池袋駅のホームに降り立った時、突然、高波にのまれて息ができなくなる映像に頭の中を支配された。
呼吸のリズムが一気に崩れる。深い海の水底へとどんどん沈んで、このまま誰にも引き上げられずに死んでしまうのではないか。そんな風に思い始めて、指先が震えた。
不規則に入り乱れる人いきれの中で、絢斗は立ち止まることを余儀なくされた。最近は落ちついていたから大丈夫だと思ったのに、少し遠出をした今日に限って発作が起きた。
絢斗と同じように電車を降り、改札口へと急ぐ人たちが、うつむいたままその場に固まっている絢斗を鬱陶しそうに睨んでいく。次の電車を待つ人にはわざと肩をぶつけられた。
ホームドアが閉まり、乗ってきた列車が動き出す。歩き出さなきゃいけないのに、絢斗はきつく目を閉じた。
自ら作り出した暗闇の中で、赤や青、黄、白、さまざまな色がチカチカと光り、歪な円を描いて回る。耳の奥で、キィンと甲高い音が鳴り出した。
どうしよう。息ができない。
誰か助けて。
死んじゃう。僕、死んじゃう――。
「大丈夫?」
不意に、背中に優しいぬくもりを覚えた。
「苦しい?」
かけてもらった声は、透きとおった沖縄の海のように澄んでいた。柔らかく、落ちつきのあるテノールボイス。耳の奥で鳴り続けていた不快な音が少しずつ小さくなっていく。
気づかうように、後ろから両肩に手を置かれる。顔に近づいたその人の腕から、かすかに柑橘系の香りがした。
見知らぬ誰かが、深海へ落ちていく絢斗に手を差し伸べてくれている。絢斗は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。
ぼやけた視界の中で、ほとんどゴールドに近いアッシュグレーのショートヘアが一番に目に映った。トップはストレートだがワックスで束感を出してあり、サイドと襟足を少しだけ刈り込んだ、男らしい流行りのスタイル。
本来の視力を取り戻し、絢斗は青年の横顔に目を向ける。
大きくはないが、はっきりと線の走った二重まぶたで切れ長の瞳。整えられた眉に、低すぎない鼻。口もとはきゅっと形よく締まっていて、顔全体のバランスが極めていい。髪型を踏まえると少々やんちゃな印象を受けるが、端的に表現するならば、その青年は男前だった。
「ここじゃまずいな」
小さくつぶやいた青年は真剣な表情で行くべき先をじっと見据え、絢斗の耳もとで「少し歩ける?」とささやいた。まだ肩で息をしていた絢斗がうなずくと、彼は「こっち」と絢斗を支えるように肩を抱いて歩き出した。
中央改札口を出て、なるべくひとけのない場所を彼は懸命に探してくれた。西武百貨店の入り口からやや離れた壁に背を預け、二人は並んでしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼が背中をさすってくれる。ちょっと時間はかかったけれど、彼のおかげで深海の映像は消えてなくなり、正常な呼吸のリズムを取り戻すことができた。
絢斗の調子が落ちつくと、青年は自販機へと走り、ドリンクを二つ買って戻ってきた。
今になって気づいたが、彼は背中に黒いギターケースを背負っていた。白いカットソーの上に黒いマウンテンパーカーを羽織り、下も黒のスキニーパンツ。足もとは黒いスニーカーと、どこまでもオシャレだ。バンドマンなのかもしれない。
「どっちがいい?」
右手にペットボトルのミネラルウォーター、左手にミルクティーの缶が握られている。なんだか真逆の選択肢だなぁ、と絢斗はひそかに思いつつ、ミルクティーの缶を指さした。
はい、と手渡された缶はあたたかかった。ホットミルクティー。十月にしては暑い午後だったけれど、甘いものは好物なので嬉しい。
青年は手もとに残ったミネラルウォーターの封を切り、ぐびぐびと豪快に喉の奥へと流し込んだ。たったそれだけの仕草がかっこよくて、ついじっと見つめてしまう。
吸い込まれるように、絢斗はすっかり青年の横顔に見入っていた。だから、不意に視線を投げられた時、その場で飛び上がりそうになった。
「飲まないの?」
ドキッとして、絢斗は慌てて缶のプルタブに指をかけた。手が震える。缶が思いのほか熱くて、とっさに指を引っ込めた。
「ごめん、熱かった?」
青年は絢斗の手からするりと缶を抜き取った。彼の指先がかすめていった部分が軽く痺れる。さっきから心臓が跳ねっぱなしだ。乱れた呼吸は落ちついたはずなのに。
「はい、どうぞ」
代わりにふたを開け、もう一度手渡してくれた缶を受け取る前に、絢斗はやるべきことをした。緊張してあちこち震えているけれど、彼にきちんと伝えたいことがあった。
右手の小指側の側面を、手のひらを下に向けた左手の甲に軽く当て、そのまま右手を顔の前まで持ち上げる。
〈ありがとうございます〉
感謝を伝える時に使う、手話だ。軽く頭を下げながら、絢斗は優しい青年にジェスチャーでお礼を言った。
青年は目をまんまるにして絢斗を見た。初対面なのだから仕方がない。絢斗のことを知らない人は、みんな同じ反応をする。
絢斗は口を閉ざしたまま缶を受け取り、ミルクティーに口をつけた。ふわりと広がるミルクの甘味と、優しく鼻を抜ける紅茶の香りが心をほんわかとあたためてくれた。おいしいミルクティーだった。
「あのさ」
緊張のほぐれた絢斗とは対照的に、青年はわかりやすく動揺していた。自分の右耳に右の人差し指を突きつけ、おそるおそるといった風に絢斗に尋ねる。
「耳、聞こえないの?」
よくされる勘違いだった。絢斗は首を横に振り、右の指で右耳を差してから、人差し指と親指の先をくっつけて丸を作るオーケーサインをしてみせた。
「耳は、聞こえる?」
彼が言葉にしてくれる。正解です、と絢斗はもう一度オーケーサインを出した。
「じゃあ、どうして」
どうしてきみは、手話を使うの?
そう問いたかったらしい彼のために、絢斗は黒いトートバッグにつけている、水色でやや大きめの缶バッジを見せた。
〈声が出せません〉
絢斗のために、母が作ってくれたものだ。文言を見て、彼はいっそう驚いた顔をした。
「しゃべれないの?」
絢斗はうなずく。
「だから、手話?」
もう一度うなずく。彼は「そっか」とつぶやいた。
「それは、その……病気で?」
病気。そうだと言えばそうだし、違うと言えば違う。少なくともからだは元気で健康なので、絢斗は首を横に振った。彼はもう一度「そっか」と言った。
「だったら俺、声かけて正解だったんだな。しゃべれないんじゃ、自分から助けを求めることも難しいだろ」
つらかったな、と彼は幼子をあやすように、絢斗の頭にそっと手を載せてくれた。
ドキッとした。指の長い、けれど節はしっかりと目立つ男らしい手が、優しく頭をなでてくれる。こんなことをしてもらうのは何年ぶりだろう。家族でも、大学生になった息子にはもう誰もやってくれない。
絢斗は緊張気味にミルクティーの缶を足もとに置き、バッグの中からA5サイズのリングノートとシャープペンを取り出した。ノートは二冊持っていて、今手にしているのは筆談をするときに使う青いノートだ。
スマートフォンのメモ帳アプリを使ってもいいのだが、相手を待たせていると思うといつも焦って、打ち間違いや誤変換が増えてしまう。文具を持ち歩く手間をかけてまで筆談をするのは、結局は早く、正確に気持ちを伝えることができるからだ。
絢斗がノートに文字を書き始めると、彼の視線も自然と絢斗の手もとに注がれた。
なるべく早く、その上で読みやすく、絢斗は伝えたいことを端的に書き記し、彼に見せた。
〈助けてくれてありがとうございました。パニック障害をかかえていて、発作が起きてしまいました〉
原因はよくわからない。けれど絢斗は今日のように、突然息苦しさや眩暈に襲われ、このまま死んでしまうのではないかと不安になるほどひどいパニック状態に陥ってしまう。誰かに助けてもらわなくてもいつの間にか治まっていたりするのだが、彼に声をかけてもらったときには心の底から嬉しかった。男らしさよりも、透明感があって繊細な印象を受ける彼のテノールボイスは、荒波にのまれた絢斗の心を落ちつかせるのにとてもよく効く薬だった。耳に優しく、リラックスできる声だった。
「そうだったんだ」
彼は深くうなずいて、「大変だったな」と絢斗の背中をさすってくれた。
「もう大丈夫? 顔色はよくなったみたいだけど」
絢斗はこくりとうなずいた。右手で左肩に触れ、そのまま胸の前でスライドさせて右肩まで持っていく。〈大丈夫〉の手話だ。たぶん彼はよくわかっていなかっただろうけれど、首を縦に振ってくれた。優しい人だ。
絢斗は再びシャープペンを握った。
〈引き留めてしまってごめんなさい〉
彼の顔色を窺いながら、左手首の腕時計を指さす。――時間、大丈夫ですか?
「平気。たいした用じゃないから」
彼は微笑んで返してくれた。
「きみのほうこそ、どこかへ行くつもりでここへ来たんじゃないの? もしくは、誰かに会いに来たとか」
二つめの質問から先に答えた。右の人差し指で自分を差してから、左手の人差し指で漢数字の一を表しつつ、その下に右手で人という文字を書く。
「へぇ、おもしろいな」
彼は興味深そうに両眉を上げた。
「今のはわかるよ。〈一人〉だろ。一と、人」
彼は絢斗の真似をして、〈一人〉の手話をやってみせる。絢斗は右手でオーケーサインを作った。大正解だ。「やった」と彼は嬉しそうに白い歯を見せて笑った。
「こんな時間に、一人でどこへ?」
時は平日、昼の二時である。さすがに手話では伝わらないだろうと、絢斗はノートに行き先を記した。
〈サンシャイン水族館〉
「水族館? 一人で?」
こくりとうなずく。寂しいヤツだと思われるのは不本意だが、事実、絢斗はどんな時でも一人で行動することがほとんどだった。
けれど彼の表情は、一人ぼっちの絢斗を憐れむのではなく、心配しているようだった。
「一人で大丈夫? また発作が起きたりしない?」
たぶん。……いや、わからない。
絢斗は曖昧に首を傾げた。彼の言うとおりだ。また発作が起きないとも限らないし、今日はあきらめたほうがいいかもしれない。
ひとりでに首が横に振れる。一時間も電車に揺られ、はるばるここまでやって来たのだ。あきらめたくない。なんの収穫もなしに帰りたくない。
根拠はないけれど、今日はものすごく調子がいいような気がしているのだ。きっといいものが書ける。そう思えてならない。
ノートとペンをバッグにしまい、ミルクティーの缶を持って立ち上がった。隣の彼もギターを背負って腰を上げた。
彼のほうが、視線が十センチほど高かった。一八〇センチ近くあるようだ。顔もきれいで、スタイルもいい。平凡に平凡を塗り重ねたような絢斗とはまるで正反対だった。
彼に対し丁寧に頭を下げようとしたけれど、絢斗が動き出すよりも先に、彼が「あのさ」と口を開いた。
「どうしても行きたいなら、俺、付き合うよ」
なんだって?
唐突な申し出に、絢斗は驚いて目を大きくした。
心臓が妙な音を立てて鳴る。発作の時とは少し違う鼓動のリズム。これまで感じたことのない、新しい刺激。
「だってさ」と彼は言った。
「心配じゃん。水族館でもさっきみたいな発作が起きたら、今度は誰も助けてくれないかもしれないぞ?」
わかっている。リスクは覚悟の上でなお、一人で行くつもりだった。
だけどもし、彼が一緒に来てくれるのなら、それ以上に心強いことはきっとない。申し訳なさを感じつつ、ありがたい声をかけてもらえたと思う気持ちも強かった。
彼はグレージュの頭をかきながら言葉を選び、もう一度絢斗に提案した。
「ごめんな、突然。俺、困ってる人を放っておけないタチなんだ。きみみたいな……その、か弱そうな子は、特に」
か弱そうな子。彼は絢斗を小学生の女の子かなにかだと思っているらしいが、表情はどこまでも真剣だった。
「邪魔しないように、後ろをついてく。俺なんていないと思ってくれてかまわないから。満足できるまで、とことん魚を見て回ってよ。苦しくなったら振り返って。俺、いるから」
嬉しかった。彼の優しさには押しつけがましいところがない。
でも、本当にいいのだろうか。絢斗は彼の背後に視線を向ける。
時間には余裕があると言ったけれど、用事がないとは言っていない。ギターを背負って絢斗と同じ電車に乗っていたのだから、なにかやりたいこと、やるべきことがあって池袋を訪れたことは間違いないのだ。
「あぁ、これ?」
絢斗の視線に気づいた彼が、背負っている黒いギターケースに触れた。
「いいのいいの。気分転換にちょっとスタジオで歌おうかなーと思っただけで、誰かと待ち合わせとか、そういうんじゃないから」
俺も一人なんだ、と彼は外国人がよくそうするように肩をすくめた。回答を聞いて安心できた一方で、彼の発言には興味をそそられるものがあった。
歌う。
趣味なのか、本業なのか、やはり彼は歌手、ボーカリストであるらしい。
聞いてみたいな、と思った。彼の美しいテノールは、どれほどきれいな歌を奏でるのだろう。
「で、どうする?」
彼は絢斗に決断を迫った。
「行く?」
断る理由が見つからなかった。できれば今日じゅうに水族館に行っておきたいし、なにより、彼の厚意を無駄にしたくないという思いが強い。
絢斗はうなずき、握った右手を鼻先に当て、少し前に突き出す。その手を開き、ゆっくりと下へ動かしながら一緒に頭を下げた。
〈よろしくお願いします〉
ちゃんと伝わったようで、彼ははにかみ、「じゃ、行こっか」と絢斗をエスコートするように歩き出した。
「あ!」
けれど彼はすぐに立ち止まり、勢いよく絢斗を振り返った。
「そういえば、名前聞いてなかった」
確かに。絢斗もあぁ、という顔をした。言われてみれば、名乗った記憶がない。声に出して名を告げることはできないけれど。
まだ中身の残っているミルクティーの缶をいったん彼に預け、絢斗は彼の左手を取り、手のひらを上向けて開かせた。その上に自らの右の人差し指をすべらせ、ファーストネームをひらがなで書いた。
「あやと?」
うなずいて、今度は漢字で書き直す。
「絢斗」
もう一度うなずく。「絢斗ね」と彼はしっかりと覚えてくれた。
「俺は、ユキ。志すっていう漢字一文字で、志」
志。音の響きは優しいのに、当てられた漢字は凛々しく、男らしい。かっこいい名前だ。
歩き出した志の背中を、絢斗はゆっくりと追いかけた。
なにもかもが予想しなかった展開で、ちょっとだけ混乱している。胸の鼓動の高鳴りが治まらないままだけれど、気分は不思議と晴れやかだった。
今日は本当に、いいものが書けそうだ。
改めてそう思えたことが、心から嬉しかった。
ペンギンが、空を飛んでいた。
真昼の東京・池袋に現れたその幻想的な光景を、絢斗は食い入るように見つめていた。トートバッグからデジタル一眼レフのカメラを取り出し、時折写真を撮った。心に焼きつけるだけでなく、記録としてこのきらびやかな景色を残しておきたかった。
池袋駅から少し東へ行った先にあるサンシャイン水族館は、日本ではじめてビルの屋上に設けられた水族館だ。中でも目玉展示の一つである『天空のペンギン』ブースは、壁から天井へ向かってドーム状に続いている水槽でペンギンが泳いでおり、青空が透けて見え、プリズムのように乱反射する太陽の光が差し込む中、まるでペンギンたちが池袋上空を飛び回っているかのような、大人も子どももわくわくできる景色を拝むことができる。
水族館全体がリニューアルされ、この『天空のペンギン』ブースが登場してから、絢斗ははじめてこの場所へ足を運んだ。いつか見ておきたいとかねてから思ってはいたものの、高校生になったばかりの頃、電車通学を始めたことで発症したパニック障害のおかげでなかなか思うような外出が叶わず、三年半という時間をかけてようやく実現させるに至った。
さすがは池袋。平日の午後二時でも館内はそれなりににぎわっていた。人の集まる場所は苦手だが、空飛ぶペンギンにすっかり夢中になっている今の絢斗にとって、人混みなどたいした敵じゃない。
ファインダーを覗く。シャッターを切る。
目を閉じて、想像する。心の中に、描きたい景色を思い浮かべる。
一つ一つ、使いたい言葉が降ってくる。綴りたい想いが、胸の奥で少しずつ形になっていく。
この瞬間が好きだった。伝えたい言葉が泉からあふれてくるような、感情が自然と心を衝いて出てくる感覚。
こうした刺激を得るために、絢斗ははるばるこの場所までやってきた。自宅と大学を往復するだけの生活では、心はちっとも動かない。心が揺れ動かなければ、書けるものも書けないのだ。
「絢斗」
声をかけられ、絢斗は背後を振り返った。三メートルほど離れたところにいたはずの志が、心配そうな顔をして絢斗のすぐ後ろに迫っていた。
「大丈夫?」
絢斗が目を閉じて立ち止まったからだろう。また気分が悪くなったのではないかと気づかってくれたようだ。
絢斗は右手でオーケーサインを作り、頭上を悠々と泳ぎまわるペンギンを指さした。すごいですねと伝えたかったのだが、志はすぐにわかってくれて、「うん」と笑ってうなずいた。
「すごいな。俺、生まれが岐阜でさ。大学に入った時に東京へ出てきたんだけど、ここに来るのははじめて」
岐阜にはペンギンがいないんだ、と志はやや大仰に肩をすくめた。知らなかった。生まれも育ちも東京である絢斗は素直に驚いて目をぱちくりさせ、もう一度、小さな翼をはためかせて空を泳ぐペンギンたちを見上げた。
屋外から差し込む自然な陽光が水槽を透過して、通路を華やかに彩っている。行き交う人の熱も、話し声も、普段ならしつこいくらいにまとわりついてくるのに、今はなに一つ不快に感じない。
たぶん、安心しているからだ。隣に彼がいてくれるから。
ちらりと右に目を向ける。志はほんの少しだけ目を細くし、寄り添うように並んで泳ぐ二羽のペンギンを見つめていた。
きれいな横顔だった。耽美という言葉がしっくりくる、完成された美しさ。雰囲気があり、彼の周りだけ他とは違う、新鮮で清潔な空気が漂っているようにさえ感じる。穢れを知らない、澄み切った世界の中に彼はいた。
絢斗はカメラをかまえた。一、二歩志から距離を取り、一心にペンギンを見上げる彼の姿を撮る。
横顔のアップ。バストショット。もう三歩下がると、ギターケースを背負い、パーカーのポケットに両手を突っ込む全身の写真を撮影した。
構図を変えて、志とペンギンが見つめ合っているような写真も撮った。被写体に人を選んだことはこれまでなかったけれど、こんなにも絵になるものかと感心した。
僕とは、全然違う――。
くたびれて色の褪せたジーンズに、ジャストサイズのカーキのフーディーを着ているだけ。髪を染めたこともなく、生まれつき色素の薄い猫っ毛はいつもペタンと頭にくっついてボリュームがない。
オシャレとは無縁で、顔もスタイルも平々凡々。自分と比べて、志はなんと鮮やかな存在だろうと心底思う。かっこいいという言葉では言い尽くせない魅力を彼から感じてやまないのは、いったいどういうわけなのか。
そこまで思って、ハッとした。
気がつけば、幻想的なペンギンの存在を忘れて志ばかりを見ていた。わけもわからずドキドキして、頭が少し混乱した。
絢斗が離れたことにようやく気づいた志が、驚いた顔で駆け寄ってきた。
「ごめん、次行く?」
志の声で我に返った。絢斗は首を横に振り、撮りたての写真をカメラの液晶画面に表示させ、志に見せた。
「えっ、俺じゃん」
志が前のめり気味に画面を覗き込んでくる。
カメラを支えていた右手に、志の右手が重なった。一瞬、ふわりとシトラスがまた香った。
胸の鼓動が速くなる。顔は近いし、右手の甲に触れている志の手はあたたかい。優しいぬくもりが染み込んできて、指先が震えた。
「全然気づかなかった、撮られてたの」
志はついに絢斗からカメラを奪い取って、何枚か撮影した志の写真を順に見始めた。勝手に撮るなよ、なんて怒られるかと思ったけれど、志はただ熱心に、絢斗の撮った写真を見ているだけだった。
その隙に絢斗は青いノートとシャープペンを取り出し、志に伝えたいことを綴った。
志の肩を指でつつく。志の視線が絢斗をとらえると、絢斗はノートを見せた。
〈ごめんなさい。かっこよかったので、つい撮ってしまいました。迷惑でしたか?〉
志の写っていない写真も含め、今日撮ったものをSNSなどに投稿する予定はなかった。そもそも絢斗の持っているアカウントは発信用として機能させておらず、情報を得るためのツールとして利用しているに過ぎない。
仮に誰にも見せる予定がなかったとしても、写真を撮られることそのものが嫌いな人だっている。志がそうだったかもしれない。志の表情は穏やかなのでそうではないと信じたいが、嫌な気持ちにさせたのなら、データを削除しなければならない。
やや縮こまった絢斗を見て、志は吹き出すように笑った。
「素直なんだな、絢斗って」
素直? 絢斗は両眉を跳ね上げた。
「だってさ、『かっこいいから撮っちゃいました』なんて、普通言えないだろ、そんな簡単に」
そういうものだろうか。かっこいいと思ったのは本心で、伝えたらきっと喜んでもらえると思って言葉にしたのだが、間違いだったか。
絢斗は〈ごめんなさい〉と手話で伝えた。親指と人差し指で眉間をつまむような仕草をし、指先を揃えて開いた手を上から下へと下ろしながら、同時に頭も下げる。
最後の動きは〈よろしくお願いします〉と似ているが、最初が違うので志にも別の手話だとわかったらしい。絢斗の表情から謝罪であると察してくれたようで、志は首を横に振った。
「ありがとう。迷惑なんかじゃないよ」
駅でしてくれたのと同じように、志は絢斗の頭をなでた。恥ずかしくなって頬が赤らむのを感じたけれど、心はほかほかとあたたまった。
「むしろ嬉しいよ、こんな風に撮ってもらえて。ねぇ、この写真、俺にもちょうだい」
志はパーカーのポケットからスマートフォンを取り出した。絢斗は快諾し、カメラとスマートフォンをBluetoothで接続して写真を転送した。
ありがとう、と言った志は、スマートフォンを握った右手で忙しなく画面をタップした。文字を打ち込んでいるらしい。
やがて顔を上げると、志は液晶画面を絢斗に見せた。
「じゃーん」
志が操作していたのはインスタグラムだった。志の全身とペンギンを横から撮った写真に、コメントをつけて投稿されていた。
〈友達が撮ってくれました! Thank you, Ayato! 〉
インスタ映え~、と志は鼻歌まじりに笑った。その声を半ば聞き流した絢斗の目は、志の綴った文章に釘づけになっていた。
友達。
なにげなく打ち込まれた文字を、吸い寄せられるように見つめる。
もうずっと、その言葉とは無縁だった。七歳の頃に声を出すことができなくなってから、閉じた世界の中で、いつも一人きりだった。
半年前に卒業した高校でも、今かよっている大学でも、声を持たないせいで煙たがられた。気づかってくれる人はいるものの、腫れ物に触るような扱いになってしまうことは避けられないようだった。
迷惑な存在なのだと、絢斗は自分の意思で殻にこもった。どうせ誰ともうまくやっていけないのだから、いっそのこと透明人間にでもなってしまえばいい。それが絢斗の生き方だった。一人でも、僕は全然寂しくない――。
「おい」
不意に、志の声がした。
「なんだよ、なんで泣いてんだよ、絢斗」
志の右手が、左頬に伸びてくる。
いろんな意味で驚いた。いつの間にか、絢斗は涙を流していた。
慌てて拭い、首を振る。違う。悲しくて、つらくて泣いているんじゃない。
嬉しかった。
都合のいい言葉を使ったに過ぎないのかもしれない。それでも、志に友達だと言ってもらえたことが嬉しくてたまらなかった。こんな気持ちになれる日が来るなんて、少しも想像したことはなかった。
胸に熱いものが込み上げる。同時に、頭の中でいくつかのワードが光り輝いて浮かび上がった。
それらはすぅっと収束し、一つの情景を形成していく。暗闇の中に、一条の光が差し込む場面。
気持ちが高ぶる。心の中にある言葉たちを外界へ放出したい衝動に駆られる。
書きたい。書ける。
今ならきっと、いいものが書ける。
絢斗は青いノートとシャープペンを取り出し、志に伝えたいことを書き記して見せた。
〈どこか、座れる場所へ移動したいです〉
「えっ、大丈夫? 気分が悪い?」
絢斗は首を横に振り、ノートに新しい一文を記した。
〈やりたいことがあります〉
「やりたいこと?」
絢斗ははっきりとうなずいた。志は突然のことに戸惑っているようだったが、絢斗の要望を聞き入れ、ペンギンのブースから少し離れた通路で見つけたベンチに並んで腰かけた。「ここでいい?」と確認され、絢斗は右手でオーケーサインを作った。
青いノートをバッグにしまい、今度は赤い表紙のリングノートを取り出す。揃えた足の上にノートを置き、絢斗はゆっくりとペンを走らせ始めた。
ページの一番上に、『The light fall(仮)』と記す。罫線を無視し、次々と単語を書き出していく。
空。光。太陽。輝き。きらめき。幻想的。非日常。ペンギン。泳ぐ。寄り添う。出会う。くっつく。離れる。孤独。海。青。
マインドマップのように、単語から単語を連想して線でつなげていったり、それぞれ独立したものをいくつも書き並べたり。
絢斗は夢中で作業を続けた。隣に座る志が覗き見していることなど、さっぱり気に留めていない。
満足すると、今度は書き出したワードを短い文章にし始めた。
小説のようなそれではない。詩だ。メロディーをつければ歌詞になるような。
絢斗が高校生になったばかりの頃、とある日本人シンガーソングライターの楽曲が世界的に流行したことがあった。音楽性もさることながら、絢斗はその曲で歌われた歌詞に感銘を受け、以来、自分でも書いてみるようになった。
言葉を声にすることができない絢斗にとって、詩は自らの心を表現する方法として自然とからだに馴染んでいった。誰かに見せたり、ネット上で発表したりといったことはまだしたことがないけれど、趣味としてこのまま長く続けていきたいと思っていた。
絢斗の感じた素直な気持ちやささやかな願いが、少しずつ、一つの詩になっていく。何度も消しゴムをかけた箇所は紙が黒ずみ、それでも絢斗の手が止まることはない。形になるまで一気に駆け抜けるのが絢斗流だ。
納得のいく出来映えになった頃には、どれくらい時間が経っていただろう。
絢斗はとてもいい顔をして、まとめ上げた詩を新しいページに書き写した。タイトルははじめにつけた仮題『The light fall』をそのまま採用した。
「すごいな」
ペン先がノートから離れると、隣から驚きを多分に含んだ声が上がった。志を待たせてしまっていたことを今になって思い出して、絢斗はハッとして志を見た。
「見せて」
志の視線は完成した詩に釘づけになっていた。絢斗がなんのアクションも起こさないうちに、志は絢斗の左手から赤いノートをそっと奪った。
あたふたする絢斗の隣で、志は夢中になって絢斗の綴った詩を読んだ。一語一語、慈しむように指でノートの文字をなぞりながら、うっとりと目を細めている。
「これ、歌詞?」
志が問う。絢斗は曖昧に首を振った。
歌詞のつもりで書いたわけではないけれど、詩を書き始めたのは例の楽曲に影響されたからだ。音楽は作れないが、もしも歌にするならAメロはこうで、サビはどうで……といった風に、一つの曲としての構成を考えながら綴ることはある。
今回もどちらかというとそういう書き方になった。志がギターを背負っていたからだろうなと絢斗はひそかに思った。
「ここがサビ?」
志がノートの中央あたりを指で示す。まさに絢斗がサビを想定して書いた部分だった。右手でオーケーサインを作ってみせる。
「じゃあ、他はこうなるね」
志が右手を広げて差し出してきたので、絢斗は彼の手のひらの上にシャープペンを載せた。
志はペンを握り、Aメロ、Bメロ、サビと、絢斗の書いた詩をいくつかにブロック分けし始めた。そのうち「ここにちょっと長めの間奏入れたいなぁ」なんて言葉が聞こえてきて、絢斗の胸が弾み出す。
まさか、彼はこの詩に曲をつけるつもりなのか。
無意識のうちに生唾を飲み込む。わけもなくドキドキしてきて、頬が熱を帯びていく。
「……The light fall」
ついに志が、絢斗の綴った詩にメロディーをつけて歌い始めた。
「降り注ぐ愛とぬくもりを」
その短いフレーズを聴いただけで、全身が震えた。
うまい。
話す時よりもなお透明感のある歌声。正確にとらえられた音程。ふわりと響かせるビブラート。
まだサビの半分にも到達していない。たったそれだけの短い歌で、絢斗は志の歌声の虜になった。
自分の書いた詩を歌ってもらえたことも嬉しい。けれどそれ以上に、志の歌声をもっと聴きたいと強く思った。
鳴りやまないでほしい。彼の奏でる音楽にいつまでも身をゆだねていたい。
絢斗の求めるような視線に気づいた志と目が合う。志はそっと口角を上げ、即興でサビの部分を最後まで歌い切ってくれた。
「どう?」
志が感想を求めてくる。
「いい感じ?」
絢斗はこくこくと、何度も何度もうなずいた。
いいなんてもんじゃない。最高だ。フラット一つの明るめなメロディーラインはエモーショナルで、アップテンポでもスローバラードでも映えそうだった。バックミュージックがついたら間違いなく泣いてしまう自信がある。
すでに潤んでいる目もとを拭い、絢斗はなにか言いたそうにもぞもぞとからだを動かした。こういう時、声が出せないことがもどかしくてたまらない。
仕方がなく、トートバッグから取り出した青いノートに書きなぐるようにして感想を綴った。
〈すごいです〉
一言目から、語彙力が消失していた。
〈歌、すごい。歌声きれい。上手!〉
思ったままを言葉にした。これ以上、なんと書けばいいのだろう。興奮していて、頭がうまく回らない。
「素直だなぁ、ほんと」
志は照れたようにはにかみ、「ありがと」と言った。男らしい顔つきの中に、幼い少年のようなかわいらしい表情が浮かんでドキッとした。
「いい詩だな。趣味なの? 詩を書くの」
絢斗はまだ興奮のさなかにいた。志の問いかけにはひとまずうなずいて、それより、といった風に志の腕をトントンとたたいた。
握った右手を顎に添え、少し前に出しながら人差し指を立てる。そのジェスチャーが終わると、今度は立てた右手の人差し指と中指をくっつけて口もとに寄せ、ゆっくりと開きながら右斜め上へと手を動かした。
〈もう一度、歌って〉
そう伝えるための手話だ。しかしうまく伝わらなかったようで、志は顔をしかめながら、今絢斗がやったとおりに自分でも手を動かした。
「最初のは……数字の一?」
絢斗はうなずき、両手の人差し指を右胸の前あたりでくるくると回す。〈くり返す〉を表す手話だが、わかってもらえただろうか。
「一を……くるくる。で、次が、こう……」
立てた二本の指を口もとから遠ざける仕草。そこまで実践して、ようやく志は「あ!」とピンときた顔をした。
「わかった、〈リピート〉だ! もう一回歌えってことか」
絢斗は笑顔でオーケーサインを出し、〈お願いします〉の手話をした。
「えぇ、ここで?」
絢斗は一瞬うなずきかけ、やめた。慌ただしく荷物をまとめ、ベンチから腰を上げる。
志を手招きするように、指で出口のほうをさす。もっと広い場所で、人の目を気にすることなく、大きな声でのびのびと歌ってほしかった。
「えっ、行くの?」
絢斗はうなずき、志の傍らに立てかけられているギターケースを指さした。どうせなら、ギターで伴奏もつけてほしい。
図々しいと自覚しながら、好奇心と欲望がとめどなくあふれて止まらなかった。
もっと、もっと志の歌を聴きたい。自分の書いた詩を歌にするんじゃなくてもいい。ただ志の歌を、優しくて美しい歌声を、誰よりも近くで感じたい。それだけだった。
「参ったな」
志は困ったように苦笑しながら、グレージュの頭をかいた。
「じゃ、行くか。せっかくだし、サビだけでもちゃんとした曲にしてみるよ」
OKをもらえ、さらに絢斗の心は弾んだ。志もどことなく嬉しそうで、二人は揃って水族館を出た。
絢斗はわかりやすく浮かれていた。
誰かとこうして同じ時間を共有するのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。
太陽が西に傾き始め、少し風が出てきた。
池袋駅東口から一番近い、南池袋公園。芝生広場のベンチを一つ陣取り、志はギターケースを開けた。
黒いボディのアコースティックギターだった。志はそれを腿の上に載せてかまえ、張られた弦のつながっているつまみみたいなものを触り始めた。
「絢斗は、音楽をやるの?」
弦を軽く弾きながら、志はなにげなく問いかけてくる。
絢斗は首を横に振った。歌うことはもとより、楽器の演奏もできない。
けれど、音楽は好きだった。一日に一度はスマートフォンから音楽を流し、サブスクや動画サイトで人気の楽曲、流行りの曲を聴くという、今どきの若者らしい音楽の楽しみ方をしている。
絢斗からも訊きたいことがあって、青いノートに書いて志に見せた。
〈志さんは、バンドマンですか?〉
「違うよ。俺はただの音大生」
音大生!
意表を突かれた。一方で、なるほど歌がうまいのも納得だった。作曲もできるし、彼は音楽の神様に見初められた男なのだ。
ジャカジャカと和音を響かせ始めた志が、また別の質問を絢斗に投げた。
「どんな音楽が好き? ロック? ポップス? ジャズ?」
絢斗は筆談で応じた。
〈ジャンルはよくわかりません。好きな歌手は、星野源さんとか、秦基博さんとか、BUMP OF CHICKENさんとか、Official髭男dismさんとか〉
「いっぱいいるな」
志が笑って、絢斗はようやく好みをさらけ出しすぎていることに気がついた。恥ずかしくなって、頬が赤らむ。
「男性ボーカルが好きなんだ」
絢斗はうなずき、ペンを走らせる。
〈理由はよくわかりませんが、気づいたら男性の方の歌ばかり聴いていて。皆さんいい声なので、耳が喜びます〉
「耳が喜ぶって」
志はまた声を立てて笑った。彼が楽しそうにしていると、なぜか絢斗も楽しい気持ちになってくる。
勢いにまかせ、絢斗は新たな一文を綴った。
〈志さんの声も、すごく素敵です。きれいで、耳に自然となじむというか〉
「ほんと? 嬉しいな」
〈歌もお上手ですし、ずっと聴いていたくなります〉
運命的な出会い、というものがもしもこの世にあるのなら、さっき水族館で聴いた志の歌声はまさにそれだと絢斗は感じた。
歌のうまい人なんてごまんといる。けれど、志の歌はその人たちとは少し違った。
『うまい』という言葉で他の歌い手と一括りにしようとすると、なぜか胸がモヤモヤした。確かに志もうまいのだけれど、ただうまいだけではなくて。
なんと言えばいいのだろう。
そう……好きだ。
志の歌声が好き。歌い方が好き。
自分の紡いだ詩を歌にしてくれたからじゃない。純粋に、志の声が好きなのだ。話す声も、歌う声も。だから彼の歌だけが特別に思えて、もっと聴かせてほしいと願ってしまう。
「じゃあさ」
志はギターを提げて立ち上がると、スマートフォンを操作し、絢斗に手渡した。
「よかったら、これ聴いて待ってて。俺、ちょっと練習してくるから」
受け取ったスマートフォンは、YouTubeを開いた状態になっていた。『Yuki1092』というアカウントのチャンネルにアクセスされていて、二十件以上の投稿動画がずらりと軒を連ねていた。
「俺の歌。全部カバーだけど、そんなんでよければいくらでも聴いて」
絢斗は目をまんまるにして驚いた。
なんらかの形で志が音楽に携わっていることは最初からわかっていたけれど、音大にかよっているだけでなく、いわゆる音楽系YouTuberとしても活動していたとは。
志は絢斗から赤いノートを借りて隣のベンチへと移動し、先ほど即興で作った歌に伴奏をつける作業を開始した。絢斗は大きくした目をぱちくりさせたまま、志のスマートフォンを改めて見た。
動画はどれもギター一本による弾き語りで、サムネイル画像はすべてギターを演奏する手もととマイクのみが映し出され、首から上は画面からはずれていた。
カバーされている楽曲は多岐に渡り、近年の流行曲から、桑田佳祐『白い恋人達』、スキマスイッチ『奏』、THE ALFEE『星空のディスタンス』といった往年の名曲まで幅広く歌われている。
いつも持ち歩いているイヤホンを接続させてもらい、韓国発の大人気アーティスト・BTSの世界的ヒットナンバー『Butter』のカバー歌唱動画をタップして再生した。
始まった直後から最後の一瞬まで、なにもかもがよかった。透明感と力強さを兼ね備え、ときに色気さえ感じさせる歌声。リズミカルでオシャレなアレンジを効かせたギター演奏。英語の発音まで完璧で、正確なピッチ、そして歌い上げる時に響かせるビブラートが心を掴んで離さない。
痺れた。一曲まるごと聴き終えた時、絢斗は放心状態だった。
動画の再生回数が、彼の実力を物語っていた。何万回、何十万回再生を超える動画がいくつもある。
貪るように、絢斗は志の動画を見た。次から次へと再生し、確かな歌唱力に裏打ちされたハイレベルな音楽に酔いしれた。
やみつきになる。時間の許す限り、ずっとこの歌声に浸っていたい。それほどまでに、志の歌は高い中毒性を孕んでいた。こんなにもどっぷりとハマる歌い手に出会ったのははじめてだった。
五つ目の動画を再生しようした時、正面から不意に視線を感じて絢斗は顔を上げた。
絢斗の座るベンチの前に、志がしゃがみ込んでいた。
「……!」
びっくりして息を飲むと、志はクスクスと楽しそうに笑った。
「集中しすぎ」
かぁっ、と首まで熱くなる。すぐ目の前にある志の子どもっぽい笑みが、さっきまで流れていた動画の色っぽく迫力のある歌声とはあまりにもかけ離れていてドキドキする。同一人物とは思えない。ギャップがすごい。
「とりあえず一番だけできたんだけど、聴いてくれる?」
一番。サビだけでなく、AメロやBメロも作ってくれたのだろうか。
絢斗はイヤホンをはずし、うなずいた。「じゃ、歌うね」と、志は絢斗の隣に赤いノートを置き、絢斗から二メートルほど距離を取ったところに立ってギターをかまえた。
絢斗の心臓が早鐘を打つ。自分が歌うわけでもないのに、書いた詩をちゃんと歌にしてもらえると思うと、どうしようもなくそわそわした。
ベンチに腰掛ける絢斗一人を観客に、志はギターのボディを軽くたたいてリズムを刻むと、八小節分のイントロから演奏を開始した。
速すぎず、遅すぎない、ミディアムバラード調に仕上げたようだ。イントロの終わりにすぅっと息を吸い込むと、志はやや抑え気味の声を出し、絢斗の書いた『The light fall』を歌い始めた。
志の歌声がギター伴奏に乗った瞬間、二人を包んでいた公園の空気が色を変えた。
優しく、ガラス細工にそっと手を触れるような歌い方で始まった曲は、Bメロに入ると、叙情的なメロディーに合わせて感情を込めた歌声に変わる。緩急、強弱のつけ方が絶妙だった。
サビのメロディーは力強く、志は声を張り上げるようにして歌った。ビリビリと耳から全身まで震えさせる迫力に圧倒され、知らず知らずのうちに涙腺が緩んだ。
きみが教えてくれた
いつか夜は明けると
逃げることなんてない 走れ
きみの待つ あの場所まで
最後の一節を、志は勢いを保ったまま歌い切った。ほんの少しだけ効かせたビブラートが切なくもあたたかい余韻を残し、歌声は徐々に、泡沫のように消えていく。
ギターの演奏が終わる。志は呼吸を整えるように、気持ち長めに息を吐き出した。
どこからか、拍手の音がいくつも重なって聞こえてきた。見ず知らずの通行人が十人ほど、足を止めて志の歌を聴いていた。
「うまいねぇ、兄ちゃん」
くたびれたスーツに身を包んだ初老のサラリーマンが、ねぎらうように志の肩をたたいていった。他にも何人か、「がんばってください」と言い残してくれた人がいた。
知らぬ間に集まった想定外の観客たちに志は驚いた顔をしつつ、「ありがとうございます」と気恥ずかしそうに挨拶をした。その視線が、ゆっくりと絢斗に注がれる。
絢斗はひたすら呆然としていた。志の歌声に魂を抜かれ、拍手をすることも忘れていた。
すごい。
まったくの素人である自分が見よう見まねで綴った詩に、志が曲をつけて歌ってくれた。それだけで十分感極まっていたというのに、見知らぬ人たちから賞賛の声までもらった。
志のスマートフォンを胸に抱きしめ、絢斗は勢いよくベンチから立ち上がった。
志とまっすぐに視線が重なる。感情が高ぶり、呼吸が揺れる。
感動した。そんなストレートな言葉しか出てこないけれど、とにかく絢斗は興奮していた。
あぁ、どうしよう。この感動を、感謝の気持ちを、どうにかして伝えたい。
はっ、はっ、と絢斗の口から短い息が漏れ始めた。もう少し、もう少しがんばれば、声になりそう。
口を「あ」の形にし、絢斗は懸命に喉に力を込めた。
出ろ、僕の声。
お願いだ。一瞬でいい。
志さんに気持ちを伝えたい。
僕の声で、伝えるんだ――。
「絢斗」
志の右手が、絢斗の左頬をそっと包んだ。
「落ちついて」
志の親指が、頬を優しくなでていく。知らないうちに、涙がこぼれ落ちていた。
出せなかった。
もう少しだったのに。チャンスだったのに。
悔しい。
いつになったら、僕は声を取り戻すことができるんだろう。
「深呼吸しよう」
志はそう言って、絢斗と二人でタイミングを合わせて息を吸い、ゆっくりと吐き出した。高ぶった気持ちが鎮まると、出せそうだと思った声は、再び長い眠りについた。
「どうだった? 今の歌」
感想を尋ねられ、絢斗は思い出したように気持ちを切り替えた。慌ただしくバッグから青いノートを取り出し、感じたままに綴る。
〈最高でした! 感動して、うまく言葉になりません!〉
「本当? よかった」
〈YouTubeに投稿されていたカバーソングも素敵でした! 僕、志さんの歌声が好きです! 四六時中聴いていたいと思いました!〉
「四六時中?」
志が照れたようにはにかむ。興奮冷めやらぬ絢斗は、青いノートから赤いノートへと持ち替え、『The light fall』のページをちぎって志の前に差し出した。
「俺に?」
絢斗はうなずく。志さえよければ、曲の続きを作ってほしいと思った。
志は黙って、絢斗の綴った詩を受け取る。しばらく考えるように文面を眺め、紙から顔を上げた。
「一曲、完成させたいってこと?」
伝わった。絢斗は大きくうなずいて、〈よろしくお願いします〉と手話で伝えた。握った右手を鼻の前に突き出し、手を開きながらお辞儀をする。
志はまた紙を見て、考えるような顔をした。そよ風が木々を揺らす中、たっぷり三十秒ほど沈黙が続いた。
「ねぇ、絢斗」
覚悟を決めたような口調で、志は言った。
「よかったら、俺と一緒に音楽やらない? この一曲に限らず、もっとたくさんの歌を作ろうよ、俺たち二人で」
なんだって?
一緒に、音楽を――?
目を見開いた絢斗に、志は真剣な眼差しで続けた。
「楽器を勉強しろって言ってるわけじゃない。曲は俺が作るし、歌も俺が歌う。絢斗はこれまでどおり、自由に詩を綴ってくれればいい。ただし、その詩は俺が歌うことを前提にして書いてほしいんだ」
全身に熱いものがほとばしるのを感じた。
夢のような提案だった。なんの力もない自分の書いた詩を、志が歌にしてくれる。これまで書き溜めてきた詩は、いつか誰かに届けばいいと絢斗はひそかに願っていたのだ。
その夢を、志が叶えてくれようとしている。志の美しい歌声に乗せるという最高の形で。
絢斗の瞳が潤んだのを見て、志はふわりと微笑んだ。
「さっき教えたYouTubeのチャンネル、今は既存曲をカバーした動画しかアップしてないんだけど、いつか自分だけのオリジナルソングを作れたらいいなって、ぼんやりとだけど思ってたんだ。絢斗と二人でやるんだから自分だけの曲ってわけじゃないけど、それでも、俺たち二人のオリジナルであることに変わりはない。きっと楽しいと思うんだ、俺たち二人でやったらさ」
僕たち二人の、オリジナル。
心臓が小さく跳ねる。二人、という言葉の響きに、胸の奥がこそばゆくなった。
二人で作ったオリジナルソングを、多くの人に向けて発信する。志の歌で。大好きな志の歌声に乗せて届ける。
考えただけでからだが震えた。最高だ。断る理由などどこにもない。
絢斗はシャープペンを握りしめ、青いノートに書き記した。
〈やりたいです。僕も、志さんと一緒にやりたい〉
「ほんと?」
絢斗ははっきりとうなずいて、深々と頭を下げた。「やった」と志は嬉しそうに声を上げ、上体を起こした絢斗に手を差し出した。
「渡久地志。M音大ピアノ専攻の三年生です。改めて、今日からよろしく」
ピアノ専攻。もはや響きだけでかっこよかった。機会があれば、いつかピアノの演奏も聴いてみたいと思った。
彼の手を握り返す前に、絢斗もノートに自己紹介をざっと書いた。
〈城田絢斗です。C大学文学部の一年生です。こちらこそ、よろしくお願いします〉
志とは違ってまるでパッとしないプロフィールを志に見せ、二人は固い握手を交わし、自然な笑みを向け合った。
まだなにも始まっていないのに、絢斗の心はこれでもかというくらいに躍っていた。
こんな風に、自分以外の誰かとなにかを成し遂げようとするのはいったいいつぶりのことだろう。誰ともかかわらない、うまくかかわれなかった絢斗のもとに、こんなチャンスが訪れるなんて。
がんばらなくちゃ、と絢斗は自分自身を奮い立たせた。
志が求めてくれている。こたえたい。こたえなくちゃ。
志の力になりたい。大好きな彼の歌声を、もっと多くの人のもとへ。
自分のことはどうでもいい。ただ絢斗は、志の心が満たされればいいと考えていた。
志が幸せになれたらいい。その手伝いができるのなら。
握手を終え、嬉しそうにギターをかき鳴らす志の横顔に、絢斗はそっと微笑んだ。
駅で優しく声をかけてくれた彼との出会いは、きっと一生の宝物になる。
根拠はないけれど、絢斗はそう確信した。
徐々に赤みを帯びていく西日が照らし出す志の姿が、いっそうきらめいて見えた。
秋雨前線の影響で、二日間、雨が降り続いた。ようやくやんだかと思えば途端に気温が急降下し、街は一気に秋の装いになった。
念願の晴天に恵まれた週末、絢斗は八王子駅で志の到着を待っていた。二人ではじめて作る曲『The light fall』を志がいよいよ完成させ、今日、これからレコーディングをするのだ。
志がいつも使っているのは池袋の音楽スタジオだというが、今日は絢斗の地元である八王子までわざわざ足を延ばしてくれた。乗り換えも含めて一時間以上の道のりになるというのに、志は嫌な顔一つせず「俺がそっちに行くから」と言った。一緒に音楽をやると決めた日から、曲作りの進捗状況を毎日連絡してくれるし、本当に優しい人だった。
都心部に比べればたいしたことはないとはいえ、休日の午後の八王子駅も人出は多い。いつもなら行き交う人の波にのまれて気分が悪くなるのだが、今日はしゃんと背筋を伸ばして立っていることができた。
両耳にイヤホンを装着し、スマートフォンでYuki1092のカバー歌唱動画を流していた。あれから毎日、欠かすことなく志の歌を聴いている。
本名を知ると、アーティスト名『Yuki1092』がまさに志のことを表しているのだとわかる。『1092』。苗字を数字に置き換えた名だった。
池袋で志と出会ってから今日まで、絢斗は暇さえあれば志の歌を聴いていた。『The light fall』が楽曲として完成することももちろん楽しみだったけれど、志の歌を、志の声を聴いていればそれ以上に幸せなことはないとさえ思えた。心が落ちつき、一人で出歩くのも怖くなくなった。
今、SMAPの『夜空ノムコウ』の弾き語りを聴いている。しっとりと柔らかな歌声が心とからだに沁み渡り、嫌なことをすべて忘れさせてくれるようだった。
一つだけ気になることと言えば、志の投稿した歌唱動画のすべてが、ギターによる弾き語りであることだ。音大でピアノを学んでいるのだから、ピアノ伴奏での弾き語りがあってもおかしくない。
もちろん、ピアノはクラシックしか弾かないだとか、彼なりのこだわりみたいなものがあるのだろうとは思う。けれど、彼の選択したカバー曲の中にはギター伴奏よりもピアノ伴奏のほうが合いそうなものがいくつかあった。それでさえ頑なにギターによる弾き語りをするのはなぜだろう。音大生ゆえのプライドなのか、あるいは、なにか特別な理由があるのか。
「絢斗」
肩をたたかれ、絢斗は背後を振り返った。
「よっ」
ギターケースを背負った志が八王子に到着した。先日と同じ黒いマウンテンパーカーに、今日のボトムスは濃紺のストレートデニムだ。
「ごめん、待った?」
絢斗は首を横に振り、スマートフォンの画面をタップして動画を停止した。
「あ、また俺の歌聴いてる」
イヤホンをはずす絢斗に顔を寄せ、志が手もとを覗き込んでくる。距離が近くて、彼の体温が空気を伝って頬に触れた。
「そんなに好き? 俺の歌」
もちろんだ。絢斗は素直にうなずいた。ずっとリピートしているのだと、右胸の前で両の人差し指をくるくると回す手話をする。
志は黙って笑みをこぼすと、不意に、絢斗の顎に手を添えた。顔が近づき、視線を志へと固定させられる。
「じゃあ、俺のことは?」
痺れるような美声で問われる。鼻先が触れそうになり、呼吸が止まる。
心臓が早鐘を打つ。全身が熱くて、頭がうまく働かない。
すぐ目の前に志がいる。
彼のことは。
志さんの、ことは――。
瞳をぐらぐら揺らしていると、志の妖艶な表情がふわりと緩んだ。さわやかな笑みを浮かべ、絢斗から離れる。
「行こう。スタジオ、すぐそこだから」
なにごともなかったかのように、志は絢斗をその場に残して歩き始めた。パーカーのポケットに両手を突っ込み、長い足をゆったりと動かす志の背中を、絢斗は吸い込まれるように見つめる。
――俺のことは?
志の問いかけが、耳の奥でリフレインする。
――俺のことは、好き?
歌だけじゃなくて、彼のことも?
立ち止まり続ける絢斗を、志がそっと振り返った。視線だけで「早く」と訴えかけてくる。
もつれそうになる足を懸命に動かし、絢斗は志の背中に続いた。志は絢斗が隣に追いつくまで待ってくれて、二人並んでスタジオまでの短い道のりを歩いた。
見慣れた街並みが、急にきらびやかになったように感じた。隣に志がいるだけで、世界が鮮やかに彩られる。
不思議な気持ちだった。心拍数は上がりっぱなしで、落ちつく気配はまったくない。
けれど、悪い意味での緊張でないとはっきりわかる。志の隣を歩けることを喜んでいる自分がいる。
ちらりと右隣を窺うと、志はさわやかな笑みを浮かべていた。
端正なその横顔を見て、考える。
もし、先ほどの問いにイエスと答えたら、彼はどんな顔をするだろうか。
「オッケー。一回チェックするわ」
人生ではじめて足を踏み入れた音楽スタジオの一室で、絢斗がカメラの録画停止ボタンを操作すると、志は肩の力を抜き、腰を落ちつけていた椅子から立ち上がった。
三脚にセットしたカメラにマイクをつないだだけのシンプルな機材で、志はいつも投稿動画用の演奏を撮影・録音していた。音大でピアノを学んでいる都合もあり、賃貸マンションながら防音室のある家に住んでいるそうだが、ちゃんとしたスタジオで演奏したほうが気合いが入るらしく、自宅で歌うことはないという。
志のパフォーマンスをただ座って見ているだけでは申し訳ないと、絢斗は録音作業を手伝わせてほしいと自主的に願い出た。ならばと志がカメラの操作をまかせてくれて、絢斗は緊張しながら録画開始ボタンを押し、たった今、録画停止ボタンを押した。志の歌声に聴き惚れて、うっかり操作をまかされていたことを忘れかけたことは志には内緒だ。
録画した映像を再生し、熱心に精査している志の隣で、絢斗はやっぱり放心状態になっていた。
素晴らしいという言葉では足りないくらいの出来映えだった。絢斗の綴った詩の情景以上の美しい絵がスタジオじゅうに広がった。
間奏などで時折入るフェイクの鮮やかさ、歌詞に合わせて揺れ動く感情によって色を変える声。どこを切り取っても、渡久地志は絢斗の相方としてもったいない歌い手だった。
胸がいっぱいで、その場にくずおれそうになる。
こんなにも幸せなことがあっていいのか。これまでずっと、孤独な深海を漂うことばかりだったのに。
幸せすぎる。
誰よりも近くで、大好きな彼の歌声をひとりじめできるなんて。
「うーん」
撮りたての動画をチェックし終えた志の表情は冴えなかった。
「もうワンテイクだなぁ」
どうやら気に入らなかったらしい。なにが不満だったのか、絢斗にはさっぱりわからなかった。
「どうだった、絢斗?」
志に感想を求められる。絢斗は青いノートにペンを走らせた。
〈感動して言葉になりません〉
「いつもそれだな、絢斗は」
〈本心です。こんなにも素敵な曲にしていただけて、なんとお礼を言っていいのか〉
「いいよ、お礼なんて。誘ったのは俺のほうだし、礼を言わなきゃいけないのは俺だから」
違う。礼なんて言われたくない。
床に投げ捨てるようにペンを手から離し、絢斗は志の腕を掴んだ。
志が驚く。その顔を、絢斗はやや見上げるようにじっと見つめた。
伝えたい。
ちゃんと、気持ちを声にして。
口を「あ」の形にする。息を吸い、喉に力を入れて音を絞り出そうとする。
吐息が震えた。唇も。
七歳の頃の記憶がよみがえる。もっとも古く、つらく、悲しい過去。
目を閉じる。息が苦しい。
下唇をかみしめる。
怖い。声を出すのが、まだ、僕には。
「絢斗」
志の穏やかな声がした。視線を上げた瞬間、志の顔が近づいた。
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。柔らかく、あたたかな感触に口を塞がれている。
志の唇が、絢斗の唇と重なった。
静寂に支配される。呼吸とからだの自由を奪われ、絢斗は目を見開いた。
どのくらいの間、そうしていただろう。やがて志は、ゆっくりと絢斗から離れた。
「もしかして、って、ずっと思ってたんだけど」
鼻先が触れ合いそうな距離のまま、志は憂いを帯びた目をして絢斗に尋ねた。
「絢斗が声を出せないのって、声帯を失ったせいで物理的に出すことができないとか、そういう理由じゃないんだよな? 本当は出せるけど、気持ちが追いつかなくて出せない。そうだろ?」
認めるように、絢斗は静かに目を閉じた。
病気の治療などのために一部でも声帯を切り取ってしまえば、通常の発声は困難になる。だが絢斗の場合、声帯は今でも喉に残ったままだ。
志の見立てどおりだった。絢斗は声が出せないのではない。絢斗の心が、声を出すことを拒否しているせいだ。
まだ小学生だった頃の話だ。絢斗にはクラスメイトから虐げられた過去があった。その理由が声と言葉に関する問題で、当時のつらく苦しい記憶が絢斗に声を出すことをできなくさせた。やがて言葉を発しようとして口を動かすことさえままならなくなり、手話と筆談を駆使して生活していくしかなくなった。
それから十二年。閉ざされた心の扉が開いたことは一度もない。
今も昔も、絢斗は言葉を声にして伝えることができないままだ。気を許せるはずの家族の前でさえ、しゃべることができなかった。
「無理しなくていい」
うつむいた絢斗の頭に、志はそっと右手を載せた。
「俺に伝えたいことがあるのはわかった。それで十分だよ」
絢斗は首を横に振る。十分なわけがない。絢斗の気持ちはきっと半分も伝わっていない。
すがるように志を見上げる。今度は志が首を横に振った。
「俺、イヤだから。絢斗にそんな顔をさせたくて、あの詩を曲にしたわけじゃない」
ハッとした。志の両腕が、絢斗を優しく抱き寄せた。
「見たくないんだよ、そんなつらそうな顔をするところ。絢斗が好きだって言ってくれたから、俺は歌おうって思ったんだ。喜んでもらいたくて。絢斗に笑顔になってほしくて」
志の腕に力が入る。「絢斗」と志が耳もとでささやいた。
「嬉しかった。俺の歌を、好きだって言ってもらえて。絢斗のために歌いたい。他の誰でもない、おまえのために。そう思った」
だから、と志は続け、絢斗の頭に右手を添えた。
「俺の歌がいいと思ったら、笑って。それで十分だから。言葉にして伝えてくれなくていい。おまえが笑ってくれたら、俺、幸せだから」
絢斗からそっと離れ、志はまっすぐに絢斗と目を合わせて告げた。
「俺、絢斗の笑顔が好き。絢斗の笑った顔、そばでずっと見ていたい」
そう言った志も、照れたように笑っていた。
あぁ、もう――。
絢斗はくしゃくしゃの顔をうつむける。
嬉しかった。誰かに好きだと言ってもらえたのはこれがはじめてのことだった。
胸が高鳴り、張り裂けそうになる。
なんだ、これ。この気持ち。心の奥がくすぐったくてたまらない。
「笑ってよ、絢斗」
志の声に、絢斗はそっと顔を上げた。
「笑って」
志が先に笑ってくれる。その美しい笑みを映すように、絢斗も笑った。
そうだ。こうやって笑っていればいい。
笑顔が好きだと言ってもらえたのだ。だったら、笑っていよう。
意識すると、ぎこちない笑顔になってしまう。それが自分でもおかしくて、気づけば自然と笑えていた。
「それそれ」
志も嬉しそうに微笑み返してくれた。
「かわいいんだよ、笑った絢斗。はじめて会った時からずっと思ってたんだ」
わしゃわしゃと頭をなでられる。途端に恥ずかしくなって、絢斗はじゃれ合うように志の手を振り払った。
もう一度歌い直すと言って、志は準備にとりかかった。カメラの前に絢斗を立たせ、再び録画ボタンを押す役目をまかせる。
マイクの前でギターをかまえる志。それだけでもう雰囲気があって、彼の作り出す空気感、世界観に引き込まれる。
志と目が合う。彼がうなずいたら録画ボタンを押す約束になっているが、志はうなずくどころか「ちょっと待った」と言い、絢斗のもとへと歩み寄ってきた。
絢斗がなにごとかと一歩退いた瞬間、志に唇を奪われていた。今日二度目の、キス。
「さんきゅ」
唇を離した志が、ささやくように言って笑った。
「パワーチャージ完了。さっきより絶対うまく歌える」
突然のできごとに驚き固まる絢斗の頭にポンと手を載せ、志は上機嫌でマイクの前に戻っていった。
唇が痺れている。からだもどこかふわふわしていて、足に力が入らない。
なにがなんだかわからないまま、絢斗は志の合図を受けてカメラの録画ボタンを押した。
志による二度目の歌唱は、一度目よりも本当によくなっていた。
二人で収録した音源を投稿用の動画として編集した志は、その日の夜、YouTube上の自身のチャンネルに投稿した。
ギター一本の弾き語りであることはこれまでと変わらないが、カバーソングではなく完全なオリジナル曲を投稿するのははじめてで、多くのファンが応援してくれている志でも、今回はどういった評価を受けるかまったくわからないと言っていた。酷評される覚悟をしておいたほうがいい、とも。
結果として、それは志の杞憂に終わった。二人の共同制作楽曲『The light fall』は、投稿から一時間も立たないうちに一万回再生を突破し、ツイッターなどのSNSで多くの人が「いい!」と絶賛のコメントを添えて共有してくれたおかげでさらに再生回数が伸びた。
動画の概要欄には絢斗の名前も載った。『作詞:Ayato』。当初、やっぱり恥ずかしいから名前は出さないでほしいと絢斗は志に頼み込んでいたのだが、志は聞く耳を持たず、絢斗の名前を載せて『二人の共同制作』という面を押し出した。
しかし、いざ名前が載ってみると案外心が弾んでいることに気がついた。自ら日陰を選んで歩いてきた絢斗の存在を、世間が認知してくれた。自主的な行動ではないけれど、嬉しい気持ちに変わりはなかった。
「楽しいな」
翌日もまた八王子まで足を運んでくれた志は、絢斗を連れ出してカフェに入り、窓に面したカウンター席を二つ陣取った。
絢斗と並んで座り、ホワイトモカなるホットドリンクの入った紙のカップを、中身をかき混ぜるように傾けている。エスプレッソにホワイトチョコレートのシロップとホイップクリームをミックスしたものらしい。そっと口に運んだ彼の表情は晴れやかだった。
「はじめてオリジナル曲をアップしたけど、これだけたくさん聴いてもらえるとやっぱ嬉しいよな。なんていうか、自分という存在を認めてもらえたみたいでさ」
絢斗は大きくうなずいた。志が自分と同じ気持ちでいることが嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「なぁ、次はどんな曲にする?」
昨日新曲をお披露目したばかりだというのに、志はすでに次のことを考えていた。「ノート見せてよ」と手のひらを上向きにした右手を出される。絢斗がコツコツ書き溜めてきた詩の中から、次に作る曲を決めるつもりらしい。
絢斗は素直に赤いノートを渡した。「さんきゅ」と受け取った志は、楽しそうにページをめくった。
「これは?」
彼の琴線に触れた詩は『紫陽花』と名づけたものだった。一年前、大学受験を控える中、気分転換がてら書いたものだ。
七月の中旬に入ってもなお梅雨が明けず、勉強の気合いも入らず、当時の絢斗はとにかく憂鬱な日々を過ごしていた。そんな、何日もかかえ続けた晴れない気持ちを失恋に置き換え、季節を代表する紫陽花の色彩をモチーフに据えて、一つの歌にまとめ上げた。
きみと並んで見た景色
僕ははっきりと覚えている
きみは紫陽花が好きだと言った
傘を差し 手をつなぎ 花の咲く場所を探したね
水が変われば 小さな花は色を変える
あふれる愛を映した赤 悲しみのブルー
きみの心はいつから移り変わったの
置き去られた愛情は
僕の中で息づいている
きみを想うことで 世界は色づくのに
今はどこまでも無色だね 透明だね
「切ない系だな。好きだよ、俺。こういうテイストの曲」
志はすっかりその気になっていた。鼻歌まで歌い出して、放っておいたらこの場で一曲完成させてしまいそうな勢いだ。
絢斗はクスっと笑い、筆談用の青いノートを取り出した。真っ白なページの上で手を動かすと、気づいた志が手もとを覗き込んできた。
〈志さんは本当に音楽が好きなんですね〉
なにげなく紡いだ一言は、志を一瞬真顔にさせた。その表情に絢斗が驚くひまは与えてもらえず、志はすぐに微笑んで「そうだな」と言った。
「好きだね、音楽。音楽なしに、俺の人生は語れないかな」
良くも悪くも、と志は声のトーンをやや落として付け加えた。『音楽=人生』と位置づけた彼だが、絢斗にはその発言が彼自身の意思で為されたものでないように感じられた。どことなく、見えない誰かに言わされているような雰囲気がある。気のせいかもしれないけれど。
話題を変えたほうがいいかもしれないと、絢斗は新たな一文をノートに綴った。
〈他には、どんなものが好きですか?〉
「好きなもの? 音楽以外で?」
絢斗はうなずき、ホワイトモカの入ったカップを指でさした。
「あぁ、うん。コーヒーは好きだな。甘いものも好き。キャラメルとか」
キャラメル。男らしい面立ちの志がおいしそうに食べているところを想像したら胸がキュンとなった。かわいい。絶対にかわいい。
「カレーも好き。割と辛めのやつ」
絢斗は親指を立ててみせる。絢斗もカレーライスは辛いほうが好きだった。
「辛いのは平気だけど、すっぱいものは苦手かな。酢とか、梅干しとか」
うんうんとうなずきながら、絢斗は〈食べ物以外には?〉と尋ねる。
「食べ物以外かぁ……。あ、一つ思いついた。二度寝」
絢斗は笑い、拍手をした。いい回答だ。二度寝ほど幸せな時間はないかもしれない。
「あとは、買い物。散歩がてら、ふらっとウィンドウショッピングをするだけでもいい。あぁ、実家の縁側でじーちゃんとひなたぼっこしながら昼寝するのも好きだったなぁ。スノーボードは歳の離れた従兄が教えてくれて好きになった。地元が岐阜だからさ、雪山には事欠かないんだよ」
少し照れ臭そうにしながら、志は好きなものをたくさん教えてくれた。少しずつ、渡久地志という人の輪郭がはっきりしてくる。
胸の奥に、あたたかいものを感じた。志のことを一つずつ知っていくこの時間が楽しくてたまらない。もっと知りたくなって、あれこれ尋ねたくてウズウズした。
心が動いているのがわかる。志のおかげで、これまで鳴りをひそめていたあらゆる感情がむくむくと首をもたげてくる。
ぱぁっと、心の中でなにかがほとばしるのを感じた。言葉が次々とあふれ出し、頭の中で一つの形になっていく。
絢斗は志の手もとにあった赤いノートを指さし、手のひらを上向けて「返してほしい」とジェスチャーだけで伝えた。志はすぐにわかってくれて、絢斗の手の上にノートを載せた。
シャープペンを握り、脳裏に描かれた情景を短い文章にしてまとめる。今回は単語を書き出す作業をすっ飛ばし、いきなり文章にしていった。
きみの好きなもの 教えて
コーヒー キャラメル カレーライス
すっぱいものは少し苦手
二度寝 買い物 ひなたぼっこ
スノーボード 雪国生まれのきみらしいね
手と手つないで 話をしよう
きみのこと もっと知りたいよ
今日はここへ行こう
明日はあれを食べよう
心躍る日々を送ろうよ
きみの好きなもの 教えて
「なんだよこれ」
でき上がった短い詩を見て、志は声を立てて笑った。
「俺のことじゃん」
そのとおりだ。『きみの好きなもの』というタイトルに決めて、ノートの余白に書き添えた。
「ちょっと恥ずかしいけど」
志は本当に恥ずかしそうに頬をかいた。
「でも、嬉しい」
シャープペンを握る絢斗の右手を、志は左手でそっと包んだ。
ペンを抜き取り、絢斗の手を取る。指を絡め、静かに握った。
「この詩は、絢斗の気持ちってことだよな?」
絢斗も恥ずかしかったけれど、ちゃんと伝わるようにうなずいた。
志のことを、もっと知りたい。
志の好きなものを好きになりたい。心を重ねて、志と同じ景色を見たい。
一緒に音楽を作りたい気持ちももちろんある。けれどそれ以上に、絢斗はただ単純に、志と同じ時間を過ごしたいと思った。あわよくば、そうすることで志が喜んでくれればいい、とも。
志が笑い、嬉しい気持ちになってくれると、絢斗も自然と嬉しくなる。幸せな気持ちになれる。
そんな時間が、今はなによりも大事だった。二人で作った楽曲が評価されたのは偶然だったかもしれない。でも、「二人で作った」という事実だけは絶対に揺らがない。
これからも、二人の時間を積み重ねていきたい。その過程の中で、いい音楽を作れればいい。
このささやかな願いを、志は受け止めてくれるだろうか。
「ねぇ、絢斗」
つながれたままの志の左手に力が入る。
「こういう気持ち、なんて言うか知ってる?」
絢斗が小首を傾げると、志はこれまでで一番男らしい笑みを浮かべて言った。
「恋だよ」
音もなく、唇が重なる。触れた部分に甘い刺激が細く走る。
絢斗は目を見開いた。志の唇が離れても、しばらくその顔はもとに戻らなかった。
「なに驚いた顔してんの」
志がクスクスと楽しげに笑う。
「これで三回目じゃん、キス」
そうだった。そして、志のキスはいつも不意打ちだ。
志の右手が、絢斗の髪をかき上げる。端正な顔で穏やかに微笑み、志は言った。
「俺のものになってよ、絢斗。俺のそばにいて、ずっと」
冗談ではない。志の、本気の告白。
「一緒になろう。音楽作りのパートナーから、一歩先へ進みたいんだ。俺は、絢斗のことが好きだから」
絢斗の綴った詩に対する、志のアンサー。おまえと同じ気持ちだよと、彼はそう伝えてくれた。
幸せだった。ほしいと強く願ったものが、心をゆっくりと満たしていく。
つながれたままの志の手を、絢斗はきゅっと握りしめた。
相手は男性。僕が恋に落ちた人は。
だけど、それがなんだ。
答えなんて、最初から決まってる――。
まっすぐ志の目を見つめた瞬間、これまで頑として動かなかったはずの口が、言葉の形になり始めた。
あ、り、が、と、う。
たったの五文字。息を止めたまま、絢斗は口をはっきりと動かして志に伝えた。
自分でも信じられなかった。どれだけ願っても叶わなかった、できなかったことが、志を前にすると、ごく自然に実現していく。願いがどんどん叶っていく。
「絢斗」
手で口もとを覆い隠す絢斗を、志も大きくした目で見つめた。
「今、『ありがとう』って……!」
声にはなっていなかったはずだ。けれど志は絢斗以上に嬉しそうに笑って「やったな」と絢斗を抱きしめてくれた。
「すごいよ、一歩前進だ!」
志の腕の中で、絢斗は涙ぐみながらうなずいた。志が景気よく背中をたたいてくれて、喜びでからだが芯からあたたまっていくのを感じた。
志といれば、なんでもできる気がした。一人では叶わなかった願いが、志とならきっと叶えられる。
人目も憚らず、二人はもう一度短いキスを交わした。額を寄せ合って笑い合い、次の楽曲制作に向けた打ち合わせを再開する。
幸せだった。
このままずっと志と一緒にいられたら、いったいどれほどの幸福を手にすることができるだろう。
これまで無数に取りこぼしてきた人生を、ようやく取り戻す時がきたのかもしれない。絢斗だって陽の当たる道を歩いてもいいのだと、志が教えてくれた気がした。
屈託なく笑う志の横顔につられ、絢斗の顔にも笑みが浮かぶ。
今この瞬間を切り取った詩が書けたら、きっと素敵な歌になる。志が歌ってくれたら、もっと。
にぎわいを増す昼日中のカフェで、二人は終始笑顔のまま打ち合わせを続けた。
店を出た頃にはすっかり陽が傾いていて、鮮やかな茜色の空が、肩を寄せ合って歩く二人を優しく見守っていた。
二作目のオリジナル曲は『紫陽花』に決まり、楽曲にするにあたって、絢斗は歌詞に大幅な修正を加えることになった。志がより歌いやすいものにするためだ。
志が曲をつけ、歌唱動画にし、YouTubeに投稿したのは次の週末のことだった。季節はずれの楽曲だったが、しっとりと歌い上げた志のテノールはまたしても好評を博し、Yuki1092はさらにファンの数を増やした。
調子に乗る、という表現は適切ではないけれど、志の意欲はうなぎ登りで、次はこうしよう、その次はと、まるで生き急ぐかのようにどんどん先の話をした。瞬きをするひまもないほどハイペースで過ぎていく二人の時間の中で、絢斗も次々と新しい詩を生み出していった。
三作目『きみの好きなもの』を作曲するからと、志は絢斗を誘い、八王子の音楽スタジオに入った。ギターと五線譜を持ち込み、時折絢斗の意見も聞きながら、着々と曲の輪郭を作っていった。
その姿勢はアーティストそのものだった。最初は自己満足から始まった曲作りが、今ではトレンドを意識したり、聞き手の感情をいかに揺さぶるかという点にスポットを当てたりと、ずいぶん本格的なものに変わっている。
悪いことだとはもちろん思わない。ただ、彼が音大にかよう三年生であることを勘案すると、絢斗は少し不安になった。
音大を出た者たちの進む道が、すべて音楽にかかわるものではないことくらい絢斗にもわかる。狭き門、厳しい世界だ。全員の夢が叶うわけではないことは想像に難くない。
志はどう考えているのだろう。彼の進路。彼の進みたい道。『音楽=人生』と位置づける彼の目指す場所とはどこなのか。あるいは彼の見据える先に、絢斗の存在はあるだろうか。
熱心に作曲作業に励む志の腕を、絢斗は指でツンツンとつついた。
「ん? どうした?」
顔を上げてくれた志に、絢斗は青いノートに綴った文章を見せた。
〈志さんは、このまま歌手としての活動を続けますか? いずれはプロになりたい、というようなことを考えていますか?〉
もしかしたら、彼はピアニストを目指しているのかもしれないと思った。音大に進むことができたのだから、相当の実力者であることは間違いない。
でも今の彼は、毎日のようにギター片手に歌を歌っている。ただでさえ忙しいと聞く音大生、それもピアノ専攻だという彼の生活を、余計なお世話と知りながら、絢斗は内心案じていた。
「なりたいね」
だが、志の答えは明確だった。
「なれるものなら、プロの歌い手になりたいよ」
握っていた鉛筆を譜面台に置き、志はゆったりと肩の力を抜いて語り始めた。
「絢斗だから言うけど、俺、昔からピアノよりも歌うことのほうが好きだったんだ。ずっと憧れててさ、歌手っていう職業に。もちろん、そう簡単にいかないことはわかってる。周りの意見なんかも、いろいろあって……」
先を言い淀み、志はかすかに瞳を揺らした。
「それでも、俺はやっぱりなりたいかな、プロの歌い手に。今は昔よりもずっと、その気持ちは強くなってる」
どこか遠くを見ながらしゃべっていた志が、絢斗の姿をその視界にとらえた。
「絢斗と出会えたからさ」
絢斗は両眉を跳ね上げた。
「俺、本当に尊敬してるんだ、絢斗のこと。声が出せなくて、俺なんかよりずっとつらい人生を送ってきたはずなのに、詩っていう手段を選んで、自分の気持ちをちゃんと誰かに伝えようとしてる。塞ぎ込むこともなく、ちゃんと世界とのつながりを持とうとしてる。偉いよ。人として尊敬できる。健気《けなげ》っていうか、その……一生懸命なところが、応援せずにはいられなくて」
志の頬がかすかに赤らむ。こうして彼がわかりやすく照れる姿は新鮮だった。
「気づいたら絢斗のことを考えてる自分がいてさ。今なにしてんだろ、とか、今日はどんな詩を書いたかな、とか、気になって仕方がなくて。……って、なに言ってんだろ、俺。そんな話をしたいんじゃなくて」
邪念を振り払うように首を振り、志は改めて絢斗と目を合わせた。
「叶いそうな気がするんだ、絢斗と一緒にやっていけば。俺一人の力じゃ無理でも、絢斗が隣にいてくれたら、叶わない夢だと思っていたことが、夢で終わらないような気がする」
志は座っていたスツールから腰を上げ、絢斗の手をすくい上げた。
「もちろん、絢斗には絢斗の夢があると思う。だけど、できれば前向きに考えてほしい。これから先、俺と一緒に音楽の道を歩むっていう選択肢を」
冗談なんかじゃない、と志は言った。
「俺、本気だから」
力強い眼差しは、彼の本気度をありありと映していた。
絢斗は無心でうなずいた。嬉しかった。彼が進むと決めた道の先に、自分の存在がある。これ以上の幸せはない。
志のためなら、どんなに忙しくても手を貸したいと思った。彼の人生を支えることは、長い間日陰で生きてきた絢斗がようやく得た生きがいだ。
なにがあっても、志についていく。今改めて、絢斗はそう心に誓った。
志の手を離し、絢斗はノートに言葉を綴る。
〈僕がこれまで書いたもの、すべて志さんにあげます。僕の全部を、志さんに〉
「全部?」
絢斗は首を縦に振る。我ながらおそろしい回答だと自覚しているが、それ以外に適切な答えはないとも思う。スマートフォンがないと生きられない現代人のように、絢斗もまた、志なしでは生きられない人間になりつつあった。
「ありがとう」
志は絢斗に微笑みかけ、当たり前のように唇を奪った。単純な触れ合いからはじまり、大きく食まれ、やがて舌を絡ませてきた。
絢斗ももう驚いたりしない。そうされることを、いつしか期待するようになっていた。
いつもより少し深く交わってから、志は作曲作業を再開した。その真剣な横顔を、絢斗は静かに見つめる。
不思議だ。音楽と真摯に向き合う彼を見ていると、自分にもなにかできる気がしてくる。音楽の才能なんてこれっぽっちもないくせに、彼のためにできることを探してしまう。
前向きな言葉たちが頭に浮かんで、ギターをかかえる志のからだを優しく包み込んでいく。彼の存在が言葉を呼び寄せ、一つの詩へと収束していく。
絢斗は赤いノートを取り出し、それらの言葉を拾い集めた。韻を踏んだり、当て字を使ってみたりして、志の生み出す音楽にマッチする詩に仕上げていく。
永遠なんていう都合のいいものがこの世界にないことくらい、絢斗にだってわかっている。時間は有限で、誰もが少しずつ、命という与えられた持ち時間をすり減らしながら生きている。
それでも、信じるだけならタダだし、自由だ。志と永遠に一緒にいられる夢を見るのは、絢斗の自由。
この命が尽きるまで、あるいは、この命が尽きた先でも、こうして二人で新しい音楽を紡ぎ続けていけることを、絢斗は心の底から願い、信じた。
信じれば叶う夢ばかりじゃない。
けれど、信じずにはいられない夢があることもまた、事実だ。
ポップでキュートな仕上がりになった三作目『きみの好きなもの』がちょっとしたブームを巻き起こすことになったのは、すっかり冬を迎えた十一月末、二人が出会って一ヶ月半が過ぎた頃のことだった。
チャンネル登録者数一千万人を超える大人気YouTuberが、自身のツイッターで「『きみの好きなもの』にハマっている」と動画のリンクを貼ってツイートしたらしく、彼のファンがこぞって志の歌を聴きに来たのだ。そこから人気に火がつき、動画の再生回数は瞬く間に百万回を超えた。
〈すごいな。こんなことってあるんだ、ほんとに!〉
現在進行形で伸び続けている再生数に、志はすっかり舞い上がっているようだった。絢斗のスマートフォンに送られてきたメッセージが弾んでいる。
〈信じられないよ。他の動画もめちゃくちゃ見てもらえてるし、嬉しすぎてやばい〉
自宅の部屋に一人でいた絢斗も、ニヤニヤしながら〈僕も嬉しいです〉と返す。きっと志も同じように笑っているはずだ。
実際、飛んで喜びたいくらい嬉しいことだった。志の歌はもっと多くの人から評価されるべきだと以前から思っていたのだ。その願いが叶ったことも嬉しい。
それから一週間ほどが経ち、絢斗は突然志に呼び出された。なんでも、大事な話があるという。
大学の講義が終わり、その足で志に会いに池袋まで赴いた。志と二人で何度も来た音楽スタジオを今日も志は予約してくれていて、いつものように二人で入る。
「結論から言う」
背負っていたギターを下ろすなり、志はいつになくまじめな調子で絢斗と向き合った。自然と絢斗の背筋が伸びる。
一呼吸置き、志は絢斗に告げた。
「配信限定だけど、プロの音楽レーベルから曲を出すことになった」
絢斗は目を大きくし、閉じていた口を薄く開いた。
志の言葉を、胸の中でくり返す。
音楽レーベルから、曲を出す。
それって。
それって、つまり。
「……っ」
本当ですか。そう声に出して尋ねたかった。もう少しで音になりそうだったけれど、そんなことより、心臓がドキドキと高鳴って止まらない。
「本当だよ」
絢斗の気持ちを察した志が、白い歯を見せた満面の笑みで両手を広げた。
「俺たち、正式に歌手デビューするんだ!」
志は絢斗に抱きついた。全身から伝わる熱に、絢斗の体温も急上昇した。
歌手デビュー。
志が。ついに。
絢斗の瞳が潤む。これまで生きてきた中で、こんなにも嬉しかったことがあっただろうか。
志の背中にしがみつき、彼の胸に顔をうずめた。志が頭を撫でてくれて、「ありがとうな」と優しく声もかけてくれた。
志の夢が叶った。それは絢斗の夢でもあった。
音楽の世界で、歌い手として生きていきたいという大きな夢。そのための第一歩を踏み出すチャンスが巡ってきたのだ。絢斗自身のことはどうでもいい。志がその夢を掴めるところまで来られたことが一番の喜びだった。
詳しく話を聞かせてもらうと、今回志に声をかけた音楽レーベルは絢斗も当然のように名前を知っているアーティストが多数所属している会社だった。曲を出すと言っても、今回は手始めに今ノリにノっている楽曲『きみの好きなもの』を有料配信しないかという打診だという。
志は絢斗の返事を待たずにOKしたわけではなく、今、絢斗の目の前で返事の電話を入れた。詳しいことは後日改めて打ち合わせを、とのことで、契約周りのこともあるため絢斗にも同席してほしいと先方の担当者は言っているらしい。
断る理由もなく、絢斗は二つ返事で志とともに話を聞きに行くことを了承した。どうせなら新曲も準備していこうよ、と志が言うので、その日はスタジオで次の楽曲の選定作業もおこなった。
家路につき、ひとり電車に揺られながら、絢斗はジト、と全身にまとわりつく爽やかな疲労感に身をゆだねる。
あまりにもとんとん拍子に話が進んで、嬉しさをかみしめると同時に、足が竦むような思いもした。
満足感と多幸感は確かにある。けれど、まだなにも始まっていないというのに、これからのことが少し不安に思えていることもまた事実だった。
このままの調子でいけば、滑り出しはうまくいきそうな気がする。けれど、ずっと同じように進んでいける自信はまだ持てない。
志はいい。大学で音楽を学んでいる人だ。
でも、絢斗は違う。自分勝手に詩を綴っているだけの凡人に過ぎない。
指先にかすかな震えを覚える。まばゆすぎる現実に目が眩み、どこかで待ち受けている落とし穴に気づかないまま、底のない闇に落ちるまでバカみたいに走り続けてしまうのではないか。一度そんな風に考えてしまうと、途端に呼吸が難しくなった。意識的に頭を振り、深呼吸をくり返す。
この気持ちを、志に打ち明けてしまおうか。いや、きっと不安なのは自分だけだ。せっかく盛り上がっている志の心に水を差すことはできない。絢斗は一度取り出して握ったスマートフォンを、そっと鞄の中へしまう。
志は本気なのだ。いつか暗闇に落ちるのだと仮にわかっていたとしても、それでもなお、彼はその日まで踏み出した足を止めることはないだろう。
その背中に、ついていくことができるだろうか。優しい志は、きっと絢斗の手を引いて「一緒に行こう」と言ってくれる。
けれど。
やっとの思いで家にたどり着くと、絢斗はまっすぐ自分の部屋へと向かい、明かりもつけないままベッドにうつ伏せで倒れ込んだ。
昔から、環境の変化に適応することが下手だった。今もそうだ。これから激変するであろう未来で、正しく息をして生活できている自分の姿が一ミリも想像できずにいる。
枕に深く顔をうずめる。
このままじゃダメだ。後ろばかり見ていると、いつか志に捨てられる。
そんなのイヤだ。志とずっと一緒がいい。
顔を上げていなくちゃ。彼とともにありたいのなら。
彼は、こんなちっぽけな僕のことを選んでくれたのだから。
ゆっくりと起き上がる。一つ、大きく息をつく。
大丈夫。彼にすべてを捧げると決めたのだ。
ベッドから降り立ち、絢斗は階下のリビングにいる両親のもとへと向かう。
プロの作詞家になれるかもしれないと告げると、両親は手放しで喜んでくれた。
傾けられた二つの笑顔に、絢斗ももう一度笑うことができた。大丈夫。今は志を信じて進んでいくしかない。
不安を払拭し、絢斗はいつもの青いノートと向き合った。
志のために、もっといい詩を。
そう思えば、自然と顔を上げていられた。