「お母さん、明日の夕飯は外で食べてくる」
「はーい。事務所の方と? 明日は一日お休みって言ってなかった?」
「……ううん、友だちと」
「あらそう、お友だちと。……えっ! 友だち!?」
昨夜そんな会話をした後、家族からのリアクションは想像以上のものだった。お母さんとお父さんが目をうるうるさせた時は、さすがにぎょっとした。兄ちゃんに至っては、よかったなあとしみじみ言いながら痛いくらいに抱きしめてきた。おおげさすぎだよ、なんて言ってため息をついてみせたけど。あの希色が友だちとご飯だなんて、と喜んでくれているのだとよく分かっている。学校で人と関わらなかったオレを、よほど心配していたのだろう。桃真の光がオレだけじゃなく、家族にまで降り注いでいる。そんな光景を見た気がして、またひとつ桃真への憧れが深くなり、さらに好きになった。
そして今は、どんな格好で出かけるか絶賛迷っている最中だ。桃真との約束は18時。時計はまだ15時も指していないけれど。服装はもちろん、髪型も悩ましい。学校に行く時のように前髪で顔を隠していくか、もう知られているのだから顔を出していくか――
気が逸りすぎて、ファミレスの最寄り駅に1時間ほど早く着いてしまった。書店や雑貨屋などをふらふらしつつ、約束の10分前にファミレス前へ到着。スマートフォンのインカメラで身だしなみを確認する。
結局、前髪はセンターパートにセットしてきた。KEYであることを隠していた友だちのオレも、友だちであることを隠してコーヒーショップに通うオレも、桃真は受け入れてくれていた。そんな桃真と会うのに、顔を隠したままなのはなんだか違う気がしたからだ。とは言え先日の騒動の二の舞いにはならないようにと、キャップを目深にかぶってきた。自意識過剰だとしても、桃真との時間が減ってしまうよりはいい。
仕事の後にご褒美でコーヒーショップへ行く時とは違って、今日は髪型も顔もプロの手が入っていない。変なところがないかもう一度しっかりとチェックし、緊張しながら“着いたよ”と桃真にメッセージを送る。するとすぐに返事が返ってきた。
《もう中にいる。奥のほうの席》
《分かった》
入店し、声をかけてくれた店員に待ち合わせだと伝える。奥へと進むと、入り口からは死角の席に桃真の姿が見えた。手を上げて合図をしてくれている。
昨日も学校で会ったのに、どうしたってドキドキする。今日もかっこいい。念入りにチェックしたつもりだけれど、変な格好してないかな。
ファミレスの床がふわふわしているような、足元が覚束ない感覚がする。一歩一歩進んで、席に到着する。そこでオレは、
「桃真、待った? ……って、ん?」
と首を傾げた。桃真の向かいの席、入り口のほうへ背を向けて座る、もうひとりの存在に気がついたからだ。
こちらを見てピースサインを送ってくるその人を、よく知っている。今この瞬間、世界中でオレがいちばん驚いていると心から思う。
「えっ、な、え!? みっ……!」
「希色、シー……な?」
つい大声が出そうになったオレに、桃真が人差し指を口元に添えてそう言った。
「あっ……」
慌てながら、両手で口をふさぐ。危なかった。桃真が止めてくれなかったら、多くの人がいるこんな場所で、有名人の名前を叫んでしまうところだった。桃真と目を合わせ「絶対に口走りません」と誓うようにコクコクと頷いてから、どうにか桃真の隣へ腰を下ろす。
オレの目の前に、先輩モデルの翠くんがいる。なぜ、桃真と一緒に? 全く意味が分からない。テーブルに這うように背を屈め、小声で翠くんに尋ねる。
「なんで? なんで翠くんがここにいるの?」
「はは、なんででしょ~? 希色、当ててみてよ」
翠くんは頬杖をついて、質問をし返してきた。余裕な態度がなんだか癪だ。緑色の髪を綺麗に収めたキャップの下で、楽しそうに口角を上げて笑っている。
「まさか……ファンと連絡先交換したの?」
「ファン? いまいち意味分かんないけど、ブー。そんなことしないって」
「あ、分かった。桃真をスカウトしてるところだ。桃真イケメンだもんね」
「ううん、俺が呼んだ」
「え!?」
桃真の言葉に、オレは勢いよく桃真を振り返る。
「あ、桃真ネタばらし早いってー」
翠くんはつまらなそうにくちびるをとがらせるけど、そのネタの内容は一ミリも理解できていないから安心してほしい。
「桃真が呼んだ……? 翠くんを?」
一体どういうことだろう。オレはぽかんとしたまま、桃真と翠くんの顔を交互に見ることしかできない。
「みど兄焦らしすぎ」
「えー、そう? んー、希色が俺じゃなくて桃真の隣に座ったから、ちょっと拗ねてるのかも」
「拗ねてるの? 今日約束してたのは桃真とだから……ん? 待って。桃真今、翠くんのこと“みど兄”って言った?」
「うん、言ったな」
「え……っ、お、お兄ちゃん!?」
「まあ、そういうこと。正しくはいとこの、だけどな」
「ええ……桃真と翠くんが、いとこ……?」
あんぐりと開いた口を、やっぱり閉じることができない。でも、“いとこ”というワードにはたしかに聞き覚えがある。夏休みの前、オレと同じ高校に通ういとこがいるのだと、学校まで迎えに来てくれた翠くんが言っていた。あれは桃真のことだったのか。
「信じられない……そんなことあるんだ」
目の前に答えがある、ふたりがそうだと言っている。それでもすんなりと飲みこむには、あまりにも驚愕の事実だ。
「えっと……桃真の秘密って、翠くんのことだったの?」
「うん。日比谷翠のファンなのかって聞かれた時、否定できずにごめんな?」
「ううん、謝らないで……え、ファンってところから違うの? いとこだけどファンだったりは?」
「ないな」
「うわー、翠お兄ちゃんショック」
「じゃ、じゃああのペンは? 翠くんのノベルティの」
「あれはみど兄にもらった」
「ああ、写真集のヤツか。そう言えば桃真にあげたな」
「そうだったんだ……」
聞きたいことはまだまだたくさんあるけど、ひとまずなにか食べようということになった。翠くんはハンバーグ、桃真はミートソースパスタでオレはカルボナーラ。端末で注文を済ませ、運ばれてきた料理を食べながらも話はつきない。
「でも俺もビックリだったわ。昨日久しぶりに桃真から連絡きたと思ったら、希色と3人で会いたいって言うから」
「会うのがいちばん早いと思って」
「確かにな。あ、希色がKEYだってこと、桃真にも言ってなかったからな?」
「うん、分かってるよ。翠くんのこと信じてるし。実は昨日、学校で色々あって……」
クラスメイトにKEYだとバレてしまった経緯を、翠くんに説明する。頬張っていたハンバーグをごくんと飲みこみ、翠くんは目を見開いた。
「マジか。どこで誰が見てるか分かんないもんだな」
「うん、ほんとビックリした……でも桃真が助けてくれて。オレひとりだったら、逃げ出してそのまま退学してたかも」
漏れる苦笑とともに、オレは肩をすくめる。大げさじゃなく、本当にそうしていたと思う。昨日のはそのくらいショックな出来事だった。けれどそんな過去の自分を覆す心強さを、桃真がオレにくれた。何度だって感謝を伝えたくなる。
「桃真、昨日は本当にありがとう」
「どういたしまして。希色、口んとこソースついてる」
「え、どこ?」
「そっちじゃなくてこっち」
「んう」
慌てて指で拭ってみたけれど、そっちじゃないと笑って桃真が紙ナプキンで拭いてくれた。ありがたくされるがままになっていると、翠くんの視線がマジマジと向けられていることに気づく。
「希色さ、今年の春くらいからいい感じになってきたの、友だちのおかげって言ってたじゃん」
「うん」
「それは桃真ってことで合ってる?」
「うん、そうだよ。本人を目の前に言うの、なんだか恥ずかしいけど」
「そっかあ。へえ~……マジでビックリだわ。世間て狭いな、てヤツ?」
「ほんとだね。オレもまだ信じられないもん、ふたりがいとこだって」
「分かる」
桃真と翠くんがいとこだと知ったオレと、オレと桃真が友だちだと知った翠くん。驚きだねとしみじみと頷き合っていると、桃真がオレの顔を覗きこんできた。
「まあ俺も驚いたけどな」
「…………? なにが?」
桃真はパスタを食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせる。それから頬杖をつき、改めてその瞳にオレを映した。
「みど兄のインスタに綺麗な子が出てきたなと思ってたら、バイト先に来た時とか」
「へ……」
「コーヒーのオススメ聞いてくれたのとか、嬉しくてさ。そういうの一切やったことなかったのに、カップに下手くそな絵まで描いたりして。少しずつ喋れるようになって喜んでたら、同じクラスになるし」
「桃真? あの……」
もしかしなくても、桃真が言っているのはオレのことだ。綺麗だとか、コーヒーショップでのことを嬉しかっただとか。そんな風に思ってくれていただなんて。
「今回の表紙見た時は正直……めっちゃ妬いた。まあそれまでも何回も嫉妬してたけど……みど兄、コンセプトがあったとはいえ希色に近すぎ」
「っ、待って、妬いたって言ってたのそっち!?」
「うん。さっきも言ったけど、俺はみど兄のファンじゃないからな。最初からKEYのファンだよ」
「ひえっ……待って、ちょっと待って」
もはやキャパオーバーで、耳が一気に熱くなってきた。
翠くんのファンではない、とさっき聞いた時、ただ単純に驚いただけだったけれど。M's modeの表紙が公開された時、「嫉妬してんの?」と言った佐々木くんに桃真が頷いたのをよく覚えている。あの時も、翠くんのファンだからではなかったということか。KEYのファンだと昨日言っていたのもお世辞なんかじゃなくて――桃真に推されたいというオレの夢は、最初から叶っていた?
オレの手から、パスタを巻きつけていたフォークが落ちる。皿にぶつかって、カランと金属音を立てた。目の奥が、じわりと熱を持ちはじめる。
「え、俺も待ってほしいんだけど? なに、もしかして希色のお気にのコーヒーショップで桃真がバイトしてんの?」
オレだけじゃなく、翠くんも新たな驚きの真っ只中にいるようだ。オレと桃真の顔を交互に見ながら聞いてくる。
「うん、初めて行った時……友だちになる前から桃真がいて。その、オレ、コーヒーも好きになったけど、優しいしかっこいい人だなって桃真に憧れて、推しになって……それで、仕事で褒めてもらえた時とかに、ご褒美に通ってた」
意を決して、オレも桃真を推していたことを告白する。
「え、推し? 俺が? ……あ、こないだ店で応援してるって言ってくれたのも、そういうこと?」
「……うん」
桃真の顔を横目に見たら、まん丸に見開かれた瞳がすぐに弧を描いた。はは、と照れくさそうに笑う顔に、心を強く惹きつけられる。桃真に出逢ってからオレの感情がどんなに豊かだったかも、今すぐ知ってほしくなる。
「二年の教室で桃真に会った時、ほんっとビックリしたんだよ。なんでここに推しがいんの!? って。そもそも、年上だと思ってたし。貸してくれたペンが翠くんのだって気づいた時、嬉しかった。でも翠くんが羨ましくもあって、オレも推されたいなあ……って。それくらいのモデルになれるよう、もっと頑張ろうって思ったんだよ」
「そうだったんだな。俺、最初からずっと希色が、KEYが推しだったよ」
「うわー、やばい……」
オレが皿に落としたフォークを、桃真が手にとった。パスタを巻き直し、口元に差し出される。桃真を見上げると、ほほ笑みながら「ん」と食べるように促される。恥ずかしさより、素直に受け取りたい気持ちが勝って口を開く。ぎこちなく咀嚼していると、翠くんがどこか呆然とした顔でオレたちを見ていることに気づく。
「ねえ、ふたりっていつもそんな感じなん?」
そんな、とはどんなだろう。食べものをお互いの口に運ぶのはもはや日常で、たしかにそういう意味では“いつもそんな感じ”かもしれない。オレの心の中では、片想い相手へのときめきが大暴れしているけれど。
「えっと……う、うん。そうだね?」
「だな」
「ふーん、なるほどね」
桃真のほうをちらりと見て、それからすぐに翠くんは口角を上げて笑った。
「あーあ、なんかふたり見てたら甘いの食いたくなってきたわ。デザート頼まない? ちなみに今日は俺の奢り」
「わ、食べたい」
「俺も食う」
翠くんの太っ腹な誘いに、甘いもの好きなオレたちが乗らない手はない。素直にご馳走になることにして、3人でひとつの端末を覗きこむ。イチゴの乗ったショートケーキも抹茶プリンも魅力的だったけれど、全員がチョコレートパフェを選んだ。
パフェが運ばれてくると、なぜか翠くんが「希色、あーん」と自分の分からクリームを食べさせてくれた。すると今度は、桃真も「俺はもっといっぱいやる」と言って競うように口に入れてくれて。全員で同じものを頼んだのに、どうして分けてくれるのだろう。おかしくて笑えるのに、ひとりで食べるよりも何倍も美味しい気がするから不思議だ。そう思えたら、オレだってふたりにおすそわけしたくなる。
「じゃあオレからも。はい、桃真」
オレの器からクリームをたっぷりすくって、桃真の口元に運ぶ。
「ん、美味いな」
嬉しそうに笑ってくれるから、桃真と甘いものを食べるのはやっぱり楽しい。
「美味しいよね。じゃあ次は翠くんね」
それじゃあ今度はと、翠くんのためにクリームをすくって口元に差し出す。
「俺も? やったねー」
けれど翠くんは口に含む直前、ハッと肩を揺らした。
「ちょっと待って。これ、桃真と間接キスじゃね?」
「は? うわ、みど兄キモいからやめろ。絶対食うな」
「いや食べるでしょ。希色のあーんだぞ。希色、やり直し」
「うん、どうぞ」
「あー……ん。うん、美味い」
「みど兄マジムカつく……」
「はは、桃真の顔!」
一体なにを言い争っているんだか。そう思うのにそれ以上に楽しくて、一秒一秒がきらめいている。ふたりと過ごしてきた時間はいつだって鮮やかだったけれど、今夜はまぶしいくらいだ。桃真と翠くんを眺めながら、オレはひとりそっとほほ笑む。いつまでもこうしていたい、と願ってしまうくらいに愛おしい時間だ。
「翠くん、ごちそうさまでした」
「ありがとな、みど兄」
「どういたしまして。俺もめっちゃ楽しかったわ」
デザートを食べ終え、またひとしきり話してからファミレスを出た。とても楽しかったから、どうにも離れがたい。それを察したのか、ニッと笑った翠くんが抱きついてきた。
「わっ、翠くん?」
「おい、みど兄離れろ」
「えー、いいじゃん。希色、嫌だった?」
「ううん、嫌じゃないよ」
翠くんが抱きついてくるのは、もはや日常茶飯事だ。とは言えここは外だから、少し驚いてしまった。
「希色と桃真、めっちゃ仲良しだって分かったけどさ。俺たちだっていつもこんなだよなー、希色」
「う、うん。翠くんがいつも抱きついてくるからね」
「あは、そうそう。……って、ふは、桃真すげー嫌そうな顔」
「え?」
翠くんの言葉に隣を見ると、たしかに桃真がふてくされた顔をしていた。M's modeの表紙への嫉妬はKEYのファンだから、とさっき聞いたところだ。抱きつかれているのが面白くなかったかな、と考えかけたけれど、それはさすがに自惚れがすぎる。
「桃真? どうしたの?」
「別に……」
「はは、桃真かーわいい」
「ちょ、みど兄やめろ」
オレを抱きしめたまま手を伸ばし、翠くんは桃真の頭を撫でる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられた桃真は、翠くんの腕を掴んで引き剥がした。それからジトリとした視線を翠くんに向ける。
「みど兄ってさ、もしかして俺と、その……同じ気持ちなわけ? 意味分かるよな?」
そう言った桃真は、一瞬だけオレをその瞳に映した。
「んー? うん、見てれば分かるよ。でも、それは違うかな。俺にとっても特別ではあるけど」
「…………? なんの話?」
自分の頭上で繰り広げられている会話を、オレはちっとも理解できない。でもふたりは通じ合っているらしく、なんだか仲間外れのようでさみしい。いとこだからなせる技なのだろうか。
「んー? 希色も桃真も弟みたいにかわいいって話」
「俺のことは聞いてねえよ」
「なんでだよー、いいじゃん。俺さ、今日嬉しかったよ。桃真、毎日楽しくやれてんだなって分かったから」
「……まあな」
「うちの母ちゃんも、久々に会いたいなーって言ってたぞ」
「ん、今度顔出す」
「…………?」
けらけらと笑いながら夜空を仰いで、翠くんはオレと桃真の頭を同時にぽんと撫でた。結局ふたりの会話は最後まで理解できず、オレは釈然としないままになってしまった。
寄るところがあるから俺はここで、という翠くんを見送る。
「じゃあな希色、また現場で」
「うん」
「桃真には後で、希色と俺の秘蔵ツーショット送ったげる」
「希色のとこだけトリミングして送って」
「はは、ひっど! でもまあ、兄ちゃんは応援してるからな。頑張れよ」
桃真になにかエールを送った翠くんは、途中で一瞬だけオレを見て、最後は桃真にウインクを送った。意味深な気がするけど、やっぱり分からない。両手で大きく手を振りながら、夜の街へと吸いこまれていく。
翠くんが見えなくなるまで見送って、だけどすぐに帰るのがもったいなくて、歩き出せない。桃真もそう思っているのだろうか。ふたりして話もせず立ち尽くしていたけれど。
「俺たちもそろそろ帰んなきゃな」
と、桃真が切り出してくれた。
「ん、そうだね」
「希色とこうして外でちゃんと会うの初めてだし、名残惜しいんだけどな」
「あ……オレも思ってた」
「マジ? 一緒だな。なあ、家まで送る」
「えっ」
桃真の提案に、オレは慌てて両手を振る。オレたちが乗る電車は、逆方向だ。
「いいよ! オレんち、ここから結構かかるから」
「だからだろ。ほら、行こ」
「でも……」
「俺がそうしたいの。まだ希色と一緒にいたいし」
「桃真……」
申し訳なさで胸がいっぱいになる。桃真は今日バイトだったのだし、早く帰ってゆっくりしたほうがいいのに。でも、喜んでいる自分もたしかにいる。桃真とまだ、この夜を一緒に過ごせるのだ。
オレの返事を待たず先に歩き出した桃真を追いかけ、隣に並ぶ。
「じゃ、じゃあ! 今度の時はオレが送る!」
「マジ? 楽しみにしてる」
思い切って言った“今度”を、当然のように受け取ってくれた。それだけで鼓動がひとつテンポを上げる。浮ついてしまいそうな足取りを、どうにか落ち着かせる。
それからの道のり、桃真はなぜかほとんど喋らなかった。なにか考えているのか、その横顔の瞳はたまに揺れて時折深く息を吐いていた。心配だけど、目が合う度にほほ笑んでくれた。電車に乗りこんだら混雑に紛れて手を握られて、驚いて顔を上げるといたずらな笑顔が返ってきた。
「ねえ桃真、ここまでで大丈夫だって」
「だーめ。ちゃんと送らせてよ」
「でも、さすがに遅くなるし」
「ここまで来たら、ちょっとくらい別に変わんないだろ」
「そうかもだけど……」
オレの家の最寄り駅に着いた。今は改札を出たところで、桃真と押し問答中だ。もう21時を過ぎている。桃真だって高校生なのだから、これ以上遅くなるのは絶対によくないのに。オレの家の前まで送ると言ってきかない。
「希色、頼む。もうちょっと希色と歩きたい」
「う……それはオレも、だけど」
「じゃあ決まり。家はどっち? こっち?」
「もー……うん、そっち」
「はは、当たった。な、また手繋いでいい?」
「……ん、いいよ」
こちらへ差し出してくれる手に、オレも手を重ねる。言いくるめられた気もするけれど、もうオレの負けでいい。だって、好きだから。もっと一緒にいたいのはオレのほうこそだ。
同じ電車から降りた人たちは、もう辺りにはいない。静かな夜道に、桃真とふたりきりだ。
「桃真、ありがとう」
「ん? なにが?」
「さっき、帰ったほうがいいって言ったけど。こういうの初めてで、本当は楽しいんだ」
「こういうの?」
「友だちと夜にご飯食べて、こうやって一緒に帰ってるの」
「そっか」
「うん」
こんなこと、同世代の人たちには些細な日常なのかもしれない。でも、オレにとってはひとつひとつが新鮮だ。噛みしめながら、桃真の手の温度を感じながら歩く。
「オレの家、この先曲がったとこ」
5分ほど歩いたところで立ち止まり、すぐそこの角を指差す。名残惜しさにため息をそっとつきながら、隣の桃真を見上げる。するとそこには、眉間をぎゅっと寄せた桃真の顔があった。
「……桃真?」
オレは思わず息を飲んだ。どうしたのだろう。なにか憂うことがあるのなら、一秒でも早くオレがどうにかしてあげたい。理由も分かっていないのに、半ば無意識に桃真の頬へと手を伸ばした。すると、オレの手を覆うように桃真が手を重ねてきた。目を閉じて、甘えるみたいにオレの手に頬をすり寄せてくる。ああ、好きだな。こんな時でも、恋はひとつひとつに鼓動する。
「あのさ、希色」
「なあに?」
「俺さ、秘密があるって言ったじゃん?」
「うん。翠くんのことだったんだね」
「それもそうなんだけどさ。もうひとつ、あって」
「もうひとつ……あ、そっか。ふたつある、って言ってたよね。保健室に連れていってくれた時」
「うん。あの時にさ、俺が秘密を明かせる時はきっと、希色ともっと仲よくなれた時……って言ったのも覚えてる?」
「あ……」
そうだ、たしかに桃真はそう言っていた。仲のいい友だちに秘密があると言われたら、落ちこむことだってありそうなのに。そんな言葉を添えてくれたから、桃真の隣で前を向いていられたように思う。
「うん、覚えてるよ」
「ん……それさ、今、言わせて。希色」
オレの両手を、桃真がきゅっと握った。深く息を吸ったかと思ったら、吐かれるそれは震えていて。その秘密を明かすために、大きな勇気がいるのだと理解するのには十分だ。
「希色」
「うん」
「俺さ……希色が好き」
「……え?」
「昨日もちょっと言ったんだけどさ。あの時、希色は友だちとしての好きだって思ったのかもしれないけど、違うからな? その……恋のほうの、好き」
「…………」
今、桃真はなんと言ったのだろう。いや、ちゃんと聞こえたのだけれど。途端にこの瞬間が現実なのかすら分からなくなる。
好きだと言ってくれた? 桃真がオレを? 本当に?
「……っ」
桃真の両手の中で、オレの手がびくんと跳ねた。桃真が慌て始める。
「あっ、離すの待った。いや、フラれても受け入れなきゃってちゃんと思ってるんだけど、さ。男同士だし……でも今だけ、もうちょっとだけ。伝える間だけでも、このままでいてほしい」
「桃真……」
自分の声が震えているのが分かる。桃真の名前を口にするだけでもやっとだ。それなのに桃真はきちんと話していてすごいな、なんて思ったけれど。桃真が鼻をすすった音が聞こえた。いつも余裕のある桃真がそれくらい、精いっぱい伝えてくれているということだ。
「希色が初めてコーヒー買いに来てくれた時、俺もまだまだバイト始めたばかりの頃で。希色が来るの、癒やしだった。今日は来るかなって、いつも楽しみで。そしたら2年の教室にいて……すげーびっくりしたけど、マジで嬉しくて。でも、正体知られたくないんだなあって分かって。ああ、多分俺だけがKEYだって気づいてて、それって守れるのも俺だけってことだよな、絶対守りたいな……って、思った。優越感みたいなのも、正直あったと思う」
なんか最低だな、と桃真が苦笑するから、オレはブンブンと首を振って否定する。
「そんなことないよ! 知ってたのに言わずにずっと守ってくれてたのも、バレてから寄り添ってくれてたのも、全部全部……嬉しいよ」
「そっか。さんきゅ。あー……あとはなんだろ。今日告るって決めてて、色々考えてたんだけど……いざとなると全然出てこないな」
「き、決めてたんだ?」
「うん。みど兄にさっき発破かけられたからじゃないからな?」
「そ、そっか」
なるほど、さっき翠くんが桃真にエールを送っていたのはそういうことだったのか。あれから桃真がやけに口数少なくなったのも、それを知ると頷ける。
「でもまあ、伝えたいことはひとつだしな。希色、好きだよ。ずっと好きだった。アイツらにらしくないって言われるくらい、俺の全部で、毎日好きだった。……あのさ、希色ともっと仲よくなれたら言う、って言ったけど。そうじゃないよな。そうなりたいから伝えるんだよな」
「桃真……」
「……ん、言えてよかった」
伝える間だけでも、とさっき言っていたからだろうか。桃真の手が離れそうになって、オレは慌ててぎゅっと握り返した。
「待って!」
「っ、希色?」
「……っ、桃真、あのね」
今度はオレが頑張る番だ。これだけの想いをもらって、まだウジウジしているような自分じゃいられない。そう思うと、最高潮にドキドキしている胸がさらに強張っていく。でも、切り出してくれた桃真はこれの比じゃなかったはずだ。受け取って返す自分とは、ワケが違う。
ああ、やっぱり桃真はどこまでもかっこいいな。両想いになれたらと憧れることはあっても、告白しようと考えたことなんて意気地なしのオレにはなかった。
「オレも、オレも……好き、だよ。桃真が好き」
「……っ、希色?」
「コーヒーショップで初めて逢った時から、かっこいいなって思ってた。ペンギンくん描いてくれたり、色々声かけてくれる優しさに憧れて、すぐに推しになった。学校で出逢った時は本当にびっくりしたけど……友だちになってくれて、毎日が楽しくて。オレさ、学校が好きじゃなかったんだ。いつ辞めてもいいと思ってた。でも今は、そんなこと全然思わないよ。桃真がオレを変えてくれたんだ」
「希色……」
「本当だね。桃真への気持ち、たくさんあるのに。なに言ったらいいか分かんなくなる」
「……うん」
「……うん。桃真、好きだよ。言える日が来るなんて思わなかった。すごく緊張するけど、好きって言えるのって、こんなに嬉しいんだね。桃真のおかげだね、ありがとう」
瞳の奥が熱くて、ごまかすように不格好なまばたきをする。
「希色……なあ、もしかして俺たちって恋人?」
「そう、だよね?」
「あー、やば……マジ夢みてぇ」
桃真は脱力して、オレの肩にぽすんと頭を乗せた。額を擦りつけてくるのが愛しくて、胸がきゅうと苦しくなる。繋いだままの手は、ゆっくりと指同士が絡んでいく。たまらなくて零れた息が、どことなく熱い。
「なんか、さ」
「んー?」
「桃真とはさ、前からその、手繋いだりとか、くっついたりとかしてたじゃん?」
「ん、そうだな」
「いつもドキドキしてたけど、今はもっとその、すごい」
「ん、分かる。希色のこと好きすぎて、触れてたくてああしてたんだけど」
「っ、そうだったんだ」
「はは、そう。子どもみたいな独占欲だよなあ。でもさ、両想いだって思ったら、全然違う感覚する」
「……うん」
好きすぎてとか、触れていたくてとか。ひとつひとつの言葉が倒れそうなくらい衝撃的だ。でもそれ以上に、今同じ気持ちなのだと分かったことが嬉しい。触れる意味が、拒まないでいる意味が、変わったんだ。友だちの関係に隠れてそうしていた行為が、恋人としてのものになった。
「希色、キャップ取ってもいい?」
「うん」
ゆっくりと顔を上げた桃真の手に、キャップが脱がされる。髪を丁寧に整えてくれて、額同士がコツンと合わさる。
「今日、顔出して来てくれたの嬉しかった」
「そ、っか」
「学校での希色も好きだけどな。どっちもっていうか、どんな希色も好きだから。でも店以外で、こうして顔出して会うの初めてじゃん? だから、ずっとドキドキしてた」
「……ん、オレも」
「希色……」
桃真の顔がもっと近づいてきて、頬と頬が重なった。すりすりと擦り合わせられるのが、恥ずかしいのに気持ちいい。
「あー……あんまくっついてるとやばいな」
「やばい?」
「……キス、したくなる」
「っ、キス……」
桃真のその言葉に、体中を血液が一気に駆け巡る感覚がした。そうか、恋人ってそういうことか。桃真を好きな気持ちでいっぱいいっぱいで、考えたこともなかったかもしれない。桃真とそういうことができたらきっと、いや絶対に幸せだ。
「はは、急に変なこと言ってごめんな」
「え、っと……しない、の?」
ドキドキしながらそう聞いてみたら、桃真は大きく目を見開いた。
「いや、したい! したいけど……希色のこと大事にしたいから、今日は、しない」
「そ、っか。でも、いつも大事にしてもらってるから、オレはいつでも……待ってます」
「っ、希色〜……かわいすぎるって。勘弁してください」
桃真はそう言って、頭を抱えてしまった。手の隙間から、染まった頬が見える。ああ、桃真への想いで胸が弾けそうだ。
「桃真もかわいいよ」
「いや、俺はかわいくないだろ」
「ううん、かわいい。あと、かっこいい。すごく」
「も、マジキャパオーバーだから……」
「ははっ」
かわいいという言葉を仕事以外で素直に受け入れられるのは、初めてな気がする。オレ自身も桃真をかわいいと感じているからだろう。このかわいいは、愛しいだ。それがよく分かる。桃真もそう感じてくれているのだと思うと、ただただ嬉しい。
「希色、好きだよ。すげー好き」
気持ちが落ち着いたのか、桃真が顔を上げてそう言った。
「っ、オレも大好き」
必死にオレもそう返す。ああ、いよいよ泣きそうだ。幸福が胸いっぱいで溢れたら、涙になるのか。初めての感覚に鼻をすすったら、オレの頬を両手で包んで桃真も同じように鼻をすすった。
「あーあ、帰りたくねえ」
「うん、オレも」
時計を見ると、もう22時も間近になっていた。さすがに遅すぎる。オレも桃真も分かっているのに、離れがたくて指先を絡ませ合っている。
「はは、嬉しい。……でも、さすがに帰らなきゃな」
「遅くなっちゃったもんね。おうちの人に怒られない?」
「ああ、それなら平気。俺ひとり暮らしだし」
「え……えっ、そうなの!?」
初めて知った事実に、こんな時間にも関わらず大きな声を出してしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。
「高校入ってちょっとしてからな。小学校の頃に親が離婚して、父親と暮らしてたけど中3の時に再婚して。相手の人もいい人だけど、やっぱ気は使うじゃん。それで、ワガママ言って……家賃とかは出してもらってるけど、あんまり甘えたくないからバイトしてる。あ、ちなみに中3の途中からひとり暮らし始めるまでは、みど兄の家に住まわせてもらってた」
「そうだったんだ……」
全く知らなかった。でも言われてみると、納得がいくこともある。お弁当を持ってきているところは一度も見たことがないし、ずいぶんとたくさんバイトを詰めているなと思っていた。さっきの桃真と翠くんの会話も、合点がいく。
桃真はなんでもないことのように、肩をすくめながら教えてくれたけれど。オレには想像もつかないような、つらい思いをしたはずた。朝や夜はちゃんと食べているのかな。たくさんのことが気になる。
「そんな顔しなくて平気だからな。俺は気楽にやってるから」
でも、ほほ笑んだ桃真がオレの髪をぽんと撫でる。こんな時にでもオレを救ってしまうその心がどこまでもかっこよくて、だけどちょっと切ない。
「うん、分かった。あのさ、もしよかったら泊まってく? 本当にもう遅いし……あ、気を使ってるんじゃないよ? 桃真を大切にしたいだけ」
これは本心だ。桃真がそうやって前を向くのなら、オレは隣で支えたい。
「希色……ありがとな。でも今日は帰るよ。明日もバイトあるし」
「そっか……」
「でも、また今度誘ってくれたら嬉しい」
「っ、もちろん!」
「希色の家の人たちがよかったら、だけど」
「それは絶対平気だよ! すごく喜ぶと思う」
「はは、そうなんだ」
思いついた提案には、優しさが返ってきてしまった。オレが落ちこまないように、そうしてくれたのが分かる。今夜のところは、オレにできることはなさそうだけれど。今度は、ううん、この先ずっと。大切な人を、大切にしてくれる人を、包みこめるような男にオレもなりたい。
「じゃあ、またな」
「うん、また。おうちに着いたら連絡してね」
「はは、希色の過保護」
「だって心配だもん」
「ん、さんきゅ」
「うん……あ! ペンギンくん、ストラップにしてもらうの忘れてた……」
「あっ、うわマジだ……」
「話すことたくさんあって忘れてたね」
「だな。今度学校でやろ」
「うん、ありがとう」
少しずつ後ずさり始めた桃真に手を振る。ああ、もうさみしい。もう会いたい。まだ目の前に桃真はいるのに不思議だ。両想いは幸せだけれど、なんだかさみしさの輪郭も濃くしている気がする。
「希色! おやすみ!」
「おやすみー!」
大きく振ってくれる手に、オレも懸命に振り返す。もしも桃真も同じようにさみしいなら、少しでもそれがほどけるように。
「あ、帰りながらラインしていいー?」
「はは、うん!」
夜の道に、桃真が溶けていく。見えなくなってしまった、とため息をついたら、すぐにラインが送られてきた。さすが桃真だ。さっそく返事を返して、オレも家までの道を進む。
初めて友だちと夕飯を共にして、桃真と翠くんの関係を知って、それから――恋人になった。たくさんのことがあったから、今夜は眠れないかもしれない。だけどそれもいい。明日は今と繋がっていても、桃真がくれた今日の心に、まだまだ触れていたいから。
「はーい。事務所の方と? 明日は一日お休みって言ってなかった?」
「……ううん、友だちと」
「あらそう、お友だちと。……えっ! 友だち!?」
昨夜そんな会話をした後、家族からのリアクションは想像以上のものだった。お母さんとお父さんが目をうるうるさせた時は、さすがにぎょっとした。兄ちゃんに至っては、よかったなあとしみじみ言いながら痛いくらいに抱きしめてきた。おおげさすぎだよ、なんて言ってため息をついてみせたけど。あの希色が友だちとご飯だなんて、と喜んでくれているのだとよく分かっている。学校で人と関わらなかったオレを、よほど心配していたのだろう。桃真の光がオレだけじゃなく、家族にまで降り注いでいる。そんな光景を見た気がして、またひとつ桃真への憧れが深くなり、さらに好きになった。
そして今は、どんな格好で出かけるか絶賛迷っている最中だ。桃真との約束は18時。時計はまだ15時も指していないけれど。服装はもちろん、髪型も悩ましい。学校に行く時のように前髪で顔を隠していくか、もう知られているのだから顔を出していくか――
気が逸りすぎて、ファミレスの最寄り駅に1時間ほど早く着いてしまった。書店や雑貨屋などをふらふらしつつ、約束の10分前にファミレス前へ到着。スマートフォンのインカメラで身だしなみを確認する。
結局、前髪はセンターパートにセットしてきた。KEYであることを隠していた友だちのオレも、友だちであることを隠してコーヒーショップに通うオレも、桃真は受け入れてくれていた。そんな桃真と会うのに、顔を隠したままなのはなんだか違う気がしたからだ。とは言え先日の騒動の二の舞いにはならないようにと、キャップを目深にかぶってきた。自意識過剰だとしても、桃真との時間が減ってしまうよりはいい。
仕事の後にご褒美でコーヒーショップへ行く時とは違って、今日は髪型も顔もプロの手が入っていない。変なところがないかもう一度しっかりとチェックし、緊張しながら“着いたよ”と桃真にメッセージを送る。するとすぐに返事が返ってきた。
《もう中にいる。奥のほうの席》
《分かった》
入店し、声をかけてくれた店員に待ち合わせだと伝える。奥へと進むと、入り口からは死角の席に桃真の姿が見えた。手を上げて合図をしてくれている。
昨日も学校で会ったのに、どうしたってドキドキする。今日もかっこいい。念入りにチェックしたつもりだけれど、変な格好してないかな。
ファミレスの床がふわふわしているような、足元が覚束ない感覚がする。一歩一歩進んで、席に到着する。そこでオレは、
「桃真、待った? ……って、ん?」
と首を傾げた。桃真の向かいの席、入り口のほうへ背を向けて座る、もうひとりの存在に気がついたからだ。
こちらを見てピースサインを送ってくるその人を、よく知っている。今この瞬間、世界中でオレがいちばん驚いていると心から思う。
「えっ、な、え!? みっ……!」
「希色、シー……な?」
つい大声が出そうになったオレに、桃真が人差し指を口元に添えてそう言った。
「あっ……」
慌てながら、両手で口をふさぐ。危なかった。桃真が止めてくれなかったら、多くの人がいるこんな場所で、有名人の名前を叫んでしまうところだった。桃真と目を合わせ「絶対に口走りません」と誓うようにコクコクと頷いてから、どうにか桃真の隣へ腰を下ろす。
オレの目の前に、先輩モデルの翠くんがいる。なぜ、桃真と一緒に? 全く意味が分からない。テーブルに這うように背を屈め、小声で翠くんに尋ねる。
「なんで? なんで翠くんがここにいるの?」
「はは、なんででしょ~? 希色、当ててみてよ」
翠くんは頬杖をついて、質問をし返してきた。余裕な態度がなんだか癪だ。緑色の髪を綺麗に収めたキャップの下で、楽しそうに口角を上げて笑っている。
「まさか……ファンと連絡先交換したの?」
「ファン? いまいち意味分かんないけど、ブー。そんなことしないって」
「あ、分かった。桃真をスカウトしてるところだ。桃真イケメンだもんね」
「ううん、俺が呼んだ」
「え!?」
桃真の言葉に、オレは勢いよく桃真を振り返る。
「あ、桃真ネタばらし早いってー」
翠くんはつまらなそうにくちびるをとがらせるけど、そのネタの内容は一ミリも理解できていないから安心してほしい。
「桃真が呼んだ……? 翠くんを?」
一体どういうことだろう。オレはぽかんとしたまま、桃真と翠くんの顔を交互に見ることしかできない。
「みど兄焦らしすぎ」
「えー、そう? んー、希色が俺じゃなくて桃真の隣に座ったから、ちょっと拗ねてるのかも」
「拗ねてるの? 今日約束してたのは桃真とだから……ん? 待って。桃真今、翠くんのこと“みど兄”って言った?」
「うん、言ったな」
「え……っ、お、お兄ちゃん!?」
「まあ、そういうこと。正しくはいとこの、だけどな」
「ええ……桃真と翠くんが、いとこ……?」
あんぐりと開いた口を、やっぱり閉じることができない。でも、“いとこ”というワードにはたしかに聞き覚えがある。夏休みの前、オレと同じ高校に通ういとこがいるのだと、学校まで迎えに来てくれた翠くんが言っていた。あれは桃真のことだったのか。
「信じられない……そんなことあるんだ」
目の前に答えがある、ふたりがそうだと言っている。それでもすんなりと飲みこむには、あまりにも驚愕の事実だ。
「えっと……桃真の秘密って、翠くんのことだったの?」
「うん。日比谷翠のファンなのかって聞かれた時、否定できずにごめんな?」
「ううん、謝らないで……え、ファンってところから違うの? いとこだけどファンだったりは?」
「ないな」
「うわー、翠お兄ちゃんショック」
「じゃ、じゃああのペンは? 翠くんのノベルティの」
「あれはみど兄にもらった」
「ああ、写真集のヤツか。そう言えば桃真にあげたな」
「そうだったんだ……」
聞きたいことはまだまだたくさんあるけど、ひとまずなにか食べようということになった。翠くんはハンバーグ、桃真はミートソースパスタでオレはカルボナーラ。端末で注文を済ませ、運ばれてきた料理を食べながらも話はつきない。
「でも俺もビックリだったわ。昨日久しぶりに桃真から連絡きたと思ったら、希色と3人で会いたいって言うから」
「会うのがいちばん早いと思って」
「確かにな。あ、希色がKEYだってこと、桃真にも言ってなかったからな?」
「うん、分かってるよ。翠くんのこと信じてるし。実は昨日、学校で色々あって……」
クラスメイトにKEYだとバレてしまった経緯を、翠くんに説明する。頬張っていたハンバーグをごくんと飲みこみ、翠くんは目を見開いた。
「マジか。どこで誰が見てるか分かんないもんだな」
「うん、ほんとビックリした……でも桃真が助けてくれて。オレひとりだったら、逃げ出してそのまま退学してたかも」
漏れる苦笑とともに、オレは肩をすくめる。大げさじゃなく、本当にそうしていたと思う。昨日のはそのくらいショックな出来事だった。けれどそんな過去の自分を覆す心強さを、桃真がオレにくれた。何度だって感謝を伝えたくなる。
「桃真、昨日は本当にありがとう」
「どういたしまして。希色、口んとこソースついてる」
「え、どこ?」
「そっちじゃなくてこっち」
「んう」
慌てて指で拭ってみたけれど、そっちじゃないと笑って桃真が紙ナプキンで拭いてくれた。ありがたくされるがままになっていると、翠くんの視線がマジマジと向けられていることに気づく。
「希色さ、今年の春くらいからいい感じになってきたの、友だちのおかげって言ってたじゃん」
「うん」
「それは桃真ってことで合ってる?」
「うん、そうだよ。本人を目の前に言うの、なんだか恥ずかしいけど」
「そっかあ。へえ~……マジでビックリだわ。世間て狭いな、てヤツ?」
「ほんとだね。オレもまだ信じられないもん、ふたりがいとこだって」
「分かる」
桃真と翠くんがいとこだと知ったオレと、オレと桃真が友だちだと知った翠くん。驚きだねとしみじみと頷き合っていると、桃真がオレの顔を覗きこんできた。
「まあ俺も驚いたけどな」
「…………? なにが?」
桃真はパスタを食べ終え、「ごちそうさま」と手を合わせる。それから頬杖をつき、改めてその瞳にオレを映した。
「みど兄のインスタに綺麗な子が出てきたなと思ってたら、バイト先に来た時とか」
「へ……」
「コーヒーのオススメ聞いてくれたのとか、嬉しくてさ。そういうの一切やったことなかったのに、カップに下手くそな絵まで描いたりして。少しずつ喋れるようになって喜んでたら、同じクラスになるし」
「桃真? あの……」
もしかしなくても、桃真が言っているのはオレのことだ。綺麗だとか、コーヒーショップでのことを嬉しかっただとか。そんな風に思ってくれていただなんて。
「今回の表紙見た時は正直……めっちゃ妬いた。まあそれまでも何回も嫉妬してたけど……みど兄、コンセプトがあったとはいえ希色に近すぎ」
「っ、待って、妬いたって言ってたのそっち!?」
「うん。さっきも言ったけど、俺はみど兄のファンじゃないからな。最初からKEYのファンだよ」
「ひえっ……待って、ちょっと待って」
もはやキャパオーバーで、耳が一気に熱くなってきた。
翠くんのファンではない、とさっき聞いた時、ただ単純に驚いただけだったけれど。M's modeの表紙が公開された時、「嫉妬してんの?」と言った佐々木くんに桃真が頷いたのをよく覚えている。あの時も、翠くんのファンだからではなかったということか。KEYのファンだと昨日言っていたのもお世辞なんかじゃなくて――桃真に推されたいというオレの夢は、最初から叶っていた?
オレの手から、パスタを巻きつけていたフォークが落ちる。皿にぶつかって、カランと金属音を立てた。目の奥が、じわりと熱を持ちはじめる。
「え、俺も待ってほしいんだけど? なに、もしかして希色のお気にのコーヒーショップで桃真がバイトしてんの?」
オレだけじゃなく、翠くんも新たな驚きの真っ只中にいるようだ。オレと桃真の顔を交互に見ながら聞いてくる。
「うん、初めて行った時……友だちになる前から桃真がいて。その、オレ、コーヒーも好きになったけど、優しいしかっこいい人だなって桃真に憧れて、推しになって……それで、仕事で褒めてもらえた時とかに、ご褒美に通ってた」
意を決して、オレも桃真を推していたことを告白する。
「え、推し? 俺が? ……あ、こないだ店で応援してるって言ってくれたのも、そういうこと?」
「……うん」
桃真の顔を横目に見たら、まん丸に見開かれた瞳がすぐに弧を描いた。はは、と照れくさそうに笑う顔に、心を強く惹きつけられる。桃真に出逢ってからオレの感情がどんなに豊かだったかも、今すぐ知ってほしくなる。
「二年の教室で桃真に会った時、ほんっとビックリしたんだよ。なんでここに推しがいんの!? って。そもそも、年上だと思ってたし。貸してくれたペンが翠くんのだって気づいた時、嬉しかった。でも翠くんが羨ましくもあって、オレも推されたいなあ……って。それくらいのモデルになれるよう、もっと頑張ろうって思ったんだよ」
「そうだったんだな。俺、最初からずっと希色が、KEYが推しだったよ」
「うわー、やばい……」
オレが皿に落としたフォークを、桃真が手にとった。パスタを巻き直し、口元に差し出される。桃真を見上げると、ほほ笑みながら「ん」と食べるように促される。恥ずかしさより、素直に受け取りたい気持ちが勝って口を開く。ぎこちなく咀嚼していると、翠くんがどこか呆然とした顔でオレたちを見ていることに気づく。
「ねえ、ふたりっていつもそんな感じなん?」
そんな、とはどんなだろう。食べものをお互いの口に運ぶのはもはや日常で、たしかにそういう意味では“いつもそんな感じ”かもしれない。オレの心の中では、片想い相手へのときめきが大暴れしているけれど。
「えっと……う、うん。そうだね?」
「だな」
「ふーん、なるほどね」
桃真のほうをちらりと見て、それからすぐに翠くんは口角を上げて笑った。
「あーあ、なんかふたり見てたら甘いの食いたくなってきたわ。デザート頼まない? ちなみに今日は俺の奢り」
「わ、食べたい」
「俺も食う」
翠くんの太っ腹な誘いに、甘いもの好きなオレたちが乗らない手はない。素直にご馳走になることにして、3人でひとつの端末を覗きこむ。イチゴの乗ったショートケーキも抹茶プリンも魅力的だったけれど、全員がチョコレートパフェを選んだ。
パフェが運ばれてくると、なぜか翠くんが「希色、あーん」と自分の分からクリームを食べさせてくれた。すると今度は、桃真も「俺はもっといっぱいやる」と言って競うように口に入れてくれて。全員で同じものを頼んだのに、どうして分けてくれるのだろう。おかしくて笑えるのに、ひとりで食べるよりも何倍も美味しい気がするから不思議だ。そう思えたら、オレだってふたりにおすそわけしたくなる。
「じゃあオレからも。はい、桃真」
オレの器からクリームをたっぷりすくって、桃真の口元に運ぶ。
「ん、美味いな」
嬉しそうに笑ってくれるから、桃真と甘いものを食べるのはやっぱり楽しい。
「美味しいよね。じゃあ次は翠くんね」
それじゃあ今度はと、翠くんのためにクリームをすくって口元に差し出す。
「俺も? やったねー」
けれど翠くんは口に含む直前、ハッと肩を揺らした。
「ちょっと待って。これ、桃真と間接キスじゃね?」
「は? うわ、みど兄キモいからやめろ。絶対食うな」
「いや食べるでしょ。希色のあーんだぞ。希色、やり直し」
「うん、どうぞ」
「あー……ん。うん、美味い」
「みど兄マジムカつく……」
「はは、桃真の顔!」
一体なにを言い争っているんだか。そう思うのにそれ以上に楽しくて、一秒一秒がきらめいている。ふたりと過ごしてきた時間はいつだって鮮やかだったけれど、今夜はまぶしいくらいだ。桃真と翠くんを眺めながら、オレはひとりそっとほほ笑む。いつまでもこうしていたい、と願ってしまうくらいに愛おしい時間だ。
「翠くん、ごちそうさまでした」
「ありがとな、みど兄」
「どういたしまして。俺もめっちゃ楽しかったわ」
デザートを食べ終え、またひとしきり話してからファミレスを出た。とても楽しかったから、どうにも離れがたい。それを察したのか、ニッと笑った翠くんが抱きついてきた。
「わっ、翠くん?」
「おい、みど兄離れろ」
「えー、いいじゃん。希色、嫌だった?」
「ううん、嫌じゃないよ」
翠くんが抱きついてくるのは、もはや日常茶飯事だ。とは言えここは外だから、少し驚いてしまった。
「希色と桃真、めっちゃ仲良しだって分かったけどさ。俺たちだっていつもこんなだよなー、希色」
「う、うん。翠くんがいつも抱きついてくるからね」
「あは、そうそう。……って、ふは、桃真すげー嫌そうな顔」
「え?」
翠くんの言葉に隣を見ると、たしかに桃真がふてくされた顔をしていた。M's modeの表紙への嫉妬はKEYのファンだから、とさっき聞いたところだ。抱きつかれているのが面白くなかったかな、と考えかけたけれど、それはさすがに自惚れがすぎる。
「桃真? どうしたの?」
「別に……」
「はは、桃真かーわいい」
「ちょ、みど兄やめろ」
オレを抱きしめたまま手を伸ばし、翠くんは桃真の頭を撫でる。くしゃくしゃと髪をかき混ぜられた桃真は、翠くんの腕を掴んで引き剥がした。それからジトリとした視線を翠くんに向ける。
「みど兄ってさ、もしかして俺と、その……同じ気持ちなわけ? 意味分かるよな?」
そう言った桃真は、一瞬だけオレをその瞳に映した。
「んー? うん、見てれば分かるよ。でも、それは違うかな。俺にとっても特別ではあるけど」
「…………? なんの話?」
自分の頭上で繰り広げられている会話を、オレはちっとも理解できない。でもふたりは通じ合っているらしく、なんだか仲間外れのようでさみしい。いとこだからなせる技なのだろうか。
「んー? 希色も桃真も弟みたいにかわいいって話」
「俺のことは聞いてねえよ」
「なんでだよー、いいじゃん。俺さ、今日嬉しかったよ。桃真、毎日楽しくやれてんだなって分かったから」
「……まあな」
「うちの母ちゃんも、久々に会いたいなーって言ってたぞ」
「ん、今度顔出す」
「…………?」
けらけらと笑いながら夜空を仰いで、翠くんはオレと桃真の頭を同時にぽんと撫でた。結局ふたりの会話は最後まで理解できず、オレは釈然としないままになってしまった。
寄るところがあるから俺はここで、という翠くんを見送る。
「じゃあな希色、また現場で」
「うん」
「桃真には後で、希色と俺の秘蔵ツーショット送ったげる」
「希色のとこだけトリミングして送って」
「はは、ひっど! でもまあ、兄ちゃんは応援してるからな。頑張れよ」
桃真になにかエールを送った翠くんは、途中で一瞬だけオレを見て、最後は桃真にウインクを送った。意味深な気がするけど、やっぱり分からない。両手で大きく手を振りながら、夜の街へと吸いこまれていく。
翠くんが見えなくなるまで見送って、だけどすぐに帰るのがもったいなくて、歩き出せない。桃真もそう思っているのだろうか。ふたりして話もせず立ち尽くしていたけれど。
「俺たちもそろそろ帰んなきゃな」
と、桃真が切り出してくれた。
「ん、そうだね」
「希色とこうして外でちゃんと会うの初めてだし、名残惜しいんだけどな」
「あ……オレも思ってた」
「マジ? 一緒だな。なあ、家まで送る」
「えっ」
桃真の提案に、オレは慌てて両手を振る。オレたちが乗る電車は、逆方向だ。
「いいよ! オレんち、ここから結構かかるから」
「だからだろ。ほら、行こ」
「でも……」
「俺がそうしたいの。まだ希色と一緒にいたいし」
「桃真……」
申し訳なさで胸がいっぱいになる。桃真は今日バイトだったのだし、早く帰ってゆっくりしたほうがいいのに。でも、喜んでいる自分もたしかにいる。桃真とまだ、この夜を一緒に過ごせるのだ。
オレの返事を待たず先に歩き出した桃真を追いかけ、隣に並ぶ。
「じゃ、じゃあ! 今度の時はオレが送る!」
「マジ? 楽しみにしてる」
思い切って言った“今度”を、当然のように受け取ってくれた。それだけで鼓動がひとつテンポを上げる。浮ついてしまいそうな足取りを、どうにか落ち着かせる。
それからの道のり、桃真はなぜかほとんど喋らなかった。なにか考えているのか、その横顔の瞳はたまに揺れて時折深く息を吐いていた。心配だけど、目が合う度にほほ笑んでくれた。電車に乗りこんだら混雑に紛れて手を握られて、驚いて顔を上げるといたずらな笑顔が返ってきた。
「ねえ桃真、ここまでで大丈夫だって」
「だーめ。ちゃんと送らせてよ」
「でも、さすがに遅くなるし」
「ここまで来たら、ちょっとくらい別に変わんないだろ」
「そうかもだけど……」
オレの家の最寄り駅に着いた。今は改札を出たところで、桃真と押し問答中だ。もう21時を過ぎている。桃真だって高校生なのだから、これ以上遅くなるのは絶対によくないのに。オレの家の前まで送ると言ってきかない。
「希色、頼む。もうちょっと希色と歩きたい」
「う……それはオレも、だけど」
「じゃあ決まり。家はどっち? こっち?」
「もー……うん、そっち」
「はは、当たった。な、また手繋いでいい?」
「……ん、いいよ」
こちらへ差し出してくれる手に、オレも手を重ねる。言いくるめられた気もするけれど、もうオレの負けでいい。だって、好きだから。もっと一緒にいたいのはオレのほうこそだ。
同じ電車から降りた人たちは、もう辺りにはいない。静かな夜道に、桃真とふたりきりだ。
「桃真、ありがとう」
「ん? なにが?」
「さっき、帰ったほうがいいって言ったけど。こういうの初めてで、本当は楽しいんだ」
「こういうの?」
「友だちと夜にご飯食べて、こうやって一緒に帰ってるの」
「そっか」
「うん」
こんなこと、同世代の人たちには些細な日常なのかもしれない。でも、オレにとってはひとつひとつが新鮮だ。噛みしめながら、桃真の手の温度を感じながら歩く。
「オレの家、この先曲がったとこ」
5分ほど歩いたところで立ち止まり、すぐそこの角を指差す。名残惜しさにため息をそっとつきながら、隣の桃真を見上げる。するとそこには、眉間をぎゅっと寄せた桃真の顔があった。
「……桃真?」
オレは思わず息を飲んだ。どうしたのだろう。なにか憂うことがあるのなら、一秒でも早くオレがどうにかしてあげたい。理由も分かっていないのに、半ば無意識に桃真の頬へと手を伸ばした。すると、オレの手を覆うように桃真が手を重ねてきた。目を閉じて、甘えるみたいにオレの手に頬をすり寄せてくる。ああ、好きだな。こんな時でも、恋はひとつひとつに鼓動する。
「あのさ、希色」
「なあに?」
「俺さ、秘密があるって言ったじゃん?」
「うん。翠くんのことだったんだね」
「それもそうなんだけどさ。もうひとつ、あって」
「もうひとつ……あ、そっか。ふたつある、って言ってたよね。保健室に連れていってくれた時」
「うん。あの時にさ、俺が秘密を明かせる時はきっと、希色ともっと仲よくなれた時……って言ったのも覚えてる?」
「あ……」
そうだ、たしかに桃真はそう言っていた。仲のいい友だちに秘密があると言われたら、落ちこむことだってありそうなのに。そんな言葉を添えてくれたから、桃真の隣で前を向いていられたように思う。
「うん、覚えてるよ」
「ん……それさ、今、言わせて。希色」
オレの両手を、桃真がきゅっと握った。深く息を吸ったかと思ったら、吐かれるそれは震えていて。その秘密を明かすために、大きな勇気がいるのだと理解するのには十分だ。
「希色」
「うん」
「俺さ……希色が好き」
「……え?」
「昨日もちょっと言ったんだけどさ。あの時、希色は友だちとしての好きだって思ったのかもしれないけど、違うからな? その……恋のほうの、好き」
「…………」
今、桃真はなんと言ったのだろう。いや、ちゃんと聞こえたのだけれど。途端にこの瞬間が現実なのかすら分からなくなる。
好きだと言ってくれた? 桃真がオレを? 本当に?
「……っ」
桃真の両手の中で、オレの手がびくんと跳ねた。桃真が慌て始める。
「あっ、離すの待った。いや、フラれても受け入れなきゃってちゃんと思ってるんだけど、さ。男同士だし……でも今だけ、もうちょっとだけ。伝える間だけでも、このままでいてほしい」
「桃真……」
自分の声が震えているのが分かる。桃真の名前を口にするだけでもやっとだ。それなのに桃真はきちんと話していてすごいな、なんて思ったけれど。桃真が鼻をすすった音が聞こえた。いつも余裕のある桃真がそれくらい、精いっぱい伝えてくれているということだ。
「希色が初めてコーヒー買いに来てくれた時、俺もまだまだバイト始めたばかりの頃で。希色が来るの、癒やしだった。今日は来るかなって、いつも楽しみで。そしたら2年の教室にいて……すげーびっくりしたけど、マジで嬉しくて。でも、正体知られたくないんだなあって分かって。ああ、多分俺だけがKEYだって気づいてて、それって守れるのも俺だけってことだよな、絶対守りたいな……って、思った。優越感みたいなのも、正直あったと思う」
なんか最低だな、と桃真が苦笑するから、オレはブンブンと首を振って否定する。
「そんなことないよ! 知ってたのに言わずにずっと守ってくれてたのも、バレてから寄り添ってくれてたのも、全部全部……嬉しいよ」
「そっか。さんきゅ。あー……あとはなんだろ。今日告るって決めてて、色々考えてたんだけど……いざとなると全然出てこないな」
「き、決めてたんだ?」
「うん。みど兄にさっき発破かけられたからじゃないからな?」
「そ、そっか」
なるほど、さっき翠くんが桃真にエールを送っていたのはそういうことだったのか。あれから桃真がやけに口数少なくなったのも、それを知ると頷ける。
「でもまあ、伝えたいことはひとつだしな。希色、好きだよ。ずっと好きだった。アイツらにらしくないって言われるくらい、俺の全部で、毎日好きだった。……あのさ、希色ともっと仲よくなれたら言う、って言ったけど。そうじゃないよな。そうなりたいから伝えるんだよな」
「桃真……」
「……ん、言えてよかった」
伝える間だけでも、とさっき言っていたからだろうか。桃真の手が離れそうになって、オレは慌ててぎゅっと握り返した。
「待って!」
「っ、希色?」
「……っ、桃真、あのね」
今度はオレが頑張る番だ。これだけの想いをもらって、まだウジウジしているような自分じゃいられない。そう思うと、最高潮にドキドキしている胸がさらに強張っていく。でも、切り出してくれた桃真はこれの比じゃなかったはずだ。受け取って返す自分とは、ワケが違う。
ああ、やっぱり桃真はどこまでもかっこいいな。両想いになれたらと憧れることはあっても、告白しようと考えたことなんて意気地なしのオレにはなかった。
「オレも、オレも……好き、だよ。桃真が好き」
「……っ、希色?」
「コーヒーショップで初めて逢った時から、かっこいいなって思ってた。ペンギンくん描いてくれたり、色々声かけてくれる優しさに憧れて、すぐに推しになった。学校で出逢った時は本当にびっくりしたけど……友だちになってくれて、毎日が楽しくて。オレさ、学校が好きじゃなかったんだ。いつ辞めてもいいと思ってた。でも今は、そんなこと全然思わないよ。桃真がオレを変えてくれたんだ」
「希色……」
「本当だね。桃真への気持ち、たくさんあるのに。なに言ったらいいか分かんなくなる」
「……うん」
「……うん。桃真、好きだよ。言える日が来るなんて思わなかった。すごく緊張するけど、好きって言えるのって、こんなに嬉しいんだね。桃真のおかげだね、ありがとう」
瞳の奥が熱くて、ごまかすように不格好なまばたきをする。
「希色……なあ、もしかして俺たちって恋人?」
「そう、だよね?」
「あー、やば……マジ夢みてぇ」
桃真は脱力して、オレの肩にぽすんと頭を乗せた。額を擦りつけてくるのが愛しくて、胸がきゅうと苦しくなる。繋いだままの手は、ゆっくりと指同士が絡んでいく。たまらなくて零れた息が、どことなく熱い。
「なんか、さ」
「んー?」
「桃真とはさ、前からその、手繋いだりとか、くっついたりとかしてたじゃん?」
「ん、そうだな」
「いつもドキドキしてたけど、今はもっとその、すごい」
「ん、分かる。希色のこと好きすぎて、触れてたくてああしてたんだけど」
「っ、そうだったんだ」
「はは、そう。子どもみたいな独占欲だよなあ。でもさ、両想いだって思ったら、全然違う感覚する」
「……うん」
好きすぎてとか、触れていたくてとか。ひとつひとつの言葉が倒れそうなくらい衝撃的だ。でもそれ以上に、今同じ気持ちなのだと分かったことが嬉しい。触れる意味が、拒まないでいる意味が、変わったんだ。友だちの関係に隠れてそうしていた行為が、恋人としてのものになった。
「希色、キャップ取ってもいい?」
「うん」
ゆっくりと顔を上げた桃真の手に、キャップが脱がされる。髪を丁寧に整えてくれて、額同士がコツンと合わさる。
「今日、顔出して来てくれたの嬉しかった」
「そ、っか」
「学校での希色も好きだけどな。どっちもっていうか、どんな希色も好きだから。でも店以外で、こうして顔出して会うの初めてじゃん? だから、ずっとドキドキしてた」
「……ん、オレも」
「希色……」
桃真の顔がもっと近づいてきて、頬と頬が重なった。すりすりと擦り合わせられるのが、恥ずかしいのに気持ちいい。
「あー……あんまくっついてるとやばいな」
「やばい?」
「……キス、したくなる」
「っ、キス……」
桃真のその言葉に、体中を血液が一気に駆け巡る感覚がした。そうか、恋人ってそういうことか。桃真を好きな気持ちでいっぱいいっぱいで、考えたこともなかったかもしれない。桃真とそういうことができたらきっと、いや絶対に幸せだ。
「はは、急に変なこと言ってごめんな」
「え、っと……しない、の?」
ドキドキしながらそう聞いてみたら、桃真は大きく目を見開いた。
「いや、したい! したいけど……希色のこと大事にしたいから、今日は、しない」
「そ、っか。でも、いつも大事にしてもらってるから、オレはいつでも……待ってます」
「っ、希色〜……かわいすぎるって。勘弁してください」
桃真はそう言って、頭を抱えてしまった。手の隙間から、染まった頬が見える。ああ、桃真への想いで胸が弾けそうだ。
「桃真もかわいいよ」
「いや、俺はかわいくないだろ」
「ううん、かわいい。あと、かっこいい。すごく」
「も、マジキャパオーバーだから……」
「ははっ」
かわいいという言葉を仕事以外で素直に受け入れられるのは、初めてな気がする。オレ自身も桃真をかわいいと感じているからだろう。このかわいいは、愛しいだ。それがよく分かる。桃真もそう感じてくれているのだと思うと、ただただ嬉しい。
「希色、好きだよ。すげー好き」
気持ちが落ち着いたのか、桃真が顔を上げてそう言った。
「っ、オレも大好き」
必死にオレもそう返す。ああ、いよいよ泣きそうだ。幸福が胸いっぱいで溢れたら、涙になるのか。初めての感覚に鼻をすすったら、オレの頬を両手で包んで桃真も同じように鼻をすすった。
「あーあ、帰りたくねえ」
「うん、オレも」
時計を見ると、もう22時も間近になっていた。さすがに遅すぎる。オレも桃真も分かっているのに、離れがたくて指先を絡ませ合っている。
「はは、嬉しい。……でも、さすがに帰らなきゃな」
「遅くなっちゃったもんね。おうちの人に怒られない?」
「ああ、それなら平気。俺ひとり暮らしだし」
「え……えっ、そうなの!?」
初めて知った事実に、こんな時間にも関わらず大きな声を出してしまった。慌てて両手で口を塞ぐ。
「高校入ってちょっとしてからな。小学校の頃に親が離婚して、父親と暮らしてたけど中3の時に再婚して。相手の人もいい人だけど、やっぱ気は使うじゃん。それで、ワガママ言って……家賃とかは出してもらってるけど、あんまり甘えたくないからバイトしてる。あ、ちなみに中3の途中からひとり暮らし始めるまでは、みど兄の家に住まわせてもらってた」
「そうだったんだ……」
全く知らなかった。でも言われてみると、納得がいくこともある。お弁当を持ってきているところは一度も見たことがないし、ずいぶんとたくさんバイトを詰めているなと思っていた。さっきの桃真と翠くんの会話も、合点がいく。
桃真はなんでもないことのように、肩をすくめながら教えてくれたけれど。オレには想像もつかないような、つらい思いをしたはずた。朝や夜はちゃんと食べているのかな。たくさんのことが気になる。
「そんな顔しなくて平気だからな。俺は気楽にやってるから」
でも、ほほ笑んだ桃真がオレの髪をぽんと撫でる。こんな時にでもオレを救ってしまうその心がどこまでもかっこよくて、だけどちょっと切ない。
「うん、分かった。あのさ、もしよかったら泊まってく? 本当にもう遅いし……あ、気を使ってるんじゃないよ? 桃真を大切にしたいだけ」
これは本心だ。桃真がそうやって前を向くのなら、オレは隣で支えたい。
「希色……ありがとな。でも今日は帰るよ。明日もバイトあるし」
「そっか……」
「でも、また今度誘ってくれたら嬉しい」
「っ、もちろん!」
「希色の家の人たちがよかったら、だけど」
「それは絶対平気だよ! すごく喜ぶと思う」
「はは、そうなんだ」
思いついた提案には、優しさが返ってきてしまった。オレが落ちこまないように、そうしてくれたのが分かる。今夜のところは、オレにできることはなさそうだけれど。今度は、ううん、この先ずっと。大切な人を、大切にしてくれる人を、包みこめるような男にオレもなりたい。
「じゃあ、またな」
「うん、また。おうちに着いたら連絡してね」
「はは、希色の過保護」
「だって心配だもん」
「ん、さんきゅ」
「うん……あ! ペンギンくん、ストラップにしてもらうの忘れてた……」
「あっ、うわマジだ……」
「話すことたくさんあって忘れてたね」
「だな。今度学校でやろ」
「うん、ありがとう」
少しずつ後ずさり始めた桃真に手を振る。ああ、もうさみしい。もう会いたい。まだ目の前に桃真はいるのに不思議だ。両想いは幸せだけれど、なんだかさみしさの輪郭も濃くしている気がする。
「希色! おやすみ!」
「おやすみー!」
大きく振ってくれる手に、オレも懸命に振り返す。もしも桃真も同じようにさみしいなら、少しでもそれがほどけるように。
「あ、帰りながらラインしていいー?」
「はは、うん!」
夜の道に、桃真が溶けていく。見えなくなってしまった、とため息をついたら、すぐにラインが送られてきた。さすが桃真だ。さっそく返事を返して、オレも家までの道を進む。
初めて友だちと夕飯を共にして、桃真と翠くんの関係を知って、それから――恋人になった。たくさんのことがあったから、今夜は眠れないかもしれない。だけどそれもいい。明日は今と繋がっていても、桃真がくれた今日の心に、まだまだ触れていたいから。



