけが特別に思えて、もっと聴かせてほしいと願ってしまう。
「じゃあさ」
志はギターを提げて立ち上がると、スマートフォンを操作し、絢斗に手渡した。
「よかったら、これ聴いて待ってて。俺、ちょっと練習してくるから」
受け取ったスマートフォンは、YouTubeを開いた状態になっていた。『Yuki1092』というアカウントのチャンネルにアクセスされていて、二十件以上の投稿動画がずらりと軒を連ねていた。
「俺の歌。全部カバーだけど、そんなんでよければいくらでも聴いて」
絢斗は目をまんまるにして驚いた。
なんらかの形で志が音楽に携わっていることは最初からわかっていたけれど、音大にかよっているだけでなく、いわゆる音楽系YouTuberとしても活動していたとは。
志は絢斗から赤いノートを借りて隣のベンチへと移動し、先ほど即興で作った歌に伴奏をつける作業を開始した。絢斗は大きくした目をぱちくりさせたまま、志のスマートフォンを改めて見た。
動画はどれもギター一本による弾き語りで、サムネイル画像はすべてギターを演奏する手もととマイクのみが映し出され、首から上は画面からはずれていた。
カバーされている楽曲は多岐に渡り、近年の流行曲から、桑田佳祐『白い恋人達』、スキマスイッチ『奏』、THE ALFEE『星空のディスタンス』といった往年の名曲まで幅広く歌われている。
いつも持ち歩いているイヤホンを接続させてもらい、韓国発の大人気アーティスト・BTSの世界的ヒットナンバー『Butter』のカバー歌唱動画をタップして再生した。
始まった直後から最後の一瞬まで、なにもかもがよかった。透明感と力強さを兼ね備え、ときに色気さえ感じさせる歌声。リズミカルでオシャレなアレンジを効かせたギター演奏。英語の発音まで完璧で、正確なピッチ、そして歌い上げる時に響かせるビブラートが心を掴んで離さない。
痺れた。一曲まるごと聴き終えた時、絢斗は放心状態だった。
動画の再生回数が、彼の実力を物語っていた。何万回、何十万回再生を超える動画がいくつもある。
貪るように、絢斗は志の動画を見た。次から次へと再生し、確かな歌唱力に裏打ちされたハイレベルな音楽に酔いしれた。
やみつきになる。時間の許す限り、ずっとこの歌声に浸っていたい。それほどまでに、志の歌は高い中毒性を孕んでいた。こんなにもどっぷりとハマる歌い手に出会ったのははじめてだった。
五つ目の動画を再生しようした時、正面から不意に視線を感じて絢斗は顔を上げた。
絢斗の座るベンチの前に、志がしゃがみ込んでいた。
「……!」
びっくりして息を飲むと、志はクスクスと楽しそうに笑った。
「集中しすぎ」
かぁっ、と首まで熱くなる。すぐ目の前にある志の子どもっぽい笑みが、さっきまで流れていた動画の色っぽく迫力のある歌声とはあまりにもかけ離れていてドキドキする。同一人物とは思えない。ギャップがすごい。
「とりあえず一番だけできたんだけど、聴いてくれる?」
一番。サビだけでなく、AメロやBメロも作ってくれたのだろうか。
絢斗はイヤホンをはずし、うなずいた。「じゃ、歌うね」と、志は絢斗の隣に赤いノートを置き、絢斗から二メートルほど距離を取ったところに立ってギターをかまえた。
絢斗の心臓が早鐘を打つ。自分が歌うわけでもないのに、書いた詩をちゃんと歌にしてもらえると思うと、どうしようもなくそわそわした。
ベンチに腰掛ける絢斗一人を観客に、志はギターのボディを軽くたたいてリズムを刻むと、八小節分のイントロから演奏を開始した。
速すぎず、遅すぎない、ミディアムバラード調に仕上げたようだ。イントロの終わりにすぅっと息を吸い込むと、志はやや抑え気味の声を出し、絢斗の書いた『The light fall』を歌い始めた。
志の歌声がギター伴奏に乗った瞬間、二人を包んでいた公園の空気が色を変えた。
優しく、ガラス細工にそっと手を触れるような歌い方で始まった曲は、Bメロに入ると、叙情的なメロディーに合わせて感情を込めた歌声に変わる。緩急、強弱のつけ方が絶妙だった。
サビのメロディーは力強く、志は声を張り上げるようにして歌った。ビリビリと耳から全身まで震えさせる迫力に圧倒され、知らず知らずのうちに涙腺が緩んだ。
きみが教えてくれた
いつか夜は明けると
逃げることなんてない 走れ
きみの待つ あの場所まで
最後の一節を、志は勢いを保ったまま歌い切った。ほんの少しだけ効かせたビブラートが切なくもあたたかい余韻を残し、歌声は徐々に、泡沫のように消えていく。
ギターの演奏が終わる。志は呼吸を整えるように、気持ち長めに息を吐き出した。
どこからか、拍手の音がいくつも重なって聞こえてきた。見ず知らずの通行人が十人ほど、足を止めて志の歌を聴いていた。
「うまいねぇ、兄ちゃん」
くたびれたスーツに身を包んだ初老のサラリーマンが、ねぎらうように志の肩をたたいていった。他にも何人か、「がんばってください」と言い残してくれた人がいた。
知らぬ間に集まった想定外の観客たちに志は驚いた顔をしつつ、「ありがとうございます」と気恥ずかしそうに挨拶をした。その視線が、ゆっくりと絢斗に注がれる。
絢斗はひたすら呆然としていた。志の歌声に魂を抜かれ、拍手をすることも忘れていた。
すごい。
まったくの素人である自分が見よう見まねで綴った詩に、志が曲をつけて歌ってくれた。それだけで十分感極まっていたというのに、見知らぬ人たちから賞賛の声までもらった。
志のスマートフォンを胸に抱きしめ、絢斗は勢いよくベンチから立ち上がった。
志とまっすぐに視線が重なる。感情が高ぶり、呼吸が揺れる。
感動した。そんなストレートな言葉しか出てこないけれど、とにかく絢斗は興奮していた。
あぁ、どうしよう。この感動を、感謝の気持ちを、どうにかして伝えたい。
はっ、はっ、と絢斗の口から短い息が漏れ始めた。もう少し、もう少しがんばれば、声になりそう。
口を「あ」の形にし、絢斗は懸命に喉に力を込めた。
出ろ、僕の声。
お願いだ。一瞬でいい。
志さんに気持ちを伝えたい。
僕の声で、伝えるんだ――。
「絢斗」
志の右手が、絢斗の左頬をそっと包んだ。
「落ちついて」
志の親指が、頬を優しくなでていく。知らないうちに、涙がこぼれ落ちていた。
出せなかった。
もう少しだったのに。チャンスだったのに。
悔しい。
いつになったら、僕は声を取り戻すことができるんだろう。
「深呼吸しよう」
志はそう言って、絢斗と二人でタイミングを合わせて息を吸い、ゆっくりと吐き出した。高ぶった気持ちが鎮まると、出せそうだと思った声は、再び長い眠りについた。
「どうだった? 今の歌」
感想を尋ねられ、絢斗は思い出したように気持ちを切り替えた。慌ただしくバッグから青いノートを取り出し、感じたままに綴る。
〈最高でした! 感動して、うまく言葉になりません!〉
「本当? よかった」
〈YouTubeに投稿されていたカバーソングも素敵でした! 僕、志さんの歌声が好きです! 四六時中聴いていたいと思いました!〉
「四六時中?」
志が照れたようにはにかむ。興奮冷めやらぬ絢斗は、青いノートから赤いノートへと持ち替え、『The light fall』のページをちぎって志の前に差し出した。
「俺に?」
絢斗はうなずく。志さえよければ、曲の続きを作ってほしいと思った。
志は黙って、絢斗の綴った詩を受け取る。しばらく考えるように文面を眺め、紙から顔を上げた。
「一曲、完成させたいってこと?」
伝わった。絢斗は大きくうなずいて、〈よろしくお願いします〉と手話で伝えた。握った右手を鼻の前に突き出し、手を開きながらお辞儀をする。
志はまた紙を見て、考えるような顔をした。そよ風が木々を揺らす中、たっぷり三十秒ほど沈黙が続いた。
「ねぇ、絢斗」
覚悟を決めたような口調で、志は言った。
「よかったら、俺と一緒に音楽やらない? この一曲に限らず、もっとたくさんの歌を作ろうよ、俺たち二人で」
なんだって?
一緒に、音楽を――?
目を見開いた絢斗に、志は真剣な眼差しで続けた。
「楽器を勉強しろって言ってるわけじゃない。曲は俺が作るし、歌も俺が歌う。絢斗はこれまでどおり、自由に詩を綴ってくれればいい。ただし、その詩は俺が歌うことを前提にして書いてほしいんだ」
全身に熱いものがほとばしるのを感じた。
夢のような提案だった。なんの力もない自分の書いた詩を、志が歌にしてくれる。これまで書き溜めてきた詩は、いつか誰かに届けばいいと絢斗はひそかに願っていたのだ。
その夢を、志が叶えてくれようとしている。志の美しい歌声に乗せるという最高の形で。
絢斗の瞳が潤んだのを見て、志はふわりと微笑んだ。
「さっき教えたYouTubeのチャンネル、今は既存曲をカバーした動画しかアップしてないんだけど、いつか自分だけのオリジナルソングを作れたらいいなって、ぼんやりとだけど思ってたんだ。絢斗と二人でやるんだから自分だけの曲ってわけじゃないけど、それでも、俺たち二人のオリジナルであることに変わりはない。きっと楽しいと思うんだ、俺たち二人でやったらさ」
僕たち二人の、オリジナル。
心臓が小さく跳ねる。二人、という言葉の響きに、胸の奥がこそばゆくなった。
二人で作ったオリジナルソングを、多くの人に向けて発信する。志の歌で。大好きな志の歌声に乗せて届ける。
考えただけでからだが震えた。最高だ。断る理由などどこにもない。
絢斗はシャープペンを握りしめ、青いノートに書き記した。
〈やりたいです。僕も、志さんと一緒にやりたい〉
「ほんと?」
絢斗ははっきりとうなずいて、深々と頭を下げた。「やった」と志は嬉しそうに声を上げ、上体を起こした絢斗に手を差し出した。
「渡久地志。M音大ピアノ専攻の三年生です。改めて、今日からよろしく」
ピアノ専攻。もはや響きだけでかっこよかった。機会があれば、いつかピアノの演奏も聴いてみたいと思った。
彼の手を握り返す前に、絢斗もノートに自己紹介をざっと書いた。
〈城田絢斗です。C大学文学部の一年生です。こちらこそ、よろしくお願いします〉
志とは違ってまるでパッとしないプロフィールを志に見せ、二人は固い握手を交わし、自然な笑みを向け合った。
まだなにも始まっていないのに、絢斗の心はこれでもかというくらいに躍っていた。
こんな風に、自分以外の誰かとなにかを成し遂げようとするのはいったいいつぶりのことだろう。誰ともかかわらない、うまくかかわれなかった絢斗のもとに、こんなチャンスが訪れるなんて。
がんばらなくちゃ、と絢斗は自分自身を奮い立たせた。
志が求めてくれている。こたえたい。こたえなくちゃ。
志の力になりたい。大好きな彼の歌声を、もっと多くの人のもとへ。
自分のことはどうでもいい。ただ絢斗は、志の心が満たされればいいと考えていた。
志が幸せになれたらいい。その手伝いができるのなら。
握手を終え、嬉しそうにギターをかき鳴らす志の横顔に、絢斗はそっと微笑んだ。
駅で優しく声をかけてくれた彼との出会いは、きっと一生の宝物になる。
根拠はないけれど、絢斗はそう確信した。
徐々に赤みを帯びていく西日が照らし出す志の姿が、いっそうきらめいて見えた。



