昨日は人だかりから逃げ出した後、誰からも声をかけられることなく帰宅することができた。ひと息ついた後、M's modeを写真に収めて、感謝の文と共にインスタへ投稿した。“いいね”もフォロワーもコメントも確認する度に増えていて、ひとつひとつ読まずにはいられなかった。
それから、夕飯を食べながらも風呂に入っている時も、桃真が言ってくれた『応援してます』のひと言を何度も思い返した。「顔がにやけてるぞ」と兄ちゃんに頬をつつかれた時は、心底恥ずかしかった。そんな顔をしている自覚は全くなかった。それでもそんな恥ずかしさは、すぐにどうだってよくなった。昨日持ち帰ったコーヒーカップも、もちろん綺麗に洗って部屋に飾ってあるからだ。翠くんのことを想い、嫉妬すると桃真は言っていたけれど。応援していると言ってくれたことも本当だから、それを大事にしたいと思っている。
桃真のことを想ったり、インスタを見たり。なかなか寝つけずに迎えた朝だけど、球技大会だと思うとそわそわしていつもより早く家を出た。桃真が提案してくれた通り、体育の時間にたくさんパスの練習をしてきた。得点に貢献はできないかもしれない。それでも足を引っ張らず、どうにかやり切ってみたい。
ひとり小さく頷き、リュックの紐を両手できゅっと握って教室に入った。いつもよりなんだか騒がしいのは、クラスメイトたちも球技大会に気合が入っているのかもしれない。そう思ったのも束の間、なぜかたくさんの声たちがピタリと収まった。どうしたのだろうと首を傾げた時にはもう、全員の視線がすべてオレへと向けられていた。
「え……な、なに?」
状況はなにひとつ把握できないけど、オレの足は自ずと後ずさった。静まり返っていた声たちが、あちこちで密めきだす。なにかよくないことが起きている、それだけは分かる。
「桃真……」
助けを求めるように、口の中で桃真の声をつぶやいた。気が動転してすぐに気づけなかったけど、桃真は教室の真ん中で女子たちに囲まれていた。目が合った瞬間、
「希色!」
と大声でオレを呼んだ。床を蹴るようにして、こちらに向かってくる。
「桃真、あの……」
オレ、なにかしてしまったのかな。みんなの気を悪くさせるようなことを――怖いけど、確かめるしかない。桃真に尋ねようとした時、
「望月くん!」
と今度は女子の声がオレの名を呼んだ。
「うわっ。えっ、なっ、なに!?」
そしてそのまま、近くにいた女子たちに取り囲まれてしまった。桃真がそばに来るより早かった。
本当になにが起きているんだ? 察することすらできない。でもすぐに、状況を教えてくれる質問が飛んできた。
「ねえ。望月くんがモデルのKEYだって話、本当?」
「……っ!」
まさかの質問に、オレは思わず絶句した。なんでそれを? 絶望の奥底に突き落とされたみたいだ。視界がぐわんと揺れ、周りの音もどこか遠くなった感覚に襲われる。
「おいお前らやめろ!」
女子たちの向こうから、桃真が叫んでいる。でも誰ひとりとして、聞く耳を持たないみたいだ。いつもはあんなに、桃真と話す時は誰しもが嬉しそうなのに。
「私、昨日渋谷に行ったんだよね。走ってる子がいてKEYじゃんって見てたら、前髪下ろしてさ。望月くんにすごく似てた」
そう言ったのは、女子の野田さんだ。
「…………」
冷や水でも浴びたみたいに、血の気が引いていく。すぐに否定しなきゃと思うのに声が出ない。
昨日、顔を隠す前に周りをちゃんと確認したはずだ。追ってくる人はいないか、って。ああ、でもそうか。クラスメイトがいるかどうかなんて、考えもしなかった。
「マジだったらやばくない!? KEYと同じクラスとか!」
「私めっちゃファンなんだけど……やばい」
「てかさ、望月くんの顔見せてもらったら一発じゃない?」
「それだ!」
ひとりの女子が、さらに距離をつめてきた。驚く間もなく、前髪に手が伸びてくる。
「っ、やめ……」
まずい。咄嗟に後ずさろうとしたが、いつの間にか背後も囲まれていたことに気づく。どうしよう。KEYだと知られたくないのはもちろん、学校というこの場で顔を見られたくない。女みたいな顔、変なの――小学校の頃に浴びた嘲笑が、頭の中に響き渡る。
絶対に、絶対にいやだ。もうあんな気分は味わいたくない。両手で頭を抱え、下を向いて抵抗する。今か今かと身構える。でも手は触れてこない。その代わりにオレの耳に届いたのは、桃真の声だった。
「お前ら、マジでいい加減にしろよ」
恐る恐る顔を上げると、オレの前髪に触れようとした女子の手を、桃真が掴んでいた。鋭くとがった目が、女子を見下ろしている。でも、その女子も怯まない。
「なんで? ちょっと顔見るだけじゃん」
「希色の気持ちは無視か? 嫌がってんの、見れば分かんだろ」
「っ、それは……」
桃真のそのひと言で、女子は動揺したようだ。言葉が続かない様子に、桃真が手を離した。そしてその手が今度は、オレに伸びてくる。手首をそっと握られ、桃真の元へと引き寄せられる。
「希色、ちょっと教室出よう」
オレが頷いたのを確認して、扉のほうへ歩き出す。けれど教室を出る直前で、桃真は振り返った。
「今の話、変に噂とか広めんなよ。絶対に」
釘を刺して、今度こそ教室を出た。
「桃真……」
名前を呼ぶと、一心不乱にどこかへと進む桃真がこちらを見た。手首から手のひらへと手が移動してきて、大丈夫だとでも言うようにぎゅっと力がこめられる。それだけで本当にほっとできるから不思議だ。
廊下をぐんぐん歩いて、階段を上がって。ようやく桃真が足を止めたのは、屋上へ続く扉前の踊り場だった。振り返って、頭をぽんと撫でられる。
「平気か?」
「…………」
その問いに、オレは頷くことができない。高校在学中にKEYだとバレる想定を、全くしていなかった。隠し通せる自信があったからだ。桃真のおかげでさっきは助かったけれど、なにもなかった振りはできそうにない。
「希色はどうしたい?」
頭を抱えてうんうんと悩んでいると、桃真がそう尋ねてきた。本当に、どうしたらいいのだろう。この状況をどう収束させるべきか。できることなら隠し通したいけれど。
そこまで考えて、ふとあることが気になった。今の桃真の言葉には、違和感がある。
「桃真……どうしたい、って、どういう意味?」
望月希色はKEYなのではないか、との疑いをクラスメイトたちからかけられている。この状況をどうしたいか。そう尋ねてくる桃真はまるで、答えを知っているみたいだ。知っている上で、真実を伝えるか隠し通すかの選択を問われているように感じる。なにも知らないなら、実際はどうなのかと確認したり、朝から災難だったなと励ましたりするのが自然なのではないか。
「あー、それは……」
まさか、まさか――ロボットになってしまったかのように、ギギギと恐る恐る首をもたげる。そこには眉尻を下げ、そっとくちびるを噛む桃真の顔があった。
「俺は……最初から気づいてた。その……希色がKEYだって。声が、店で聞くKEYのと同じだったから」
「……え?」
「そんなつもりじゃなかったけど、だましてたのと同じだよな。ごめん」
「…………っ」
クラスメイトから突然、KEYじゃないのかと尋ねられた。それだけじゃなく、桃真はすでにオレの正体に気づいていた――なにを最優先に考えるべきなのだろう。頭が混乱する。
でもやっぱり、桃真に気づかれていた衝撃は大きい。しかも、最初からだなんて。教室でただただ友だちとして会話していた時も、素知らぬ顔でコーヒーショップで注文をしている時も――桃真の中ではオレとKEYがイコールで繋がっていた、ということになる。恥ずかしすぎる。消えてしまいたい。
「う、うわー……」
両手で顔を覆い、オレはへなへなとしゃがみこむ。すっかり力が抜けてしまって、そのまま床に尻をつけた。
「ちょ、希色? 大丈夫か?」
慌てた声でオレを気づかいながら、桃真も腰を下ろした。それから、そっと頭を撫でられる。ああ、桃真はまだそうしてくれるんだ――瞳がじわりと熱を持つ。
「……桃真、怒ってないの?」
「え? 怒る? 俺が?」
「うん。だって、だましてたのはどう見たってオレのほうじゃん」
桃真はさっきごめんと言ってくれたけど、謝ってもらうことなんかなにもない。それはずっと秘密を作ってきた、オレの台詞だ。友だちになろうと言ってくれて、ずっとそばにいてくれた唯一の人なのに。事実を隠し続けてきた。明かそうと思ったことも、正直なかった。
「だまされてんなって思ったことなんて、1回もないけど?」
「……でも、実際はそうでしょ」
「いや、マジでそんなことない。すぐに気づいたけど、隠してるんだろうなってのがなんとなく分かったから。ほら、希色のほうから店で会ってるって話も出なかったし。だから合わせてただけ」
「そんな……桃真は優しすぎる」
「はは、そんなことないって」
「あるよ」
「うーん、希色がそう言ってくれんなら、そういうことにしとくか」
「うん、そうしてください」
「はは。希色、おいで」
桃真は足を大きく開いて、膝を抱くオレをその間に収めた。背中を抱かれ、もう片手で髪を撫でられる。今まででいちばん、距離が近い。恥ずかしくて堪らないのに、この優しさを手放したくない。肩に額をすりつけると、更にぎゅっと抱きしめてくれた。
落ち着かせようとしてくれているのだろう。心地いいリズムで背中をトントンとたたいてくれる。暗闇にひとり放り投げだされたように心が冷えたから、桃真の体温が奥底まで染み渡る。
「……なんかさ」
「んー?」
ぼそっと小さくつぶやいた声を、桃真は丁寧に拾ってくれた。そのくらい、すぐそばにいるということだ。それが嬉しくて、甘えたくて、小声のまま続ける。
「クラスでバレかけてること、どうするかちゃんと考えなきゃいけないのにさ」
「うん」
「桃真に知られてた、ってのがすごい、恥ずかしくて……」
「恥ずかしい?」
「うん、だって……コーヒー買いに行ってる時、希色が来たなーって思ってたってことでしょ」
「まあ、そうだな」
「でもオレはバレてるなんて知らなくて、ただの客のフリしてたじゃん……」
「まあな。ああ、そう言えば……友だちになってから初めて希色が来た時、うっかり希色として接しないようにって緊張したな」
「そうなの? あ……たしかに桃真の様子がなんか違う気がして、オレなんかしたかなってちょっと悩んだの覚えてる。本当にオレのせいだったんじゃん……うう、ほんと消えたい……」
クラスでKEYの話をしたことも、ショップで「店員さんを応援してます」だなんて言ったこともある。KEYのインスタ投稿を楽しみにしていると桃真が言えば更新頻度が上がったし、望まれるままに自撮りもあげるようになった。桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを、宝ものだと言ったこともあった。
桃真にとってそれらは全て、ひとりのオレだったということだ。できることなら自ら穴を掘って、全力で隠れてしまいたい。
「希色がそうなんの、分からなくもないけど。俺はさ、嬉しかったよ」
「へ……嬉しい?」
意外な桃真の言葉に、オレはそろそろと顔を上げた。どこに喜んでもらえる要素があったのだろう。首を傾げるオレの頬を、桃真が両手で包む。
「だって俺、KEYのファンだし」
「……え?」
「そうじゃなくたって……希色のこと、好きだし」
「ひえっ」
今日はもう何回、驚いたんだっけ。ぐるぐると混乱する頭に手を突っこんで、さらに引っ掻き回されているみたいだ。分かっている、桃真はそんな意味で言っているわけじゃない。友だちとして好きだと言ってくれているんだ。それでも、そのワードは恋するオレの胸を甘く痛めてしまう。
この動揺を悟られてはいけない。もうひとつの桃真の言葉に意識を移す。KEYのファンだなんて、それこそまさかだ。
「いや、桃真は翠くんのファンじゃん!」
「あ、引っかかるのそっち?」
「レアなペンだって持ってるし、オレと翠くんの表紙見て、妬ける……って、言ってたじゃん。それ聞いてオレ、申し訳なくなって」
桃真に推されたいと思ってきたから、ファンだと言ってもらえるのは念願だ。でも、翠くんのファンだと重々分かっている。そんなお世辞みたいなこと、言わなくたっていいのに。
ジトリとした目をつい向ける。すると桃真は、なぜかきょとんとした顔をしていた。
「あー、妬けるってそう取るか。まあ、そりゃそうだよな」
「そう取るかって?」
「それは、俺は日比谷翠は……いや、説明するには複雑なんだよな」
「複雑?」
「……なあ希色、俺も隠してることがある」
「え?」
「秘密なら俺にもある、って前に言ったじゃん? 希色にサッカーボールが当たって、保健室行った時」
「あ……うん。そうだったね」
あの時のことならよく覚えている。友だちなのに顔を隠していることを謝ったら、桃真は言ってくれた。誰にだって秘密のひとつやふたつある、俺にもあるよ、と。
「そのことだけど……」
先ほどまでとは打って変わって、桃真が真剣な顔をする。桃真の秘密だなんて見当もつかず、オレはごくりと息を飲む。
「いや、やっぱそれはまた改めて言うわ」
「え!? そんな……すごい気になる」
「だよな。でもさ、さすがにそろそろ教室に戻らなきゃマズくね?」
「あ……」
「だからさ、そっちどうするか決めるのが先かなって。俺の話はちょっと長くなるし」
そうだった。クラスのみんなに今朝のことを説明しなきゃいけないのだった。重たい現実が帰ってきて、オレはがっくりと項垂れる。
「希色はどうしたい?」
改めて、桃真がそう尋ねてくる。
「できれば、本当のことは言いたくない。でも……それだとただ隠してた今までとは違って、嘘つくことになるんだよね」
あんな騒動になったのだ、顔を見せなければ事は収まらないように思える。でもそれはひどく怖い。自分の肩を抱くと、桃真もそこに手を添えてくれた。
「希色が隠し通したいなら、俺も共犯者になるよ。もしも言うなら、希色のことは俺が絶対に守る」
「桃真……」
桃真の言葉は、どうしてこんなにも心強いのだろう。ひとりじゃ到底できないだろうことも、できる気がしてくる。いや、きっとできる。震え始めた手を桃真が両手で包んでくれた。ひとつの決心に顔を上げる。
「桃真、オレ――」
教室の前に到着すると、急に足が竦んできた。呼吸が浅くなり、また手が震えだす。
「希色、深呼吸しろ。なあ、無理しなくてもいいと思うぞ」
桃真が背中に手を当ててくれた。さすってくれるリズムに合わせ、深呼吸をする。
「うん、ありがとう。でも、決めたから」
「そっか。俺は絶対に味方だからな」
「うん」
意を決して、教室に入る。クラスメイトたちの視線が余すことなく全員分、一気にオレに集まった。川合くんと佐々木くんが、オレたちのところへ駆け寄ってくる。
「土屋の言った通り、クラス以外のヤツには誰も言ってないよ」
「さんきゅ。助かる」
佐々木くんが伝えてくれた内容に、ひとまず安堵する。でも、やっぱり怖い。さっきは「決めたから」なんて言ったけど、どうしたって悪い結末ばかりが頭を支配している。でも今も桃真の手はオレの背中にあって、このまま進んでも後ずさっても、きっと支えていてくれる。そう信じられることが、確かに大きな力になっている。
「あ、あの、さっきのこと、ですけど……」
制服のシャツをぎゅっと握りこむ。
「野田さんの言った通り、です。オレは……KEYという名前で、モデルをしています」
屋上の前で桃真と話して、オレは真実を伝える決意をした。共犯者になる、とまで言ってくれた桃真と、前に進んでみたいと思った。
「ええっ!」
「マジ!?」
「ねえやばいんだけど!」
途端に教室中が色めき立った。耳をつんざくような、高く鋭い声があちこちから上がる。そばにいる川合くんと佐々木くんも、驚いているのが分かる。思わず跳ねた肩に手を添えてくれた桃真が、みんなを見渡して口を開いた。
「なあ、騒がないでやってくれ。頼む。希色、すげー勇気出して話してるから」
桃真のそのひと声で、本当に教室が静まり返った。桃真の人望があってこそだ。
「あ、あのー。顔見たいんだけど……」
声のボリュームは下げてくれたけど、ひとりの女子が手を挙げつつそう言った。ああ、きた。他の女子たちもそれに続いたり、頷いている。オレはごくりと息を飲む。
絶対にこういう流れになるだろうと踏んでいた。顔を出してこその仕事をしているのだ、当然だと思う。それでも――
「ご、ごめんなさい。それはしたくないです」
にじり寄ってきていた女子たちの足が止まる。つまんなそうなため息がどこからか聞こえてきた。でも、非難されることになってでも、心を守る最後の砦は、どうか残させてほしい。
「昔、顔のことで色々あって……仕事を通して素顔を知られていると分かっていても、学校で顔を出すのは、怖い、です。だから、ごめんなさい。あと……オレがKEYだってこと、このクラスだけの秘密にしてもらえませんか」
クラスの中が、ふたたびざわつき始める。なにを無茶なことを、と思われているのだろう。
「オレ、2年になってはじめて、学校が楽しくなりました。今日の球技大会も、スポーツ苦手なのに実は楽しみで……体育祭とか文化祭とかも、もしかしたら今年は楽しいのかもって。あ……もちろん、クラスのはじっこでいいんです。こんな前髪で気味悪いだろうし、そもそも存在感ないし。でもそれでもいいから、仕事のことは関係なく今までのオレのままで、ここにいたくて……ワガママ言ってるって分かってます。それでも……お願いします」
そこまで言って、オレは頭を下げた。ぎゅっと握りこんだ手のひらに、爪がギリギリと刺さる。聞き入れてもらえるかは、正直難しいと思っている。クラスにモデルをしているヤツがいる、しかもこんな根暗なヤツが……だなんて、恰好の話のネタになるだろうから。
クラスメイトからは、なんの返事もない。やはりダメか。諦めかけた時、桃真がオレの横に立った。
「俺からも頼む。希色の望み、聞いてやってほしい。お願いします」
あろうことか、桃真まで頭を下げた。オレのためにそんなこと、しなくていいのに。咄嗟に止めようとしたけれど、桃真は勝ち気な笑顔でこちらを見ていた。そしてオレの手をぎゅっと握ってくる。泣きそうになって、慌ててくちびるを噛む。すると今度は、なんと川合くんと佐々木くんも桃真に続いた。
「俺からも。望月、ほんといいヤツなんだよ。頼む」
「俺も! 望月、すげー頑張って今こうしてるんだと思う。お願いします!」
ふたりの姿に、オレの涙腺はいよいよ決壊してしまった。
ああ、もうこれで十分なのかもしれない。もしも学校中にバレて騒ぎになっても、この3人がいてくれるのだから、それだけで。
教室の床にぽとりと落ちた涙を見ながらそう思った時、視界にひとりの足が映った。
「望月くん、顔、上げて?」
野田さんだ。ゆっくりと顔を上げると、彼女は申し訳なさそうな顔をして俯きがちに立っていた。
「ごめんなさい。昨日望月くんを見かけたからって、騒いじゃって。KEYだってこと、本当は内緒にしておくはずだったんだよね?」
「それは……」
「償いにもならないかもしれないけど、私もう言わないよ。誰にも。信じられないかもしれないけど、約束する」
「野田さん……」
野田さんは野田さんで、こうなったことを悔やんでいるのかもしれない。もっと軽い気持ちで、単に「KEYなの?」と聞いてみただけだったのだろう。気負わせてしまったと申し訳なくすら思っていると、野田さんと仲のいい女子たちが彼女の腕に勢いよく手を絡めた。
「私も! ぜーったいに言わない!」
「私もー! みんなもそうだよね?」
その問いかけを皮切りに、教室のあちこちから肯定する声が上がりはじめた。
「言わなーい」
「お前ら裏切んなよー!」
「俺の口の固さ舐めんな?」
「なんつうかちょっとワクワクするよな、みんなで秘密ってのも」
「それな。団結、みたいな?」
「分かる」
広がる光景に、オレは目を疑った。まさかこんな展開になるなんて、想像もしていなかった。
「なんで……」
と呆然としていると、野田さんが改めて俺を振り返った。
「なんでって、望月くんがこのクラスの仲間だからでしょ」
「っ、仲間?」
「望月くんさっきさ、クラスのはじっこでいいからって言ってたけど。そんなさみしいこと言わないで。……ううん、そう思わせてたんだよね。ごめん。でも、みんな一緒じゃん? 少なくとも私はそう思う」
「野田さん……」
話していると、今度は男子たちも目の前にやってきた。
「なんつうか、望月はあんまり人と話したくないんだと思ってた。そのせいではじっこで、とか思ったんだったらごめんな。球技大会の練習頑張ってたのとか、知ってるよ」
「そ、そんな! ごめんだなんて……ありがとう、ございます」
「敬語とかナシナシ! こっちこそごめんとか要らんて! な?」
「賛成〜」
小学校の頃のような思いはしたくないと、前髪を盾に自ら殻に閉じこもった。ひとりでいいと思っていたからだ。でもそうか、そのせいで気を使わせてしまっていたのか。こんなに気のいい人たちに。
「なんか今日の球技大会、めちゃめちゃ気合入ってきたわ!」
スポーツの得意なひとりの男子がそう叫んだ。私も俺もと、共感の輪がみんなへ広がっていく。涙で潤む視界でそれを見つめていると、
「希色、よかったな」
と桃真が肩に腕を回してきた。振り返って桃真と川合くん、佐々木くんの顔を見たら、ああ、もっと泣けてしまう。
「川合くん、佐々木くん。あの、友だち、なのに……今まで黙っててごめんなさい。さっきはありがとう」
「ごめんは知らん、ありがとうだけ受け取っとく」
「俺も俺もー。まあびっくりはしたけど、望月は望月だもんな」
ふたりの手が伸びてきて、オレの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「おいお前ら、希色に勝手に触んな」
桃真が不機嫌そうな声で抗議しながら、鳥の巣みたいになったオレの髪を整える。
「だーから、土屋は望月のなんなんだよ」
「うっせ」
「はは」
4人でのこういう時間が、またやってきて本当によかった。懐の深い川合くんと佐々木くんへの感謝と、桃真の存在の大きさに胸をいっぱいにしていると。
「あ、そうだ望月くん」
と、野田さんがふたたび声をかけてきた。
「さっきさ、存在感がないって言ってたじゃん?」
「あ……はい。じゃなかった、うん」
「全然そんなことないよ」
「え?」
それは一体、どういう意味だろうか。首を傾げると、野田さんの視線が桃真へと移る。
「むしろこの学年では有名なほうじゃない? みんな知ってるよ。あの土屋とめっちゃ仲いいヤツがいるーって」
「え……え!?」
野田さんの言葉に、あんぐりと開いた口がふさがらない。そのまま振り返ると、桃真がにやりと笑ってみせた。
「あの土屋、ってなんだろうな。ひどくね?」
「土屋が望月以外にはドライだからだろー」
「それそれ。他の人には来るもの拒まず、去るもの追わずなのにな。望月は特別だから」
ドライだとか受け身だとか、ふたりが桃真をそう評するのは前にも聞いたことがある。未だにオレはいまいちしっくりきていない。でも当の桃真は、むしろ嬉しそうに笑っている。
「桃真ってそんなにドライかな?」
「自覚はあるよ、希色以外にはな。それよりさ、野田がさっき言ってたの、ちょっと違うよな」
「さっきって?」
「オレと希色がめっちゃ仲いいってヤツ」
「え……」
あれ、やっぱり仲よくないのかな。思わず息を飲むと、桃真がオレの耳元に顔を近づけてきた。そして、
「めっちゃっていうか、いちばん、だよな?」
なんてささやくから。ポンと音を立てたんじゃないかと思うくらい、顔が熱くなった。だって、いちばんだなんて嬉しすぎる。いちばんの推しにはなれなくても、それがなによりなのではないか。
「おーい、そこのおふたりさーん。なんか邪魔して悪いけどさ、円陣組んでまーす」
男子の声に振り返ると、一箇所にクラス全員が集まっていた。いつの間にか、川合くんと佐々木くんもそっちに立っている。
「いこ、希色」
桃真が手を差し出してくる。今、オレの視界にはこのクラスのすべてが映っている。どうにも今日は涙腺が緩みっぱなしみたいで、鼻をすすって桃真の手を取る。
「よし、全員揃ったな! じゃあ、2年6組! 今日の球技大会、優勝するぞー!」
「おー!」
大きな歓声が教室中に響き渡る。その一員になれたことが、奇跡みたいに嬉しい。今朝の一件がなかったら、これほど高ぶる思いはきっとなかった。絶望を感じるほどだったけれど、結果オーライ、というやつだろうか。
放課後になった。球技大会の結果は、総合優勝は3年生のクラスとなったけれど。2年生の中では見事トップになることができた。オレ自身も他のメンバーと交代で出場しつつ、桃真にすぐパスを出すという仕事をどうにか果たせたつもりだ。多分。ただただ、心の底から楽しかった。充実感でなんだかお腹も空かなくて、弁当のから揚げは桃真に食べてもらった。川合くんが「腹減らないとか嘘だろ……」とショックを受けた顔をしていたのがちょっと面白かった。佐々木くんいわく、“うちのクラスに現役モデルがいた件!”なんて投稿がSNSに上がっている、ということも現時点でないそうだ。みんなの優しさが本当にありがたい。
「桃真、そろそろ帰る?」
「んー、待って。今ちょっとメッセージ送ってるところ」
「わかった」
球技大会の興奮が教室にも自分自身にも残っているのを感じつつ、ぼんやりと隣の席の桃真を眺める。そこで、ふと気がついた。桃真のスマートフォンに、昨日コーヒーショップで渡したペンギンくんがぶら下がっている。
「えっ、桃真?」
「んー?」
「こ、これ! なんで!?」
「あー、ペンギンくん? なんでって、昨日希色に貰ったヤツだけど」
「そ、それは分かってる、けど!」
オレがKEYだと桃真は最初から気づいていた。その事実にまだちっとも慣れなくて、こんな会話だけでも心臓が跳ね上がる。けれど今は、他にも気になることが目の前にある。
「キーホルダーなのに、ストラップになってる!」
カプセルトイの景品は、全てキーホルダーだ。それなのに桃真のペンギンくんにはストラップの紐がついていて、ゆらゆらとスマートフォンの下で揺れている。すごくうらやましい。
「ああ、バイトの帰りにパーツ買って改造した。いつも近くに持ってたくて、それならスマホにつけるのがいいかなって」
「っ、それって難しい? オレにもできるかな」
「できるできる。てかパーツ余ってるから俺がやるよ。ペンギンくん今持ってる?」
「家に置いてきちゃった……」
「そっか。じゃあ……」
スマートフォンをポケットにしまい腰を上げた桃真が、オレの手を取った。促されるままに立ち上がると、こてんと首を傾げて尋ねてくる。
「明日って仕事ある?」
「ううん、一日オフだよ」
「明日の夕飯、一緒にファミレスでも行かねえ? バイト夕方に終わるから、その後」
「桃真とファミレス? っ、うん、行く。行きたい!」
「よし、決まりな。ペンギンくん持ってきて。簡単だからそん時やろ」
「桃真……ありがとう!」
興奮気味に返事をするオレに、机に置いていたリュックを桃真が背負わせてくれる。なんだか子守をされているようで癪だけれど、そうしてもらわなければリュックなんか忘れて帰ったかもしれない。友だちと、桃真と外で食事をするなんて初めてで、体中がドキドキしている。
教室を出て、階段を下りて。靴に履き替えたところで、桃真のスマートフォンがメッセージを受信した。それを確認した桃真が、こちらを振り返る。
「希色」
「なに?」
「あのさ、隠してることがある、って。今朝言ったじゃん?」
「あ……うん」
「それ、明日ちゃんと言うから」
「桃真……」
部活へ向かう人や、放課後どこへ遊びに行くかと浮足立っている人たち。昇降口はそんな生徒たちで騒がしいのに、喧騒が一気に遠のいた。今この瞬間、桃真ひとりだけにオレの意識は集中する。明日はこの話をするのがメインなのだろう。
「……ん、分かった」
「うん。じゃあ帰るか」
外へと出て、駅までの道を共に帰る。秘密を明かす、と宣言されるのはなんだかこちらまで緊張するけれど。桃真だから大丈夫だ、怖くなんかない。まっすぐにそう思えることも、オレにとっては新しい心だ。
それから、夕飯を食べながらも風呂に入っている時も、桃真が言ってくれた『応援してます』のひと言を何度も思い返した。「顔がにやけてるぞ」と兄ちゃんに頬をつつかれた時は、心底恥ずかしかった。そんな顔をしている自覚は全くなかった。それでもそんな恥ずかしさは、すぐにどうだってよくなった。昨日持ち帰ったコーヒーカップも、もちろん綺麗に洗って部屋に飾ってあるからだ。翠くんのことを想い、嫉妬すると桃真は言っていたけれど。応援していると言ってくれたことも本当だから、それを大事にしたいと思っている。
桃真のことを想ったり、インスタを見たり。なかなか寝つけずに迎えた朝だけど、球技大会だと思うとそわそわしていつもより早く家を出た。桃真が提案してくれた通り、体育の時間にたくさんパスの練習をしてきた。得点に貢献はできないかもしれない。それでも足を引っ張らず、どうにかやり切ってみたい。
ひとり小さく頷き、リュックの紐を両手できゅっと握って教室に入った。いつもよりなんだか騒がしいのは、クラスメイトたちも球技大会に気合が入っているのかもしれない。そう思ったのも束の間、なぜかたくさんの声たちがピタリと収まった。どうしたのだろうと首を傾げた時にはもう、全員の視線がすべてオレへと向けられていた。
「え……な、なに?」
状況はなにひとつ把握できないけど、オレの足は自ずと後ずさった。静まり返っていた声たちが、あちこちで密めきだす。なにかよくないことが起きている、それだけは分かる。
「桃真……」
助けを求めるように、口の中で桃真の声をつぶやいた。気が動転してすぐに気づけなかったけど、桃真は教室の真ん中で女子たちに囲まれていた。目が合った瞬間、
「希色!」
と大声でオレを呼んだ。床を蹴るようにして、こちらに向かってくる。
「桃真、あの……」
オレ、なにかしてしまったのかな。みんなの気を悪くさせるようなことを――怖いけど、確かめるしかない。桃真に尋ねようとした時、
「望月くん!」
と今度は女子の声がオレの名を呼んだ。
「うわっ。えっ、なっ、なに!?」
そしてそのまま、近くにいた女子たちに取り囲まれてしまった。桃真がそばに来るより早かった。
本当になにが起きているんだ? 察することすらできない。でもすぐに、状況を教えてくれる質問が飛んできた。
「ねえ。望月くんがモデルのKEYだって話、本当?」
「……っ!」
まさかの質問に、オレは思わず絶句した。なんでそれを? 絶望の奥底に突き落とされたみたいだ。視界がぐわんと揺れ、周りの音もどこか遠くなった感覚に襲われる。
「おいお前らやめろ!」
女子たちの向こうから、桃真が叫んでいる。でも誰ひとりとして、聞く耳を持たないみたいだ。いつもはあんなに、桃真と話す時は誰しもが嬉しそうなのに。
「私、昨日渋谷に行ったんだよね。走ってる子がいてKEYじゃんって見てたら、前髪下ろしてさ。望月くんにすごく似てた」
そう言ったのは、女子の野田さんだ。
「…………」
冷や水でも浴びたみたいに、血の気が引いていく。すぐに否定しなきゃと思うのに声が出ない。
昨日、顔を隠す前に周りをちゃんと確認したはずだ。追ってくる人はいないか、って。ああ、でもそうか。クラスメイトがいるかどうかなんて、考えもしなかった。
「マジだったらやばくない!? KEYと同じクラスとか!」
「私めっちゃファンなんだけど……やばい」
「てかさ、望月くんの顔見せてもらったら一発じゃない?」
「それだ!」
ひとりの女子が、さらに距離をつめてきた。驚く間もなく、前髪に手が伸びてくる。
「っ、やめ……」
まずい。咄嗟に後ずさろうとしたが、いつの間にか背後も囲まれていたことに気づく。どうしよう。KEYだと知られたくないのはもちろん、学校というこの場で顔を見られたくない。女みたいな顔、変なの――小学校の頃に浴びた嘲笑が、頭の中に響き渡る。
絶対に、絶対にいやだ。もうあんな気分は味わいたくない。両手で頭を抱え、下を向いて抵抗する。今か今かと身構える。でも手は触れてこない。その代わりにオレの耳に届いたのは、桃真の声だった。
「お前ら、マジでいい加減にしろよ」
恐る恐る顔を上げると、オレの前髪に触れようとした女子の手を、桃真が掴んでいた。鋭くとがった目が、女子を見下ろしている。でも、その女子も怯まない。
「なんで? ちょっと顔見るだけじゃん」
「希色の気持ちは無視か? 嫌がってんの、見れば分かんだろ」
「っ、それは……」
桃真のそのひと言で、女子は動揺したようだ。言葉が続かない様子に、桃真が手を離した。そしてその手が今度は、オレに伸びてくる。手首をそっと握られ、桃真の元へと引き寄せられる。
「希色、ちょっと教室出よう」
オレが頷いたのを確認して、扉のほうへ歩き出す。けれど教室を出る直前で、桃真は振り返った。
「今の話、変に噂とか広めんなよ。絶対に」
釘を刺して、今度こそ教室を出た。
「桃真……」
名前を呼ぶと、一心不乱にどこかへと進む桃真がこちらを見た。手首から手のひらへと手が移動してきて、大丈夫だとでも言うようにぎゅっと力がこめられる。それだけで本当にほっとできるから不思議だ。
廊下をぐんぐん歩いて、階段を上がって。ようやく桃真が足を止めたのは、屋上へ続く扉前の踊り場だった。振り返って、頭をぽんと撫でられる。
「平気か?」
「…………」
その問いに、オレは頷くことができない。高校在学中にKEYだとバレる想定を、全くしていなかった。隠し通せる自信があったからだ。桃真のおかげでさっきは助かったけれど、なにもなかった振りはできそうにない。
「希色はどうしたい?」
頭を抱えてうんうんと悩んでいると、桃真がそう尋ねてきた。本当に、どうしたらいいのだろう。この状況をどう収束させるべきか。できることなら隠し通したいけれど。
そこまで考えて、ふとあることが気になった。今の桃真の言葉には、違和感がある。
「桃真……どうしたい、って、どういう意味?」
望月希色はKEYなのではないか、との疑いをクラスメイトたちからかけられている。この状況をどうしたいか。そう尋ねてくる桃真はまるで、答えを知っているみたいだ。知っている上で、真実を伝えるか隠し通すかの選択を問われているように感じる。なにも知らないなら、実際はどうなのかと確認したり、朝から災難だったなと励ましたりするのが自然なのではないか。
「あー、それは……」
まさか、まさか――ロボットになってしまったかのように、ギギギと恐る恐る首をもたげる。そこには眉尻を下げ、そっとくちびるを噛む桃真の顔があった。
「俺は……最初から気づいてた。その……希色がKEYだって。声が、店で聞くKEYのと同じだったから」
「……え?」
「そんなつもりじゃなかったけど、だましてたのと同じだよな。ごめん」
「…………っ」
クラスメイトから突然、KEYじゃないのかと尋ねられた。それだけじゃなく、桃真はすでにオレの正体に気づいていた――なにを最優先に考えるべきなのだろう。頭が混乱する。
でもやっぱり、桃真に気づかれていた衝撃は大きい。しかも、最初からだなんて。教室でただただ友だちとして会話していた時も、素知らぬ顔でコーヒーショップで注文をしている時も――桃真の中ではオレとKEYがイコールで繋がっていた、ということになる。恥ずかしすぎる。消えてしまいたい。
「う、うわー……」
両手で顔を覆い、オレはへなへなとしゃがみこむ。すっかり力が抜けてしまって、そのまま床に尻をつけた。
「ちょ、希色? 大丈夫か?」
慌てた声でオレを気づかいながら、桃真も腰を下ろした。それから、そっと頭を撫でられる。ああ、桃真はまだそうしてくれるんだ――瞳がじわりと熱を持つ。
「……桃真、怒ってないの?」
「え? 怒る? 俺が?」
「うん。だって、だましてたのはどう見たってオレのほうじゃん」
桃真はさっきごめんと言ってくれたけど、謝ってもらうことなんかなにもない。それはずっと秘密を作ってきた、オレの台詞だ。友だちになろうと言ってくれて、ずっとそばにいてくれた唯一の人なのに。事実を隠し続けてきた。明かそうと思ったことも、正直なかった。
「だまされてんなって思ったことなんて、1回もないけど?」
「……でも、実際はそうでしょ」
「いや、マジでそんなことない。すぐに気づいたけど、隠してるんだろうなってのがなんとなく分かったから。ほら、希色のほうから店で会ってるって話も出なかったし。だから合わせてただけ」
「そんな……桃真は優しすぎる」
「はは、そんなことないって」
「あるよ」
「うーん、希色がそう言ってくれんなら、そういうことにしとくか」
「うん、そうしてください」
「はは。希色、おいで」
桃真は足を大きく開いて、膝を抱くオレをその間に収めた。背中を抱かれ、もう片手で髪を撫でられる。今まででいちばん、距離が近い。恥ずかしくて堪らないのに、この優しさを手放したくない。肩に額をすりつけると、更にぎゅっと抱きしめてくれた。
落ち着かせようとしてくれているのだろう。心地いいリズムで背中をトントンとたたいてくれる。暗闇にひとり放り投げだされたように心が冷えたから、桃真の体温が奥底まで染み渡る。
「……なんかさ」
「んー?」
ぼそっと小さくつぶやいた声を、桃真は丁寧に拾ってくれた。そのくらい、すぐそばにいるということだ。それが嬉しくて、甘えたくて、小声のまま続ける。
「クラスでバレかけてること、どうするかちゃんと考えなきゃいけないのにさ」
「うん」
「桃真に知られてた、ってのがすごい、恥ずかしくて……」
「恥ずかしい?」
「うん、だって……コーヒー買いに行ってる時、希色が来たなーって思ってたってことでしょ」
「まあ、そうだな」
「でもオレはバレてるなんて知らなくて、ただの客のフリしてたじゃん……」
「まあな。ああ、そう言えば……友だちになってから初めて希色が来た時、うっかり希色として接しないようにって緊張したな」
「そうなの? あ……たしかに桃真の様子がなんか違う気がして、オレなんかしたかなってちょっと悩んだの覚えてる。本当にオレのせいだったんじゃん……うう、ほんと消えたい……」
クラスでKEYの話をしたことも、ショップで「店員さんを応援してます」だなんて言ったこともある。KEYのインスタ投稿を楽しみにしていると桃真が言えば更新頻度が上がったし、望まれるままに自撮りもあげるようになった。桃真がペンギンくんを描いてくれたカップを、宝ものだと言ったこともあった。
桃真にとってそれらは全て、ひとりのオレだったということだ。できることなら自ら穴を掘って、全力で隠れてしまいたい。
「希色がそうなんの、分からなくもないけど。俺はさ、嬉しかったよ」
「へ……嬉しい?」
意外な桃真の言葉に、オレはそろそろと顔を上げた。どこに喜んでもらえる要素があったのだろう。首を傾げるオレの頬を、桃真が両手で包む。
「だって俺、KEYのファンだし」
「……え?」
「そうじゃなくたって……希色のこと、好きだし」
「ひえっ」
今日はもう何回、驚いたんだっけ。ぐるぐると混乱する頭に手を突っこんで、さらに引っ掻き回されているみたいだ。分かっている、桃真はそんな意味で言っているわけじゃない。友だちとして好きだと言ってくれているんだ。それでも、そのワードは恋するオレの胸を甘く痛めてしまう。
この動揺を悟られてはいけない。もうひとつの桃真の言葉に意識を移す。KEYのファンだなんて、それこそまさかだ。
「いや、桃真は翠くんのファンじゃん!」
「あ、引っかかるのそっち?」
「レアなペンだって持ってるし、オレと翠くんの表紙見て、妬ける……って、言ってたじゃん。それ聞いてオレ、申し訳なくなって」
桃真に推されたいと思ってきたから、ファンだと言ってもらえるのは念願だ。でも、翠くんのファンだと重々分かっている。そんなお世辞みたいなこと、言わなくたっていいのに。
ジトリとした目をつい向ける。すると桃真は、なぜかきょとんとした顔をしていた。
「あー、妬けるってそう取るか。まあ、そりゃそうだよな」
「そう取るかって?」
「それは、俺は日比谷翠は……いや、説明するには複雑なんだよな」
「複雑?」
「……なあ希色、俺も隠してることがある」
「え?」
「秘密なら俺にもある、って前に言ったじゃん? 希色にサッカーボールが当たって、保健室行った時」
「あ……うん。そうだったね」
あの時のことならよく覚えている。友だちなのに顔を隠していることを謝ったら、桃真は言ってくれた。誰にだって秘密のひとつやふたつある、俺にもあるよ、と。
「そのことだけど……」
先ほどまでとは打って変わって、桃真が真剣な顔をする。桃真の秘密だなんて見当もつかず、オレはごくりと息を飲む。
「いや、やっぱそれはまた改めて言うわ」
「え!? そんな……すごい気になる」
「だよな。でもさ、さすがにそろそろ教室に戻らなきゃマズくね?」
「あ……」
「だからさ、そっちどうするか決めるのが先かなって。俺の話はちょっと長くなるし」
そうだった。クラスのみんなに今朝のことを説明しなきゃいけないのだった。重たい現実が帰ってきて、オレはがっくりと項垂れる。
「希色はどうしたい?」
改めて、桃真がそう尋ねてくる。
「できれば、本当のことは言いたくない。でも……それだとただ隠してた今までとは違って、嘘つくことになるんだよね」
あんな騒動になったのだ、顔を見せなければ事は収まらないように思える。でもそれはひどく怖い。自分の肩を抱くと、桃真もそこに手を添えてくれた。
「希色が隠し通したいなら、俺も共犯者になるよ。もしも言うなら、希色のことは俺が絶対に守る」
「桃真……」
桃真の言葉は、どうしてこんなにも心強いのだろう。ひとりじゃ到底できないだろうことも、できる気がしてくる。いや、きっとできる。震え始めた手を桃真が両手で包んでくれた。ひとつの決心に顔を上げる。
「桃真、オレ――」
教室の前に到着すると、急に足が竦んできた。呼吸が浅くなり、また手が震えだす。
「希色、深呼吸しろ。なあ、無理しなくてもいいと思うぞ」
桃真が背中に手を当ててくれた。さすってくれるリズムに合わせ、深呼吸をする。
「うん、ありがとう。でも、決めたから」
「そっか。俺は絶対に味方だからな」
「うん」
意を決して、教室に入る。クラスメイトたちの視線が余すことなく全員分、一気にオレに集まった。川合くんと佐々木くんが、オレたちのところへ駆け寄ってくる。
「土屋の言った通り、クラス以外のヤツには誰も言ってないよ」
「さんきゅ。助かる」
佐々木くんが伝えてくれた内容に、ひとまず安堵する。でも、やっぱり怖い。さっきは「決めたから」なんて言ったけど、どうしたって悪い結末ばかりが頭を支配している。でも今も桃真の手はオレの背中にあって、このまま進んでも後ずさっても、きっと支えていてくれる。そう信じられることが、確かに大きな力になっている。
「あ、あの、さっきのこと、ですけど……」
制服のシャツをぎゅっと握りこむ。
「野田さんの言った通り、です。オレは……KEYという名前で、モデルをしています」
屋上の前で桃真と話して、オレは真実を伝える決意をした。共犯者になる、とまで言ってくれた桃真と、前に進んでみたいと思った。
「ええっ!」
「マジ!?」
「ねえやばいんだけど!」
途端に教室中が色めき立った。耳をつんざくような、高く鋭い声があちこちから上がる。そばにいる川合くんと佐々木くんも、驚いているのが分かる。思わず跳ねた肩に手を添えてくれた桃真が、みんなを見渡して口を開いた。
「なあ、騒がないでやってくれ。頼む。希色、すげー勇気出して話してるから」
桃真のそのひと声で、本当に教室が静まり返った。桃真の人望があってこそだ。
「あ、あのー。顔見たいんだけど……」
声のボリュームは下げてくれたけど、ひとりの女子が手を挙げつつそう言った。ああ、きた。他の女子たちもそれに続いたり、頷いている。オレはごくりと息を飲む。
絶対にこういう流れになるだろうと踏んでいた。顔を出してこその仕事をしているのだ、当然だと思う。それでも――
「ご、ごめんなさい。それはしたくないです」
にじり寄ってきていた女子たちの足が止まる。つまんなそうなため息がどこからか聞こえてきた。でも、非難されることになってでも、心を守る最後の砦は、どうか残させてほしい。
「昔、顔のことで色々あって……仕事を通して素顔を知られていると分かっていても、学校で顔を出すのは、怖い、です。だから、ごめんなさい。あと……オレがKEYだってこと、このクラスだけの秘密にしてもらえませんか」
クラスの中が、ふたたびざわつき始める。なにを無茶なことを、と思われているのだろう。
「オレ、2年になってはじめて、学校が楽しくなりました。今日の球技大会も、スポーツ苦手なのに実は楽しみで……体育祭とか文化祭とかも、もしかしたら今年は楽しいのかもって。あ……もちろん、クラスのはじっこでいいんです。こんな前髪で気味悪いだろうし、そもそも存在感ないし。でもそれでもいいから、仕事のことは関係なく今までのオレのままで、ここにいたくて……ワガママ言ってるって分かってます。それでも……お願いします」
そこまで言って、オレは頭を下げた。ぎゅっと握りこんだ手のひらに、爪がギリギリと刺さる。聞き入れてもらえるかは、正直難しいと思っている。クラスにモデルをしているヤツがいる、しかもこんな根暗なヤツが……だなんて、恰好の話のネタになるだろうから。
クラスメイトからは、なんの返事もない。やはりダメか。諦めかけた時、桃真がオレの横に立った。
「俺からも頼む。希色の望み、聞いてやってほしい。お願いします」
あろうことか、桃真まで頭を下げた。オレのためにそんなこと、しなくていいのに。咄嗟に止めようとしたけれど、桃真は勝ち気な笑顔でこちらを見ていた。そしてオレの手をぎゅっと握ってくる。泣きそうになって、慌ててくちびるを噛む。すると今度は、なんと川合くんと佐々木くんも桃真に続いた。
「俺からも。望月、ほんといいヤツなんだよ。頼む」
「俺も! 望月、すげー頑張って今こうしてるんだと思う。お願いします!」
ふたりの姿に、オレの涙腺はいよいよ決壊してしまった。
ああ、もうこれで十分なのかもしれない。もしも学校中にバレて騒ぎになっても、この3人がいてくれるのだから、それだけで。
教室の床にぽとりと落ちた涙を見ながらそう思った時、視界にひとりの足が映った。
「望月くん、顔、上げて?」
野田さんだ。ゆっくりと顔を上げると、彼女は申し訳なさそうな顔をして俯きがちに立っていた。
「ごめんなさい。昨日望月くんを見かけたからって、騒いじゃって。KEYだってこと、本当は内緒にしておくはずだったんだよね?」
「それは……」
「償いにもならないかもしれないけど、私もう言わないよ。誰にも。信じられないかもしれないけど、約束する」
「野田さん……」
野田さんは野田さんで、こうなったことを悔やんでいるのかもしれない。もっと軽い気持ちで、単に「KEYなの?」と聞いてみただけだったのだろう。気負わせてしまったと申し訳なくすら思っていると、野田さんと仲のいい女子たちが彼女の腕に勢いよく手を絡めた。
「私も! ぜーったいに言わない!」
「私もー! みんなもそうだよね?」
その問いかけを皮切りに、教室のあちこちから肯定する声が上がりはじめた。
「言わなーい」
「お前ら裏切んなよー!」
「俺の口の固さ舐めんな?」
「なんつうかちょっとワクワクするよな、みんなで秘密ってのも」
「それな。団結、みたいな?」
「分かる」
広がる光景に、オレは目を疑った。まさかこんな展開になるなんて、想像もしていなかった。
「なんで……」
と呆然としていると、野田さんが改めて俺を振り返った。
「なんでって、望月くんがこのクラスの仲間だからでしょ」
「っ、仲間?」
「望月くんさっきさ、クラスのはじっこでいいからって言ってたけど。そんなさみしいこと言わないで。……ううん、そう思わせてたんだよね。ごめん。でも、みんな一緒じゃん? 少なくとも私はそう思う」
「野田さん……」
話していると、今度は男子たちも目の前にやってきた。
「なんつうか、望月はあんまり人と話したくないんだと思ってた。そのせいではじっこで、とか思ったんだったらごめんな。球技大会の練習頑張ってたのとか、知ってるよ」
「そ、そんな! ごめんだなんて……ありがとう、ございます」
「敬語とかナシナシ! こっちこそごめんとか要らんて! な?」
「賛成〜」
小学校の頃のような思いはしたくないと、前髪を盾に自ら殻に閉じこもった。ひとりでいいと思っていたからだ。でもそうか、そのせいで気を使わせてしまっていたのか。こんなに気のいい人たちに。
「なんか今日の球技大会、めちゃめちゃ気合入ってきたわ!」
スポーツの得意なひとりの男子がそう叫んだ。私も俺もと、共感の輪がみんなへ広がっていく。涙で潤む視界でそれを見つめていると、
「希色、よかったな」
と桃真が肩に腕を回してきた。振り返って桃真と川合くん、佐々木くんの顔を見たら、ああ、もっと泣けてしまう。
「川合くん、佐々木くん。あの、友だち、なのに……今まで黙っててごめんなさい。さっきはありがとう」
「ごめんは知らん、ありがとうだけ受け取っとく」
「俺も俺もー。まあびっくりはしたけど、望月は望月だもんな」
ふたりの手が伸びてきて、オレの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「おいお前ら、希色に勝手に触んな」
桃真が不機嫌そうな声で抗議しながら、鳥の巣みたいになったオレの髪を整える。
「だーから、土屋は望月のなんなんだよ」
「うっせ」
「はは」
4人でのこういう時間が、またやってきて本当によかった。懐の深い川合くんと佐々木くんへの感謝と、桃真の存在の大きさに胸をいっぱいにしていると。
「あ、そうだ望月くん」
と、野田さんがふたたび声をかけてきた。
「さっきさ、存在感がないって言ってたじゃん?」
「あ……はい。じゃなかった、うん」
「全然そんなことないよ」
「え?」
それは一体、どういう意味だろうか。首を傾げると、野田さんの視線が桃真へと移る。
「むしろこの学年では有名なほうじゃない? みんな知ってるよ。あの土屋とめっちゃ仲いいヤツがいるーって」
「え……え!?」
野田さんの言葉に、あんぐりと開いた口がふさがらない。そのまま振り返ると、桃真がにやりと笑ってみせた。
「あの土屋、ってなんだろうな。ひどくね?」
「土屋が望月以外にはドライだからだろー」
「それそれ。他の人には来るもの拒まず、去るもの追わずなのにな。望月は特別だから」
ドライだとか受け身だとか、ふたりが桃真をそう評するのは前にも聞いたことがある。未だにオレはいまいちしっくりきていない。でも当の桃真は、むしろ嬉しそうに笑っている。
「桃真ってそんなにドライかな?」
「自覚はあるよ、希色以外にはな。それよりさ、野田がさっき言ってたの、ちょっと違うよな」
「さっきって?」
「オレと希色がめっちゃ仲いいってヤツ」
「え……」
あれ、やっぱり仲よくないのかな。思わず息を飲むと、桃真がオレの耳元に顔を近づけてきた。そして、
「めっちゃっていうか、いちばん、だよな?」
なんてささやくから。ポンと音を立てたんじゃないかと思うくらい、顔が熱くなった。だって、いちばんだなんて嬉しすぎる。いちばんの推しにはなれなくても、それがなによりなのではないか。
「おーい、そこのおふたりさーん。なんか邪魔して悪いけどさ、円陣組んでまーす」
男子の声に振り返ると、一箇所にクラス全員が集まっていた。いつの間にか、川合くんと佐々木くんもそっちに立っている。
「いこ、希色」
桃真が手を差し出してくる。今、オレの視界にはこのクラスのすべてが映っている。どうにも今日は涙腺が緩みっぱなしみたいで、鼻をすすって桃真の手を取る。
「よし、全員揃ったな! じゃあ、2年6組! 今日の球技大会、優勝するぞー!」
「おー!」
大きな歓声が教室中に響き渡る。その一員になれたことが、奇跡みたいに嬉しい。今朝の一件がなかったら、これほど高ぶる思いはきっとなかった。絶望を感じるほどだったけれど、結果オーライ、というやつだろうか。
放課後になった。球技大会の結果は、総合優勝は3年生のクラスとなったけれど。2年生の中では見事トップになることができた。オレ自身も他のメンバーと交代で出場しつつ、桃真にすぐパスを出すという仕事をどうにか果たせたつもりだ。多分。ただただ、心の底から楽しかった。充実感でなんだかお腹も空かなくて、弁当のから揚げは桃真に食べてもらった。川合くんが「腹減らないとか嘘だろ……」とショックを受けた顔をしていたのがちょっと面白かった。佐々木くんいわく、“うちのクラスに現役モデルがいた件!”なんて投稿がSNSに上がっている、ということも現時点でないそうだ。みんなの優しさが本当にありがたい。
「桃真、そろそろ帰る?」
「んー、待って。今ちょっとメッセージ送ってるところ」
「わかった」
球技大会の興奮が教室にも自分自身にも残っているのを感じつつ、ぼんやりと隣の席の桃真を眺める。そこで、ふと気がついた。桃真のスマートフォンに、昨日コーヒーショップで渡したペンギンくんがぶら下がっている。
「えっ、桃真?」
「んー?」
「こ、これ! なんで!?」
「あー、ペンギンくん? なんでって、昨日希色に貰ったヤツだけど」
「そ、それは分かってる、けど!」
オレがKEYだと桃真は最初から気づいていた。その事実にまだちっとも慣れなくて、こんな会話だけでも心臓が跳ね上がる。けれど今は、他にも気になることが目の前にある。
「キーホルダーなのに、ストラップになってる!」
カプセルトイの景品は、全てキーホルダーだ。それなのに桃真のペンギンくんにはストラップの紐がついていて、ゆらゆらとスマートフォンの下で揺れている。すごくうらやましい。
「ああ、バイトの帰りにパーツ買って改造した。いつも近くに持ってたくて、それならスマホにつけるのがいいかなって」
「っ、それって難しい? オレにもできるかな」
「できるできる。てかパーツ余ってるから俺がやるよ。ペンギンくん今持ってる?」
「家に置いてきちゃった……」
「そっか。じゃあ……」
スマートフォンをポケットにしまい腰を上げた桃真が、オレの手を取った。促されるままに立ち上がると、こてんと首を傾げて尋ねてくる。
「明日って仕事ある?」
「ううん、一日オフだよ」
「明日の夕飯、一緒にファミレスでも行かねえ? バイト夕方に終わるから、その後」
「桃真とファミレス? っ、うん、行く。行きたい!」
「よし、決まりな。ペンギンくん持ってきて。簡単だからそん時やろ」
「桃真……ありがとう!」
興奮気味に返事をするオレに、机に置いていたリュックを桃真が背負わせてくれる。なんだか子守をされているようで癪だけれど、そうしてもらわなければリュックなんか忘れて帰ったかもしれない。友だちと、桃真と外で食事をするなんて初めてで、体中がドキドキしている。
教室を出て、階段を下りて。靴に履き替えたところで、桃真のスマートフォンがメッセージを受信した。それを確認した桃真が、こちらを振り返る。
「希色」
「なに?」
「あのさ、隠してることがある、って。今朝言ったじゃん?」
「あ……うん」
「それ、明日ちゃんと言うから」
「桃真……」
部活へ向かう人や、放課後どこへ遊びに行くかと浮足立っている人たち。昇降口はそんな生徒たちで騒がしいのに、喧騒が一気に遠のいた。今この瞬間、桃真ひとりだけにオレの意識は集中する。明日はこの話をするのがメインなのだろう。
「……ん、分かった」
「うん。じゃあ帰るか」
外へと出て、駅までの道を共に帰る。秘密を明かす、と宣言されるのはなんだかこちらまで緊張するけれど。桃真だから大丈夫だ、怖くなんかない。まっすぐにそう思えることも、オレにとっては新しい心だ。



